本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,013 件)





高﨑元尚

没年月日:2017/06/22

読み:たかさきもとなお、 Takasaki, Motonao*  前衛美術家グループ「具体美術協会」の一員として活躍した現代美術家の高﨑元尚は6月22日に老衰のため死去した。享年94。 1923(大正12)年1月6日、高知県香美郡暁霞村(現、香美市香北町)に生まれる。父元治は農家を生業とし村長も歴任。1940(昭和15)年、早稲田大学専門部工科建築科に入学。翌年休学、川端画学校に通う。42年、東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻科に入学、学徒出陣による海軍配属を経て、戦後同校に復学、49年、同校彫刻科を卒業。中学校教諭、自衛隊員などの職を経て、52年第2回モダンアート協会展に出品、この年高知に帰郷。54年第4回モダンアート協会展で新人賞受賞。50年代はピエト・モンドリアンを参照した抽象画を制作、その後「朱と緑」シリーズに展開。55年、高知モダンアート研究会を結成、東京から講師を招いて美術教育の講習会を開くなど啓蒙的な活動を行う。56年から土佐高等学校教諭に赴任(1988年まで)。57年、モダンアート協会会員に推挙(1970年に退会)。58年、「抽象絵画の展開」展(国立近代美術館)に出品。このころ、絵画と並行して写真制作に取り組み、高知の詩誌『POP』、北園克衛主宰VOUの機関誌や実験写真展で作品を発表。60年、村松画廊で個展を開催。61年、前衛美術グループ「グループ・ゼロ」のパフォーマンス「理由なくデモして街を歩く」(高知市帯屋町界隈)に参加。63年に矩形に切った白いカンバス片を板に碁盤目状に貼付した「装置」シリーズを開始。65年第16回選抜秀作美術展に招待出品。66年に具体美術協会加入。同年、第1回ジャパン・アート・フェスティバルに「装置」を出品。60年代から70年代にかけて鉛の板を壁面や床などに打ち付けた「密着」シリーズを制作。70年、日本万国博覧会ではグタイグループ展示などに参加。また同年若手作家の経験をつむ場として企画展シリーズ「現代美術の実験」を高知市で開始。72年、京都・ギャラリー16での個展で段ボール箱を破り裂いた作品「LANDSCAPE」を発表、以後建築資材、石膏、木、素焼き粘土などを用いたインスタレーションのシリーズ「破壊」を展開。78年にはアート・ナウ’78に「COLLAPSE」を発表、設置した700個以上のコンクリートブロックを一定の規則でハンマーで割り、鑑賞者にブロックの上を歩かせる方法で、偶然性による素材の変容を作品に取り入れる。「破壊」以後は、ゴムやパイプなど軽量素材を用いた可変オブジェのシリーズに移行、80年代ニューウェーブ的な作風へと転身。1990(平成2)年頃より、具体美術協会の再評価の機運が高まり、複数の美術館の依頼に応えるため、「装置」シリーズの再制作を取り組み、同シリーズの新作も発表した。95年に高知県文化賞受賞。 回顧展に「高﨑元尚 誰もやらないことをやる」(香美市立美術館、2016年)、「高﨑元尚新作展―破壊COLLAPSE」(高知県立美術館、2017年、企画=松本教仁)がある。12年12月に、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによって聞き取り調査が行われ(聞き手は中嶋泉、池上裕子)、また生前の高﨑本人や家族から提供された資料に基づいた作家研究として塚本麻莉「規則と偶然の芸術―前衛美術家・高﨑元尚の制作活動」(『高知県立美術館研究紀要』9、2019年)がまとめられた。 時代の動向に呼応したアクチュアルな表現を展開させ、東京や関西の現代美術界で評価を得て、その一方で活動基盤を高知に置き、高知市展、高知県展で継続的に作品発表をするとともに、さまざまなかたちで若手を支援する基盤を作るなど、地域の現代美術の振興にも取り組んだ。

ヴィクター・ハリス

没年月日:2017/06/13

読み:VICTORHARRIS  日本美術史の研究者であったヴィクター・ハリスは、6月13日肝硬変のためイギリスで死去した。享年74。 1942年8月3日生、イングランドのエセックス州出身で、ウィリアム・ヴィクター・クレイトン・ハリス(William Victor Clayton Harris)を父に、テリーザ・ハリス(Theresa Harris)を母に生まれる。エセックス州(Essex)のバンクロフツ・スクール(Bancroft’s School)を卒業し、バーミンガム大学(Birmingham University)で機械工学専攻(BSc in Mechanical Engineering)、卒業した。68年から71年まで駒沢大学の講師となる。71年、Japanese Engineering Translation and Consultancyを78年まで個人経営する。74年に柳川加津子と結婚している。 78年、大英博物館の東洋美術部のResearch Assistantとして勤務するようになり、87年にはDepartment of Oriental Antiquities(日本美術部)のAssistant Keeper、97年に同部のKeeper(部長)となる。2002年大英博物館退職とともにKeeper Emeritus(名誉研究員)を授与される。 05年明治大学の客員教授、同年美術品オークション会社であるクリスティーズのコンサルタントとなる。06年にはロンドンのJapan SocietyのHonorary Librarian(名誉司書)、ハリリコレクションの日本美術のHonorary Curator(名誉学芸員)などを歴任する。 日本剣道の剣士であり、剣道の実践とともに日本美術とりわけ日本刀について造詣が深く、大英博物館の日本刀収蔵の充実や研究に尽力した。90年、大英博物館日本ギャラリーが開設されると、その開幕展として「日本の刀」を開催し、さらに文化庁の海外交流展で、91年の「鎌倉」、01年の「神道」では大英博物館側でのキュレーションを行い、同展でのシンポジウムの司会を担当、これまでに海外では注目されなかったテーマで日本美術と文化を紹介した。また大英博物館所蔵品の日本での展覧会も手掛け、85年「大英博物館所蔵浮世絵名作展、87年「大英博物館日本中国名品展」を実現させた。 剣道に関するものでは74年、宮本武蔵の「五輪書」(A Book of Five Rings)を翻訳した。また、02年までEuropean Kendo Federation(ヨーロッパ剣道連盟)、International Kendo Federation(国際剣道連盟)の役員を歴任するなどヨーロッパにおける日本剣道の普及につとめた。 日本美術の研究では、1980年 Musical Scenes in Japanese Woodblock Prints, in Music and Civilisation No.4, British Museum1981年 Japanese Portrait Sculpture, Apollo, 81, no.1131982年 Japanese Decorative Arts from the 17th to 19th centuries, British Museum 1986年 Japanese Swords and the Bizen Tradition, Arts of Asia, vol.161987年 Netsuke:The Hull Grundy Collection in the British Museum, British Museum 1990年 Japanese Art:Masterpieces in the British Museum, British Museum 1990年 Swords of the Samurai, British Museum1991年 kamakura:The Renaissance of Japanese Sculpture, 1185―1333[Kamakura jidai no chokoku], British Museum 1994年 Japanese Imperial Craftsmen:Meiji Art from the Khalili Collection, British Museum 2001年 Shinto:The Sacred Art of Ancient Japan, British Museum2004年 Cutting Edge:Japanese Swords in the British Museum, British Museum Press2014年 Alloys of Japanese Patinated Metalwork, in ISIJ International などがある。

