小野竹喬

没年月日:1979/05/10
分野:, (日)

日本画家小野竹喬は、5月10日胃ガンのため京都市内富田病院で死去した。享年89。本名英吉。1889(明22)年11月20日岡山県笠岡市の小野才次郎の四男として生れた。1903年京都に出て竹内栖鳳の門に入った。1907年第1回文展に「山家の春」が初入選後、1909年には創立間もない京都市立絵画専門学校に入学した。在学中から新傾向の日本画を模索し、当時の旧芸術の行きずまりによる新しい芸術思潮や動向に強い関心をよせた。京都では1909年新帰朝の美術史家田中喜作や京都絵専教師の中井宗太郎等を中心に新しい芸術創造に主眼をおいたグループが結成されたが、そのうちの一つである黒猫会や仮面会の会員として竹喬も参加している。このような動向はやがて1918(大7)年土田麦僊村上華岳らにより日本画革新を目指し、反官展派として結成された國画創作協会の旗上げとして実を結んだ。竹喬は麦僊、華岳らとともにこの会の中心作家として活躍したが、1928年同会解散後は官展に復帰し、戦後は専ら日展を舞台に活躍した。作品は専ら風景画で、初期の後期印象派の影響を受けた明るく豊かな感覚的画面から、次第に平面清新な作風へと移行し、晩年は「奥野細道」をテーマに連作を続けた。明治以降日本画の近代化は多くの画家たちによってすすめられたが、竹喬の画業もその歩みは日本画近代化の歴史そのものであった。そして竹喬は、日本画界の最長老として、淡々とした画境を若々しい彩筆により表現した。日本芸術院会員。文化勲章受領。代表作「島二作」「冬日帖」「仲秋の月」「宿雪」「池」「奥の細道、句抄絵-象潟や雨に西施がねぶの花」ほか。

年譜
1889(明22) 11月20日、岡山県笠岡市に父小野才次郎母ハナの四男として生まれ、英吉と命名される。生家は浜中屋を屋号とする文具商であったが、のち、ラムネ製造業を始める。
1902 笠岡小学校高等科を卒業し、家業を手伝う。
1903 父の希望であった商人になることを嫌い、新劇俳優か、画家を志望する長兄益太郎(後に坪内逍遙の創立した文芸協会の第1回生として卒業)の勧めで画家になる決心をし、11月2日京都に出て、竹内栖鳳の門に入る。御幸町錦下ルの長兄の下宿に同居する。
1905 竹内栖鳳から「竹橋」の雅号をもらう。油小路御池西入ルの寺で自炊生活を始めたが、許可を得て、栖鳳宅寄宿生となる。間もなく土田麦僊も寄宿生となり、親交が始まる。日本美術協会展に「月宵」が入選する。
1906 4月、第11回新古美術品展に「夏の夕」を出品する。
1907 4月、第12回新古美術品展に「雨の木屋町」を出品、4等褒状を受ける。
10月、第1回文部省主催美術展覧会(文展)に「山家の春」を出品し、入選する。
1908 栖鳳寄宿室を出て、下河原の益太郎宅に寄宿したのち、9月、富小路上ルに間借りする。
4月、第13回新古美術品展に「春宵」を出品し、3等となる。
10月、第2回文展に「落照」を出品する。
1909 4月、土田麦僊とともに京都市立絵画専門学校別科に入学する。同科には他に野長瀬晩花がおり、本科2年には村上華岳榊原紫峰入江波光がいた。
同月、第14回新古美術品展に「花の山」を出品し、5等となる。
1910 4月、第15回新古美術品展に「暮るる冬の日」を出品し、3等となる。日の出新聞紙上で田中喜作に好評され、以後田中との親交が始まる。
12月、田中喜作を中心とする懇談会「黒猫会(シャ・ノアール)」結成に参加。会員は津田青楓黒田重太郎田中善之助、新井謹也、泰輝男、土田麦僊らであった。
1911 3月、京都市立絵画専門学校を卒業。卒業制作に「まつり」を出し、絵専美工校友会展で銀賞を得、学校の所蔵となったが、のちに仮面会展に出品した「南国」と取りかえる。
4月、黒猫会は展覧会を開くことになったが、会員間の意見の相違のため解散し、5月、黒田、新井、田中(善)、土田と共に「黒猫会」の発展として「仮面会(ル・マスク)」を結成する。その第1回展を京都三条柳馬場京都青年基督教開館で開き、「南国」「朝」を出品する。
10月、第5回文展に「港」を出品する。
1912 5月、第2回仮面会展に「紺屋の裏」「学校」「棕梠」を出品する。この後、同会は会員の多くが京都を離れ、自然消滅する。
同月、麦僊と共に知恩院山内崇泰院に移住する。
1913 4月、第18回新古美術品展に「南島-春夏秋冬」を出品する。
5月、岡山市郊外大供に移り、文展出品作を制作する。晩秋、再び上洛する。
