第二回日展開催
1946年10月機構改革にも抱らず論議の多い中に、文部省主催第二回日本美術展覧会が一六日から一一月二〇日まで東京都美術館で開かれた。
機構改革にも抱らず論議の多い中に、文部省主催第二回日本美術展覧会が一六日から一一月二〇日まで東京都美術館で開かれた。
帝国芸術院第一部会員富本憲吉は九日芸術院会員を辞任した。
在野団体から公選された日展審査員のうち、病気又は日展反対の立場から第二部洋画の金山平三、坂本繁二郎、須田国太郎、小磯良平、山本鼎、第三部彫塑の雨宮治郎、加藤顕清の七名が辞退し、次点者を繰上当選とした。洋画と彫塑の両方に当選した石井鶴三は洋画審査員だけを受諾した。
九月二七日の総会で新しい規約による新会員が内定し一日公表された。第一部では日本画の福田平八郎、奥村土牛、野田九浦、洋画の辻永、工芸の松田権六が選ばれた。
帝国芸術院では九月二七日戦後初めての総会を開き会則の一部を改正し一日発表した。新しい規約は第三部の音楽、雅楽、能楽の他に演劇、舞踊を加へることと会員の補充は各部門毎に会員の選挙によるいう二点である。
日本美術出版株式会社より日本画を専門とする月刊美術雑誌「三彩」が今月から創刊された。
明治三八年創刊された美術雑誌「みづゑ」は「美術」等と改題されて発刊されていたが、今月から「みづゑ」の名称に復した。
美術の鑑賞と研究を通じ美術普及を目的とする帝室博物館談話会が同館の事業の一つとして設立された。
二七日の議会で政府から芸術関係政策の立案・管理を行う文化建設本部、文化院設置案が提出され論議された。
美術の振興普及と美術行政の民主化のために具体策を政府へ建言し、その実現を促進するいう目的で美術行政審議会が二一日衆議院内で創立総会を開いた。貴衆両院の各派代議士と新聞通信関係者によつて構成されている。
改革案を示し全美術団体に参加を求める日展に対し、在野団体のうち青竜社、行動美術協会、新制作派協会、独立美術協会などは不参加を決定、日展不参加協議会を開いて在野各方面に呼びかけた。
第二回日展を前に官展の改革案が四日文部省から発表された。要点は無鑑査の廃止、審査員の公選、審査の公開等である。
二科会では八月三一日総会を開いて官展に参加せずといふ規約削除を決議し、日展参加問題をめぐつて分裂した。あくまで反官展を唱へる林是、西田明史、松村外次郎、渡辺義知、名井万亀の不参加組は二日声明書を出した。これに対して民主化した日展には参加するといふ態度をとる東郷青児、高岡徳太郎等は三日不参加組を除名し声明書を発表した。
財産税の実施によつて国宝や重要美術品も課税の対象となり、個人所有のものなどは転売等によつて保存上支障を来す恐れがあるので、文部省、国宝保存会等では大蔵省、国会等に働きかけ減税をはかつたが不可能となつた。
大正一三年四月創刊されて以来続いて来た美術雑誌「アトリヱ」は一時「生活美術」と改称され、その後中断されていたが今月より再び「アトリヱ」として復刊した。
戦時中結成された日本美術及工芸統制協会は二三日解散した。
前文部大臣安部能成は帝室博物館総長に就任した。
戦後始めての国宝保存会が二三日開催され、川越の喜多院、東京の寛永寺清水堂、浅草寺二天門など十件の建造物が国宝に指定され、八月九日発表された。