田原桂一

没年月日:2017/06/06

読み:たはらけいいち、 Tahara, Keiichi*  写真家の田原桂一は6月6日、肺がんのため東京都内の病院で死去した。享年65。 1951(昭和26)年8月20日京都市左京区に生まれる。中学生の頃より写真家であった祖父から写真技術を学ぶ。高校卒業後の71年、実験劇団「レッド・ブッダ・シアター」に照明・映像担当として参加。72年同劇団の公演のため渡欧、公演終了後パリに残り、写真家として活動し始める。 パリの自室の窓から撮影した「窓」シリーズ、パリの都市風景をめぐる「都市」シリーズの二つの初期作品で注目され、77年にアルル国際写真フェスティバル新人賞を受賞、評価を確立した。78年からは芸術家のポートレイトのシリーズ「顔貌」、79年からは金属やガラスなどさまざまな素材に落ちた光とそこにつくられる影が織り成す抽象性を帯びた連作「エクラ」などにとりくむ。84年写真集『TAHARA KEIICHI 1973―1983』(ゴローインターナショナルプレス)を刊行、同書により84年日本写真協会賞新人賞、85年第10回木村伊兵衛写真賞を受賞。また85年第一回東川賞国内作家賞、88年にはフランス在住で50歳以下の写真家を対象とするニエプス賞を受賞するなど多くの賞を受ける。1993(平成5)年にはフランス芸術文化勲章シュバリエを受章した。 写真集としてまとめられた仕事も多く、主なものに『世紀末建築』(全6巻、三宅理一との共著、講談社、1984年)、『メタファー』(求龍堂、1986年)、『顔貌』(PARCO出版局、1988年)、『天使の廻廊』(新潮社、1993年)などがある。 多彩な写真表現のほか、80年代後半からは光を素材にした立体作品やインスタレーション、環境造形、建築デザインなどにもとりくんだ。その主な作品に89年、北海道恵庭サッポロビール恵庭工場に設置された「光の庭」、2000年、パリ市のコミッションでサンマルタン運河地下水道に設置された「光のエコー」、07年のパリ第七大学新校舎外壁デザインなどがある。04年には写真と立体作品による個展「光の彫刻」を東京都庭園美術館で開催、その後帰国し09年に東京で株式会社KTPを設立、アーティストとしての経験、知見に基づく建築コンサルティング事業、企業のブランディング事業などをてがけた。 14年にはパリのヨーロッパ写真美術館で個展「光の彫刻」を開催、16年には何必館・京都現代美術館で初期から近作にいたる写真作品により構成された「光の表象 田原桂一 光画展」を開催。また同年、写真集『Photosynthesis 1978―1980 光合成 田中泯 田原桂一』(スーパーラボ)を刊行。これは舞踊家田中泯を被写体とした、70年代末にパリやローマ、東京などいくつかの都市で断続的に行われたフォトセッションで撮影され、長く未発表であった作品であり、翌17年にはプラハ・ナショナル・ギャラリーで、同シリーズによる個展「Photosynthesis 1978―1980」を開催するなど、晩年、あらためて写真作品に注力し、精力的に活動を続けていた。東京での個展「Les Sens」(ポーラミュージアムアネックス、銀座)開催の直前に死去。プラハで開催された個展を再構成し、同シリーズの国内での初めての展示となった「田原桂一『光合成』with田中泯」展が、死去の三ヵ月後、原美術館で開催された。

山崎博

没年月日:2017/06/05

読み:やまざきひろし、 Yamazaki, Hiroshi*  写真家、映像作家の山崎博は6月5日、歯肉がんのため東京都三鷹市の病院で死去した。享年70。 1946(昭和21)年9月21日長野県松本市に生まれる。幼少期に神奈川県川崎市新丸子に移り、同地で育つ。日本大学付属高等学校で写真部に入部、この頃より写真家を志す。65年日本大学芸術学部文芸学科に入学。高校時代からの友人で、ともに同じ学科に進んだ萩原朔美(のち演出家、映像作家)の誘いで、寺山修司の主宰する劇団「天井桟敷」に出入りするようになり、舞台監督助手、舞台監督を務める。68年大学を中退。翌年天井桟敷を離れ、フリーランスの写真家となり『SD』や『美術手帖』などで現代美術や舞台などの写真を担当。 この頃、被写体を選ばず、与えられた状況で写真画像が得られることそれ自体をめぐって成立する制作のあり方を模索し、自宅の同じ窓から見える光景や、特徴のない海岸と水平線を、定点観測などの手法で撮影する作品にとりくみはじめる。また72年ごろから16ミリフィルムによる実験的な映画作品の制作を開始した。74年、窓のシリーズや海景のシリーズによる初個展「OBSERVATION・観測概念」(ガレリア・グラフィカ、東京)を開催。以後、同題の個展を76年、77年、78年、79年と継続する。また78年にはゼロックス社のPR誌『グラフィケーション』のために、コピー機で風景を撮影する作品を制作するなど、写真を成立させる根本的な要素である光や時間、カメラの原理などめぐって、さまざまな手法の作品を試みる。こうした姿勢は映画作品にも共通し、主な作品に、時間軸の中でフィルムが回るということ自体を表現する作品「A STORY」(1973年)や、天体観測用の赤道儀にカメラをセットし、太陽を一昼夜追尾して撮影した「HELIOGRAPHY」(1979年)などがある。 独自のコンセプチュアルな制作活動が次第に評価を高め、79年には『ジャパン・ア・セルフポートレイト』(国際写真センター、ニューヨーク)に、当時の日本写真界において注目すべき写真家の一人として選ばれて出品。83年には初の写真集として、太陽の軌跡を長時間露光でとらえた連作による『HELIOGRAPHY』(青弓社)を刊行、また同写真集に収載されている「海と太陽」シリーズにより日本写真協会賞新人賞を受賞した。1989(平成元)年には写真集『水平線採集』(六耀社)を刊行。94年、水平線を撮影した写真によるカレンダー作品で全国カレンダー展総理大臣賞を受賞。2001年の個展「櫻花図」(ニコンサロン、東京・大阪)では、桜の花を被写体とし、夜の屋外でストロボを光源に、フォトグラムの手法を試みた連作を発表、同展で伊奈信男賞を受賞している。 87年から89年まで東京芸術専門学校で講師、89年から93年まで東京造形大学で非常勤講師を務め、93年に東北芸術工科大学の教授となる。2005年に武蔵野美術大学教授に就任(2017年3月退任)。 09年にはそれまでの軌跡を振り返る個展「動く写真!止まる映画〓」(ガーディアン・ガーデンおよびクリエイションギャラリーG8、東京)を開催。また死去の直前、大規模な回顧展「山崎博:計画と偶然」(東京都写真美術館、2017年)が開催された。

山田實

没年月日:2017/05/27

読み:やまだみのる、 Yamada, Minoru*  写真家の山田實は5月27日、肺炎のため糸満市内の病院で死去した。享年98。 1918(大正7)年10月29日、兵庫県に生まれる。20年、大阪で医師をしていた父が沖縄の養母の家を継ぐことになり、一家で那覇市に移住、同地で育つ。沖縄県立第二中学校(現、那覇高等学校)では美術サークル「樹緑会」に入り絵画にとりくむ。また当時、初めて簡易カメラを入手し撮影・現像を体験した。1936(昭和11)年、同校を卒業、進学のため上京し38年、明治大学専門部商科に入学。在学中、新聞部員として大学新聞の編集にたずさわった。41年、同大学専門部商科本科(昼間部)と新聞高等研究科(夜間部)を同時に卒業、日産土木株式会社に入社し満洲・奉天に配属される。44年、現地で召集され陸軍に入隊、満洲北部でソ連軍と交戦中に終戦を迎え、捕虜となり、二年間のシベリア抑留を経験。47年に復員し、東京の日産土木本社に復職。52年、同社を辞し、沖縄に戻って那覇市内で写真機店を開業した。 本土から輸入したカメラの販売などを手がけるかたわら、自らも写真にとりくみ、54年、琉球新報写真展に出品した作品「光と影」が特選を受賞、新進の写真家として注目されるようになる。58年に二科展沖縄支部が結成された際には、写真部のメンバーとして参加。また山田の経営する写真機店に沖縄のアマチュア写真家たちが集うようになり、59年に沖縄ニッコールクラブを結成、会長に就任した(独立組織であった同クラブは、72年の本土復帰後はニッコールクラブ沖縄支部に移行、山田は引き続き支部長を務めた)。以後、56年に写真部が設立された沖展、二科沖縄支部、沖縄ニッコールクラブの展覧会への出品を中心に、作品の発表を続け、沖縄写真界の中心人物の一人となっていく。72年から76年にかけては沖縄県写真連盟会長を務めた。 山田がレンズを向けた対象は、主に沖縄の人々の暮らしやそれをとりまく風景、また祭礼など沖縄固有の伝統行事である。写真に関わる専門教育を受けていなかったことから、写真機店を始めた頃、カメラ雑誌を情報源として多くを学んだ山田は、当時『カメラ』誌の月例欄を拠点に、土門拳がアマチュア写真家たちに呼びかけたリアリズム写真運動にも大きな影響を受けた。そのことは、戦中に戦場となり、戦後はアメリカの統治下に置かれた沖縄の現実とその変化を、カメラを介して見つめ続ける仕事へとつながった。 また自由な渡航が認められていなかったアメリカ統治下の時代、62年の濱谷浩や69年の東松照明など、本土の写真家の来沖に際し、山田はたびたび身元引受人や案内役を務め、取材の支援のほか、地元の写真家の交流の場を設けるなど、沖縄と本土の写真界の橋渡し役として大きな役割を果たした。 半世紀以上にわたる写真家としての仕事は、「時の謡 人の譜 街の紋―山田實・写真50年」(那覇市民ギャラリー、2003年)や「山田實展―人と時の往来」(沖縄県立博物館・美術館、2012年)などの回顧展で紹介された他、初めての写真集となった『こどもたちのオキナワ 1955―1965』 (池宮商会、2002年)以降、『沖縄の記憶 オキナワ記録写真集 1953―1972』 (金城棟永と共著、生活情報センター、2006年)、『山田實が見た戦後沖縄』 (琉球新報社、2012年)、『故郷は戦場だった 山田實写真集』(沖縄写真家シリーズ1、未來社、2012年)などにまとめられている。 永年の活動とその功績に対し、沖縄県文化功労者表彰(2000年)、地域文化功労者表彰(2002年)、沖縄県文化協会功労者賞(2002年)、沖縄タイムス賞文化賞(2004年)、琉球新報賞文化・芸術功労賞(2009年)、東川賞飛彈野数右衛門賞(2013年)などを受賞している。

