両陛下博物館美術館に行幸啓
1947年03月一八日天皇皇后両陛下は帝室博物館の本館陳列、表慶館の日本古美術工芸複製品展覧会と東京都美術館の泰西名画展を御覧になつた。
一八日天皇皇后両陛下は帝室博物館の本館陳列、表慶館の日本古美術工芸複製品展覧会と東京都美術館の泰西名画展を御覧になつた。
帝国芸術院では一七日総会を開き、日展の規則を一部改正して第三回日展から出品招待者制をとることに決定した。第二回日展に際しての改組に無鑑査廃止制をとつたため無鑑査級作家の出品拒否となつたので折衷案として新制度採用となつたものである。
東京駅の待合室に石膏の浮彫壁画が飾られることになり、中村順平のデザインで本郷新・建畠覚三・田畑一作らの彫刻家が一〇日から原型の製作を始めた。日光・東海道・奈良等の光景を画き浮彫としては日本一の大きさを持つ壁面で四月二〇日に完成された。
春陽会では一〇日日展不参加の声明書を発表した。従来は日展を総合展とする理想案実現に協力して審査員も出して来たが、昨年の日展の傾向から相反した性格を持つものとして不参加を決定した。
読売新聞社主催、文部省後援の泰西名画展が一〇日から三〇日まで東京都美術館で開催された。国内にある西洋名画が多数集められ非常な好評であつた。
帝室博物館では一日から二〇日まで表慶館で正倉院御物を主として桃山時代までの古美術工芸品の精巧な研究と技術による複製品を展観した。
新制作派協会に出品する室田豊四郎、古茂田守介らの新進によつて研究発表会のシツタン会が創立された。二月北荘画廊で第一回展を開いた。
美術行政審議会では彫刻家の協力を求めて国会議事堂内に彫像の配置陳列を行つた。
一二日京都八幡町の石清水八幡宮が出火し、同社所蔵の国宝御鎮座縁起絵巻をはじめ多くの美術品宝物などが焼失した。
千葉県山武郡成東付近で日大考古学会の門上秀叡等によつて前方後円墳が発掘された。関東には珍しい大和朝時代の遺跡で新しい型の埴輪なども発見された。
富本憲吉ら旧国画会工芸部会員に山脇洋二・小合友之助が加わり新たな立場から新匠美術工芸会が設立され、六月東京高島屋で第一回展が開かれた。
光風会の中堅、大河内信敬、川端賞、朝井閑右衛門らによつて洋画研究団体新樹会が結成され、第一回展を六月日本橋三越で開いた。
第五回野間賞が決定し、一七日講談社で授与式が行われた。美術関係では村田泥牛、木下義謙が美術奨励賞を、河目悌二が挿画奨励賞を受けた。
文部省社会教育局芸術課長今日出海は依頼免本官となり、一二日新に檜垣良一が任命された。
各派各会の女流画家を網羅して女流画家協会が結成された。女流画家の地位の向上を目的とし選挙制による委員によつて運営し、二二年七月東京都美術館に於て自由出展制の公募展を開いた。
学校家庭一般社会に対する美術教育の普及徹底を目ざし、全国的な社会教育事業を行う財団法人美術教育会が二九日文部省の認可となり、寺内万治郎を理事長として発足した。
美術による観光日本の紹介宣伝のため観光美術協会が創立された。中沢弘光、石井柏亭、藤田嗣治、三宅克己が顧問、鶴田吾郎、向井潤吉らが理事となり運輸省、商工省が後援して、第一回展を二九日から一〇日間東京日本橋高島屋で開いた。
各新聞社美術担当記者の連絡と親睦を目的として美術記者クラブが二四日発会式を挙げた。
昭和一五年紀元二六〇〇年記念に一部展観された以外全く一般に公開されなかつた正倉院御物三三点が二一日から一一月九日まで奈良博物館で正倉院特別展として開かれた。非常な注目を集めて入場者は約一五万人にのぼつた。