10月、第7回文展に「麦秋」を出品する。
1915 10月、第2回院展に前年度文展の落選作「黍熟るゝ頃」を出品し、入選する。
居を粟田口三条に移す。
1916 10月、第10回文展に「島二作」を出品し、特選を受ける。
居を室知恩院山内林下町に移す。
1917 10月、第11回文展に「郷土風景」を出品したが鑑別される。居を室町出水上ルに移す。
1918 1月20日、京都倶楽部で「国画創作協会」の結成を発表(この後1月21日、東京上野精養軒でも発表)。
11月、第1回国画創作協会展(国展)を東京・白木屋で、引き続き京都・岡崎第一勧業館で開き、「波切村」を出品する。
1919 11月、第2回国展に「夏の五箇山」「風景」を出品する。
1920 11月、第3回国展に「海島」を出品する。
1921 10月4日、土田麦僊黒田重太郎野長瀬晩花らと共に神戸出航の賀茂丸にて渡欧の途につく。途中、香港、シンガポール、マラッカ、ボンベイ等を経て、11月16日、マルセーユに着き、アビニヨン、リヨンを見学し、同18日パリに到着、ノートルダム寺院に近いセーヌ河畔のオテル・ビッソンに投宿する。
1922 1~2月、イタリア、2月スペイン、3月イギリスを訪れ、4月5日帰国の途につき、5月20日に帰国する。帰国と同時に住居が、市電烏丸線の延長計画にかかり、立ち退きを迫られていることを知り、居を等持院南町に移し、アトリエを等持院北町に定める。
雅号の「竹橋」を「竹喬」と改める。
1923 11月、大阪毎日新聞社主催 日本美術展覧会に「村道」を出品する。
1924 11月、第4回国展に「春耕」を出品する。
3月、第5回国展に「長門峡」を出品する。
1926 5月、第1回聖徳太子奉讃展に「八瀬村頭」を出品する。
1927 4月、第6回国展に「青海」「波涛」を出品する。
1928 4月、第7回国展に「冬日帖」を出品する。
7月28日、東京・帝国ホテルで国画創作協会第1部(日本画)の解散を発表。
11月、国画創作協会第1部会員ら26名によって設立された、新樹社の賛助会員になる。
1929 9月、帝国美術院推薦となる。
10月、第10回帝展に「山」を出品する。
1930 10月、第11回帝展に「風浪」を出品する。
7月、翌年1月、ベルリンで開催される日本美術展の国内公開展に「冬の室戸岬」を出品する。
1931 等持院北町に移転する。
1932 10月、第13回帝展に「立獅子峡」を出品する。
1933 10月、第14回帝展に「はざまの路」を出品する。
11月、竹内栖鳳の主宰する竹杖会が解散する。
1934 5月、大礼記念京都美術館美術展覧会に「出靄」を出品する。
1935 4月、春虹会(京都の帝展系作家16名に院展の冨田溪仙を加えた17名を会員として組織される)第1回日本画展に「稲」を出品する。
10月、帝展出品無鑑査の指定を受ける。
1936 9月、新文展審査委員に任命される。
11月、新文展招待展に「室戸岬」を出品する。
1938 4月、第3回京都市美術展覧会に「雪後」を出品する。
1939 10月、第3回文展に「清輝」を出品する。同作品は京都市美術館に買上げられたが、終戦後の同館接収時に行方不明となる。
1940 2月、大阪・高島屋にて個展を開催。「山峡の月」「溪潤」「帰樵」「洛北の春」「奈良早春」「喧春」「春霞」「深春」「富嶽」「松巒」「蔬菜」「石榴」「早晨」を出品する。
7月、京都・佐藤梅軒画廊で入江波光小野竹喬榊原紫峰新作展が開かれ、「清宵」「層巒」「秋霽」「春暁」を出品する。
9月、都市と芸術社主催、池田遙郎・小野竹喬山水画新作展が東京・銀座資生堂で開かれる。大阪毎日新聞社主催紀元2600年奉祝美術展覧会の審査員になる。
1941 5月、第6回京都市展に「晴日」を出品する。
9月、第4会文展審査員を委嘱される。
1942 5月、岡山県の依頼で同県護国神社本殿用四季山水屏風を完成奉納する。
11月、第1回十宜会展を東京・日本橋三越で開催(同会は京都作家10氏の会)
1943 10月、第6回文展に「冬」を出品する。同作品を政府に買上げられ、ラウレル・フィリピン大統領に贈られた。
1944 7月、平安神宮御鎮座50年、平安遷都1150年奉祝京都市美術展覧会に「月」を出品する。
11月、文部省戦時特別美術展に「太平洋」を出品し、京都市に買い上げられる。
1945 11月、第1回京都市主催美術展覧会(京展)に「新冬」を出品する。
1946 9月、第2回日展の審査員を委嘱される。
