吉岡堅二

没年月日:1990/07/15
分野:, (日)

東京芸術大学名誉教授の日本画家吉岡堅二は、7月15日午前11時35分、急性心不全のため、東京都東大和市の自宅で死去した。享年83。明治39(1906)年10月27日、東京市本郷区に吉岡華堂、常子の次男として生まれる。父華堂は、寺崎広業門下の日本画家で、のちに大阪芸術大学教授となった染色家吉岡常雄は実弟である。大正10年京華商業学校を中退し、父と広業門で同門の野田九浦に入門、その画塾居仁洞で学ぶ。翌11年中央美術社第3回展に「たそがれ」が入選。また14年には油彩で自画像を描くなど、洋画も吸収しつつ、同15年第7回帝展に「松上白鶴」が初入選する。昭和5年第11回帝展「奈良の鹿」、8月同第14回「小憩」はともに特選を受賞した。しかし、昭和6年の第1回独立美術協会展におけるフォーヴ的な傾向に大きな刺激を受けたころから、日本画の革新へと大きく転回し、同9年2月、まず青龍社を脱退した福田豊四郎らと美術人社を結成、季刊の『美術人』(翌年の第3号で終刊)を刊行する。次いで同年6月、福田豊四郎小松均らと山樹社、さらに岩橋英遠らと新日本画研究会を結成。13年には新日本画研究会のメンバーを中心として新美術人協会を結成し大胆なフォルムを見せる14年第2回展「馬」、樺太旅行から取材した15年第3回「氷原」などを発表する。また師九浦の塾展煌土社展にも、昭和10年第1回「熱帯植物と蟻」、14年第5回「駱駝」などを出品、若手作家らによる昭和の日本画革新運動の中心的作家の一人として活躍する。戦後、昭和23年、山本丘人上村松篁らと「世界性に立脚する日本絵画の創造」をうたって創造美術を結成。24年同第2回展「湿原」により26年毎日美術賞、25年第3回「楽苑」により翌年芸能選奨文部大臣賞を受賞した。26年同会が新制作派協会に合流し新制作協会日本画部となってからは同会に出品、35年第24回「化石化する鳥」、38年第27回「鳥の棲む遺跡」、47年第36回「双龍屏風」などを発表し、45年第34回展出品作「鳥碑」により翌年日本芸術院賞を受賞した。49年同会日本画部会員により創画会が結成されて以後は同会に出品し、戦前戦後を通じて昭和の日本画革新運動の中心で活躍した。この間、昭和14年日本大学講師(~18年)、17年自由学園講師(~34年)、34年東京芸術大学教授(~44年)となる。また昭和15年法隆寺金堂壁画模写に従事し(~17年)、42年にも同金堂壁画再現模写に従事(~43年)。41年には東京芸術大学中世オリエント遺跡学術調査団としてトルコのカッパドキアを調査している。

年譜
明治39年(1906)
10月27日 東京市本郷区に日本画家・吉岡華堂の次男として生まれる。父の生家は京都の西洞院に代々続いた染物屋、梅原龍三郎生家の呉服屋の下請仕事などをしていたという。母・常子も京都出身で後年押絵を内職とし個展を開催するほどであった。大阪芸術大学教授で染色家の吉岡常雄は弟、他に兄1人、姉1人、妹2人の6人兄弟であった。
大正4年9歳
この年、父の神経痛療養のため一家で熱海に転居。
大正6年 11歳
2月27日 熱海で父・吉岡華堂逝去(42歳)。熱海より東京市麹町区に転居、富士見小学校入学。その後牛込区津久戸町(現・新宿区)に転居。区立津久戸小学校に転校、俳優の滝沢修と同級生になる。
この頃から母は父方の叔父の経営する染物工場の東京出張所をかねた悉皆屋のような仕事を始める。
大正8年 13歳
2月 父の師である寺崎広業没(53歳)。
3月 東京市牛込区津久戸小学校を卒業。
4月 東京市本郷区(現・文京区)の京華商業学校入学。これは絵描きにしないための周囲の判断により決められたということで、堅二自身は簿記、算盤などに全然興味がわかなかったという。
大正10年 15歳
春頃、京華商業学校中退。彫刻家を志望するが、山崎朝雲に相談し画道に進むこととなり、母に伴われて、父と寺崎広業門で同門であった野田九浦の居仁洞画塾に入門、通いの書生となる。当時の塾の玄関子に佐野五郎、先輩に中谷光炎、恩田得寿、武田一路など。ここでは日本画修業の合間に油彩画も試みる。
大正11年 16歳
6月 中央美術社主催日本画第3回展に「たそがれ」入選。初の展覧会入選作である。
大正12年 17歳
9月 師九浦に従い千葉の館山に避暑中震災にあう。こののち生活のため一家でしばらく天婦羅屋を始める。
大正13年 18歳
6月 中央美術社主催日本画第5回展に「竹と鳩」入選、百円で売約となり、これでラジオの部品を買って夢中で組み立てる。
