関野克

没年月日:2001/01/25
分野:, (学)
読み:せきのまさる

 文化功労者で東京大学名誉教授でもあった建築史家関野克は、1月25日午前1時肺炎のため東京都西東京市保谷町の自宅で死去した。享年91。1909(明治42)年2月14日、建築史家関野貞(せきのただし)を父に東京に生まれる。1929(昭和4)年旧制浦和高等学校理科甲類を卒業し、翌30年東京帝国大学工学部建築学科に入学する。当初は建築デザインに興味をいだくが、33年同学科を卒業して大学院に進学すると建築史を専攻とし、日本の住宅史研究に力を注ぎ、「日本古代住居址の研究」(『建築雑誌』1934年)を皮切りに古代、中世の住宅建築に関する調査・研究に優れた業績をあげる。東京大学大学院在学中の35年9月より東京美術学校の非常勤講師をつとめる。37年藤原豊成功殿の復元などを含む「古文書による奈良時代住宅建築の研究」により第一回建築学会賞を受賞する。38年4月25日東京帝国大学大学院を満期退学。40年1月同学工学部助教授となり、41年同学第二工学部設立準備委員会常務幹事、翌42年同学第二工学部勤務となる。この間、我国における住宅史建築のはじめての通史となる『日本住宅小史』(相模書房)を刊行。43年2月応召。45年9月召集解除となり、同年同月「日本住宅建築の源流と都城住宅の成立」により工学博士となる。46年東京帝国大学第二工学部教授、49年東京大学生産技術研究所教授となる。51年登呂遺跡の竪穴式住居部材の発掘を機に、日本ではじめての古代住宅の復元となる登呂遺跡竪穴式住居復元を行い、敗戦間もない我国において太古の住居イメージを実証的に提示して注目された。一方、49年の法隆寺金堂炎上によって貴重な文化財を保存することへの意識が高まる中で50年文化財保護委員会事務局が設置されると関野はその建造物課初代課長に任ぜられ、57年4月まで東京大学生産技術研究所教授との兼務を続ける。これ以後、建築史学の調査研究と文化財の保存との両分野にわたって活躍。52年4月から東京国立文化財研究所保存科学部長をも兼務する。57年4月文化財専門審議会専門委員(61年8月まで)、60年宮内庁宮殿造営顧問(68年11月まで)となる。また、姫路城、松本城など大型建造物の解体修理などにも従事した。65年東京国立文化財研究所所長となり、69年3月東京大学を定年退官し、同学名誉教授となるまで東大教授と兼務する。70年財団法人万博協会美術展示委員、72年4月高松塚古墳保存対策調査委員となる。73年「腐朽木材に科学的処置を加えて耐用化し、再使用することによる古建築復元の一連の業績」により日本建築学会賞を受賞。78年東京国立文化財研究所を退任し、博物館明治村館長となる。79年長年にわたる国宝・重要文化財建造物の修理、復元の功績により勲二等瑞宝章受章。戦後まもなくより文化財保護に関する国際交流にも尽力し、86年「文化財保存修理技術の近代化と国際交流における功績」により日本建築学会大賞受賞。1989(平成元)年「イコモス(国際記念物遺跡会議)国内委員会設立の業績」によりイコモスよりピエロ・カゾーラ賞を授与される。90年、長年の文化財保護における政策、行政、人材育成の功績により文化財保護の分野においてはじめて文化功労者として顕彰された。その経歴、著作目録および残された史料の所在については藤森照信「関野克先生を偲ぶ」(『建築史学』37号 2001年9月)に詳しい。

出 典:『日本美術年鑑』平成14年版(233-234頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「関野克」『日本美術年鑑』平成14年版(233-234頁)
例)「関野克 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28211.html(閲覧日 2024-10-07)

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