1947 3月、京都市美術専門学校教授となる。
4月、帝国芸術院会員となる。
6月、第3回京都市美術展覧会に「麓」10月、第三回日展に「仲秋の月」を出品する。
1948 9月、第4回日展の審査員を委嘱される。
10月、第4回日展に「新秋」を出品する。
1950 4月、京都市美術専門学校が新制大学の京都市立美術大学として新発足し、その教授となる。
1951 6月、第7回日展の審査員を委嘱される。
10月、第7回日展に「奥入瀬の渓流」を出品する。
1952 10月、第8回日展に「雨の海」を出品し、国立近代美術館に買い上げられる。
1953 6月、第9回日展の審査員を委嘱される。
10月、第9回日展に「夕空」を出品する。
11月、京都市立美術大学教授を依願退職し、以後非常勤講師となる。
1954 1月、第5回秀作美術展に「雨の海」が出品される。
2月、東京・上野松坂屋にて「契月、翠嶂、竹喬」日本画展を開催される。
7月、国立近代美術館で「大正期の画家」展が開催され、「島二作」が出品される。
1955 1月、第6回秀作美術展に「夕空」が出品される。
6月、第11回日展の審査員を委嘱される。
日展参事となる。
10月、第11回日展に「深雪」を出品する。
1956 5月、第8回京展に「残照」を出品する。
6月、第12回日展の審査委員を委嘱される。
10月、第12回日展に「高原」を出品する。
1957 1月、第8回秀作美術展に「深雪」が出品される。
7月、東京・銀座松屋にて「小野竹喬写生展」(朝日新聞社主催“スケッチ展シリーズ”第11輯)を開催、「高原」など30点を出品する。
9月、京都府ギャラリーにてスケッチ展を開催。
1958 3月、社団法人日展の発足にあたりその常務理事となる。
5月、第10回京展に「木」(スケッチ)を出品する。
11月、第1回日展に「山月」を出品する。
1959 11月、第2回日展に「曇り日の海」を出品する。
1960 4月、東京・日本橋三越にて「小野竹喬日本画展」を開催。
6月、日本中国文化交流協会・朝日新聞社共催の「日本現代画展」が中国各地で開催され、「高原」が展示される。
9月、文部省、毎日新聞社主催明治・大正・昭和美術秀作展に「高原」が選ばれる。
11月、第3回日展に「夕映」を出品する。
1961 11月、第4回日展に「樹」を出品する。
1962 1月、現代画壇の20人展に「深雪」を出品する。
4月、現代美術京都秀作展に「夕映」が選ばれる。
5月、第5回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「ヨウシュヤマゴボウ」を出品する。
5月、第14回京展に「冬樹」を出品する。
11月、第5回日展に「残照」を出品する。
1963 9月、国立近代美術館の「近代日本美術における1914年」展に「島二作」が出品される。
11月、京都市美術館の国画創作協会回顧展に「波切村」「海島」「冬日帖」が出品される。
1964 1月、郷土出身芸術院4人展が岡山県総合文化センターで開催され、「雨の海」「深雪」「山月」「黎明」「彩秋」「夕映」「樹」「雲」「ヨウシュヤマゴボウ」「比叡」が出品される。
1月、第15回記念秀作美術展に「残照」が選ばれる。
4月、現代美術京都秀作展に「残照」が出品される。
7月、昭和31年より38年まで続けられた朝日新聞主催の「スケッチ展シリーズ」完結記念の「50人画家展」が東京・銀座松屋で開かれ、「茜」を出品する。
7月、国立近代美術館の「京都の日本画-円山応挙から現代まで-」展に「波切村」が出品される。
11月、第7回日展に「洩れ日」を出品する。
1965 11月、第8回日展に「夕雲」を出品する。
京都の日本画展に「洩れ日」を出品する。
1966 1月、現代美術京都秀作展に「洩れ日」が出品される。
2月、毎日新聞に随想「絵画十話」を20回にわたり、連載する。
6月、東京・高島屋にて「喜寿記念小野竹喬展」(毎日新聞社主催)が開催され、自選38点(大正2~昭和41年)が展示される。
9月、三彩社より『小野竹喬作品集』が刊行される。
11月、第9回日展に「宿雪」を出品する。
11月、岡山県笠岡市の名誉市民章を受ける。
1967 6月、京都国立近代美術館の「近代日本画の名作」展に「冬日帖」「残照」が出品される。
11月、第10回日展に「池」を出品する。
1968 5月、第8回現代日本美術展に「夕茜」を出品する。
11月、文化功労者の表彰を受ける。