大正14年 19歳
3月 東京放送局がラジオの試験放送開始、7月より本放送開始。
この年、油彩による「自画像」制作。
大正15・昭和元年 20歳
10月 帝国美術院美術展覧会(以下帝展と略称)に「松上白鷺」初応募で初入選。
この頃から京都、奈良にしばしば遊ぶようになり、多くの社寺の美術品を見て廻り、特に桃山障屏画の豪快な美にひかれる。
昭和2年 21歳
10月 第8回帝展に「棕櫚」入選。
昭和3年 22歳
10月 第9回帝展に「白孔雀」入選。
昭和4年 23歳
10月 第10回帝展に「薫風」入選。
昭和5年 24歳
10月 第11回帝展でそれまでの自然主義的描写を一擲した新感覚の「奈良の鹿」が竹内栖鳳の強い支持を得、特選受賞。この時の特選受賞者の祝賀会で、同時に特選となった福田豊四郎小松均を知る。
11月 日本のフォーブの団体といわれる独立美術協会が里見勝蔵林武、三岸好太郎らによって設立され、翌年1月第1回展開催、大いに感激し刺激をうける。この頃から山登りを始める。
昭和6年 25歳
10月 第12回帝展に「椅子による女」を無鑑査出品、モデルは新婚の妻・奈良江、服は作家みずからデザイン縫製したという。
昭和7年 26歳
3月 日本画会第10回展(東京府美術館)に「静物」出品。
10月 第13回帝展に「草に憩う三人の少女」入選。
この頃東京都本郷区に住む。
昭和8年 27歳
10月 第14回帝展で「小憩」が伊東深水の強い支持を得、2度目の特選受賞。モデルは堅二の妻とその友人、背景のバルコニーは当時借りていた洋画家高崎剛の留守宅(文京区大塚)。この作により堅二は新時代傾向を代表する新鋭作家と目されるようになった。
この年、青龍社筆頭社人・福田豊四郎、青龍社脱退。その相談にのり、かつ堅二、豊四郎、小松均に洋画家も交えた横につながる新ゼネレーションの勉強会を計画するが、洋画家の不参加で一時挫折。
昭和9年 28歳
2月 福田豊四郎森白甫、竹原嘲風、太田聴雨、横尾翠田、小林三季、森田沙伊、四宮潤一と美術人社を結社。
3月 美術人社より季刊『美術人』を『阿々土』誌主筆となる涛川薫の助けを得て発刊、7月に2号、翌年2月に3号を刊行して終わる。
5月 小松均が『美術人』同人に加わる。
6月 福田豊四郎小松均と山樹社結成、銀座松坂屋で第1回試作展開催。これは異なった性格の三作家が自由勝手に研究をし、試作的作品各自約10点を発表するという形で行われたもので、堅二は「母子」「登山具」「冬山」「降る雪」「飛ぶ蝶」「果物」「シャボテンと蛾」「花」「白い花」「芍薬」など10余点出品。
同月頃、吉岡堅二福田豊四郎岩橋英遠酒井亜人らが中心となり新日本画研究会結成。
7月 東京、京都の同志17名による新日本画研究会第1回展(神田東京堂画廊)に「花による蛾」ほか出品。
9月 関尚美堂によって九皐会が組織される。会員は堅二、太田聴雨奥村土牛高橋周桑田中青坪、常岡文亀、寺島紫明、溝上(小倉)遊亀、森白甫の9名、徳岡神泉山口華楊が参加。
10月 第15回帝展に「海浜」無鑑査出品。
この頃さかんに南アルプスをはじめ方々の山に登る。この年の初め頃に武蔵野に転居、アトリエを建てる。
昭和10年 29歳
2月頃 初めて速水御舟宅訪問、夕方から深夜まで日本画壇の動向についての話をきき興奮して帰途につく。御舟は翌月急逝(40歳)、大いに失望する。
4月 山樹社と新日本画研究会が合同する。
5月 第1回九皐会展(日本橋高島屋)に「飛ぶ蝶」「黒い蝶」出品。
5月 野田九浦塾展である煌土社展の第1回展(日本橋白木屋)に「熱帯植物と蛾」出品。
6月 第2回山樹社・新日本画研究会合同展開催(銀座松坂屋)、「熱帯樹」「花」「野草」「椅子による」を出品。ひきつづき同展を京都大丸で開催。京都若手画家に刺激を与え、西山英雄曲子光男浜田観、下川千秋、井上和雄ら艸児社結成。
この頃からカメラに興味をもつ。
昭和11年 30歳
5月 第2回九皐会展(この回より東京美術倶楽部)に「春の夜」「春の旦」「初夏」出品。
同月 第2回煌土社展に「麦の風」出品。
春、谷川岳登山。
7月 新制作派協会結成。この会の会員と盛んに交流するようになり大いに刺激され、勇気づけられる。
11月 文部省美術展覧会招待展に赤城の放牧馬に取材する「高原白夜」出品。
昭和12年 31歳
4月 第3回九皐会展に「初夏の花」出品。
5月 第3回煌土社展に「暖室」出品。
同月 新日本画研究会第3回展に「馬」出品。この回より小松均脱退し、会員は堅二と福田豊四郎中心に他は新人ばかりとなる。
