安井曽太郎

没年月日:1955/12/14
分野:, (洋)

日本芸術院会員、帝室技芸員、一水会委員、日本美術家連盟会長などの要職にあつた洋画壇の巨匠安井曽太郎は、12月初めから神奈川県湯河原の自宅で肺炎療養中同14日心臓麻痺のため逝去した。享年67歳。明治21年5月17日京都市に生れ、若くして平清水亮太郎に洋画の初歩を学び、同37年浅井忠の研究所に入り、のち関西美術院に移つて浅井、鹿子木孟郎の指導を受けた。同40年渡仏、アカデミイ・ジュリアンに入つてジャン・ポール・ローランスの薫陶を受け、素描コンクールにおいて屡々首席を占めた。滞仏中ミレー、ピサロの感化を受け、更にセザンヌに傾倒し、またイタリア、スペインに遊んでイタリア・ルネッサンス彫刻或いはグレコの芸術に惹かれた。大正3年帰国し、同4年二科会第2回展覧会に滞欧作品44点を特別陳列して識者の注目を集め、二科会々員に推挙された。その後、毎歳二科会に発表、ドラン、ボナール等の感化を示しながら遂に昭和5、6年頃に至つて肖像画或いは静物画、風景画に自己の様式をきずき、いくつかの名作を描いた。昭和10年帝国美術院会員に任命されると共に二科会々員を辞し、同11年同志と一水会を創立してその会員となつた。同12年帝国芸術院の創設に際し芸術院会員を仰付けられた。なお此の年門下生たちによつて連袖会が結成された。この頃満洲、朝鮮に遊んで熱河、京城などの風景画を製作し、以後2、3年の間しきりに上高地風景を描いた。昭和19年梅原龍三郎と共に東京美術学校教授に任ぜられ、同校が芸術大学となつて後まで熱意をもつて後進を指導した。昭和18、9年には北京に赴き、風景、肖像画を描いた。昭和23年以来湯河原に移り、病身をいたわりながら製作をつづけ、多くの人物画や静物、風景を描き、明快な色調と平明な描写に線描を加え、独自の画境を示しつつあつた。同24年日本美術家連盟の創立とともにその会長に推され、終生同連盟の発展につくした。同27年多年の功労によつて文化勲章を受けた。以上のほか、国立近代美術館評議員、神奈川県立近代美術館運営委員であつた。
 安井は、大正初年以来終始梅原竜三郎と並び称せられた。滞欧作以来絶えず発展を示したその芸術は、わが近代洋画の中軸をなしたが、その作風は写実精神に貫ぬかれている。昭和10年前後のいくつかの作品は、わが洋画史上記念碑的な作品として後世に遣るであろう。
略年譜
明治21年 5月17日、京都市中京区、木綿問屋を営む安井元七の五男として生る。母よね。
明治27年 4月、京都市生祥尋常小学校に入学。
明治31年 4月、卒業、京都市立商業学校に入学す。
明治36年 4月、洋画家を志して同校本科1年修了後中途退学し、それより同校の図画教師平清水亮太郎につき鉛筆、水彩画を学ぶ。
明治37年 夏、浅井忠の研究所に入り、浅井忠、鹿子木孟郎の指導を受く。
明治39年 3月、関西美術院創立され、同院に移る。
明治40年 4月末、津田青楓と同行渡仏、6月パリのアカデミイ・ジュリアンに入学し、ジャン・ポール・ローランスに師事す。リュ・ドゥ・テアートルに住み、12月パリ郊外ヴィトリーに移住。
明治41年 夏、津田青楓と共にグレに遊びグレ風景を描く。
明治42年 6月、津田青楓と共にフロモンビール村に、7月、更に藤川勇造を加えた3人でオーヴェルニュ・ビルロング村に遊ぶ。作品に「田舎の寺」等あり。
明治43年 リュ・ドウ・シュル・シュミディのアパートに移り、夏再度ビルロング村に遊ぶ。その後、アカデミイ・ジュリアンのジャン・ポール・ローランス教室を去り、自由研究に入つてリュ・ドゥ・ヴォージラルにアトリエを持つ。作品「林檎」「パンと肉」「藁屋の庭」等。
明治44年 夏、ブルターニュに赴き、秋再びビルロング村に遊ぶ。作品「垣」「村の道」「曇り日」「春の家」等。
大正元年 5月、福見尚文と共にヴェトイユに製作旅行し、夏イギリス、オランダ、ベルギーを回遊、また秋には長谷川昇、沢部清五郎とスペインに見学旅行す。作品「青き壷」「少女」「肖像」「巴里の縁日」等。
大正2年 秋、小川千甕と共にイタリアに見学旅行す。作品「足を洗ふ女」「黒き髪の女」「赤き屋根」等。
大正3年 リュ・ドゥ・バルイエールのアトリエに移る。更にリュ・ドゥ・ババンのアトリエに転居せるも、この頃より健康を害す。8月第一次世界大戦勃発と病のため留学中の主要作品45点を携えてロンドンに逃れ、初秋ロンドン発帰国す。11月、京都の自宅に帰る。作品「孔雀と女」「下宿の人々」等。
