全国美術教育連盟結成
1946年07月美術教育の検討拡充を計画して中等師範学校の美術教育関係者による全国美術教育連盟が二一日創立総会を行つた。
美術教育の検討拡充を計画して中等師範学校の美術教育関係者による全国美術教育連盟が二一日創立総会を行つた。
文部省では国宝二九三件、重要美術品一三四件史跡名勝天然記念物四四件の罹災数を一日発表。
輸出をめざしてわが国の美術及び工芸品の基準を確立するため第一回日本美術及工芸交易振興展覧会が東京都美術館で二八日から七月八日まで開かれた。日本美術及工芸品株式会社主催、貿易庁後援によるもので、第一部産業工芸、第二部第一類日本画、第二類洋画、水彩、版画、第三類彫刻、第四類工芸美術にわけて公開された。
帝国学士院では二一日欠員の補充を決定し、故滝精一の補欠として上野直昭が推薦された。
旧プロレタリヤ美術作家同盟の作家一一名によつて東西美術文化の交流による綜合レアリズムの確立をめざして現実会が結成され、六月六日より二五日まで第一回展が東京都美術館で開催された。
大衆芸術の前進を目的として新日本芸術家聯盟が三日発会式を挙げた。石井柏亭、大仏次郎らが理事に選ばれた。
早稲田大学文学部に芸術学科が新設され、演劇、映画を主として美術音楽に関する講座を併置した。
二六、七の両日しばらく中止していた法隆寺保存協議会が開かれ法隆寺解体復原工事について種々協議した。
作家相互の研究及後進指導の目的をもつて東京に水彩聯盟研究所が開設された。
上野の東京美術学校に今年始めて女子学生の入学が許可され、三五名が試験に合格入学した。
東京都美術館で開催中の第二〇回国画会展の梅原竜三郎二〇年史室に陳列されていた「雪?」が二七日朝盗まれたが、三〇日犯人の画家が検挙され作品は無事にかえつた。
美術界の民主化をめざして内田巌、硲伊之助、福田豊四郎、本郷新ら各派の進歩的美術家によつて日本美術会が結成され、二一日自由学園に於て発会式を挙げた。
日本に於ける前衛運動の集りとして、豊島与志雄、中島健蔵、村山知義、猪熊弦一郎等によつて火の会が結成された。二〇日銀座実業之日本社に於て風変りな発会式を挙げて注目をあびた。
帝国学士院では一二日総会を開き会員の補充、二一年度恩賜賞等を決定したが、美学の大西克礼が第一部会員に推薦決定し一六日発表された。
戦時中奈良、京都等の爆撃を防ぐのに努力したと伝えられるアメリカの著名な東洋美術研究家ラングドン・P・ウオーナー博士は聯合軍総司令部民間情報部教育局美術記念物課顧問として四月一一日来朝した。一九日記者団会見を行い、日本美術に対する見解を述べ、五月には京都奈良を視察、古美術に対する保護公開政策に助言を与えて八月一七日帰国した。
牧野虎雄を主宰者とした旺玄社は昭和一九年に解散したが、旧同人その他により組織を新にし旺玄会を結成した。
帝室博物館は昭和二〇年三月以来閉館していたが、新たに内容を整へて二四、五日の招待日の後、二六日から再開した。
二科会ではこれまでの参与、評議員の制度をやめ単一会員制とし、又新に千宗左、千宗室、勅使河原蒼風、山脇巌等を迎へて工芸部を、北園克衛、植村鷹千代等を迎へて理論部を新設した。
従来の文展に代つて文部省主催第一回日本美術展覧会が三月一日から三一日まで東京都美術館で開催された。京都側の日本画作家達は材料、期日の不足を理由として出品しなかつた。審査員には芸術院会員が当り、従来の無鑑査をやめ、無鑑査の資格を芸術院会員と今までの帝文展の委員又は審査員に限つた。同展開催中に第四部工芸彫金大木秀春作桜花文煙管が盗まれ、文展開催以来始めての盗難として話題になつた。