10月 第1回文部省美術展覧会(以下新文展と略称)に「馬」出品、評判となる。
昭和13年 32歳
2月 堅二、豊四郎ら新日本画研究会会員を中心に、日本画のアヴァン-ギャルド運動と呼ばれる新美術人協会結成、新時代と共に成長する作家の協力を求めるため公募展形式にすることを決定。
5月 第4回九皐会展に「夜桜」「春雨」出品。この回より福田豊四郎参加。
同月 第1回新美術人協会展(東京府美術館)に「乳牛」出品。第1回展への作品搬入数は95点、陳列は64点と記録されている。
6月 土田麦僊遺作展(東京府美術館)で「妓生」素描に感心する。
7月 第4回煌土社展(上野日本美術協会)に「牛」出品。
9月 従軍画家となり豊四郎と華北、華中の戦線にむかい、翌年1月帰国、そのため文展不出品であったが、この間大連(現・旅大)、新京(現・長春)の商工会議所で2人展開催。なおこの時の足どりはほぼ次のようであり、大同石仏第二窟三階菩薩像など多くの写生を残している。
大連-奉天-新京-哈爾賓-吉林-斉々哈爾-洮南-奉天-熱河の承徳-北京-○○の航空隊-北京-天津-済南-青島-上海-九江-安慶-蕪湖-南京-蘇州-上海-大連。
昭和14年 33歳
1月 中国より帰国。
2月 柳亮の新構想によりつくられた日本大学芸術科学園美術科の日本画講師に福田豊四郎とともになる。
4月 第五回煌土社展に「駱駝」、「雲崗石窟(素描)」、「雲崗石仏(素描)」、「閘北戦趾(素描)」を出品。
5月 第5回九皐会展に「月」「雑木」「畑」出品。
6月 第2回新美術人協会展に「馬」出品。
7月 陸軍美術協会、朝日新聞社共催聖戦美術展(東京府美術館)審査員をつとめ、油彩画「爆撃用意」出品。
同月 関尚美堂新作画展に「山鳩」出品。
10月 第3回新文展に千葉県銚子の犬吠崎に取材する「涛」出品。
同月 白日荘新作画展に「柿紅葉」出品。
12月 法隆寺壁画保存調査会で壁画模写の実施を決定、四大壁、四小壁を4班で担当することとなる。各班主任は中村岳陵(1号大壁)、入江波光(6号大壁)、橋本明治(9号大壁)、荒井寛方(10号大壁)。
昭和15年 34歳
2~4月 トナカイに興味を抱き単身で樺太(現・サハリン)旅行する。
5月 第6回九皐会展に「雉子」出品。
同月 第3回新美術人協会展に樺太に取材する「氷原」出品。
6月 青丘会々員となり第5回青丘会展(日本橋高島屋)に「竹叢」出品。なお同会の会員は他に溝上(小倉)遊亀、奥村土牛徳岡神泉山口華楊太田聴雨
同月 法隆寺金堂壁画模写中村岳陵班助手に新井勝利真野満とともに決定。
9月 法隆寺金堂壁画1号大壁「釈迦浄土変」、5号小壁「菩薩思惟像」の模写開始、昭和17年まで続く。
昭和16年 35歳
1月 九皐会解散を決定。
3月 関尚美堂主催第2次尚絅会展(日本橋東美倶楽部)に「丹頂」出品。
同月 第6回煌土社展に「馴鹿」出品。
4月 第6回青丘会展に「花と蝶」出品。
5月 橋本多聞堂日本画鑑賞会(日本橋東美倶楽部)に「烏骨鶏」出品。
同月 第4回新美術人協会展に「群」出品。
同月 大日本航空美術協会結成、吉岡堅二福田豊四郎ら参加。
7月 第2回聖戦美術展(上野日本美術協会)審査員をつとめ、「雨中急迫」「マレーの敵軍航空基地爆撃」出品。
同月 新美術人協会小品展開催(銀座資生堂)。
8月 第4回新文展審査員を委嘱される。
9月 第1回航空美術展(日本橋高島屋)審査員をつとめ「群像」出品。
10月 第4回新文展に京都西芳寺に取材する「苔庭」出品。
10~11月 ハノイ、サイゴン、ユエ、ハイフォンで仏印巡回日本絵画展が開催され「芙蓉」出品。
昭和17年 36歳
3月 日本画家報国会主催軍用機献納作品展(日本橋三越)に「雉子」出品。
4月 第7回青丘会展に「鹿」出品。
5~8月 陸軍省より陸軍作戦記録画制作のためジャワに派遣される。この間小磯良平から油彩画の手ほどきをうけ油絵を制作。
5月 煌土社献納画展(銀座菊屋画廊)に「白梅」出品。
同月 第5回新美術人協会展開催。
9月 新美術人協会小品展開催(銀座資生堂)。
12月 第1回大東亜戦争美術展に「カリジャティ西方の爆撃」特別陳列。
この年から昭和34年まで自由学園の美術担任講師をつとめ、絵画のみでなく、木工、陶芸、漆、染色、織物など広範なジャンルの美術教育を行う。
昭和18年 37歳
2月 第2回尚絅会展(銀座資生堂)に「水辺」出品。
3月 陸軍美術展(日本橋三越)に「猛追」出品。