大正4年 冬、紀州湯崎温泉に避寒、夏但馬の竹野梅岸に避著し、専ら健康の回復につとめる一方、10月第2回二科会展に滞欧作品44点を特別出陳し、二科会々員に推挙さる。なおこの年鹿木孟郎の後任として関西美術院に教鞭をとる。
大正5年 冬、熱海伊豆山に静養、健康回復し、5月豊島区に居を定む。「ダリヤ」「丘の道」「女」「芽出し頃」「林檎」を第3回二科展に出品。
大正6年 7月6日水野はまと結塘。「肖像」「女」「グロキシニヤ」「少女」(公開を禁ぜられ撤去)を第4回二科展に出品す。
大正7年 「孟宗薮」「静物」「早春」「支那服を着たる女」「梅林」「林檎と密柑」「少女」(公開禁止撤去)を第5回二科展出品。
大正8年 「樹蔭」「ダリヤ」「春」を第6回二科展に出品。
大正9年 秋、2ケ月程比叡山麓に滞在製作す。「薔薇」「化粧」「静物」を第7回二科展に出品。
大正10年 「人物」「静物」を第8回二科展に出品。
大正11年 平和記念東京博覧会洋画部審査員となる。「椅子による女」を第9回二科展に出品。
大正12年 6月9日長男慶一郎出生。震災後しばらく京都に滞在す。
大正13年 「黒き髪の女」「裸女」「桐の木」「女立像」「風景」「京都郊外」「薔薇」「素焼壷の薔薇」「新緑」「ダリヤ」を第11回二科展に出品。
大正14年 9月京都画箋堂に於いて個展。「柿実る頃」「薔薇」「裸女」「秋の村」を第12回二科展に出品。
昭和元年 燕巣会創立され、その同人となり、第1回展に「松林」「ダリヤ」「画室」「京都郊外」を出品。
昭和2年 「ダリヤ」「モデル」を第2回燕巣会展に出品、「ダリヤ」「林檎と莓」「初夏」「薔薇」「桐の花咲く庭」を第14回二科展に出品。
昭和3年 春、奈良に滞在製作す。「静物」「早春」を第3回燕巣会展に出品、「菊」「桃」「花と少女」「小菊」を第15回二科展に出品。
昭和4年 熱海に製作旅行す。「樹間の海」を第4回燕巣会展に出品。「熱海附近(一)」「熱海附近(二)」「座像」を第16回二科展に出品。
昭和5年 「婦人像」「芍薬」を第17回二科展に出品。
昭和6年 外房太海にて風景画を製作。「ポーズせるモデル」「外房風景」「薔薇」を第18回二科展に出品。
昭和7年 国立公園協会の依嘱を受け、7月十和田湖奥入瀬に旅し、風景画の連作をなす。「薔薇」を第19回二科展に出品。
昭和8年 4月清光会創立され、その同人となつて毎回出品す。「湖畔の道」「雉子」を第1回清光会展に出品。「奥入瀬の渓流」「風吹く湖畔」「モデル」を第20回二科展に出品。
昭和9年 3月末犬吠岬へ旅し、秋十和田湖奥入瀬に再遊す。12月東京都新宿区に自宅、アトリエを新築転居す。「裸女」「薔薇」を第2回清光会展に出品。「金蓉」「T先生の像」を第21回二科展に出品。
昭和10年 3月末鵜原に旅行し、「鵜原風景」を製作。6月帝国美術院会員を仰付けられ、二科会会員を辞す。秋、裏磐梯に旅行し製作す。「少女」「風景」を第3回清光会展に出品、「果物」「紅葉する黄櫨」「松と睡蓮」を藤島武二梅原龍三郎安井曽太郎新作洋画展に出品す。「三宝柑」を現代10大家洋画展出品。
昭和11年 春、仙台に赴き「本多先生の像」を描き、5月朝鮮美術展審査のため、朝鮮に旅行す。12月同志と一水会を結成し、逝去まで同会に属して委員をつとむ。「女児」を第3回現代10大家洋画展に出品、「菊」を青樹社洋画展に出品。
昭和12年 4月満州国美術展審査のため藤島武二と共に新京に赴き、帰途熱河承徳にて製作、7月帰国す。6月官制改正により帝国美術院は帝国芸術院と改められ、帝国芸術院会員を仰付けらる。この年門下生等により連袖会組織さる。「少女像」「ばら」を第4回清光会展に出品、「深井英五像」「承徳喇嘛廟」を第1回一水会展に出品。
昭和13年 7月末より3ケ月間上高地に滞在、風景画を連作す。「薔薇」「京城府」を第5回清光会展に出品、「薔薇」を第1回連袖会展に出品。
昭和14年 「白樺と焼岳」「薔薇」を第6回清光会展に出品、「福島夫人像」「霞沢岳」を第3回一水会展に出品。
昭和15年 5月銀座三昧堂にて「安井曽太郎作肖像画観賞会」を開催、6月より10月中旬まで上高地に再遊す。「女と犬」を第7回清光会展に出品、「黒扇」を紀元二六〇〇年奉祝展、「菊」を第4回一水会展に出品。
昭和16年 12月紀州白浜と瀞峡に遊び、太平洋戦争開戦に遇う。「果物」を第8回清光会展、「焼岳」「池と穂高」第5回一水会展に出品。
