国立博物館「友の会」発会
1949年03月美術の鑑賞と研究に関心をもつ人々と博物館を結びつける国立博物館「友の会」がつくられた。会費半年二〇〇円で、種々の特典があたえられた。
美術の鑑賞と研究に関心をもつ人々と博物館を結びつける国立博物館「友の会」がつくられた。会費半年二〇〇円で、種々の特典があたえられた。
法隆寺金堂壁画の模写は戦前から続行され完成も近くなつていたが、火災のため頓挫したのを一八日から記憶の薄らがぬうちにと着手、まず入江組がトップを切つた。橋本組、荒木組もこれにつゞき、五月完成の目標が立てられた。
浮世絵研究家高見沢忠雄は鈴木春信、喜多川歌麿などの浮世絵三百点余の捜査方を京都五条署に願い出た。保管していた牛山充コレクシヨンが借出され所在不明となつたものである。
読売新聞社主催の第一回日本アンデパンダン展が一一日から三月三日まで都美術館でひらかれた。パリのアンデパンダン展事務総長ヴイジエーや劇作家ヴイルドラツクなどの激励の辞も伝えられた。
第二紀会員橋本徹郎が前年東京都現代美術展に出品した「地下道」が中央区室町二の八喫茶店ケルクに貸されたところ、わいせつ画だというので京橋署に歿収され、十六日橋本徹郎は地検刑事部に呼出され、取調べをうけた。
一日日本芸術院新会員候補者として宇野浩二他六名が推薦され、四月一日発令された。こんどの会員には第一部(美術)はふくまれなかつた。
新制作協会ではこんど日本の美術団体としては初めて建築部を新設し、池辺陽、岡田哲郎、吉村順三、谷口吉郎、丹下健三、山口文象、前川国男の中堅建築家を会員に迎えた。
前年末、猪熊弦一郎、高野三三男所有のマチス、ユトリロ、ルノアールの作品三点がルノアール画廊開設につき貸し出されたところその後行方不明となり、二八日両名により告訴された。事件は次第に拡大し翌月関係者の送検が行われ、画商の存在が賑やかな社会問題となつた。
本年はフランシスコ・ザビエルが日本布教に訪れてから四百年になるので、各地に国際的な記念行事が企てられたが、ゆかりの地山口市金小曾大道寺の大十字架にザビエルの浮彫がはめられることになつた。原型は河内山賢祐の製作。
漆器を海外に宣伝するため漆器業界を代表してマルニ工業漆器製作所長二瓶初太郎は二二日渡米した。総司令部のニユーヨーク貿易事務所技術顧問として金属漆器、木地漆器二百種を携行、アメリカ各地に宣伝を図つた。
二六日午前七時二〇分出火を発見し、同九時五分に鎮火したが、この火災で世界に知られた貴重な壁画をはじめ内陣のほとんどが全焼し黒こげとなつた。法隆寺国宝保存協議会と同壁画保存調査会の合同対策協議会は二月五、六日ひらかれ、金堂は二六年、五重塔は二五年完成予定で修理を続行すること、壁画模写の焼失部は二年以内に補写するなど六項目を決定、さらに二月二八日の国宝保存会議で応急処置として二三年度内に五〇万円の補助をするなど二項目に決定した。
総司令部のバンス博士は二一日ユネスコ事務所を東京に設置することを総司令部が許可したむね発表した。
中小企業庁では工芸指導所と共催で中小企業の振興をはかるため二一日から二九日まで日本橋三越で、中小企業振興工芸展をひらいた。第一部は一般公募の産業工芸品、第二部は研究実施成品、第三部資料と統計。
アメリカの漫画評論家、ベテイ・ベツツがきて「ベツツさんの日本見物」第一回を読売新聞に発表した。
十七日、前年五月阿倍能成辞任以来空席であつた国立博物館長に上野直昭を推すことを評議員会が決定した。
同会議の第一回初顔合せは二〇日日本学士院でひらかれ、会長に亀山直人、副会長に我妻栄(人文科学)、仁科芳雄(自然科学)が選出された。
日本滞在十年におよぶコンラツド・メイリは十三日夫人山田菊子とともにスイスに立つた。