講書始の御儀に滝博士御進講

1945年01月

恒例の講書始の御儀は一月十八日午前十時から天皇、皇后両陛下出御、御儀の間において行わせられたが、国書進講者の一人として東大名誉教授文学博士滝精一が挙げられ、「僧空海の画論と芸術」と、いう題目で三十分間御進講申しあげた。

(冒頭言)

1945年00月

昭和二十年に入り空襲はいよいよ激化し戦争も最後的段階に至つて、美術界の動きは殆ど停止状態となつた。大部分の作家は勤労動員により、また罹災、疎開などにより活動を妨げられ、資材不足も頂点に達してまとまつた制作等は全く不可能となつた。僅かに年頭、美術推進隊主催の軍需生産美術展の開催をみた位で、展覧会も殆ど開かれず、ことに工芸品等は有閑品として省みられなかつた。また資材の封鎖により彫刻、建築等の分野も何ら注目すべきものがなかつた。 八月十五日終戦以後事態は一変したが、一般に精神的な低迷はまぬがれず、本年中には徐々に活動の萌しが見えてきたにすぎない。連合軍の進駐後まもなく美術報国会が解散となつて統制から解放され、文部省による新しい官展の立案、旧二科会の復活、行動美術協会の結成などが見られたが、いずれも具体的活動は翌年廻しとなり、僅かに小規模の展覧会が二三開かれたばかりであつた。

新構造社解散

1944年11月

美術在野団体は二科をはじめ解散続出、解散せざるものも活動停止の状態となつたが、十一月六日には新構造社も解散、美報の一元化に協力することになつた。 

彫塑四団体の解散

1944年10月

彫塑界の中堅を網羅する日本彫刻家協会、日本木彫家協会、直土会、ならびに構造社の四団体も十月九日解散を声明、雨田光平、沢田晴広、安田周三郎、野村公雄の四名が各団体を代表して情報局に解散届を提出した。

旺玄社も解散

1944年10月

二科会の解消声明に引きつづき牧野虎雄の主宰する旺玄社も十二年の歴史を一擲し、十月七日解散の声明書を発表した。

各展覧会の中止

1944年10月

「美術展覧会取扱要綱」に従つて一般公募展は開催されず、院展、二科展、一水会、新制作派など秋の定期的な展覧会はすべて中止されることとなつた。

美報の課題制作

1944年10月

美術報国会では課題制作による展覧会の開催を議決していたが、その瀬踏みというべき十月同会主催の軍人援護美術展でこの方法を実行することになつた。課題は「軍人援護」で、一定数の美術家に出品を依頼する。

竹内栖鳳三周忌

1944年08月

栖鳳逝いて三年竹内家では八月二十三日の命日に三周忌を執行、遺族をはじめ竹杖会の人など、門人知人が打ちそろつて法要が営まれ、巨匠の足跡を偲びあつた。

再び芸術院会員の献納展

1944年07月

さきに催された戦艦献納展に対して今度は陸軍献納美術展が、七月十五日から月末までやはり表慶館で開催され、再び会員の力作が顔を並べることになつた。

新京美術院の催

1944年07月

新京美術院は日本美術文化の紹介のため昨年青竜社員の日本画制作を満州に紹介したが、第二回として現代日本油絵技術の趨勢を紹介することになり、和田英作藤田嗣治等二十数名に依嘱した新作を送り、七月から新京哈爾賓で展示会を催した後、関東軍に納めることとなつた。なお同院は四月初旬第三回留日研究生の成績展示会を催し、それらの作品も満州に送って七月から新京、哈爾賓、奉天、大連の諸都市を巡回展示することになつた。 小室翠雲金山平三中沢弘光梅原竜三郎安井曽太郎南薫造朝倉文夫平櫛田中

海軍記念日の幻灯展

1944年04b月

美術報国会では海軍記念日にも天然色幻灯で記録画展を催した。一流作家による海軍記録画を再び光村天然色写真研究所で幻灯板に拵えたもので、東宝系映面館で上映された。

林重義告別追悼会

1944年04月

四月十六日国画会では去月十六日逝去した会員林重義の告別追悼会を都美術館の国画会展覧会場で執行した。

軍需生産美術推進隊の結成

1944年04月

軍需生産の増強を美術で推進させようと油絵画家二八名、日本画家二名、彫塑家一四名、漫画家三名計四七名が軍需生産美術推進隊をつくり、四月八日軍需省で結成式を行つた。

戦争画の天然色幻灯展

1944年03月

美術報国会では三月十日の陸軍記念日の特別行事として、油絵の大家中堅十一名を煩わして特に制作した戦争画を光村天然色写真研究所において幻灯版に作成、これを関東関西の一流映画館で一斉に封切り上映した。

芸術院会員の献納作品展

1944年02月

戦艦献納の運動は各界に拡がつていたが、帝国芸術院会員の献納作品展が二月一日から一ヶ月間帝室博物館表慶館で催されることになり、横山大観の九点をはじめ各会員の力作が一堂に集つた。

美術資材受給者の査定

1944年01月

日本美術及工芸統制協会では美術各部門の資材配給に関し受給者の査定制を断行することになつていたが、一月二十六日石黒農商次官を委員長とする各部査定委員、および査定を要せずして甲種受給者の資材を与えられた作家一〇二〇名の氏名を発表した。その内訳は日本画二九五名、油絵四九四名、彫塑八九名、工芸一四二名で産業工芸だけは全部査定を経ることに決定した。但しこの決定は年々更新される。

美統内に伝統工芸部設置

1944年01月

日本美術及工芸統制会では工芸部の外に新に伝統工芸部を設置、美術工芸の国家公用性を強調し古代工芸の復原等を行うこととなり、学界美術界より代表的な権威四十七名に委嘱して一月二十一日初の委員会を催した。

有栖川宮記念学術奨励金受領者決定

1944年01月

有栖川宮の祭祀を継がせられる高松宮殿下には例年学術振興等の思召から有栖川宮記念学術奨励金ならびに同厚生資金を下賜あらせられるが、一月十五日本年度一月期の受領者が発表された。学術奨励金を受けた一人として前年度から引きつづきの立正大学講師逸見梅栄がある。研究題目は「満州国及び北支那における仏教礼拝像の図像学的研究」。

朝日文化賞贈呈式

1944年01月

昭和十八年度の朝日文化賞受賞者は一月十一日決定発表されたが、同賞贈呈式が二十五日朝日新聞東京本社貴賓室で行われた。美術部門では戦争記録画に優秀な技倆を発揮した二科会宮本三郎が賞をうけ、当日午後は児島東大教授等の来賓から各受賞者の功績を讃える記念講演会がされた。

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