5月 第8回煌土社展(銀座松坂屋)に「渓間新録」出品。
同月 第8回青丘会展に「爽夏」出品。
6月 日本大学芸術科学園美術科閉止に伴い同校講師辞任。
同月 第6回新美術人協会展に油彩の「蘭印軍兵器参考図」「同」と南方に取材した淡彩小品「カリヂャイ飛行場」「バリ島水浴場」「同」「ソロの街」「ジャワの踊り」「同」出品。
昭和19年 38歳
3月 陸軍美術展(東京都美術館)に「小田軍曹機の体当り敢行よく船団を救う」出品。
5月 第7回新美術人協会展開催。
8月 都下北多摩郡に転居、戦後にかけて庭に畑をつくり、ヤギ、ニワトリ、キジなどを飼い、新たな自然の魅力に気づく。
11月 文部省主催戦時特別美術展覧会開催、昭和12年以降の特選受賞者以上の招待展となり「ブラカンマティ要塞の爆撃」が陸軍省より特別出品される。
12月 戦争記録画制作のため2度目の招集をうけ、田村孝之介ら5人で台湾経由マニラにむかい、米軍のマニラ進入(翌2月3日)直前に田村孝之介と帰国。
昭和20年 39歳
4月 戦争記録画展(東京都美術館)に昭和19年度陸軍作戦記録画(高千穂降下部隊レイテ敵飛行場を攻撃す」展示。
7月 母・常子逝去。
8月15日 ポツダム宣言受諾、第2次世界大戦終了。
昭和22年 41歳
4月 新美術人協会解散。
5月 東京都・朝日新聞社共催新憲法実施並びに東京都美術館開館20周年記念現代美術綜合展覧会(東京都美術館)に「柿若葉」出品。
6月 第10回青丘会展に「柿紅葉」出品。
6月 尚美展に「筍」出品。
8月 文部省主催第3回日本美術展覧会(以下日展と略称)審査員に選ばれる。山本丘人上村松篁とこの審査を大いに慨嘆、これが創造美術結成の直接的原因ともなる。
10月 第3回日展に「尾瀬沼畔」出品。この頃から尾瀬にとりつかれ、しばしば出かけるようになる。
この頃、日本画滅亡論、日本画第二芸術論などが唱えられる。
昭和23年 42歳
1月 福田豊四郎山本丘人上村松篁らと世界性に立脚する日本画の創造を期し創造美術を結成。他の創立会員は橋本明治加藤栄三高橋周桑菊池隆志向井久万奥村厚一秋野不矩、沢宏靭、広田多津、なお新美術人協会の全員も参加。
5月 朝日新聞の連載予定小説『グッドバイ』(太宰治著)の挿画担当となるが、6月13日、著者自殺のため中止。かわって平林たい子『地底の歌』の挿絵担当。
9月 第1回創造美術展(東京都美術館)に「果樹」「柿」出品。
昭和24年 43歳
1月 法隆寺金堂壁画焼損。
5月 第1回創造美術春季展(丸善)に尾瀬に取材する「巣立」出品。
9月 第2回創造美術展に尾瀬に取材する「湿原」出品。
昭和25年 44歳
5月 第2回創造美術春季展に尾瀬に取材する「くさむら」出品。
9月 第3回創造美術展に「楽苑」出品。
この頃、創造美術の運営に苦慮する。
昭和26年 45歳
1月 第2回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「くさむら」(前年作)選抜出品。
同月 「湿原」に対し第2回(昭和25年度)毎日美術賞受賞。
5月 「楽苑」に対し昭和25年度芸能選奨美術文部大臣賞受賞。
第3回創造美術春季展に「ふくろう」出品。
7月 槐風会に「おしどり」出品。
9月 創造美術、新制作派協会と合体し、新制作協会日本画部となる。第15回新制作協会展(東京都美術館)に「水禽屏風」出品。なお橋本明治加藤栄三が脱会。
10月 第1回サンパウロ・ビエンナーレに「くさむら」(昭和25年作)出品。
昭和27年 46歳
4月 新制作協会日本画春季展(日本橋三越)に「雉子」出品。
5月 第1回日本国際美術展(毎日新聞主催)に「鳥」出品。
6月 第26回ヴェニス・ビエンナーレに「水禽屏風」(前年作)出品。
同月 パリで開催の20世紀芸術展に「草の葉」出品。
9月 第16回新制作協会展に「雉子」出品。
昭和28年 47歳
4月 新制作協会日本画春季展に「母子猫」出品。
同月 東西新作日本画50人展(池袋西武)に「芥子」出品。
5月 第2回日本国際美術展に「朱鷺」出品。
同月 第2回インド国際現代美術展(全インド美術工芸協会主催)に「鷺」出品。
7月 新制作協会東京日本画部研究会展(松屋)に「とき」出品。
9月 第17回新制作協会展に「群鶴」出品。
11月 新橋演舞場の「東をどり」で高見順作・西川鯉三郎振付「扇の人」の舞台装置を担当。この頃から盛んに壁画、レリーフ、緞帳、舞台装置などを手がけるようになる。
昭和29年 48歳
4月 新制作協会東京日本画展(銀座松屋)に「くじゃく1・2羽か」出品。
