木下義謙
洋画家で、一水会創立会員、女子美術大学名誉教授の木下義謙は、7月16日午後7時47分、心不全のため東京都世田谷区の吉川内科小児科病院で死去した。享年97。明治31(1898)年、現在の東京都新宿区四谷に生まれた。両親とも和歌山県出身で、父友三郎は、法政局参事官から明治大学の校長、学長を歴任した。大正4(1915)年、学習院中等科を卒業、同年東京高等工業学校機械科に入学、同7年に卒業、翌年から同学校助教授となった。油彩画は独学ではじめたが、同学校を辞職した同10年の第8回二科展に「兄の肖像」が初入選した。このとき、やはり油彩画を独学していた兄孝則(1894~1973)も、「富永君の肖像」が初入選した。その後は、二科展に出品をつづけ、同15年の第13回展では、「N氏の肖像」等7点を出品、二科賞を受賞した。また、萬鉄五郎、小林徳三郎が中心となって結成された円鳥会に参加、同12年の第1回展から同14年の第4回展まで出品した。同15年に結成された1930年協会の会員として、昭和2(1927)年の第2回展、翌年の第3回展に出品した。同3年から7年まで渡仏、パリで制作し、サロン・ドートンヌなどにも出品した。帰朝した年の第19回二科展には、滞欧作品36点が特別陳列された。同11年、二科会会員を辞退し、石井柏亭、安井曽太郎、兄孝則とともに一水会を結成した。戦後になると、ひきつづき一水会や日展に出品するとともに、同22年からは女子美術専門学校(現在の女子美術大学)の教授となり、後進の指導にあたった。同25年、前年の第5回日展に出品した「太平街道」により、芸能選奨文部大臣賞を受賞、またこの年より陶芸制作をはじめた。その後、しばしば一水会展に油彩画とともに陶芸作品を出品するようになり、同33年には、硲伊之助とともに同会に陶芸部を創設した。同51年には、平明な自然観照にもとづいた誠実な画風からなる初期作品から近作にいたる油彩画87点と陶芸作品11点から構成されたはじめての回顧展として「木下義謙作品展」が、和歌山県立近代美術館において開催された。同54年に、勲三等瑞宝章を、翌年には和歌山県文化功労賞を受賞した。同57年には、画業50年を記念して油彩画、水彩画65点からなる「木下義謙展」を日動画廊において開催した。
出 典:『日本美術年鑑』平成9年版(349-350頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)
例)「木下義謙」『日本美術年鑑』平成9年版(349-350頁)
例)「木下義謙 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10647.html(閲覧日 2024-11-11)
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- ■美術界年史(彙報)
- 1936年10月 二科会四会員脱退
- 1936年12月 一水会組織
- 1950年12月 文部大臣賞授賞式
- 1963年06月 中国訪問の日本画家代表団出発
- 1946年12月 第五回野間賞決定
- 1957年10月 一水会日展不参加を声明
- 1958年04月 一水会日展へ復帰
- 1958年09月 一水会陶芸部新設
- ■明治大正期書画家番付データベース
- 1937(昭和12) 改訂古今書画名家一覧表 附古今書画名家印鑑譜_807016