梅原安井自薦展ひらく
1949年05月梅原竜三郎・安井曽太郎の自薦による作品約一五〇点の展観が毎日新聞社の後援で一一日より三〇日まで銀座松坂屋でひらかれ非常な好評であつた。
梅原竜三郎・安井曽太郎の自薦による作品約一五〇点の展観が毎日新聞社の後援で一一日より三〇日まで銀座松坂屋でひらかれ非常な好評であつた。
日本学術会議では二七日上野の日本学士院で、開かれた第三回総会で、研究費予算の中から三〇〇万円を登呂発掘事業の経費として支出することを決定した。
芸大教授脇本十九郎は三〇日国立博物館次長に任命された。同一一月一一日に免官。
創元会の中堅作家、須田寿、飯島一次、円城寺昇、牛島憲之、大貫松三、榎戸庄衛、山下大五郎の七名は同会を脱退し、新たに立軌会を創立した。
博報堂内装幀相談所主催、出協、自由出協、小売全連後援の装幀美術展が二二日から一週間日本橋三越でひらかれた。なほこの会で一九四八年度装幀賞がきまつた。
宮中では二二日芸術院会員を午餐に招待され、今回は山崎朝雲、内藤伸、板谷嘉七らの一一名(うち美術関係会員八名)が出席した。
皇居内の貝塚発掘が一一日東大人類学教授鈴木尚ら八名の手で行われた。
従来の国宝保存法を改正し、さらに範囲を拡大する案が参議院文部委員会文化小委員会の手で作成され、一九日試案の検討を終了した。しかし本会議は審議未了で保留となつた。
東福寺蔵の中国日本を通じて唯一とされる宋版義楚六帖が一昨年来行方不明となつている旨、七日京都松原署に屈出られた。
画壇の話題となつた名画横領故買事件は時目清、坪田吾六の検挙に進んだが、話し合いがつき告訴が取下げられた。
文部省では現代日本美術の代表作をあつめて国内一〇都市に巡回展をひらくことを企劃し今年度から予算三五〇万円で実施することとなつた。前年行われた近代日本美術展が、初期文展以来の文部省買上作品を主としたのに対し、今回の企劃は現代作家の作品を主眼とするもので二四年から四ヶ年の継続事業となつている。
約一年空席であつた国立博物館長に東京美術学校長上野直昭が就任することに決り、六日発令された。依つて館長事務取扱にあつた柴沼直は同日被免となる。
芸術院会員藤田嗣治は「日本画壇も国際的水準に達することを祈る」の言葉を残して、一〇日午後六時五〇分羽田発のパン・アメリカン機で渡米した。ニユーヨークなどの美術学校教授として招かれたものだが、フランス入国の許可も受けている。
比叡山延暦寺の境内山上の五智院から二六日午前八時発火、本堂、つり鐘堂、倉庫を焼いた。
東京美術学校は東京音楽学校とともに新制の東京芸術大学の一学部となり、一日から発足した
文部次官井出成三は法隆寺出火の責任を負つて四日辞表を出した。後任は伊藤日出登。
同会では新たに指定または解除すべき史跡名勝天然記念物について審議中だつたが、五日新指定五九件と解除八件を文部大臣に答申した。安政元年アメリカ総領事ハリスが初めて領事館旗を掲げた玉泉寺なども含まれる。
官展としての日展開催は前年から問題となつていたが、この種の展覧会に国費を使う点が反対意見を生み、文部省では二四年度予算面から日展経費二〇〇万円を削除しこゝに明治四〇年以来の官費による展覧会は一応終止付をうつことになつた。なほこのため日展を継続するかどうか各方面で論議された。
美術評論家の職能的な団結をはかるため二日博物館食堂で組合の結成総会がひらかれ、会則役員などが決つた。幹事は富永惣一、江川和彦、今泉篤男、水沢澄夫、河北倫明、鈴木進の六名
二七日法隆寺についで松山城の筒井櫓、筒井門が全焼、隠門同櫓戸無門を半焼した。昭和一〇年国宝に指定されていたものである。