小松均

没年月日:1989/08/23
分野:, (日)

仙境の画人小松均は、8月23日午後4時10分、急性心不全のため、京都市左京区の自宅で死去した。享年87。明治35年(1902)1月19日、山形県豊田郡に、曹洞宗延命寺住職小松梅男を父に生まれる。本名匀。幼時に父を失い、大正8年上京、川崎市の洋服店で働く。いったく帰京したのち、翌9年再び上京。新聞配達のかたわら、同年川端画学校に入学、岡村葵園に学ぶ。大正12年中央美術展に「嫁して行く村の乙女」が入選し、翌13年第4回国画創作協会展に「晩秋の野に死骸を送る村人たち」が入選、奨学金を受けた。これを機に土田麦僊の知遇を得、同14年京都の東山に転居、麦僊の山南塾に入塾する。また東山洋画研究所でデッサンを学び、宮本三郎らを知る。この頃から内貴清兵衛の援助を受け、15年の第5回国画創作協会展にも「秋林」「夕月」を出品、国画賞を受賞し会友となる。しかし、昭和3年国画創作協会日本画部が解散となり、同部会員が新たに結成した新樹社に参加した。この間、昭和2年大原に転居、翌3年の「八瀬」など、大原に取材した作品を描き始める。同4年第10回帝展に「渓流」が初入選し、この頃より水墨画を描き始めた。翌5年第11回帝展で「櫟林」が特選を受賞。一方、院展には、大正14年の春季展に「倉のある雪の日の子守子」が入選していたが、秋季展では、同じく昭和5年第17回院展に「もや」が初入選。以後、帝展、院展の双方に出品する。9年第21回院展にも「緑蔭」を出品したが、同年福田豊四郎吉岡堅二らと山樹社を結成、以後公募展出品を暫時中止する。12年には津田青楓らと墨人会を結成。また、11年には、内貴清兵衛の紹介で横山大観小林古径を知った。14年より再び院展に出品し、16年には新文展にも出品しているが、17年第29回院展に「黒牡丹」を出品。以後院展にのみ出品し、戦後21年第31回院展で「牡丹」が日本美術院賞を受賞、同人に推挙された。大原で自給自足の生活をしながら、大原の自然を題材に制作。40年第50回院展「吾が窓より(夏山)」が文部大臣賞を受賞する。43年山形美術館で個展開催後、翌年から郷里の自然に取材した最上川シリーズを開始。44年第54回院展「最上川(三ケ瀬、渦巻、はやぶさ)」、45年同第55回「最上川源流」、46年第56回「栗の花さく最上川」、48年第58回「最上川難所、三ケ瀬・碁点」、49年第59回「春の最上川」と出品し、このシリーズによって、50年芸術選奨文部大臣賞を受賞した。54年第64回院展「雪の最上川」は内閣総理大臣賞となる。また52年第62回院展「富士山」以降の富士山シリーズ、58年第68回「岩壁」以降の岩壁シリーズなどを発表。墨を主体に、細かく、しかし綿々と描き込み積み上げていく画風は、素朴さと大地のエネルギーを伝える力強さに溢れ、“大原の画仙”と称された。55年郷里大石田町の名誉町民、61年文化功労者となる。また画塾甲辰会を主宰し、『おのれの子・作品集』(43年)『おのれの子・素描集』(46年)などの著書を残している。

