登呂発掘に三〇万円

1949年04月

日本学術会議では二七日上野の日本学士院で、開かれた第三回総会で、研究費予算の中から三〇〇万円を登呂発掘事業の経費として支出することを決定した。

装幀美術展ひらく

1949年04月

博報堂内装幀相談所主催、出協、自由出協、小売全連後援の装幀美術展が二二日から一週間日本橋三越でひらかれた。なほこの会で一九四八年度装幀賞がきまつた。

皇居貝塚の発掘

1949年04月

皇居内の貝塚発掘が一一日東大人類学教授鈴木尚ら八名の手で行われた。

文化財保護法国会へ

1949年04月

従来の国宝保存法を改正し、さらに範囲を拡大する案が参議院文部委員会文化小委員会の手で作成され、一九日試案の検討を終了した。しかし本会議は審議未了で保留となつた。

宋版義楚六帖紛失

1949年04月

東福寺蔵の中国日本を通じて唯一とされる宋版義楚六帖が一昨年来行方不明となつている旨、七日京都松原署に屈出られた。

画商事件解決

1949年04月

画壇の話題となつた名画横領故買事件は時目清、坪田吾六の検挙に進んだが、話し合いがつき告訴が取下げられた。

現代日本美術巡回展決る

1949年04月

文部省では現代日本美術の代表作をあつめて国内一〇都市に巡回展をひらくことを企劃し今年度から予算三五〇万円で実施することとなつた。前年行われた近代日本美術展が、初期文展以来の文部省買上作品を主としたのに対し、今回の企劃は現代作家の作品を主眼とするもので二四年から四ヶ年の継続事業となつている。

博物館長に上野直昭

1949年04月

約一年空席であつた国立博物館長に東京美術学校長上野直昭が就任することに決り、六日発令された。依つて館長事務取扱にあつた柴沼直は同日被免となる。

藤田嗣治渡米

1949年03月

芸術院会員藤田嗣治は「日本画壇も国際的水準に達することを祈る」の言葉を残して、一〇日午後六時五〇分羽田発のパン・アメリカン機で渡米した。ニユーヨークなどの美術学校教授として招かれたものだが、フランス入国の許可も受けている。

延暦寺の一部焼失

1949年03月

比叡山延暦寺の境内山上の五智院から二六日午前八時発火、本堂、つり鐘堂、倉庫を焼いた。

東京芸術大学発足

1949年04月

東京美術学校は東京音楽学校とともに新制の東京芸術大学の一学部となり、一日から発足した

文部次官の辞任

1949年03月

文部次官井出成三は法隆寺出火の責任を負つて四日辞表を出した。後任は伊藤日出登。

史跡名勝天然記念物調査会開催

1949年03月

同会では新たに指定または解除すべき史跡名勝天然記念物について審議中だつたが、五日新指定五九件と解除八件を文部大臣に答申した。安政元年アメリカ総領事ハリスが初めて領事館旗を掲げた玉泉寺なども含まれる。

官費の日展はとりやめ

1949年03月

官展としての日展開催は前年から問題となつていたが、この種の展覧会に国費を使う点が反対意見を生み、文部省では二四年度予算面から日展経費二〇〇万円を削除しこゝに明治四〇年以来の官費による展覧会は一応終止付をうつことになつた。なほこのため日展を継続するかどうか各方面で論議された。

松山城の焼失

1949年02月

二七日法隆寺についで松山城の筒井櫓、筒井門が全焼、隠門同櫓戸無門を半焼した。昭和一〇年国宝に指定されていたものである。

to page top