中根寛
点描による穏やかな風景画で知られた洋画家の中根寛は1月17日に死去した。享年92。
1925(大正14)年3月26日愛知県額田町(現、岡崎市)に生まれる。1939(昭和14)年旧制岡崎中学校2年生を修了して岡崎師範学校に入学し、44年の9月に卒業予定であったが、前月の8月に陸軍宇都宮飛行学校に入所。1945年除隊し、郷里に戻り小学校教師となる。49年東京藝術大学美術学部油画科に入学し、上京して同郷の荻太郎を頼り、荻のアトリエに住む。大学では硲伊之助、寺田春弌、2年生から安井曾太郎、伊藤廉に師事。52年3月に安井が辞任したため、同年4月から後任となった林武に師事する一方、小磯良平、山口薫、牛島憲之の指導を受ける。53年東京藝術大学美術学部油画科を卒業。卒業制作によって大橋賞を受賞。54年、母校に新設された美術学部専攻科に進級し、55年に同科を修了して同学美術学部副手となる。57年同美術学部教務補佐員、58年同助手となる。美術団体展出品に否定的でグループ展を奨励した林武の教えを受けて団体展には出品せず、59年に同学の若手画家によって黒土会を結成し、毎年日本橋髙島屋で展覧会を開催。同展には第1回展に出品した「腕を組む」(1957年)から65年の第7回展出品の「かげ」まで、人体を主要なモチーフとし、暗色を塗り重ねた重厚な作品を出品し続ける。60年第3回国際具象派美術展に「コンポジション」を招待出品し64年まで出品を続ける。62年第5回現代日本美術展に「こかげ」で入選。63年東京藝術大学美術学部専任講師となる。63年から77年まで国際形象展に招待出品。64年第8回安井賞候補新人展に人体と動物で構成した「星」を出品し、70年の第13回まで同展に出品を続ける。68年日動サロンにて初めての個展を開催。69年東京藝術大学美術学部助教授となる。69年に半年間、ヨーロッパ・エジプトを研修旅行。70年7月から8月まで北ヨーロッパ、71年3月から4月までスペインに旅行。多数の西洋の古典絵画を実見し、西洋絵画の奥深さと多様性を知るとともに、自然と調和した人の営みが窺える町や村の景観に魅かれる。これ以降、風景画を中心に描くようになる。また、師の林武のように油絵具を混ぜあわせ、塗り重ねる画法から、点描のように絵具を並べる画法へと変化する。75年、訪中美術家代表団の一員として初めて中国を訪れ、以後80年までほぼ毎年中国に取材旅行。また、同年12月から76年1月までインド、ネパールを旅行。76年スイスへ、77年ヨーロッパへ取材旅行。78年東京藝術大学美術学部教授となる。79年3月日本橋髙島屋、4月大阪髙島屋にて「中根寛展<中国を描く>」を開催。84年に伊藤廉記念賞が開設されるとその選考委員となり、1993(平成5)年の最終回まで毎回選考に当たる。86年東京藝術大学美術学部長となり、90年に退官して名誉教授となる。93年郷里にある岡崎市美術館で「中根寛自選展」が開催され、また、同年5月に母校の藝術資料館で「中根寛展<在学中から卒業後15年を中心として>」が開催された。2000年9月に『中根寛画集』(求龍堂)が刊行され、同月から11月まで「中根寛画業50年展」(朝日新聞社ほか主催)が髙島屋(日本橋、横浜、京都、大阪なんば)、松坂屋美術館(名古屋)を巡回した。生涯、美術団体に所属せず、東京藝術大学で美術教育に携わりつつ制作を続けた。少年時に郷里で三河湾を見下ろす景色に親しみ、風景画でも俯瞰する構図を好んだ。「その社会に参加していない異国の景色を描いていると、後ろめたさはつきまとう」(「中根寛・画論を語る」『アートトップ』129)という言葉にあらわれるように、描く対象と自らの関わりを重視した。1990年代以降は、北海道の湿原、浅間山、富士山、瀬戸内などの景色を広やかに俯瞰する構図で描いた優品を残している。
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「中根寛」『日本美術年鑑』令和元年版(495-496頁)
例)「中根寛 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995606.html(閲覧日 2024-10-12)
以下のデータベースにも「中根寛」が含まれます。
- ■美術界年史(彙報)
- 1975年06月 美術家代表団の中国訪問
外部サイトを探す