池原義郎

没年月日:2017/05/20

読み:いけはらよしろう、 Ikehara, Yoshiro*  建築家で早稲田大学名誉教授、日本芸術院会員の池原義郎は5月20日、東京都内にて肺炎のため死去した。享年89。 1928(昭和3)年3月25日、東京都渋谷区に生まれる。51年早稲田大学理工学部建築学科卒業後、同大学院工学研究科建設工学専攻に進学。53年に修了後、山下寿郎設計事務所(現、山下設計)に勤務。56年に早稲田大学理工学部建築学科今井兼次研究室助手、65年同学科専任講師、66年助教授、71年教授。1995(平成7)年の退官まで同大学にて教鞭を執るとともに、88年に株式会社池原義郎・建築設計事務所を設立し、建築家として設計活動にあたった。 アントニオ・ガウディをわが国に紹介したことでも知られる今井兼次に師事する中でその設計思想を継承し、コンクリートと鉄を素材としながら静謐な詩的空間を生み出してきた池原は、機能的合理性への指向や建築理念に関わる言説といった方向性とは異なる近代建築の在り方を作品を通じて提示することに意識的であった。その思考が最も端的に造形されたのが、大地と建築が一体化した彫刻のような「所沢聖地霊園礼拝堂・納骨堂」(1973年竣工、日本建築学会賞(作品))であり、あるいは旋回する上昇性が強調された「早稲田大学所沢キャンパス」(1987年、日本芸術院賞)であろう。幾重にも重ねられた壁やスキップフロアといった、池原が好んで用いた建築言語は、建築に奥行きを与える要素であるとともに、視点を変え歩を進めるごとに異なる風景が立ち現れるという空間体験を喚起する仕掛けでもあった。 その他の主な作品に、白浜中学校(1970年)、西武ライオンズ球場(1979年)、松ヶ丘の家(1986年)、酒田市美術館(1997年)、下関市地方卸売市場唐戸市場(2001年)、軽井沢プリンスショッピングプラザ・ニューイースト(2004年)などがある。 上記以外の主な受賞歴に、88年大隈記念学術褒賞記念賞、02年瑞宝中綬章、16年早稲田大学芸術功労者。 主な著作に『池原義郎 建築とディテール』(彰国社、1989年)、『光跡 モダニズムを開花させた建築家たち』(新建築社、1995年)など。また、作品集として、『池原義郎・作品 1970―1993』(新建築社、1994年)ほかがある。

河原正彦

没年月日:2017/05/09

読み:かわはらまさひこ、 Kawahara, Masahiko*  京都国立博物館名誉館員で、元京都橘大学教授の河原正彦は5月9日、細菌性肺炎のため京都府城陽市内の病院で死去した。享年81。 1935(昭和10)年9月25日、長野市に生まれる。68年、同志社大学大学院文学研究科文化史学専攻博士課程単位取得退学。大学院在籍中の64年より京都府立総合資料館に4年間勤務し、68年に京都国立博物館へ職場を転じた。76年から同館学芸課工芸室長、95年から同館学芸課長を務めた。1997(平成9)年に退官した後、2006年まで京都橘女子大学(後に京都橘大学)教授として教鞭を執る傍ら、滋賀県立陶芸の森館長を務めた。 京都国立博物館には、陶磁器担当の研究員として勤務していたが、工芸品全般、とりわけ意匠としての文様に造詣が深く、その一端を京都国立博物館の特別展覧会「日本の意匠―工芸にみる古典文学の世界」(1978年)の図録論文「工芸にみる古典文学意匠の流れ」をはじめとして、共編著の『日本の文様』全30巻および別冊3巻(光琳社出版、1970~79年)の中に窺うことができる。 陶磁器に関しては、『古清水』(京都書院、1972年)、『陶磁大系26京焼』(〓凡社、1973年)、「御室仁清窯の基礎的研究―文献史料を中心とする考察」(『東洋陶磁』4、1974年)、『日本陶磁全集27仁清』(中央公論社、1976年)、『日本のやきもの22仁清』(講談社、1976年)、『日本のやきもの 現代の巨匠15清水六兵衛』(講談社、1977年)、『日本陶磁全集29頴川・木米』(中央公論社、1978年)、『乾山』(日本の美術154、1979年)、『頴川・木米・道八』(日本の美術227、1985年)、「仁清作色絵雉香炉―その製作期をめぐって」(『國華』1100、1987年)、「京焼の「陶法伝書」―『陶工必用』『陶磁製方』『陶器指南』」(『学叢』28、2006年)など京焼に関する著作が目立って多いが、『陶磁大系9丹波』(〓凡社、1975年)、『日本陶磁全集12信楽』(中央公論社、1977年)、『信楽と伊賀』(日本の美術169、1980年)、『丹波』(日本の美術398、1999年)など焼締陶器に関する著書も少なくない。さらには、『染付伊万里大皿』(京都書院、1974年)、『古染付』(京都書院、1977年)、『唐津』(日本の美術136、1977年)といった唐津焼・伊万里焼・中国陶磁に関する著作も手掛けるなど、陶磁器全般に関する広汎な見識を有していた。 京都国立博物館在職時に企画を担当し、日本人と中国陶磁の関わりを古代から近世まで通時代的に捉えて展観してみせた特別展覧会「日本人が好んだ中国陶磁」(1991年)では、研究領域が幅広い陶磁器研究者としての本領を遺憾なく発揮している。 75年から01年まで東洋陶磁学会常任委員、85年には文化史学会評議委員を務め、93年には小山冨士夫記念賞を受賞した。