6月 新制作協会会員展に「餌」出品。
同月 高島屋によって小倉遊亀山本丘人との三人展である鼎会創設され、その第1回展に「かわはぎ」「あじ」「いか」「魚」「五位」「雉子」出品。
9月 第18回新制作協会展に「くじゃく」出品。
昭和30年 49歳
2月 19人の作家-戦後の絵画・彫刻展(国立近代美術館)に「湿原」(昭和24年作)「くさむら」(同25年)「水禽屏風」(同26年)「雉子」(同27年)「くじゃく」(同29年)出品。
3月 新制作協会日本画部春季展(日本橋高島屋)に「鷺」出品。
4月 食堂の壁画「飛翔」を制作した神奈川県庁分庁舎竣工。
5月 第3回日本国際美術展に「浮遊」出品。
6月 第2回鼎会展に「浮遊」「くさむら」出品。
9月 第19回新制作協会展に「水鳥屏風」出品。
この年、明治座緞帳の原画「くじゃく」制作。
昭和31年 50歳
1月 第7回秀作美術展に「水鳥屏風」(前年作)選抜出品。
4月 新制作協会日本画部春季展に「啼く」出品。
5月 第2回現代日本美術展(毎日新聞主催)に自宅で飼っていた東天紅に取材する「暁」出品。
6月 第3回鼎会展に「かわせみ」出品。
9月 第20回新制作協会展に「くじゃく」出品。
昭和32年 51歳
2月 山本丘人上村松篁吉岡堅二3人展(村越画廊)に「朱鷺」「おしどり」出品。
4月 新制作協会日本画部春季展に「烏骨鶏」出品。
5月 第4回日本国際美術展に着物のかすり模様からもヒントを得た「群鶏」出品。
5月 第1回土燿会展(中央公論画廊)に「浮遊」出品。
6月 新制作協会日本画展に「竹」出品。
6月 第4回鼎会展に「二羽の鷺」「黒チャボ」「駆ける雉」出品。
7月 毎日新聞社主催現代美術10年の傑作展に「湿原」(昭和24年作)出品。
9月 第21回新制作協会展に「水鳥」出品。
この年、第3回インド国際現代美術展に「くさむら」(昭和25年作)「浮遊」(同30年)出品。
昭和33年 52歳
2月 第2回丘人・松篁・堅二三人展に「花」「烏骨鶏」出品。
3月 高島屋美術部50年記念日本画展に「竹叢」出品。
3月 関尚美堂主催第2次九皐会第1回展(壷中居)に「花」出品。
4月 新制作協会日本画部春季展に「鳥の顔」出品。
4月からイタリア・ドイツ・フランスなど5カ国、11都市巡回のヨーロッパ巡回日本現代絵画展に「暁」(昭和31年作)出品。
5月 第2会土燿展に「山鳩」出品。
5月 彩尚会展(壷中居)に「菖蒲」出品。
6月 第5回鼎会展に「鴨」「朝顔」「鷺」出品。
7月 第1回孔雀展(ヤナセ・ギャラリー)に「白桃」出品。
9月 第22回新制作協会展にアオサギを描く「飛翔」出品。
同月 東西大家日本画新作展(日本橋白木屋)に「落葉」出品。
11月からオーストラリア5都市、ニュージーランド4都市巡回のオーストラリア・ニュージーランド巡回日本現代美術展に「水鳥」(昭和32年)出品
12月 ピッツバーグ現代絵画彫刻国際展(カーネギー・インスティテュート)に名古屋コーチンを描く「群鶏」出品。
同月 尚美展(大丸東京店)に「飛翔」出品。
同月 東京芸術大学美術学部助教授を内諾。
この年、大阪毎日会館壁画「くじゃく」制作。皇居謁見室のために「雉子」制作。ワシントンの日本大使館に「鴛鴦」制作。
昭和34年 53歳
1月 戦後の秀作展(国立近代美術館)に「くさむら」(昭和25年作)出品。
2月 第3回丘人・松篁・堅二三人展に「冬の竹」「飛翔」出品。
同月 第2回九皐会展に「花」「水禽」出品。
3月 1月に退官した前田青邨の後任として東京芸術大学美術学部助教授となり、12月教授となる。
4月 新制作協会日本画部春季展に「飛び立つ」出品。
5月 第5回日本国際美術展に「飛び立つ」出品。
同月 第3回土燿会展に「洋蘭」出品。
同月 彩尚会展に「蘭花」出品。
6月 第3回丁酉会に「白桃」出品。
同月 悠々会展(壷中居)に「蘭花」出品。
7月 第2回孔雀会展に「新竹」出品。
9月 第23回新制作協会展に合板(ホモゲンホルツ)を使い新しい試みをした「鶴」を壁画試作として出品。
同月 銀二会展(一哉堂)に「朝顔」出品。
10月 第6回鼎会展に「花(一)」「花(二)」「馬」(素描2点)出品。
昭和35年 54歳
2月 第4回丘人・松篁・堅二3人展に「アマリリス」「ばら」出品。
5月 訪中日本画家代表団に参加、約1カ月中国旅行。この間北京の動物園で、もはや絶滅同然といわれ化石でしか見られないと思っていたノガンを見て衝撃をうける。また北京・上海で開催の現代日本画展に「雉子」(昭和27年作)「群鶏」(同28年)「水鳥屏風」(同30年)出品。