昭和17年 痔疾手術、湯河原に静養して製作す。「読書」を第9回清光会展、「上高地晩秋図」を第6回一水会展、「鏡の前」を満洲国建国10週年慶祝展に出品。
昭和18年 夏、野尻湖に遊び、秋展覧会審査のため北京に赴き、同地にて宇佐美寛爾の肖像を描く。「ばら」を第10回清光会展、「玉笛(崔承喜の像)」を第7回一水会展に出品。
昭和19年 6月梅原龍三郎と共に東京美術学校教授に任ぜられ、7月帝室技芸員を命ぜらる。夏北京、北満に旅し、秋北京にて「宇佐美氏像」を描く。また華北交通依嘱の「連雲港の日の出」を描くため冬連雲港において製作。年来北京にて病む。「静物」を芸術院会員陸軍献納展に出品。
昭和20年 3月帰京、直ちに埼玉県大里郡に疎開す。「藤山愛一郎氏像」製作。
昭和21年 第1回日展審査員となる。秋、帯状疱疹により眼を病み出京、治療を受く。「安倍先生像」を第1回日展に、「桜」「栗」を第11回清光会展に、「T夫人の像」「大観先生像」を第8回一水会展に出品。
昭和22年 11月埼玉から新宿の自宅に帰る。「紫禁城」「静物」第12回清光会展、「北京の図」「連雲の町(一)」「連雲の町(二)」第9回一水会展出品。
昭和23年 2月静養のため湯河原、熱海に滞在、7月帰京す。眼病回復し「小坂氏像」製作。「上高地」「秋の明神岳」を第13回清光会展、「藤山氏像」を第2回美術団体連合展、「徳川氏像」を第10回一水会展に出品。
昭和24年 初夏、神奈川県湯河原天野屋別荘(旧竹内栖鳳画室)に居を移す。なお5月銀座松坂屋において「安井・梅原自薦展」開催せられ、重要作品85点を陳列。6月日本美術家連盟創立せられると共に同連盟会長に推さる。「薔薇」を第14回清光会展に、「M子氏像」を第3回美術団体連合展に、「湯河原風景」「小坂氏像」を第11回一水会展に出品。
昭和25年 雑誌文芸春秋の表紙絵を1月号より担当以後毎号執筆す。「櫟の若葉」を第15回清光会に、「小宮君像」「孫」「桃」「大内氏像」を第12回一水会展に出品。
昭和26年 10月学制改革により東京芸術大学美術部教授に配置換え、11月神奈川県立近代美術館運営委員となる。「画室にて」を第13回一水会展に出品。
昭和27年 3月自己の便宜により芸大教授を辞任、9月国立近代美術館評議員となり、11月梅原龍三郎と共に文化勲章を受領す。「楠の新芽」を第17回清光会展に、「黒卓の桃」を第1回日本国際美術展に、「来の宮風景」「立像」「天津桃」「腰かける裸女」を第14回一水会展に出品。
昭和28年 5月酒田市本間美術館に「安井・梅原展」開催、10月神奈川県立近代美術館に「安井曽太郎自薦展」を開催。12月天野屋に静養中の大原総一郎の肖像に着手(未完)。「湯河原の若葉」を第18回清光会展に、「銀化せる鯛」を第2回日本国際美術展に、「腰かけのポーズ」「湯河原風景」を第15回一水会展に出品。
昭和29年 2月国立近代美術館の「近代の肖像画」展に安井作の肖像画15点陳列さる。5月九州に飛行機旅行、坂本繁二郎に会う。8月神奈川県湯河原に自宅、アトリエを新築転居す。「櫟と楠」を第19回清光会展に、「桃」を第1回現代日本美術展に、「赤き橋の見える風景」を第16回一水会展に出品。
昭和30年 2月渡辺忠雄の、7月河上弘一の肖像を描きはじむ。6月国立近代美術館の「巨匠の二十代」展に安井の作品31点陳列。11月市立神戸美術館の「安井曽太郎前田青邨展」に安井の作品20点陳列さる。12月14日午後5時25分心臓麻痺のため逝去。12月18日東京築地本願寺に於て葬儀を執行。この年「安倍能成君像」を第3回日本国際美術展に出品、「葡萄とペルシヤ大皿」を七大家新作展に出品。なお日本美術家連盟主催年末連盟展出品のため製作中の「秋の城山」が絶筆となつた。

出 典:『日本美術年鑑』昭和31年版(155-158頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「安井曽太郎」『日本美術年鑑』昭和31年版(155-158頁)
例)「安井曽太郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8914.html(閲覧日 2024-03-19)

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