舟越直木

没年月日:2017/05/06

読み:ふなこしなおき  彫刻家の舟越直木は、5月6日に死去した。享年64。 1953(昭和28)年1月14日、東京都に舟越家の三男として生まれた。父の保武、兄の桂はともに彫刻家である。78年に東京造形大学絵画科を卒業。83年にみゆき画廊で初の個展を開催する。84年と85年のギャラリーQにおける個展では、油彩画を発表。80年代後半から抽象彫刻を制作するようになる。 87年からは、毎年続けてなびす画廊において個展とグループ展を開催している。以下は、すべて同画廊での開催展である。87年のグループ展「ぷろみしんぐ・なびす」において彫刻作品「WORK」と、それにともなうドローイングを発表。88年には、加茂博と中原浩大とともにデッサン展を開催し、「drawing」や「UNTITLED」などを出品する。1989(平成元)年の個展では、蜘蛛や脚を連想させる抽象彫刻「彫刻」「Serampore」とドローイングを発表。92年の個展では、「Chordeiles Minor」を出品した。この個展のカタログでは、同作や前年に発表した「Serampore」について峯村敏明が批評を執筆している。また、同展は『Japan Times weekly』で海外にも宣伝された。93年の個展では、「Chuckwill’s Widow」を発表。94年には、グループ展「金曜日のまれびとたち その3」を開催。同展には、笠原たけし、山崎豊三らも出品している。95年の個展では、「Bella coola」「MARONITA」「SASSETTA」「小さな夜鷹」といった小品を出品。96年のグループ展「匍匐は跳躍」では、石膏による「UGARIT」を発表。同展には、大森博之、黒川弘毅ら同世代を代表する彫刻家も参加している。97年の個展にはハート(心臓)から着想を得たと思われる石膏作品「the Queen of hearts」、ブロンズ作品「the Ace of hearts」「the nine of hearts」「the eight of hearts」「the Jack of hearts」を発表。また、それに伴うハートをモチーフにしたドローイングを出品した。99年の個展では、ドローイングと油絵のみ出品されたが、その表現は大きく広がりをみせた。昨年に引き続き「ピンクのハート」「3つのハート」など、ハートをモチーフにした絵画から、ひし形を表した「薄青いかたちのイメージ」、抽象的なかたちの「青のバックのなまけもの」や「drawing」などを発表。2001年の個展では、前回の個展で発表したドローイングを彫刻に発展させた作品「Al―Erg」「Erg Che Che」を多数出品。いくつもの球体が集合することで、ひとつの形を表す彫刻作品を制作した。03年のグループ展「新年のおくりもの」では、「Al―Erg」などの作品を構成していた球体ひとつひとつを解体したような作品「An Evacuees」を発表。05年「2月のおくりもの」では、石膏を赤い布で覆った「頭部」を出品し、新たな表現を獲得した。 なびす画廊における個展やグループ展のほかにも、91~1998年、06年の世田谷美術館における「世田谷美術展」に作品を出品。また、90年の神奈川県民ホールギャラリーにおける「現代彫刻の歩み1970年以降の表現」展、93年の小原流会館における「とは何か」展、96年の佐倉市立美術館における「体感する美術’96」展、98年の新潟県立近代美術館における「インサイド/アウトサイド」展など数々の展覧会に出品。美術館での展示において同世代の彫刻家とともに高い評価がなされた。そのほか、横浜市民ギャラリー、ギャラリーGAN、田中画廊、MORIOKA第一画廊などでもグループ展などが開催されている。また、96年度には、父・保武の出身地である岩手県において美術選奨を受賞した。 2000年代前後からは、その表現や活動範囲にさらなる広がりがみられる。97年には、新潟県立近代美術館に野外彫刻「夏の夜」を設置。同作は、舟越の作品の中で最も大型の作品である。04年、アートフロントギャラリーで行われた個展では、人体の胸像を思わせる作品を多数発表。06年のギャラリーせいほうで行われた個展では、「sleep」などの抽象彫刻を出品。同年のGALLERY TERASHITAにおける個展では、人間の頭部を思わせる作品「婦人像」を発表する。そして、08年のギャラリーせいほうにおける個展では、胸像を思わせる石膏作品「うつむく少年」などを出品。さらに、14年にはフランス、パリのatelier viscontiにおいて稲田美乃里との二人展も実現した。 死去後、追悼展が多くのギャラリーや美術館で開催された。18年には世田谷美術館、19年にギャラリーせいほうにて個展が開催され、同年、平塚市美術館において開催された「空間に線を引く 彫刻とデッサン展」でも彫刻とドローイングが数多く出品された。 生前、無所属で作品を発表し続け、副業として他の職業に就くことなく、その生涯を彫刻とドローイングを通して「かたち」の探求に費やした。その作品と生き方は、同世代、後進の彫刻家に大きな影響を与えた。素朴で純粋な仕事の数々は、今も多くの人を魅了する。

安井収蔵

没年月日:2017/05/03

読み:やすいしゅうぞう、 Yasui, Shuzo*  美術評論家で、しもだて美術館長(茨城県筑西市)の安井収蔵は、肺がんのため西東京市の自宅にて死去した。享年90。 1926(大正15)年9月20日、愛知県名古屋市に生まれる。日本大学予科を修了、1946(昭和21)年、毎日新聞東京本社に入社。事業部を経て文化部に勤務した後、同新聞中部本社に報道部に異動。63年に同新聞東京本社学芸部に移り、美術に関する報道を担当。同紙の美術記事を76年12月まで執筆し、また各美術雑誌にも寄稿した。同年、同社を退社。笠間日動美術館顧問、日動画廊嘱託となる。85年、山形県の酒田市美術館長に就任。2003(平成15)年からしもだて美術館長となる。同館長職は没年まで勤めた。美術館の館長職の傍ら、晩年までジャーナリストの視点から、美術界の事情をとりあげ、『新美術新聞』をはじめ各誌に寄稿を続けた。なお各誌に寄稿した美術に関する記事は、下記の4書にまとめられている。『色いろ調:美術記者のコラム』(美術年鑑社、1985年)『当世美術界事情:コラム「色いろ調」1985-1990』(美術年鑑社、1990年)『当世美術界事情2』(美術年鑑社、2000年)『絵話 諸縁 近頃美術界の話題を掬う』(講談社エディトリアル、2015年)

高田良信

没年月日:2017/04/26

読み:たかだりょうしん、 Takada, Ryoshin*  仏教史学・歴史学者で法隆寺長老、第128世住職を務めた高田良信は、老衰のため4月26日に死去した。享年76。 1941(昭和16)年2月22日、奈良県奈良市に生まれる。幼名は信二。53年、法隆寺に入り、良信と改名。当時の管主だった佐伯良謙(1880~1963)の徒弟となる。龍谷大学文学部仏教学科を卒業し、65年、龍谷大学大学院仏教学専攻修士課程修了。82~1992(平成4)年、法隆寺執事長。93年、法隆寺住職代行に就任。94年、法隆寺管主(代表役員)就任。95~98年、聖徳宗第5代管長・法隆寺第128世住職を務める。自坊は法隆寺実相院。 東大寺に縁のある家に生まれ育ち、当時の東大寺管長・平岡明海の紹介により12歳で法隆寺に入る。幼い頃より寺域から掘り出される古瓦や古材、周辺の古墳に強い関心を持ち、大学院在学の頃には寺内の過去帳や年表、室町時代の子院配置図を自作するなどして、法隆寺の学問的な整理・体系化を志し、のちに「法隆寺学」を提唱。生涯に渡って史料や宝物の調査・研究に取り組んだ。 67年に金堂壁画の再現事業が、68年には若草伽藍の再発掘、同じ頃、『奈良六大寺大観』(岩波書店)刊行のための宝物調査が始まり、考古や歴史、建築、絵画・彫刻の研究者らと交流する機会を多く持つ。71年4月、聖徳太子1350年御忌にて会奉行を務める。81年、聖徳太子1360年御忌事業として高田が提案した『法隆寺昭和資財帳』の編纂事業が開始される。宝物の調査・目録化を行い、のちに全15巻の『資財帳』(小学館、1991~1992年)が刊行された。97年、法隆寺史編纂所を開設。98年10月、百済観音堂の落慶法要を営む。「印鑰継承の儀」や「慈恩会」などの途絶えていた法隆寺の古儀再興にも努めたほか、81年にNY・ジャパンソサイエティ―で開催された法隆寺宝物展や88年の「百済観音像展」(東京国立博物館)など、国内外の展覧会に数多く携わった。 主要な著作は次の通りである。共著『法隆寺』(学生社、1974年)、『法隆寺のなぞ』(主婦の友社、1977年)、『近代法隆寺の歴史』(同朋舎出版、1980年)、『法隆寺の秘話』(小学館、1985年)、共著『四季法隆寺』(新潮社、1986年)、『「法隆寺日記」をひらく:廃仏毀釈から100年』(日本放送出版協会、1986年)、共著『追跡!法隆寺の秘宝』(徳間書店、1990年)、『法隆寺の〓を解く』(小学館、1990年)、共著『再現・法隆寺壁画』(NHK取材班編、日本放送出版協会、1992年)、『法隆寺の〓と秘話』(小学館、1993年)、『法隆寺建立の〓:聖徳太子と藤ノ木古墳』(春秋社、1993年)、『世界文化遺産法隆寺』(吉川弘文館、1996年)、『法隆寺教学の研究』(聖徳宗総本山法隆寺、1998年)、『法隆寺辞典』・『法隆寺年表』(柳原出版、2007年)、『法隆寺学のススメ―知られざる一四〇〇年の軌跡―』(雄山閣、2015年)ほか多数。没後の17年10月、朝日新聞デジタルでの連載(2016年4月~2017年3月)をまとめた『高田長老の法隆寺いま昔』(構成:小滝ちひろ、朝日新聞社)が出版された。