7月 第3回九皐会展に中国に取材する「天壇」(素描)「長城の嶺」(素描)出品。
8月 訪中日本画家代表団中国スケッチ展(日本橋三越)に出品。
9月 第24回新制作協会展に、北京動物園のノガンに取材する「化石化する鳥」出品。
10月 第7回鼎会展に「天壇」「崇文門」出品。
この年、新築の東宮御所玄関屏風「飛翔」制作。神奈川県立近代美術館蔵「飛翔」制作。
昭和36年 55歳
1月 読売新聞社主催今日の日本画展(池袋西部)に自選の「雉子」(昭和27年作)「水鳥」(同32年)「群鶏」(同)出品。
2月 第5回丘人・松篁・堅二3展に「春雉」「静物」出品。
4月 新制作協会日本画部春季展に「金色の屋根」出品。
5月 第6回日本国際美術展に「2羽の鳥」出品。
6月 第8回鼎会展に「孔雀」出品。
7月 第4回孔雀会展に「花をもる」出品。
9月 第25回新制作協会展にエジプトの小彫刻にヒントを得る「桃花鳥」出品。
10月 朝日新聞社主催スケッチ展シリーズ第40輯・吉岡堅二素描展(銀座松屋)に昭和13、35年の中国スケッチ、昭和17年の南方スケッチを含む39点出品。この年、東京文化会館緞帳原画「唐獅子」制作。ミカド(赤坂)の壁掛「くじゃく」制作。
昭和37年 56歳
1月 第1回新松会展(銀座松阪屋)に「静物」出品。
2月 中央公論画廊10周年記念展に「蘭花」出品。
3月 新制作協会日本画部春季展に「水紋」出品。
同月 第3回令月会展(粟津画廊)に「アマリリス」出品。
5月 第5回現代日本美術展に「かなしき鳥」出品。
6月 第9回鼎会展に「鷺」出品。
6月末からインド、イラン、イラク、エジプト、モロッコ、スペイン、オランダ、フランス、スイス等に旅行、8月帰国。
7月 第5回孔雀会展に「洋蘭」出品。
9月 青桐会展(渋谷東横)にアッシジの風景スケッチ2点出品。
同月 第26回新制作協会展不出品。
12月 尚美日本画展(中央公論画廊)に「香る花とインコ」出品。
昭和38年 57歳
1月 第2回新松会展に「黒いバラ」出品。
2月 峭々会展(日本橋白木屋)に「ガラス器と花」出品。
同月 第4回令月会展に「ガラス器と罌粟」出品。
5月 第2回凱風会展(村越画廊)に「花壷」出品。
6月 第10回鼎会展に「花菖蒲」出品。
6月 第7回土燿会展に「鳥」出品。
8月 第6回九皐会展に「秋果」出品。
9月 第27回新制作協会展にイラクのクテシフォン遺跡で見た鸛の群に取材する「鳥の棲む遺跡」出品。
10月 西村画廊開設1周年記念展に「花菖蒲」出品。
12月 尚美日本画展に「蘭花」出品。
この年、久留米市の石橋文化センターのために「飛翔」制作。明治座緞帳原画「花火」制作。名古屋御園座緞帳原画「くじゃく」制作。ホテル新潟の広間ステージに「鶴」、食堂壁画に「くじゃく」制作。
昭和39年 58歳
3月 新制作協会日本画部春季展に「不死鳥」出品。
6月 第11回鼎会展に「孔雀」出品。
同月 第3回凱風会展に「花の中の鳥」出品。
8月 第7回九皐会展に「花」出品。
9月 第28回新制作協会展に「太陽と不死鳥」出品。
11月 第2回岬会展に(孔雀画廊)に「紅梅」出品。
昭和40年 59歳
2月 4回凱風会展に「紅梅」出品。
3月 新制作協会日本画部春季展に上野動物園で写生した「ふさホロホロ鳥」出品。
同月 第6回令月会展に「ジンジャーとインコ」出品。
同月 第9回土燿会展に「紅梅」出品。
6月 第8回九皐会展に「ひなげし」出品。
同月 第1回樗会展(鼎会を改編・日本橋高島屋)に「浮遊」出品。
8月 第7回煌土社展にアッシジの丘など滞欧スケッチ4点出品。
9月 第29回新制作協会展に「鳥碑(一)」出品。
10月 高島屋増築記念現代美術展に「紅梅」出品。
11月 薔薇会展(資生堂ギャラリー)に「孔雀」出品。
12月 尚美日本画展(壷中居)に「椿」出品。
昭和41年 60歳
2月 第5回凱風会展に「孔雀」出品。
3月 第7回令月会展に「ばら」出品。
4月 三渓洞50周年記念展に「飛翔」出品。
6月 第2回樗会展に「翔鶴」出品。
6月~10月 第1次東京芸術大学中世オリエント遺跡学術調査団々員としてトルコ・カッパドキアに派遣され、同地の中世キリスト教洞窟修道院壁画「怪獣文」「栄光のキリスト」「大天使ミカエル」「大天使ガブリエル」を模写。このため第30回新制作協会展に不出品。
11月 薔薇会展に「薔薇」出品。
昭和42年 61歳
