文化勲章受賞者決まる
1949年10月第八回文化勲章の授章者は津田左右吉、鈴木大拙、志賀直哉、谷崎潤一郎ら七名と二九日正式決定、文化の日に授けられることとなつた。今回の選考は高橋誠一郎以下十名の委員によつて一三日から行われたものである。
第八回文化勲章の授章者は津田左右吉、鈴木大拙、志賀直哉、谷崎潤一郎ら七名と二九日正式決定、文化の日に授けられることとなつた。今回の選考は高橋誠一郎以下十名の委員によつて一三日から行われたものである。
群馬県新田郡世良田村大字世良田長楽寺住職毛呂文雄方で一六日調べたところ室町時代の豊前良戒の刀(国宝)が盗まれているのを発見した。
二三年八月一六日から二四年八月一五日の間の出版物に対する毎日出版文化賞が決定して二六日発表された。美術関係では吉川逸治「中世の美術」(東京堂)がある。
山梨県中巨摩郡禅宗永源寺では八日午後三時までに国宝聖観世音菩薩立像(三尺一寸)が盗まれた。
フランス政府から文化使節として日本へ来たアカデミー会員、ギユメ東洋美術館長ルネ・グルツセ教授は八日夜羽田着、フランス使節団官邸小田ハウスに入つた。「日本はあくまで自分たちの古い伝統を守つてこれを基礎として発展させるように努力するのが本当であろう」と語つた。
社会注視の的となつた五重塔下の秘宝(舎利容器と海獣葡萄鏡)は四日午前一時ごろ大正一五年以来二五年ぶりに発掘され、佐伯貫主の手許に安置された。秘宝の「奉拝」調査は一七、八、九の三日間羽田、岸、梅原、藤田、石田、小場の六委員並びに専門助手の手によつて行われ、一九日午後結果が発表された。
五日日本学士院第四回総会で二九人の学士院新会員が当選した。第一部文学では、波多野精一、和辻哲郎、土居光知が選ばれた。
国立博物館々長上野直昭は一日同職を免ぜられた。同日次長脇本十九郎が館長事務取扱となり在職一ヶ月にして三一日免官となつた。
国立博物館長上野直昭は九月二九日付で辞職し、東京芸術大学学長として専念することとなり、一日発令された。
在パリ中の荻須高徳がモナコ展に「モンマルトル小景」を出して特賞となつた旨二日報ぜられた。
法隆寺五重塔心柱下に埋蔵される秘宝について、美術史学会その他と寺側との間に調査許可をめぐつて論議が交され、社会的話題となつたが、法隆寺文部省間に調定案が成立し、宝器内部の清掃を行う機会に専門学者と信徒代表だけに「奉拝」を許すこととなり、二六日その旨発表された。
昭和九年以来の法隆寺国宝保存事業部は失火を機会に改められ、民間団体である法隆寺国宝保存委員会に一切がまかせられることとなつた。二八日同会委員として藤島亥治郎、村田治郎、上野直昭、藤田亮策、有光次郎が決定し、一〇月一日より発足。委員長は有光次郎、顧問として伊東忠太、細川護立、羽田亨があげられた。
一三日から都美術館でひらかれた新制作派展の彫刻室は建築部会員の丹下健三のプランで面目を一新した。建築部の壁面には白とグレーの骨格を生かし、緑の芝生で床上に会のマークを浮出させ、その廻りに彫刻を配列したもの。
国立博物館ではシヤトル美術館副館長シヤーマン・リイからの要請で、同館で一一月ひらく日本古美術展に雪舟山水図など五点を出陳することとなり、一九日には荷作りを終つた。
明大考古学教室助教授杉原荘介らは一一日から三日間群馬県新田郡笠懸村岩宿の琴平山稲荷山を試掘し、旧石器時代の遺物を拾得確認した。
この八月歿くなつた上村松園を偲ぶ会が八日から一四日まで日本橋三越でひらかれ遺品や遺作が展観された。
前所長逝去以来空席となつていた国立博物館附属美術研究所々長に三一日松本栄一が発令された。
三輪隣、横川毅一郎、北川桃雄らにより美術ペンクラブが設立された。
京都日本画壇の長老西山翠嶂は三日日展審査員辞退を申出た。