広田多津
創画会会員の女流日本画家広田多津は、11月23日午前7時15分、心不全のため京都市北区の自宅で死去した。享年86。明治37(1904)年5月10日、京都市に麻織物商を営む父覚次郎、母京の次女として生まれる。大正5年京都市立竜池小学校を卒業、しかし病弱のため進学せず、家事を手伝いながら独学で絵を始めた。同8年頃、三木翠山に一年ほどの間住み込みの書生として日本画の手ほどきを受け、同12年頃から甲斐荘楠音に学ぶ。翌13年竹内栖鳳に入門し、竹杖会で研鑚を積む。昭和8年竹杖会が解散したのち、10年西山翠嶂に入門。翌11年文展鑑査展に「秋晴」が初入選した。その後、新文展に入選を続け、14年第3回新文展で初めての裸婦「モデル」が特選を受賞する。15年には、西山塾で同門の向井久万と結婚(35年まで)。17年の第5回新文展で「大原女」が再び特選となり、戦後21年の第2回日展でも「浴み」が三たび特選を受賞した。しかし、官展に出品したのは、翌22年の第3回日展までで、23年向井久万、上村松篁、秋野不矩、沢宏靭、橋本明治、福田豊四郎、吉岡竪二ら、京都・東京両系の画家による創造美術の結成に参加、創立会員となる。「世界性に立脚する日本絵画の創造」をうたった同会は、26年新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となったため、会員として以後同展に連年出品する。30年第19回新制作展に出品した「大原の女」で上村松園賞を受賞、43年第32回展出品作「凉粧」は文化庁買上げとなった。この間、29年現代日本美術展、30年日本国際美術展に出品し、また35年より裸婦を一時中断して舞妓を多く描く。49年新制作協会日本画部が独立、創画会を結成して以降、創立会員として、50年第2回展「帰路」、56年第8回「白扇」、60年第12回「臥る裸婦」をはじめ毎年出品した。また36年エジプト・アメリカ等8ケ国、48年イタリア・スペイン、52年インド、56年シルクロードを旅行。44年東京の彩壷堂での第1回個展以降、50年、56年と東京セントラル絵画館で個展を開催した。裸婦や舞妓を題材に、おおらかで豊饒な女性の美を描き続けた画業であった。52年京都日本画専門学校校長となり、53年京都府と京都市の文化功労賞を受賞した。
出 典:『日本美術年鑑』平成3年版(325頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「広田多津」『日本美術年鑑』平成3年版(325頁)
例)「広田多津 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10368.html(閲覧日 2024-12-05)
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