3月 法隆寺金堂壁画再現模写が安田靫彦前田青邨橋本明治吉岡堅二の4班14名により始まる。吉岡班は1号大壁「釈迦浄土変」、5号小壁「菩薩思惟像」、7号小壁「観世音菩薩像」を担当。吉岡班助手は稗田一穂、麻田鷹司
6月 中世トルコ洞窟壁画展(日本橋三越)に模写9点出品。
同月 第3回樗会展に「鮎」出品。
9月 第31回新制作協会展不出品。
10月 吉岡堅二トルコ素描展開催(銀座松屋)、現地の風物スケッチ30数余点出品。
昭和43年 62歳
3月 法隆寺金堂壁画再現模写完成。
5月 第3回新松会展に「孔雀」出品。
5月~10月 第2次東京芸術大学中世オリエント遺跡学術調査団々員として、再びトルコ・カッパドキアに派遣され、同地の壁画「マギ(東方の三博士)」「キリスト伝」「エジプトへの避難」模写。このため第32回新制作協会展不出品。
11月 金堂壁画再現記念法隆寺幻想展(彩壷堂)に金堂第1号壁の天人をテーマとする「飛祥天」出品。
12月 中央公論秋季展に「流紋」出品。
昭和44年 63歳
3月 令月会展に「銀化壷と花」出品。
4月 第4回新松会展に「かとれあ」出品。
5月 妻・奈良江約10年の闘病ののち逝去。
6月 第8回銀二会展に「鮎」出品。
同月 第6回凱風会展に「鮎」出品。
同月 第5回樗会展に「砂漠を飛ぶ」出品。
9月 第33回新制作協会展に「神の手」出品。
11月 尚美日本画展に「ギヤマンと花」出品。
12月 中央公論秋季展に「菊」出品。
同月 東京芸術大学美術学部教授退官。
昭和45年 64歳
5月 新制作協会日本画部春季展に「頚飾のロバ」出品。
6月 第12回九皐会展に「瓶花」出品。
同月 第6回樗会展に「鉄線花」「漢壷菊」出品。
8月 第9回銀二会展に「胡蝶蘭」出品。
9月 第34回新制作協会展に「鳥碑(2)」出品。
同月27日 昭和5年以来の盟友福田豊四郎逝去(65歳)。
12月 中央公論秋季展に「流紋」出品。
昭和46年 65歳
3月 令月会展に「ローマ壷と薔薇」出品。
5月 新制作協会日本画部春季展に「田計里」出品。
同月 「鳥碑(2)」に対し第27回(昭和45年度)日本芸術院賞受賞。
8月 東京芸術大学主催トルコ中世壁画展開催(東京・大阪高島屋)、41、43、45年東京芸術大学中世オリエント遺跡学術調査団模写班によるカッパドキア壁画模写展示。
9月 第35回新制作協会展に「飛天」出品。
昭和47年 66歳
5月 新制作協会日本画部春季展に「鴻の棲む村」出品。
6月 第8回樗会展に「巣立」出品。
7月 第14回九皐会展(中央公論画廊)にカッパドキアに取材する「ヒアシンスの教会」出品。
8月 第10回銀二会展に、アンカラ博物館の古陶写生を出品。
9月 第36回新制作協会展に、昭和35年中国旅行の折、北京の北海公園で見た陶板の九龍壁にヒントを得た「双龍屏風」出品。
昭和48年 67歳
6月 第9回樗会展に「孔雀」出品。
7月 第15回九皐会展に「芥子」出品。
9月 第37回新制作協会展に「孔雀」出品。
同月 第11回銀二会展「薔薇」出品。
同月 第1回玄輝会展(内山画廊)に「飛び立つ」出品。
11月 第10回凱風会展に「浮遊」出品。
昭和49年 68歳
5月 新制作協会日本画部春季展に「翔」出品。
同月 令月会展に「鉄線花」出品。
同月 新制作協会日本画部会員全員退会、新たに創画会結成。
6月 第10回樗会展に「翡翠」出品。
7月 第16回九皐会展に「ギヤマンと鉄線」出品。
同月 第1回皎志会展(内山画廊)に「孔雀」出品。
8月 第12回銀二会展に「芥子」出品。
9月 第1回創画展(東京都美術館)に、アオサギを描く「月明」出品。
12月 中央公論秋季展に「薔薇」出品。
昭和50年 69歳
4月 第1回春季創画展(日本橋高島屋)に「磯」出品。
同月 令月会展に「胡蝶蘭」出品。
9月 第17回九皐会展に「洋蘭」出品。
10月 第2回創画展に、北京動物園で見たノガンをテーマに「野火」出品。
11月 第12回凱風会に「蘭花」出品。
12月 中央公論秋季展に「蘭」出品。
昭和51年 70歳
3月 令月会展に「浮遊」出品。
4月 第2回春季創画展に「白鷺」出品。
4月に行われる薬師寺金堂再建落慶式のため、本尊前の四柱を飾る手描きの幡(四帳=弥勒・阿弥陀・釈迦・薬師)制作。
7月 山種美術館開館十周年記念日本画新作展に「浮遊」出品。
同月 第13回銀二会展に「胡蝶蘭」出品。
8月 第3回皎志会展に「月下美人」出品。
10月 第3回創画展に「炎上」出品。
