鈴木良三

没年月日:1996/10/19
分野:, (洋)
読み:すずきりょうぞう

 元日展審査員の洋画家鈴木良三は10月19日午後9時3分、肺炎のため東京都中野区の慈生会病院で死去した。享年98。明治31(1898)年3月29日茨城県水戸市東台665に下市病院院長鈴木錬平(とうへい)の三男として生まれる。県立水戸中学校を卒業して大正6(1917)年東京慈恵医大に入学。同年、叔父の幼なじみであった画家中村彝を訪ね、以後彝に師事。慈恵医大に在学しながら同年から川端画学校にも通学し、同11年平和記念東京博覧会に「夕づける陽」を出品する。同年慈恵医大を卒業するが、中村彝周辺の画家たちとともに「金塔社」を結成して活動し同年6月に第1回金塔社展を開催する。また、同年第4回帝展に「秋立つ頃」で初入選。この後も帝展に出品したほか光風会展、太平洋画会展などにも出品。昭和3(1928)年5月に渡仏し、同5年12月に帰国。この間、栗原信永瀬義郎中西利雄らと交遊し、また、スペイン、イタリア等を旅行している。滞欧中にパリから第11回帝展に「微睡」を、翌昭和6年の第12回帝展に「グラス風景」を出品。同7年芸術使節団の一員として東南アジアを訪問。同11年12月、有島生馬石井柏亭木下義謙安井曽太郎らによって一水会が創設されると、同展に出品し、以後同展に出品を続ける。同14年第3回一水会展に「手術」「若き母」を出品して、具方賞を受賞。また、同年に行われた第1回聖戦美術展に「鉄道員の活躍」を出品する。同18年陸軍参謀本部と日本赤十字の依頼により従軍画家としてビルマ方面に赴く。戦後の同21年一水会会員となり、同27年同会委員となる。戦後の制作には海をモティーフとした作品が多く、海景の画家として知られた。同49年フランス、スペインなどを写生旅行。同56年茨城県県民文化センターで「画道60年記念鈴木良三展」が開催され、同60年東京セントラル美術館で「米寿記念鈴木良三海姿百景展」が開かれた。また、平成3(1991)年茨城県近代美術館で「鈴木良三佐竹徳展」が開かれており、年譜は同展図録に詳しい。その作風は中村彝が「鈴木良三君があの素直で平明な観照のもとに、美しき自然の諸相を描き」と評したように、簡略化した形態把握と豊麗な彩色を特色とした。

出 典:『日本美術年鑑』平成9年版(353頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「鈴木良三」『日本美術年鑑』平成9年版(353頁)
例)「鈴木良三 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10650.html(閲覧日 2024-10-10)

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