松本俊夫

没年月日:2017/04/12

読み:まつもととしお、 Matsumoto, Toshio*  映画監督、映画作家、映画理論家の松本俊夫は4月12日死去した。享年85。元日本映像学会会長。前衛的な記録映画や実験映画を手掛け、本邦において映画作家という言葉を初めて職業名として自身に用い、実験映画から劇映画、ドキュメンタリーやビデオアートまで多岐にわたり実験的・前衛的で果敢な作品を残した。また同時代において戦後の戦争責任について映像作家の果たす役割や記録の意義、映画の方法論などを拓き、多くの局面で議論をリードした。 1932(昭和7)年3月26日、愛知県名古屋市に生まれる。55年、東京大学文学部美学美術史学科卒業。大学卒業後、新理研映画に入社しPR映画『銀輪』を初演出する。『銀輪』はPR映画という制作環境ではあったが、美術評論家・詩人の瀧口修造を後見人とした若手アーティストの集う「実験工房」と連携し、山口勝弘、北代省三らと共に松本が絵コンテを書き、特殊撮影の円谷英二と連携した画面における特殊効果を用いた。また当時はまだ無名であった音楽家の武満徹と鈴木博義のミュージック・コンクレート作品を映画内で使用するなど、前衛的・実験的な表現手法を用いて撮影された。その後、58年に新理研映画を退社し、『記録映画』『映画批評』などの雑誌で映像と美術の垣根を超えた先鋭的な観点に基づく映画理論家として活動する一方、映画制作も旺盛に行う。『安保条約』(1959年)、『白い長い線の記録』(1960年)、『西陣』(1961年)、『石の詩』(1963年)などを出がけていき、「京都記録映画を見る会」という市民団体が企画をした記録映画『西陣』で松本は62年度ベネチア国際記録映画祭グランプリを受賞した。この作品では人の手や機械によって規則正しく繰り返される機織りを、細切れにクロースアップされた映像、ショック的な音楽・ナレーション、分断された音声録音を用いて、働く人間をも分断され繰り返される機械的な運動に還元して見せ、同時に人間が分断されている当時の社会状況や労働問題も炙り出した。 続けて、記録映画『母たち』(1967年)ではアメリカ・フランス・ベトナム・ガーナの四カ国の母親らの姿に、作家の寺山修司の作詩を女優の岸田今日子が朗読を行って重ね、抒情的ながらそれぞれの親子の間に存在するアクチュアルな現実と、社会における黒人差別やベトナム戦争の問題等を問い、重ね合わせた。この作品で再びベネチア国際記録映画祭グランプリを受賞(1967年)した。劇映画としては当時16歳の東京・六本木の踊り子であったピーター(池畑慎之介)を主演に起用した『薔薇の葬列』(1969年)、鶴屋南北の狂言『盟三五大切』を基に制作され、忠臣蔵の裏側の愛憎劇を凄惨に描いた、異色の時代劇である『修羅』(1971年)から『ドグラ・マグラ』(1988年)に至る実験的作品などを精力的に発表。夢野久作の長編小説を原作に落語家・桂枝雀が主演をした『ドグラ・マグラ』では、物語の叙述に焦点をあてた脱構築を目指し、文脈を絶えず非認識的に展開させる実験も行っている。 一方、70年の大阪万博では「せんい館」の総合ディレクターを担当すると共に、自身は『スペースプロジェクション・アコ』を発表。複数画面による映像制作を行なった。複合メディア・アートビデオの領域においても『イコンのためのプロジェクション』(1969年)、『シャドウ』(1969年)、『マルチビデオのためのモナ・リザ』(1974年)『ユーテラス=子宮』(1976年)など、多数の作品を残した。 映画理論家としても、『映像の発見―アヴァンギャルドとドキュメンタリー』(三一書房、1963年)、『表現の世界―芸術前衛たちとその思想』(三一書房、1967年)、『映画の変革―芸術的ラジカリズムとは何か』(1972年 三一書房)、『幻視の美学』(1976年 フィルムアート社)、『映像の探求―制度・越境・記号生成』(三一書房、1991年)、『逸脱の映像』(月曜社:編 金子遊、2013年)など多くの著作をおこない、制作・執筆と同時に、映像教育の分野にも尽力。東京造形大学デザイン科助教授(1968―71年)、九州芸術工科大学芸術工学部画像設計学科教授(1980―85年)、京都芸術短期大学映像専攻課程主任教授(1985―91年)、京都造形芸術大学教授(教務部長・1991―94年、芸術学部長・1995―96年、副学長・1997―98年)、日本映像学会会長(1996―2002年5月)、日本大学芸術学部教授(1999―2002年)、日本大学大学院芸術学研究科客員教授(2002―2012年3月)を歴任した。松本の功績に対して、第17回(2013年)文化庁メディア芸術祭功労賞が贈られたが、映像における前衛的実験、多数の著作による映像理論の発展、後進の教育等、本邦に果たした役割は一言に尽くせないものがある。

儀間比呂志

没年月日:2017/04/11

読み:ぎまひろし、 Gima, Hiroshi*  生涯にわたり沖縄を描き続けた版画家で絵本作家の儀間比呂志は4月11日、肺炎のため死去した。享年94。 1923(大正12)年3月5日沖縄県那覇市久米町に生まれる。士族であった厳格な父のもとに育つも、もともと絵を描くのが好きだったこともあり、小学校でのちに戦後沖縄美術を代表する画家となった大嶺政寛と出会ったのをきっかけに、画家にあこがれるようになる。一方戦時下の昭和40(昭和15)年頃の沖縄では、日本政府による皇民化政策のもと、方言や琉歌が禁止され、息のつまるような状況であった。さらに父親からも絵を描くことを禁止され、沖縄を離れることを決意。40年5月に家を出、マリアナ諸島のひとつであるテニアン島に行き着き滞在、渡嘉敷守良が座長を務める球陽座で道具方の仕事をしたり、芝居絵を描いたりして暮らした。この沖縄芝居から得たドラマツルギーが、後の絵本制作の原点となる。球陽座はロタ、パラオ、ポナペなど他の島への巡業も盛んに行っており、儀間はロタ島で鉄木の彫刻をしていた杉浦佐助と出会う。その後、テニアン島で杉浦と再会、42年12月に戦況の悪化から球陽座が閉鎖されたのを機に杉浦の弟子となり、カロリナス高地の崖下に丸太を渡して建てた小屋にて寝食をともにしながらデッサンなどを学んだ。杉浦の作品をモデルにしながら、儀間は形の正確な把握よりも、そのものがもつ気の表現に務めたという。43年儀間は徴兵検査の令状を受け、杉浦の勧めもあり帰国。44年海軍へ入隊し、翌45年横須賀にて終戦を迎えた。沖縄の親兄弟は皆亡くなったと聞かされた儀間は、失意のまま大阪へと移り、阿倍野の芝居小屋に道具方として雇われ、舞台風景を描いた。46年夏、大阪市立美術館に付属美術研究所が新設されると、洋画部に第一期生として入学(1951年まで在籍)。須田国太郎らに教えを受けるかたわら、生活のために心斎橋で似顔絵を描いていたという。そのうちに沖縄の母親と兄弟たちが生きていることを知るも、すぐには帰郷せずに精進を重ねる。またこの頃、メキシコ壁画運動の画家、ダビッド・アルファロ・シケイロスやディエゴ・リベラらの絵画に出会い、その表現に強く惹かれた。54年創造美術展へ出品して初入選を果たし、55年堺市展にて会頭賞受賞。翌56年には第11回行動美術展へ「働く女達」で初入選を果たし、以後71年まで毎年出品した。また、同年には戦後初めて沖縄へ帰郷、5月に沖縄・那覇市松尾の第一相互ビルにて個展を開催する。帰阪後には沖縄の現状を伝えるため、肌の色が異なる姉妹が肩を組む姿を描いた作品をその年の平和美術展へ出品する。58年第13回行動美術展へ出品した「働く女」「山原のアンマー」で奨励賞を受賞し、翌59年には第14回展へ出品した「蛇皮線」「龍舌蘭」「民謡」で新人賞を受賞、会友となる。さらに60年の第15回展では「島の踊り」「島に生きる」で会友賞受賞、66年には会員に推挙された。一方で儀間は、行動美術展へ出品をするようになった頃より、東京・上野桜木町に住んでいた上野誠に木版画を学び、56年には浅尾忠男との詩画集『城と車』を刊行。68年には第6回東京国際版画ビエンナーレ展へ「まつりの人々A」「まつりの人々B」を出品する。69年ギャラリー安土にて木版画展を開催、71年には画廊みやざきで版画展を開催した。「沖縄の普及化」を目指していた儀間にとって、安価でより多くの人々の目に触れる版画はうってつけの表現形態であった。さらに儀間は、大人だけでなく子どもに対しても沖縄をアピールしていく必要を感じ、絵本制作にも着手。70年には『ねむりむし・じらあ』(福音館書店)を刊行する。翌71年には『ふなひき太良』(岩崎書店)で第25回毎日出版文化賞を、76年には『鉄の子カナヒル』(岩崎書店)で第23回産経児童出版文化賞を受賞。この間、72年5月には行動美術を脱退、以後木版画をもっぱらの仕事とした。85年米軍撮影の沖縄戦記録フィルムの上映会で、白旗を掲げ米軍に近づく少女の映像に衝撃を受け、沖縄戦をテーマにした絵本の作成に着手。同年『りゅう子の白い旗』(築地書館)を刊行する。海軍に入り、沖縄にいなかった儀間にとって、絵本作りは故郷が受けた苦難を追体験する作業であったという。2005(平成17)年には宮古島のハンセン病療養所での取材をもとにした『ツルとタケシ』(清風堂書店)を、翌06年には石垣島に実在した住民の防衛隊を主人公とした『みのかさ隊奮闘記』(ルック)を刊行。さらに当時リトル・オキナワと呼ばれた南洋の島・テニアンを舞台にした『テニアンの瞳』(2008年、海風社)を番外編として、4冊の絵本は「沖縄いくさ物語」シリーズとしてまとめられた。 没後の18年7月には、沖縄県立博物館・美術館にて「儀間比呂志の世界」が開催された。