1969 5月、京都市美術館において京都市主催「小野竹喬回顧展」が開催され、自選53点(大正2~昭和44年)、スケッチ50点(うち、滞欧作5点)が展示される。
11月、勲二等に叙せられる。
1970 4月、大阪・大丸の「日本巨匠20人展」(毎日新聞社主催)に「池」「宿雪」「夕茜」が出品される。
11月、第2回日展に「沼」を出品し、京都市に買い上げられる。
1971 9月、「天皇の世紀」原画展が東京・銀座吉井画廊新館で開催され、80点を出品する(朝日新聞連載、大佛次郎原作「天皇の世紀」の原画)。
11月、兼素洞主催小野竹喬画展が開催され、8点を出品する。
日本橋三越主催の彩交会展は6名の会員中2名死去したため、24会は新作展ではなく会員自選による回顧展となり、第17回出品の「湖山早春」と第22回出品の「晨」を出品する。この年、中央公論美術出版より『竹喬挿画』を刊行する。
1972 4月、第24回京展に「交叉」(のち「樹」と改題)を出品する。
11月、第4回日展に「1一本の木」を出品する。
1973 9月、東京国立近代美術館の「開館20年記年現代の眼-近代日本の美術から」展に「雨の海」「山月」が出品される。
10月、京都市名誉市民の称号を受ける。
10月、岡山・高島屋で「小野竹喬展」(山陽新聞社主催)が開催される。
10月、笠岡市市民会館の緞帳の原画「朝の海」完成。
11月、東京・銀座松屋にて「竹喬素描展」が開催される。
11月、京都市美術館の「開館40年記念昭和期における京都の日本画と洋画」展に「冬日帖」「夕映」「沼」が出品される。
1974 4月、日本の四季・山本丘人との2人展(“日本の四季シリーズ”第1回)が北辰画廊にて開催される。
5月、26回京展に「阿蘇火口」(スケッチ)を出品する。
11月、第6回日展に「樹間の茜」を出品する。
昭和19年、戦時特別展に出品し、京都市に買い上げられた「太平洋」を改作し、「海」として京都市美術館に納める。
1975 2~3月、東京、大阪の三越で「画業60年記念小野竹喬展」(読売新聞社主催)が開催され、大正初期より昭和49年にいたる53点の主要作品と34点のスケッチを出品する。
3月、京都・朝日画廊の開廊記念展として「小野竹喬墨彩画・スケッチ展」が開催される。
4月、東京・銀座資生堂ギャラリーで「小野竹喬の画室展」(「作家のアトリエ」シリーズ)が開催される。
5月、「奥の細道句抄絵」制作のため、山形県にスケッチ旅行し、最上川上流の隼、碁点にまで足をのばす。
9月、2度目の「奥の細道」取材のため、単身、山形県及び秋田、新潟へ旅行する。
1976 4月、山種美術館開催の「第2回現代日本画の10人展」に「春の湖面」「川の辺り」「京の灯」「樹間の茜」を出品する。
山種美術館10周年記念展に「冬樹」を制作する。
6~7月にかけて、朝日新聞社主催「奥の細道句抄絵展」を東京・大阪・京都・岡山の高島屋で開催する。
11月、文化勲章を受章する。
12月、心筋梗塞のため京大病院に入院する。
1977 3月末、退院。
6月、奥の細道ゆかりの酒田市本間美術館で「奥の細道句抄絵展」が開催される。
10月、米寿記念『小野竹喬画集』が朝日新聞社より刊行される。第9回日展に「沖の灯」を出品する。
1978 3月、京都・朝日画廊で「小野竹喬墨彩展」を開く。
4月、山種美術館開催の「第3回現代日本画10人展」に「奥の細道句抄絵」より「田1枚」「笠嶋は」「涼しさや」「象潟や」「あかあかと」「暑き日を」が出品される。
9月、白浜に転地療養する。
10月、京大病院に入院、11月に退院する。
1979 1月、冨田病院に入院する。
4月、求龍堂より随筆集『冬日帖』が刊行される。
5月10日胃癌のため、冨田病院で死去する。
12日、自宅で密葬が行われ、5月22日北区の上品蓮台寺で告別式が行われ、同寺に葬る。法名・実相院殿覚法竹喬大居士。
(小野竹喬遺作展図録に拠る。)

出 典:『日本美術年鑑』昭和55年版(274-278頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「小野竹喬」『日本美術年鑑』昭和55年版(274-278頁)
例)「小野竹喬 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9587.html(閲覧日 2024-04-25)

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