略年譜
明治35年 1月19日、山形県豊田郡に小松梅男、フヨの長男として生まれる。父は曹洞宗延命寺の住職であったが、均の生後1年余で死去したため、山形県白鳥村で農業を営む母方の伯父、細谷金四郎宅に母子は身を寄せる。母は均の8歳の時再婚、均はその後も細谷家で養われた。
大正3年 白鳥小学校を卒業し、富並尋常高等小学校に入学。往復16キロの山路を学校に通う。
大正5年 富並尋常高等小学校を卒業し、伯父の農業を手伝う。
大正8年 この頃、川崎市に出、洋服屋の小僧となる。のち東京・神田の書籍店、菊屋に移る。この頃から画学生に憧がれたが一旦帰郷し、下駄屋に丁稚奉公する。
大正9年 再び上京し、万玄社に勤め、新聞配達をするかたわら、画家を志して川端画学校に通って岡村葵園に学ぶ。画学校の友、藤井茂樹(無縁寺心澄)の水彩の直感的写生を見て野獣派の描法を日本画に取り入れることによって、新しい日本画を創るヒントを得る。
大正13年 6月、第5回中央美術展に、再婚の際の母の姿をテーマに「嫁して行く村の乙女」を出品し、入選する。
第5回帝展に「姐妃」を出品したが落選する。
11月、第4回国画創作協会展に、父の死を追想して描いた「晩秋の野に死骸を送る村人たち」を出品して入選する。
大正14年 京都に移り、土田麦僊の山南塾に入る。
東山洋画研究所でデッサンを学ぶ。宮本三郎、橋本徹太郎らを知る。
この頃から、土田麦僊の紹介で、京都の実業家で美術に理解の深かった内貴清兵衛の援助を受ける。
2月、第11回日本美術院試作展に「倉のある雪の日の子守子」が入選する。
大正15年 3月、第5回国画創作協会展に「秋林」「夕月」を出品し、奨学金を受け、会友となる。
昭和2年 4月、第6回国画創作協会展に「花(一)」「花(二)」を出品。
昭和3年 4月、第7回国画創作協会展に「雪」「八瀬」を出品。
7月、国画創作協会日本画部解散。
11月、福田豊四郎吉岡堅二らとともに新樹社を設立する。
昭和4年 6月、第1回新樹社展に「秋野」を出品。
10月、第10回帝展に「渓流」を出品し入選する。
この頃から水墨画を試みる。
昭和5年 6月、第2回新樹社展に「薄」を出品。
10月、第11回帝展に「櫟林」を出品し、特選となる。
昭和6年 9月、第18年院展に「鯰」「牛」を出品。
10月、第12回帝展に「山路」を出品し入選する。
昭和7年 10月、第13回帝展に「花の森」を出品。
昭和8年 10月、第14回帝展に「洛北早春」を出品。
昭和9年 9月、第21回院展に「緑蔭」を出品し、この後一時公募展への出品を停止する。
昭和10年 満州に渡る。
昭和11年 6月、土田麦僊没。
内貴清兵衛の紹介で、横山大観小林古径に会う。
昭和12年 津田青楓中川一政矢野橋村菅楯彦らと墨人会を結成し、6月25日~7月4日、第1回展を大阪・朝日会館で開催。
昭和13年 傷病兵慰問のため、中国に渡り、上海・鎮江・蘇州・杭州・南京を巡る。福田豊四郎吉岡堅二と三樹社を結成、のち会名は新美術人協会と改名され、太田聴雨、森田沙伊、横尾深林人らも参加する。
昭和14年 ★々人と号す。
11月、麦僊の山南塾再興を企て、山南会をおこす。
昭和15年 法隆寺金堂壁画模写事業が始まったのに刺激され、仏画の大作制作を志す。
昭和17年 9月、第29回院展に「墨牡丹」を出品。
昭和18年 9月、第30回院展に「牡丹」(2点)を出品。
10月、第6回新文展に「雪後」を出品。
昭和19年 「蓮池」「大原女少女」を描く。
黙音洞人と号す。
昭和20年 仏画の大作を描き続けながら、終戦を迎える。
昭和21年 9月、第31回院展に「牡丹」を出品。谷中の日本美術院で描く。日本美術院賞を受け、同人となる。
昭和22年 9月、第32回院展に「花菖蒲」を出品。
昭和23年 9月、第33回院展に「山三題」を出品。
昭和24年 9月、第34回院展に「松」を出品。