大岡信

没年月日:2017/04/05

読み:おおおかまこと、 Ooka, Makoto*  現代日本を代表する詩人で、美術評論も多数手がけた大岡信は4月5日午前10時27分、誤嚥性肺炎による呼吸不全のため静岡県三島市内の病院で死去した。享年86。 1931(昭和6)年2月16日静岡県田方郡三島町(現、三島市)に歌人・大岡博の長男として生まれる。旧制中学在学中から短歌や詩を書き始め、東京大学文学部国文学科在学中の52年、雑誌『赤門文学』に発表した評論が注目を集める。53年に同大学を卒業、読売新聞外報部記者の傍ら旺盛な創作を進め、川崎洋、茨木のり子、谷川俊太郎らの詩誌『櫂』に参加。63年に新聞社を退社後は65年に明治大学助教授、70年に同大学教授、88年より東京藝術大学教授を務める。『記憶と現在』(ユリイカ、1956年)、『透視図法―夏のための』(書肆山田、1977年)、『春 少女に』(書肆山田、1978年)等清新な実験精神に富む詩集、『紀貫之』(筑摩書房、1971年、翌年読売文学賞受賞)、『うたげと孤心』(集英社、1978年)等日本の古典に根ざした斬新な評論を次々と発表。また連歌・連句という日本古来の集団制作の伝統を現代詩によみがえらせる「連詩」を創始、海外の詩人らと共同制作を重ね、また外国での朗読会、講演等を通じて日本文学の紹介に努めるなど国際的にも活動した。 大岡は詩人としての創作活動の傍ら、50年代から美術評論家としても活躍した。56年に東野芳明や飯島耕一ら東京大学時代の仲間とシュウルレアリスム研究会を立ち上げた後、『美術批評』に初めての美術評論「PAUL KLEE」を執筆。同誌の他『みづゑ』『美術手帖』等で活発な美術論を展開し、数々の美術書の解説も手がける。58年、書肆ユリイカが創立十周年を記念して企画した「ユリイカ詩画展」で、大岡の詩に対して駒井哲郎が銅版画を合作。59年に東京・日本橋の南画廊で開催された「フォートリエ展」カタログ作成に協力したのをきっかけに同画廊主の志水楠男と知り合い、同画廊を通じて国内外の現代芸術家と交流するようになる。加納光於、宇佐美圭司、嶋田しづ、サム・フランシス、ジャン・ティンゲリーといった美術家はもとより、武満徹や一柳慧といった音楽家とも親交を結んだ。なかでも加納光於とは60年の南画廊での個展で大岡が作品を買ったことがきっかけとなって親しくなり、互いの詩作、作品制作にも深く係わり合い、共同制作「アララットの船あるいは空の蜜」(1971―72年)を生み出した。また63年にパリ青年ビエンナーレ詩部門に参加するため渡仏した際に菅井汲と出会い、以後幾度か詩と画のパフォーマンス的共演を行うなど、美術家との共同制作を試みたほか、自ら版画や水彩画の制作にも取り組んだ。 79年から『朝日新聞』に連載したコラム「折々のうた」で80年に菊池寛賞を受賞。日本現代詩人会会長、日本ペンクラブ会長を歴任し、1995(平成7)年には恩賜賞・日本芸術院賞を受け日本芸術院会員となる。2002年に『大岡信全詩集』(思潮社)が刊行。03年文化勲章を受章。翌年には文化交流の功労に対しフランス政府からレジオン・ドヌール勲章(オフィシエ)を贈られる。06年から07年にかけて三鷹市美術ギャラリー他で、芸術家同士の交流を通じて収集された作品を紹介した「詩人の眼・大岡信コレクション」展が開催。長男の大岡玲(あきら)は作家。09年に脳出血で倒れた後は一線を退き、療養に努めていた。 大岡の美術に関する主要著書は下記の通りである。『芸術マイナス1』(弘文堂、1960年)『ポロック』(みすず書房、1963年)『芸術と伝統』(晶文社、1963年)『眼・ことば・ヨーロッパ』(美術出版社、1965年)『肉眼の思想』(中央公論社、1969年)『現代美術に生きる伝統』(新潮社、1972年)『装飾と非装飾』(晶文社、1973年)『ドガ』(新潮社、1974年)『岡倉天心』(朝日新聞社、1975年)『日本の色』(朝日新聞社、1976年)『加納光於論』(書肆風の薔薇、1982年)『ミクロコスモス 瀧口修造』(みすず書房、1984年)『抽象絵画への招待』(岩波書店、1985年)『美をひらく扉』(講談社、1992年)

見城敏子

没年月日:2017/04/01

読み:けんじょうとしこ  東京文化財研究所名誉研究員の見城敏子は、4月1日に死去した。享年89。 見城は1927(昭和2)年9月14日、大阪市住吉区に生まれた。40年に大連弥生高等女学校に入学、同校を44年3月に卒業後、4月に大連メリノール家政学院入学、46年4月に同校を卒業、48年に帰国し、50年4月に東京都立大学応用化学科入学、51年3月同大学中退、53年4月日本大学短期大学部応用化学科入学、55年3月同大学卒業、56年4月日本大学工学部工業化学科編入学、58年3月同大学を卒業した。同年4月より東京国立文化財研究所保存科学部に勤務。77年11月30日、日本大学から漆塗膜に関する研究で工学博士を授与される。79年8月より物理研究室長を務めた。1989(平成元)年3月に同研究所を退官した。90~2000年まで玉川大学通信教育部非常勤講師として、00~02年には東京学芸大学教育学部非常勤講師、02~04年静岡文化芸術大学非常勤講師として教鞭をとり、文化財保存科学の分野において、人材の育成にもつとめた。07年第1回文化財保存修復学会学会賞を受賞。また、文化財虫害研究所評議員、古文化財科学研究会評議員、千葉県文化財保護審議委員、中国泉州文物保護科協議会顧問、色材協会審議委員、漆を科学する会顧問をつとめた。 東京国立文化財研究所では、伝統技法と文化財の保存・修復に関する研究を進めた。研究対象は日本画材料、油絵材料、木材など、すべての美術品材料に及んでいるが、顕著な業績として、漆工芸品の保存のために漆材料の研究、硬化条件と物性、漆材料と顔料の相互作用、分析手法の検討とデータの集積、混合する油の影響について検討した。基礎的な研究から現場で試験可能な方法の応用開発、出土資料の分析にも成果が展開され、日本の文化財科学の進展に多大な功績を残した。 文化財の保存に関わる研究においては、新築のコンクリート造建物内で美術品が受ける影響、防腐剤・防虫剤の影響について化学的な研究を進めるとともに、文化財の長期保存のための環境の監視方法や湿度調整方法、伝統技法の効果について科学的検証を進め、収蔵庫に求められる条件を明示し、特に酸・アルカリ対策の必要性を明確にした。室内空気の偏酸・偏苛性を判断する変色モニター、変退色に対する光モニター、防湿性・ガスバリア性を持つ二軸延伸ビニロンフィルム法による保存手法の開発など時代をリードする画期的な、かつ、利用者の視線に沿った環境監視ツールの開発は、文化財保存現場の管理能力底上げに資するものであった。 国宝・東照宮陽明門修理、岩内山遺跡北陸自動車関係遺跡調査、メスリ山古墳奈良県史跡名勝天然記念物調査、上総山王山古墳調査、宮城県多賀城席調査、史跡・虎塚古墳彩色壁画調査、茨城県教育財団鹿の子C遺跡漆紙文書調査、寿能泥炭層遺跡調査、千葉県香取郡栗源町台の内古墳調査、二条城書院環境調査、小山市宮内北遺跡文化財調査、糸井宮前遺跡Ⅱ加熱自動車道地域埋蔵文化財調査、港区済海寺・長岡藩牧野家墓所発掘調査、粟野町戸木内遺跡埋蔵文化財調査、中田横穴保存状態調査、出雲岡田山古墳調査、石巻市五松山洞窟遺跡文化財調査、大歳御祖神社拝殿調査、広島壬生西谷遺跡美亜像文化財調査、久米島具志川村清水貝塚発掘調査、杉谷三号墳八区調査、一の谷中世墳墓群遺跡調査、厚木市吾妻坂古墳調査、長柄町横穴群徳増支群発掘調査などに保存科学者として関わり、多くの報告を著した。 研究成果は雑誌に数多発表され、『古文化財之科学』、『日本漆工』、『色材協会誌』、『塗装技術』、『塗装工学』、『塗装と塗料』、『考古学雑誌』、『保存科学』、『文化財の虫菌害』、『照明学会誌』、『博物館学雑誌』、『博物館研究』、『文化庁月報』、『建築知識』などで読むことができる。

