仏印と美術交換

1943年06月

日仏印間の文化提携が進められ、古美術の交換では我が国から鎌倉時代の「阿弥陀如来立像」等五十余点の日本美術に応え、仏印からはアンコールワットの粋といわれる「三仏像」外七十七点が我が国へ招来されることとなつた。又仏印現代作家の作品二十四点が日本橋三越で展覧された。

神爽会創立

1943年06月

皇国の道に立脚し爽快なる美術を創意するを目的とし岡田華郷らにより「神爽会」を創立した。

新興美術院の分裂

1943年05月

新院派と称して日本美術院を脱退した院友等によつて作られた新興美術院は、思想的見解の不一致を見、茨木袗風、田中案山子、小林巣居は離脱するに至つた。

日本美術及び工芸統制協会創立

1943年05月

日本美術報国会との表裏一体の関係に於て美術及び美術工芸の綜合的指導統制を企図し、大日本工芸会を改組すると共に日本画資材統制協会、美術家連盟、全日本彫塑家連盟及び工芸美術作家協会を統合し、社団法人日本美術及工芸統制協会が創立され、その創立総会が十八日挙行された。会長に吉野信次就任し、次の如く理事長以下が決定した。理事長児玉希望、理事、第一部(日本画)山口蓬春児玉希望、第二部(油絵)辻永木村荘八、第三部(彫塑)加藤顕清石井鶴三、第四部(工芸美術)高村豊周山崎覚太郎、第五部(産業工芸)日野厚、中村忠充、国井喜太郎。その主なる事業は、(一)保存すべき美術の製作者、技術者の資格認定、(二)絵具カンバスなど美術工芸品の材料の配給統制、(三)保存すべき工芸品の検査、格付及び販売価格丸芸の決定、(四)生活必需品の美術的改善、規格の統一、選定等。

日本版画奉公会結成

1943年05月

日本版画の伝統維持と版画芸術を戦力化する為全日本版画家を結集する日本版画奉公会が結成され、漫画挿絵とともに日本美術報国会第五部を組織した。

新油絵協会創立

1943年05月

芸術上の立場を異にする為緑巷会から会員五名会友三名退会し他の同志と共に新油絵協会を創立した。

芳崖作「悲母観音」の模写

1943年04月

狩野芳崖の名作「悲母観音」の模写が東京市記念事業部の手で行われることになり、芳崖門下の高島肖哲がこれに当たることとなつた。

日本美術報国会創立

1943年05月

大政翼賛会文化部では文部省と情報局との協力のもとに全日本美術作家を一丸とする社団法人日本美術報国会を創立し、その創立総会を十八日発起人二百八十余名参集のもとに開いた。横山大観会長に就任と共に各部の部会長、幹事長を次の如く決定した。第一部(日本画)野田九浦山口蓬春、第二部(油絵)辻永木村荘八、第三部(彫塑)石井鶴三加藤顕清、第四部(工芸)高村豊周山崎覚太郎。この部会長、幹事長は何れも理事となるが、このほか理事には芸術院会員の各部から一名づつが就任した。

国画院解散

1943年04月

国画院は松岡映丘の逝去により同院同人は故映丘の遺作展、遺作画集刊行等、門弟として為すべきことを一応終つたので此処に同院を解散した。

玄潮社結成

1943年04月

結城素明を顧問におし小泉勝爾、井上白楊、岩田秀雄、石井了介等有志二十名は玄潮社を結成した。

美術団体一元化の進発

1943年03月

全日本彫塑家連盟では美術団体一元化を目指し、本郷新、藤野舜正、鈴木賢二の三名を連絡員として日本画、油絵、工芸の各団体と交渉中、日本画、油絵関係との諒解成り、二十日の彫塑家連盟委員会で美術報国会の成すべき仕事を討議、彫塑部の幹事六名を決定した。

芸技に係る資格認定標準決定

1943年03月

大日本工芸会一般委員会では、我が国産業文化上伝統的な技術保存の必要あるものを厳選し、同会の許可を受けた作家のみ禁止資材の配給を受け「芸」又は「技」の証紙を印して製品を販売することとした。

耕人社創立

1943年03月

早苗会解散後同会に代る新団体耕人社が結成され一日平安神宮で結成式が挙行された。役員は理事長に松本一洋、理事に武田鼓葉、中野草雲、三宅鳳白、参事に林文雄、玉舎春輝が就任した。

浮世絵研究会結成

1943年03月

近時日本古美術の価値昂揚を乱すが如き美術品の横行を憂い島田筑波、吉田暎二金子孚水等は「浮世絵研究会」を結成して正しい美術の研究、価値宣揚を図ることとなつた。

女流美術奉公隊結成

1943年02月

国画会、文展、二科会等各団体の会友以上の女流画家約五十名によつて女流美術奉公隊が組織され、二十五日赤坂三会堂東洋軒で発会式を挙行した。理事長に長谷川春子、役員に谷口仙花、藤川栄子三岸節子が就任した。

水彩画推奨記録賞

1943年02月

芸能文化協会の甲斐惟一は私財を投じて昨年度から水彩画の記録的優秀作に授賞し斯道の奨励に努めたが、その賞は飯島八郎、渡辺文雄、桂竜雄、石川菊寿、山元不二夫、石川新一、牛島弘、藤田薫、三橋兄弟治、長沢昇、山中仁太郎、小原博司、漆畑広作、柏原文雄に授けられた。

早苗会解散

1943年02月

京都画壇の大塾早苗会は会長川村曼舟の逝去により存続如何を検討の処、創始者故山元春挙家より解散希望の申出があり師家の意見を重んじ五日同塾物故者追悼会を執行、故山元春挙の墓に詣で解散した。

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