第一部会解散 

1936年09月

第一部会は其の運動の第一目的である同会々員の無鑑査復活が、今次の文展に於いて実現されたので九月五日夕新橋駅東洋軒で総務会を開き同会の解散を決議、十日午後三時半から上野精養軒で最後の総会を開催し正式に解散を決定した。

環堵画塾解散 

1936年09月

日本南画院を解散した小室翠雲は其の私塾環堵画塾をも解散することとし、九月九日同画塾幹部会を召集して解散の辞を述べ、十日午後二時から在京の塾員一同を集めて解散式を挙げた。

日本南画院解散 

1936年09月

日本南画院では曩に文展不参加の態度を決定、声明したが其の後同人中には文展との絶縁を快しとせず、出品の自由を主張する意見が行はれ、分裂の危機を孕むに至つたので、関西在住の同人は九月五日京都で会合した結果、同院の解散を決議するに至つた。之に基いて東京側同人が集合協議し、主宰者小室翠雲の決断を仰いだ結果、遂に翠雲は同院を解散することに決定し八日左の声明書を発表した。 「我日本南画院は開設以来十有六年の星霜を閲し東洋南画の伝統と時代性の摂取とに因り日本独自の立場において新南画を創設しこゝに新なる日本南画の基礎を樹立し得たるを確信す、然るに向後に於ける団体としての行動に付いては先後両者の立場自ら相背馳するものあり為めに後進の自由を妨ぐる嫌なしとせず此処に鑑みる所ありこの際本院の解体を断行し以て大乗的見地より随意研鑚するの必要を認め敢て解散を声明する所以なり 尚予て発表せる裁藻展覧会は本院の解散に伴ひ開会を中止する事とす 昭和十一年九月八日 日本南画院小室翠雲

新文展一般出品者大会 

1936年08月

文展に参加出品せんとする光風会、太平洋画会、春台展、白日会の有志は八月七日丸の内マーブルに一般出品者大会を開催、左の檄を決議した。 「過去一年間に亙る帝院改組問題に当面せる我々は今回提示されたる平生文相試案による文展支持を廻る諸問題の経過に鑑み今や更生の意気甚だ烈々捉へ来らんとする因亦清新たり同志相寄りて専心絵画に純粋ならんことを誓ひて感銘する処多大なり、向後は一路製作に邁進其の成果を大方画壇社会に問ふ処あらんことを期す、此処に我等の決意に宣揚し、広く天下同志諸彦に檄となす所以なり 八月七日文展支持各派有志」

文部省美術展覧会規則制定 

1936年08月

文部省では今秋開催することとなつた昭和十一年文部省美術展覧会規則を正式に制定し、同省告示として八月四日の官報で発表した。

オリンピツク芸術競技審査発表 

1936年07月

ベルリンに開かれた第十一回国際オリンピツク大会芸術競技審査の結果は、七月三十日発表された。我が国からの出品は造形美術では絵画六三点、彫刻一一点、建築五点であつたが、内入賞したものは左記の通りであつた。 絵画並に写真 三等 アイスホツケー 藤田隆治 デザイン水彩画 三等 古典競馬 鈴木朱雀 彫刻 褒賞 力士 長谷川義起

春台展有志文展支持声明 

1936年07月

岡田三郎助の研究所関係者より成る春台美術展の有志は、協議の結果七月三十日左の声明書を発し文展支持を明かにした。 「今回現文相の企てたる帝院再改組は美術振興の上に多大なる貢献を齎らさんとするものなるを認め茲に我々は曩の政府展不出品声明を解除し新文展支持を声明す 昭和十一年七月三十日 春台美術有志」

久米桂一郎記念像除幕 

1936年07月

東京美術学校内に故久米桂一郎の記念像を建設すべく、予て和田校長を実行委員長とし、故人の友人門下の間で醵金、北村西望の手で胸像を製作中であつたが、愈々完成し、三周忌に当る七月二十七日同校庭で除幕式が行はれた。

新制作派協会結成 

1936年07月

過日第二部会の文展参加の決議に反対して同会を脱退した作家達は、新団体新制作派協会を結成、七月二十五日発会式を挙げ左の声明書を発した。同会の規約に依れば、「一切の政治的工作を拒否し、純粋芸術の責任ある行動に於て新芸術の確立を期し、『反アカデミツク』の芸術精神に於て官展に関与せず、年一回以上の公募展覧会を最も厳格なる芸術的態度に於て開催する」ものである。 「声明書 現下我国美術界紛擾に直面した我々の体験の結果は画家生活に於けるその政治的行動の矛盾を痛感せしめた。今や我々は一切の過去に於ける画壇的情実を断ちきり今後は芸術家相互の信頼の上にその制作行動を純化せしめつゝ我々の芸術精神の意欲にのみ邁進する覚悟である。新制作派協会は斯かる意義の上に立脚し、その展覧会は真の芸術研究並びに純粋なる制作行動の発露であり、制作、行動、発表を正しき芸術家的良心の下に一元的ならしむる事を声明す。 昭和十一年七月二十五日 新制作派協会 猪熊弦一郎伊勢正義脇田和 中西利雄内田巌小磯良平 佐藤敬三田康

光風会文展支持声明 

1936年07月

昨年新帝展に対して不出品を声明した光風会では、七月二十一日丸の内マーブルに総会を開き、左の声明を発して新文展を支持する態度を明かにした。 「今次現文相が企てたる帝院の再改組は、前々文相に依つて行はれたる改組の非を認め、全く新しき立場に於て本邦美術の振興に資せんとするの意なりと認む、依つて本会は茲に曩の政府展不出品声明を撤去す 昭和十一年七月二十一日光風会」