同月 新橋駅構内東海道本線新橋地下駅開業記念のステンドグラス原画「くじゃく窓」制作、完成。
昭和52年 71歳
4月 朝日新聞社主催で初の回顧展、吉岡堅二展(日本橋高島屋・京都高島屋)開催。大正14年から昭和51年までの自選作品41点と「鯱屏風」「唐獅子屏風」出品。同時に吉岡堅二新作展開催(高島屋画廊)、新作「啄」「枯雪」「汀」「菊」「月下美人」「胡蝶蘭」「花を盛る」「虞美人草」、素描「胡蝶蘭」「シンビジウム」「鉄線花」の11点出品。
5月 海外と文化を交流する会主催オーストラリア巡回記念現代日本画巨匠25人展(日本橋三越)に「おしどり」出品。この作品はオーストラリアに寄贈、シドニー、キャンベラなど主要都市美術館で公開後、メルボルン美術館に収められる。
7月 第14回銀二会展に「鶺鴒」出品。
10月 第4回創画展に「雪」出品。
同月 限定版「吉岡堅二画集」を朝日新聞社より刊行。
昭和53年 72歳
4月 第4回春季創画展に「黒鳥」出品。
10月 第5回創画展に「黒鳥屏風」出品。
昭和54年 73歳
4月 読売新聞社主催第1回日本秀作美術展に「黒鳥屏風」(前年作)選抜出品。
同月 第5回春季創画展に「雁」出品。
7月~9月 中国の北京、ハルピン、上海で開催された現代日本絵画展に「枯雪」(昭和52年作)出品。
10月 第6回創画展不出品。
昭和55年 74歳
4月 第6回春季創画展に「大同石仏」出品。
10月に行われる東大寺大仏殿落慶法要のため、64年ぶりに新調される幡(大幡一対、庭幡20枚)を弟の吉岡常雄(染色家)と協力して製作。
10月 第7回創画展に昭和13年中国雲崗石窟寺に約1週間滞在した折の写生をもとに制作した「雲崗大露仏」出品。
昭和56年 75歳
1月 現代日本画素描集18「吉岡堅二-中亜風物-」を日本放送出版協会より刊行。素描展-中亜風物-(日本橋高島屋)開催、素描集「吉岡堅二-中亜風物-」の原画75点と本画2点出品。
3月 第3回日本秀作美術展に「大同石仏」(前年作)選抜出品。
4月 勲3等に叙され瑞宝章授与される。
同月 第7回春季創画展に笹五位鷺と枯ヨシをテーマに描く「孤」出品。
4月~5月初め 洋画家・向井潤吉と中国旅行、主に龍門で取材。
10月 第8回創画展に中国龍門の大廬遮那仏と立像に取材する「龍門幻想」出品。
11月 ドバイ、モロッコ、スペイン、オランダ、フランスなどに約2週間旅行。
昭和57年 76歳
9月 日中国交正常化10周年を記念して開催の読売新聞社主催中国を描く現代日本画展に「大同石仏」(昭和55年作)「龍門幻想」(前年作)と素描3点出品。
10月 第9回創画展に「荒磯」出品。
12月 「現代日本画全集11吉岡堅二」を集英社より刊行。
昭和58年 77歳
3月 第9回春季創画展に「花実鳥」出品。
4月 第5回日本秀作美術展に「荒磯」(前年作)選抜出品。
5月~6月 硬膜下血腫のため入院。
10月 第10回創画展に「蘆雁」出品。
11月 胆嚢炎のため入院。
昭和59年 78歳
3月 第10回春季創画展に「木の葉梟」出品。
6月 第6回日本秀作美術展に「蘆雁」(前年作)選抜出品。
同月 病気療養のため第11回創画展不出品。第12回展も不出品。
昭和61年 80歳
3月 第12回春季創画展に「天壇残照」出品。
10月 第13回創画展に「翔」(前年作)出品。
昭和62年 81歳
3月 ヘルニア手術のため入院。
5月 第9回日本秀作美術展に「翔」(前年作)選抜出品。
10月 手の負傷のため第14回創画展不出品。
昭和63年 82歳
1月より毎月「婦人之友」表紙絵原画制作。
4月~5月 山種美術館・朝日新聞社共催「吉岡堅二-新日本画のパイオニア」展開催(山種美術館)。大正14年より現在に至る作品65点、法隆寺金堂壁画模写2点、カッパドキア壁画模写7点および写生、下図等出品。
(『吉岡堅二展-新日本画のパイオニア』カタログより抜枠、山種美術館、昭和63年)

出 典:『日本美術年鑑』平成3年版(302-310頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「吉岡堅二」『日本美術年鑑』平成3年版(302-310頁)
例)「吉岡堅二 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10365.html(閲覧日 2024-04-24)

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