第二回泰西名画展開催
1948年02月読売新聞社主催の第二回泰西名画展が二五日から三月一五日まで東京都美術館において開催され、さらに同一七日から二六日まで国立博物館表慶館において続開された。
読売新聞社主催の第二回泰西名画展が二五日から三月一五日まで東京都美術館において開催され、さらに同一七日から二六日まで国立博物館表慶館において続開された。
飛行機長故で斃れた対日理事会議事アチソン大使の遺族に平和の鐘楼建立会から一三日漆工蒔絵額面が贈られた。東京美術学校教授松田権六の制作によるものでアチソン大使追悼の楽譜と菊野草を蒔絵したもの。
美術雑誌「美之国」の復刊第二巻第一号が発行された。大正一四年創刊されて以来美術雑誌として著実な地歩を占めて来たが、昭和一九年「日本美術」と改題、さらに休刊に至り、二一年一二月復刊第一号を出したが続かず、こんど復刊第二巻第一号を出した。
日本美術出版株式会社から月刊美術雑誌「美術手帖」が創刊された。
年一回新進画家中の優秀作家に贈られる一灯賞の第一回(二二年度)は安井曽太郎の推薦による一水会の奥田郁太郎に決定した。
二月アメリカのフイラデルフイヤ美術館で開かれるマチス作品展に、大原美術館所蔵のマチスの作品が出品されることに決定し、二八日アメリカ船で送り出された。「マドモアゼル・マチスの像」と「エトルタ海岸」の二点である。
世界性に立脚する日本絵画の創造を目ざし、東京と京都の日本画家が呼応して、在野日本画団体創造美術が二六日結成された。東京側では山本岳人、吉岡堅二、福田豊四郎、橋本明治、加藤栄三、高橋周桑、京都側では上村松篁、菊池隆志、向井久万、奥村厚一、秋野不矩、沢宏靭、広田多津が創立委員となり、九月東京都美術館で第一回展を開いた。動きの少い日本画壇に清新な息吹を吹きこむものとして美術界の注目を集めた。
二〇日から二月五日まで銀座三越で新着のフランスの画集などから集めたフランス絵画複製展が開かれた。久しく途絶えていた海外美術の渇を医すものとして注目された。
横山大観は二〇日東京駅に「霊峰富士」の絵を寄贈した。同駅貴賓室に掲げられることになつた。
昭和一九年一二月から閉鎖していた明治神宮聖徳記念絵画館は一〇日から再開した。
終戦から二二年八月一四日迄の出版物を対象とした本年度の毎日出版文化賞が二〇日決定した。美術関係では小林太市郎著全国書房発行の「大和絵史論」が選ばれた。
一六日国宝保存会総会が開催されて、絵画二六件・彫刻三二件・文書典籍八六件・刀剣一七件・工芸一三件・建造物二〇件、合計一九四件の国宝が指定され、二〇日文部省から発表された。財産税で国庫に物納された御物の普賢菩薩像なども含まれて居り戦後始めての国宝指定である。二一日から五日間国立博物館で新国宝の展観を行つた。
千葉県検見川の草炭採掘場遺跡からは土器などの資料が発掘されていたが、慶応大学松本延広らによつて一四日古代丸木舟が発掘された。
国宝保存法は昭和四年制定されたまゝで実情とのずれを来しているので、文部省・国立博物館などで再検討の気運が高まつて来た。
全国印刷工業協同組合の第一回印刷技術賞が決定し、一二日授賞式が行われた。第二部の絵画・写真などを主とした印刷物で毎日新聞社発行便利堂印刷の国華百粋が一等に凸版印刷のポスターSilk Fairが二等に選ばれた。
日本美術会の主催によつて初めての試みで自由出品制をとる第一回日本アンデパンダン展が九日から一八日迄東京都美術館で開催された。
埼玉県入間郡柳瀬村の財団法人柳瀬文化館が解散し、国宝法然上人絵伝・三六歌仙住吉社頭図や重要美術品の小栗宗湛水墨山水・有楽井戸茶わんなど一切が土地建物と共に元東邦電力社長松永安左衛門から国立博物館に寄贈された。
帝国芸術院は四日政令によつて名称を日本芸術院と変更した。
全国洋画商の有志が集り、美術親和会が結成され、同業組合として出発した。