法隆寺五重塔に鉄骨
1949年08月解体修理工事中の法隆寺五重塔は来月立柱式を行う予定で二二日工事事務所では一層から三層までは力肘木、尾垂木にそれぞれ幅二四糎、厚一五糎の鉄骨を入れ、外観は木造と変わらぬように再建することを決めた。
解体修理工事中の法隆寺五重塔は来月立柱式を行う予定で二二日工事事務所では一層から三層までは力肘木、尾垂木にそれぞれ幅二四糎、厚一五糎の鉄骨を入れ、外観は木造と変わらぬように再建することを決めた。
芸術院会員横山大観は一日付で辞表を出した。「老齢のため」という理由だが、日本芸術院では善後策を協議した。
法隆寺火災につき調査を進めていた奈良地検では慎重に検討した結果を大阪高検を通じて最高検に報告、処置方の指示を仰いでいたので、最高検では九日左の四名を業務上失火罪および電気事業法違反で起訴することに決め奈良地検へ通達した。 △法隆寺国宝保存工事事務所長大岡実△同建築技師浅野清△法隆寺庶務主任小西武彦△電気座蒲団製造業者株式会社三京社専務取締役井上渉。
文化、教育関係の税の減免運動が猛烈に行われていたが、文部省では次国会を目ざして検討を開始し、参議院文部委員会でもこの問題を取上げ、一三日文部省関係者を招いて協議した。
既成所属団体を離脱せずに自由な雰囲気で製作の純粋を守ろうとする一種のクラブのような東京会が発足した。世話人は林武、土方定一、今泉篤男、野口弥太郎、田近憲三等の一九名。
二六日国立博物館講堂に、美術家約三五〇名が集り、日本美術家連盟の結成大会をひらいた。美術に関する著作権の確立、法規の改善、資材向上、生活擁護などを目標とし、左の役員を決定した。 〔会長〕安井曽太郎〔理事長〕伊原宇三郎〔会計監督〕益田義信〔事務局長〕三田康〔委員〕日本画一一名、洋画三〇名、彫刻九名
九日日本学士院で芸術院第一部会がひらかれ、つぎの事項を協議決定した。 一、日本美術展覧会運営規則 二、日本美術展覧会運営規則に基き、会長を決定、ひきつゞき会員の互選で理事および常任理事を決定 〔会長〕高橋誠一郎〔理事〕○松林桂月、○野田九浦、中村岳陵、福田平八郎、○辻永、○山下新太郎、石井柏亭、川島理一郎、○朝倉文夫、○北村西望、藤井浩祐、斎藤知雄、○松田権六、○海野清、○尾上柴舟、豊道春海(○常任) 三、第五回日本美術展覧会規則決定 四、第五回日本美術展覧会審査員および出品依嘱者を選定
運送店主谷中田国雄は七日から一四日まで都美術館で行われた第一回日本彫刻家連盟展の作品運搬を無料で奉仕し、七日同連盟から感謝状が送られた。なほ同展では岸旗江など映画女優をモデルに公開制作を行つた。
久しく待望されていた美術史学会が東西学界の連絡なつて二五日成立した。会長をおかず、常任委員として左の十名が選挙された。 〔東京〕太田博太郎、小杉一雄、富永惣一、蓮實重康、土方定一、吉川逸治、米沢嘉圃 〔京都〕梅津次郎、亀田孜、長広敏雄。
五日午前一時ごろ北海道松前町役場から発火し、天主閣に飛火して国宝松前城が焼失した。わずかに追手門が残つた。
五日明大考古学教室では横須賀市若松町四五の平坂貝塚を発掘し、縄文石器時代最古の稲荷台式土器や同系の人骨を確認した。
帝国芸術院から名称を変更した日本芸術院は、一日政令第二八一号日本芸術院令の制定によつてその機関となつた。旧日本芸術院官制は同日廃止された。
一日文部事務官檜垣良一は日本芸術院主事を免ぜられ、新に芸術課長犬丸秀雄が主事を命ぜられた。
二五日文部省では芸術院会員総会につゞき午後第一部会を開催、本年度の美術展覧会は日本芸術院と会員有志によつて組織される日展運営会との共催のもとに開催すること等を協議した。
二七日国宝保存会議がひらかれ、建築(法隆寺金堂、五重塔など二八件)の修理補助費六九三七万二千円、宝物(七件)の修理補助費二二〇万五千円を交付することを可決した。
政府は三〇日の閣議で文教審議会委員として、鈴木大拙、長谷川如是閑、馬場恒吾、安倍能成、高橋誠一郎、板倉卓造、鈴木文史朗、天野貞祐、和辻哲郎、仁科芳雄を決定した。
天皇、皇后両陛下は一三日都美術館で第三回美術団体連合展を御覧になつた。
火災によつて世界の注視をあつめた法隆寺の文化財を展観する法隆寺文化展が一五日から六月一四日までひらかれた。壁画模写も焼けのこつた分が初めて公開された。
博物館、動物園に入場税をかけようという地方財政法一部改正案が一一日国会に提出されるというので、関係者間に猛反対が起り署名運動や国会陳情デモが行われた。動物園のお猿もこのデモに参加した。