第二部会一般出品者同盟解散 

1936年07月

旧帝展洋画出品者に依り昨年結成されて第二部会を支持してゐた一般出品者同盟では第二部会が文展参加に決定してから、其の態度を非難し文展反対を出張する意見有力となり実行委員と第二部会との間に詰問応答などが行はれてゐたが、態度決定の為七月十九日夜東京府美術館食堂で総会を開いた。其の結果、文展参加と不参加とに意見が岐れ、遂に一致の行動に出づること能はず、実行委員は総辞職し同盟は分裂解散するに至つた。

ペンクラブ国際大会日本代表 

1936年07月

今秋ブエノスアイレスで開催されるペンクラブ国際大会に、日本ペンクラブ代表として、島崎藤村、有島生馬の両名が出席することとなり、七月十五日横浜出帆の平安丸で出発した。

旺玄社文展不参加決議 

1936年07月

牧野虎雄を主宰とする洋画団体旺玄社では、文展支持を決定した第二部会の態度に不満を抱いてゐたが、七月十三日夜上野広小路明治製菓で総会を開き、社人社友等集合協議した結果、文展反対を決議、不出品の態度を取ることに決し、翌十四日左の声明書を発した。 「昨夏旺玄社が松田改組による新帝院に対して一般出品者の立場より声明した『従来の機構による官設展覧会の廃止』は、其の後吾々が帝院に対する一貫せる態度である、今回の平生文相に依る再改組なるものは何等昨年の改組と、其の本質に於ても亦機構に於ても異ならず益々吾々の理想と背馳するものである如何にそれが一応立派やかに見えやうとも全く一時的に大衆を欺瞞するもので勿論吾々の支持し得られざるものである。 同時に昨年第二部会設立以来積極的に此れを支持し来たつたのは実に前掲の立場よりなせるもので、此の度一般出品者の誠意を裏切る如き第二部会の態度は実に吾々の遺憾とするところである。 此の度吾が旺玄社は帝展に対する一貫せる態度を表明する為改めて新文展に対して不出品を声明するのである。 昭和十一年七月旺玄社」

新構造社組織 

1936年07月

構造社は昨年七月彫刻絵画の同名二団体に分れたが、絵画部の構造社は、元構造社会員同出品者等に依つて本年二月結成された彫刻団体十七会と合同し、別に工芸部を新設して新構造社と改名、七月十二日其の新組織を発表した。

彩交会組織 

1936年07月

名古屋在住の日本画家二十三名に依つて、七月七日彩交会が組織された。之は京都絵画専門学校卒業生の親睦研究を主とする団体で、大正十年以来愛知県出身の同校卒業生等に依つて組織された愛土社に新に会員を加へ、名称も改めたものである。

第三部会文展不参加声明 

1936年07月

第三部会では七月七日午後丸の内マーブルに会員集合協議の結果、文展不参加に決定、左の如く声明書を発した。 「明治、大正、昭和を通じ我国彫塑界に捲起したる凡ゆる闘争、すべての情実の根源たる松田改組によりて成れる現帝国美術院第三部会員の独占的に鑑審査に携はる文部省美術展覧会には本会会員は招待礼を受けず、純在野団体として我国彫塑界進展に努力せんことをここに声明す。 会員 池田勇八石川確治畑正吉上田直次、小倉右一郎、開発芳光、吉田久継日名子実三

第二部会六会員脱退 

1936年07月

第二部会では七月六日午後六時から丸の内マーブルで会員総会を開催、文展参加の問題に就いて協議し、採決の結果多数を以て今秋の文展に参加、之を支持することに決定したが、右に絶対反対を唱へて譲らなかつた猪熊弦一郎内田巌小磯良平佐藤敬三田康中西利雄の六名は、退場後直ちに協議の上第二部会脱退を決議し左の声明書を発表した。 「本日二部会総会に於きまして新文展支持の決議を見ましたが私達六名の者は事態の初めより全日本画壇明朗の為現在に於ては「帝院の独立」「帝院の解消」の必要にのみ主張協力して来ましたが残念ながら事此処に至りました以上我々は二部会々員を辞退致し、新文展に対しては、不出品を声明する次第であります。 昭和十一年七月六日 猪熊弦一郎内田巌小磯良平 佐藤敬三田康中西利雄

海軍館陳列画執筆者決定 

1936年07月

明治神宮表参道近くに建築中の海軍館は来春開館される予定であるが、其の三階に絵画室を設け、明治維新以来今日までの光輝ある我が海軍史を語る記念絵画十七点を陳列することとなり、海軍当局では長谷川次官を委員長として計画を進め、執筆者に就いて銓衡中であつたが、七月六日画家との打合会を開いて画題及び作者を左の通り決定した。大きさはいづれも百号、完成は来年三月末日の予定である。 一、咸臨丸の太平洋航海 小林万吾 二、明治元年天保山沖軍艦御親閲 中沢弘光 三、宮古沖海戦(幕艦回天の官艦襲撃) 南薫造 四、函館海戦 中村研一 五、黄海海戦 田辺至 六、勇敢なる水兵 北蓮蔵 七、威海衛の夜襲 長谷川昇 八、北清事変に於ける我陸戦隊の太沽砲台占領 権藤種男 九、旅順港閉塞隊 奥瀬英三 一〇、日本海々戦の敵前大回頭 永地秀太 一一、蔚山沖海戦とリユーリツク撃沈後敵兵救出情況 清水良雄 一二、第六潜水艦長佐久間大尉 石井柏亭 一三、地中海に於ける我駆逐隊の活躍 石川寅治 一四、摂政宮殿下御渡欧 山下新太郎 一五、上海陸戦隊の活動 御厨純一 一六、支那事変と空中戦 三上知治 一七、海陸協同作戦 栗原忠二

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