昭和25年 9月、第35回院展に「神津島の娘」を出品。
昭和26年 9月、第36回院展に「蓮」を出品。
昭和27年 9月、第37回院展に「大原の春」を出品。
昭和28年 9月、第38回院展に「花(一)(二)」を出品。
昭和29年 9月、第39回院展に「裸婦素描(一)(二)」を出品。
昭和30年 9月、第40回院展に「即現婦女身」を出品。
昭和32年 9月、第42回院展に「夏山」を出品。
昭和33年 9月、第43回院展に「夏の大原」を出品。他に「東尋坊」を描く。
昭和34年 5月、第5回日本国際美術展に「岩山の月」を出品。
9月、第44回院展に「鯉」を出品。
昭和35年 9月、第45回院展に「雄島岩壁」を出品。「不動尊(青)」を描き始める。
昭和36年 9月、第46回院展に「藤間美知踊る幻お七・三態」を出品。
昭和37年 9月、第47回院展に「白日夢」を出品。
昭和38年 9月、第48回院展に「はぢらひ」を出品。
昭和39年 9月、第49回院展に「雪壁」を出品。
昭和40年 9月、第50回院展に「吾が窓より(夏山)」を出品。文部大臣賞受賞。
昭和41年 9月、第51回院展に「戸隠の春」を出品。
昭和42年 9月、第52回院展に「蓬莱峡全図」を出品。
昭和43年 9月、第53回院展に「池の朝(鯉)」を出品。
昭和44年 9月、第54回院展に「最上川(三ケ瀬、鍋巻、はやぶさ)」を出品。最上川連作を始める。
昭和45年 9月、第55回院展に「最上川源流」を出品。
昭和46年 9月、第56回院展に「栗の花咲く最上川」を出品。
昭和47年 9月、第57回院展に「鯰の池」を出品。他に「三十六童子」を描く。
昭和48年 9月、第58回院展に「最上川難所(三ケ瀬・碁点)」を出品。
画業50年記念展を大阪阪神百貨店で開催。他に「吾が家への道」を描く。
昭和49年 9月、第59回院展に「春の最上川」を出品。他に「白糸の滝」「黒富士」を描く。
昭和50年 9月、第60回院展に「吾が窓より(大原春雪)」を出品。
最上川シリーズで芸術選奨を受賞。この頃、「舞妓」「牡丹」「鯉図」を描く。
昭和51年 9月、第61回院展に「吾が窓より(田園の夕暮)(田園の朝)」を出品。
昭和52年 9月、第62回院展に「富士山」を出品。他に「赤富士(一)(二)」を描く。
昭和53年 9月、第63回院展に「赤富士」を出品。小松均展を東京、京都大丸で開催。他に「七媛富士」を描く。
昭和54年 9月、第64回院展に「雪の最上川」を出品。内閣総理大臣賞受賞。
昭和55年 9月、第65回院展に「豊茂富士」を出品。
昭和56年 9月、第66回院展に「大原早春」を出品。小松均展を高知県立郷土文化会館で開催。
昭和57年 9月、第67回院展に「白富士図」を出品。
昭和58年 9月、第68回院展に「岩壁」を出品。
昭和59年 画業65年記念、小松均展を神戸大丸、新潟伊勢丹、仙台十字屋で開催。
9月、第65回院展に「大原風景」を出品。
昭和60年 9月、第70回院展に「岩山雲烟図」を出品。他に「岩山」を描く。
昭和61年 6月、自然への感応・15年の足跡 小松均展を東京池袋、西武アート・フォーラムで開催。
(小松均展図録 1986年 池袋西武アート・フォーラムより抜粋)

出 典:『日本美術年鑑』平成2年版(249-251頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「小松均」『日本美術年鑑』平成2年版(249-251頁)
例)「小松均 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9974.html(閲覧日 2024-03-29)

以下のデータベースにも「小松均」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top