林屋晴三

没年月日:2017/04/01

読み:はやしやせいぞう、 Hayashiya, Seizo*  日本陶磁史、とくに茶陶の研究を進めた東京国立博物館名誉館員の林屋晴三は、4月1日に誤嚥性肺炎のため死去した。享年88。林屋は日々茶の湯を実践していたので、数寄者という印象で見られがちであるが、東京国立博物館次長、裏千家茶道資料館顧問、頴川美術館理事長、菊池寛実記念智美術館館長などを歴任し、博物館や美術館における展覧会活動には終生関わりながら、陶磁史研究者としての矜持をもち続けた生涯であった。 1928(昭和3)年7月25日、京都で五人兄弟の末っ子として誕生。母親が茶の湯を嗜むことから、幼いころから自然と茶の湯に親しんできた。40年頃に表千家に入門し、終戦前には表千家の最高位の次の「唐物盆点」の免状をもらうに至っている。林屋の一族はもと加賀藩のお茶師の家で、明治時代末期に京都へ移住、宇治・木幡に製茶会社を立ち上げていた。京都府立京都第五中学校を卒業した後、敢えて大学で学ぶことは選ばなかった。しかし、陶磁研究者への道は、京都の絵画専門学校(現、京都市立芸大)に進んだ長兄の紹介で、日満文化協会理事で中国美術史研究者の杉村勇造と面識を得、杉村の薦めで東京にて学芸員になることを目指すこととなる。47年5月に18歳で東京に出て、杉村の紹介で東京国立博物館を訪れる。正式な職を得るまで図書室で独学、48年2月に非常勤の事務員(雇員)となり、その後数年を経て技師として採用される。「終戦直後で、博物館に入ろうという人間はいなかった時代ですから、僕みたいな中学しか出ていない者でも採用してくれたんですよ」と本人が語っている通り、林屋は大学で育ったアカデミックな世界にどっぷりと浸かった研究者とは異なり、博物館という現場で実際に陶磁器に触れながら鑑識眼を叩き上げていった。そして持ち前の自由な発想と柔軟な指向性から、「林屋メソッド」といわれる独自の審美眼や方法論を構築した。 東京国立博物館では陳列課陶磁係として、陶磁学者の奥田誠一の下に配属され、若干二十歳そこそこで展示作業、収蔵庫倉での作品調査など経験を積み、さらには『日本の陶磁』(東都文化出版、1954年)の編集を奥田から一任され、写真撮影から編纂のほとんどを手掛けることとなる。後に林屋は陶磁関連の図書を積極的に出版していくことになるが、林屋ほど多くの陶磁全集を手掛けた研究者は現在に至るまでその例を見ない。その関連した陶磁全集は、『世界陶磁全集 全16巻』(河出書房、1955~61年)、『陶器全集 全30巻』(〓凡社、1958~66年)、『日本の陶磁』(中央公論社、1971~74年)、『陶磁大系 全53巻』(〓凡社、1973~78年)、『世界陶磁全集 全22巻』(小学館、1976~86年)、『日本の陶磁-現代編 全8巻』(中央公論社、1992~93年)など枚挙に暇ない。特筆されるのが、『日本の陶磁』(中央公論社、1971~74年)で明らかなように、良質の写真図版、そして秀逸なる図版レイアウトなど、その質の確かさである。器を美しく見せるポイントを熟知した林屋は、陶磁器図録作成の先達的存在であり、彼に育てられた編集者や写真カメラマンは数えきれない。 さらに林屋が企画した代表的な展覧会としては、中国陶磁・韓国陶磁・日本陶磁の名品が集められた「東洋陶磁器」展(東京国立博物館、1970年)、本格的な日本陶磁の海外展となった「米国巡回 日本陶磁展」(米国四会場で開催、1972年)、そして特別展「茶の美術」(東京国立博物館、1980年)が挙げられる。とくに「茶の美術」は、茶の湯をテーマとする国立博物館で初の企画展で、その点でも大いに話題となった。かつて日本美術史の研究者は茶の湯道具を研究対象と見做さない傾向もあったが、この展観をきっかけに、茶の湯道具の歴史的意義と美術的価値が再認識されることとなる、重要なエポックとなった展覧会であった。 林屋はその開放的な人柄から、様々な分野の人々と垣根を作らず、幅広い人脈を築いていた。東洋陶磁学会では古窯跡研究の〓崎彰一(1925~2010年)ら考古学者とも交流し、陶磁学の分野に考古学的成果を活かす研究視点を積極的に打ち出している。また、長く理事を務めた日本陶磁器協会(1950年~)においても多くの研究者、コレクター、陶芸家に大いに刺激を与える存在であった。とくに研究者や陶芸家には思ったことは遠慮なくズバリと指摘する怖い教師役であったが、しばしば叱った後に独特の愛嬌のある笑顔を見せる、面倒見の良い「叱り上手」であった。 日本の陶磁史研究は西欧諸国の影響を受け、大正時代後期に本格的に開始されたと言われる。産学共同で「陶磁器研究会」や「彩壺会」などが結成され、やきものを芸術として鑑賞する「鑑賞陶磁」という概念が確立された。その動きの中心人物の一人が奥田誠一であった。奥田の愛弟子である林屋は、紛れもなくこの近代に確立した鑑賞陶磁研究を現代にまで繋げた、最後の生き証人であった。

中野淳

没年月日:2017/03/23

読み:なかのじゅん、 Nakano, Jun*  洋画家で武蔵野美術大学名誉教授の中野淳は3月23日、急性心臓死のため死去した。享年91。 1925(大正14)年8月22日、東京府の両国に生まれる。1938(昭和13)年に安田学園中学校に入学、在学中から油絵を描きはじめ、川端画学校洋画部でデッサンを学んだ。43年に同中学校を卒業すると、川端画学校、本郷洋画研究所に通った。同年11月、第2回新人画会展で松本竣介の出品作「運河風景」(出品時の題名であり、現在の「Y市の橋」東京国立近代美術館蔵である)に感銘を受ける。その後、知人の紹介で松本竣介のアトリエを訪ね、以後親しく批評などを受けるようになった。47年、戦後再開した第21回国展、第11回自由美術展、第31回二科展にそれぞれ初入選した。同年、松本竣介の依頼により、通信教育の育英社の仕事を手伝った。48年、自由美術家協会の会員に推挙され、以後64年まで、同展に出品をつづけた。57年7月、モスクワで開催された世界青年学生平和友好祭国際美術展に参加、出品した「風景」によってプーシキン美術館賞受賞。64年、自由美術家協会を退会し、退会した画友たちと主体美術協会創立に参加。79年、武蔵野美術大学教授となる。86年7月、東京富士美術館にて約70点からなる「中野淳展」を開催。同年9月には、『中野淳画集』(アートよみうり)を刊行。1994(平成6)年1月、主体美術協会を退会、新作家美術会を結成。同会は、後に新作家美術協会と改められ、2016年の第23回展まで毎年出品をつづけた。同年、第9回小山敬三美術賞を受賞、7月に受賞記念展を日本橋高島屋で開催。95年9月、同大学退職を記念して「中野淳教授作品展」を同大学美術資料図書館にて開催。99年8月、『青い絵具の匂い―松本竣介と私』(中公文庫、中央公論新社)を刊行。 長い画歴のなかで、その時代ごとの思潮に敏感に反応しながら画風を変えていったが、堅実な写実表現に徹して、油彩画の構成、技法等の骨格を見失うことはなかった。それは青年期に出会った松本竣介や戦後知己となった岡鹿之助からの教えを守ったためであろう。松本竣介との交流については、上記の本に詳しく回顧され、貴重な記録となっている。また、同書の続編として企画されながら、没後に刊行された『画家たちの昭和―私の画壇交流記』(中央公論新社、2018年3月)も、中野の画家として生きた時代の私的な記録として貴重な内容となっている。

鎌倉秀雄

没年月日:2017/03/14

読み:かまくらひでお  日本画家の鎌倉秀雄は3月14日、呼吸不全のため死去した。享年86。 1930(昭和5)年10月27日、東京・麹町に生まれ、その後すぐ田端へと転居する。父は73年に型絵染の重要無形文化財保持者に認定された鎌倉芳太郎、母は帝展洋画部で活躍した山内静江で、幼少期より院展や帝展、戦争画展などに親しみ、独学で武者絵などを描いていたという。43年東京市桃園第三国民学校卒業、東京都立石神井中学校(現、東京都立石神井高等学校)へ進む。戦後の46年夏、父の故郷である香川県を訪れた帰り、奈良の斑鳩で古寺をめぐり、阿修羅像を見て感動を覚えた。同年11月には朝日新聞の美術記者遠山孝の紹介で大磯の安田靫彦を訪問、持参した作品を見せ、入門を許される。鎌倉は東京から大磯へ毎週通い、写生を見てもらったり、天平時代の乾漆像の話などを聞いたりしたという。また、靫彦の勧めで若手の勉強のために開設された一土会に参加。新井勝利、加藤陶陵、森田曠平、沢田育、松田文子、宮本青架、友田白萠らと研鑽を積んだ。47年東京美術学校の受験に失敗、師靫彦の助言で進学を止め、中学校も退学、画道に邁進する。49年には火燿会に入会。また、44年まで東京美術学校助教授であった父の関係で、自宅によく来ていた里見勝蔵、清水多嘉示らから西欧美術について教示を受け、彫刻家の川口信彦から裸体デッサンやエジプトのレリーフなどについて教えを受けた。 51年師靫彦の許しを得、第36回院展に自宅の黒い犬を描いた「黒い犬と静物」を出品、初入選を果たし、以後も入選を重ねる。一土会解散後は靫彦門下の有志とともに青径会を結成、吉田善彦、郷倉和子、小谷津雅美、吉澤照子、小市美智子、西川春江らと研鑽を積む。鎌倉の交友関係は院展内部にとどまらず、日展系の作家にまで及び、戦後のさまざまな新しい傾向を会得していった。61年には第46回院展へ「天河譜」を出品して奨励賞を受賞、翌年の第47回展でも「月花」が奨励賞となる(第60、62、64、65回展でも受賞)。72年はじめてインドへ旅行し、同年の第57回院展に「熱国の市」を出品、特待に推挙される。以後もインドを主題とした作品を出品し、78年第63回院展の「乳糜供養」が日本美術院賞となった。またエジプトにも訪れ、81年の第66回院展へ古代エジプト墓室内の王妃と侍女を描いた「追想王妃の谷」を出品、2度目の日本美術院賞受賞。同年11月24日付で同人に推挙された。この頃より鎌倉は日本美術家連盟の委員を務めている。その後も「奏」(第67回院展、1982年)、「回想」(第68回院展、1983年)、「望」(第69回院展、1984年)、「砂漠へ」(第70回院展、1985年)、「樹精」(第41回春の院展、1986年)などエジプトを主題とした作品を次々に発表するが、87年からは一転して日本の伝統的な美へと目を向けるようになった。87年の第72回院展へは奈良・興福寺の阿修羅像を描いた「阿修羅」を出品、文部大臣賞を受賞。鎌倉はこの年の1月より、東京国立博物館で行われていた「模造古彫刻」の展観に出ていた阿修羅を連日写生し、興福寺へも実際に足を運んで出品作の制作にあたったという。同作は翌88年3月、文化庁の買い上げとなった。1989(平成元)年には第74回院展へ出品した「鳳凰堂」で内閣総理大臣賞を受賞。同年11月には日本橋三越にて個展を開催する。92年の第47回春の院展には鼓を打つひとりの舞妓を描いた「豆涼」を出品し、秋の第77回院展にもふたりの舞妓で構成した「豆千鶴・豆涼」を出品。鎌倉は舞妓の姿に、幼少期に見た歌麿の美人が重なるとして、以後も「豆涼・如月」(第48回春の院展、1993年)、「豆涼・新緑」(第78回院展、1993年)、「春宵豆涼」(第51回春の院展、1996年)、「豆千鶴」(第53回春の院展、1998年)などを出品している。一方で引き続き、古寺や仏像をテーマにした作品にも取り組み、「大仙院雪色」(第49回春の院展、1994年)、「法華堂内陣」(第79回院展、1994年)、「平等院阿弥陀如来像」(第80回院展、1995年)などを制作。96年の第81回院展には、5年来描き続けてきた京都・浄瑠璃寺の集大成として、「緑風浄瑠璃寺」を出品した。この間、94年6月には日本美術院監事となり院の運営にも尽力する(のち常務理事、業務執行理事)。99年の第54回春の院展には再び舞妓を描いた「豆菊・春陽」を出品、2003年頃まで「羅浮梅少女」(第84回院展、1999年)や「木花之佐久夜毘売」(第85回院展、2000年)、あるいは唐美人を描いた「胡楽想」(第87回院展、2002年)など、古典的な女性像の表現に取り組む。さらに06年からは第91回院展へ出品した「この実に裕美」のように、日本の現代女性を題材に作品を制作。晩年には梅や椿に猫を配した作品を多く展覧会へ出品した。 幼少期から抱き続けた天平というテーマを軸としつつも、インドやエジプトに取材した作品や、さまざまな女性像など、多彩なモチーフを手掛けた画家であった。

長友啓典

没年月日:2017/03/04

読み:ながともけいすけ、 Nagatomo, Keisuke*  アートディレクター、グラフィックデザイナーの長友啓典は3月4日、膵臓がんのため死去した。享年77。 1939(昭和14)年4月8日、大阪府大阪市生まれ。58年、大阪府立天王寺高等学校卒業後、浜松の鉄工所勤務を経て上京。日東機械株式会社に入社し、バルブ検査員として働く。勤務先の社長の家に下宿中、『美術手帖』や『みづえ』等の美術雑誌や書籍を目にし、美大への進学を考えるようになる。お茶の水美術学院の夜間部で学んだ後、61年、桑沢デザイン研究所に入学。グラフィックデザイナー、田中一光に師事した。田中を通じて、早川良雄を紹介され、学校の長期休暇中、実習を行なう。ここでのちにK2を設立することになる黒田征太郎と出会う。在学中であった63年には、日本宣伝美術協会(日宣美)で入選を果たす。卒業後の半年間ほど田中のもとで働いていたところ、日本デザインセンターを紹介され、入社。山城隆一や永井一正について仕事を行なった。67年に、写真家の加納典明と制作したファッションブランド、ジャンセンのポスターで第17回日宣美賞を受賞。その作品とは蛍光赤の紙に、グレーのインクを用いて水着を着た女性の写真をシルクスクリーン印刷したものだった。粟津潔によれば、それまで協会で主流であった理論を盾に表現の適切さを説くモダニズムの系譜に乗っ取ったグラフィックとは異なり、見る者の感覚に訴える点が評価されたそうだ。しかし、亀倉雄策からは、作品が軽すぎるという指摘があった。69年には独立し、黒田とK2設立。主に黒田がイラストレーションを担当し、それをレイアウトにまとめあげるのが長友という分担であった。自身でイラストレーションを手がけた仕事も数多くある。また、この頃から商業的なグラフィックデザインの制作とは別に、実験的な表現の場を求めた活動を行い、当時の日宣美の若手メンバー、青葉益輝、上條喬久、小西啓介、桜井郁男、高橋稔で、メールギャラリーを開始。箱に作品をつめ、一方的にデザインの有識者や財界人に送りつけるという手法をとり、注目される。同名義で大日本インキ化学工業株式会社(現、DIC株式会社)の本社ビルに設けられたデザインギャラリー、プラザ・ディックでの展覧会を提案された際には、メールギャラリーのメンバーを中心に、グラフィックデザイナーの浅葉克己、インテリアデザイナーの倉俣史朗、写真家の沢渡朔、造形作家の戸村浩といった面々を加えた15名でサイレンサーを結成。同会場で69年と70年に「サイレンサー・オン・セール」と題した展示を行なった。同人の集まりのようなもので一緒に旅行をしたり、六本木に「バーサイレンサー」を開いたりなど、多彩な活動を行った。雑誌のアートディレクションやエディトリアルにも数多く携わり、『GORO』や『写楽』では、写真家の篠山紀信と組んで雑誌作りを行なった。感覚に訴える画面作りは、その時代の雰囲気を象徴する媒体ともいえる週刊誌に発揮され、『平凡』や『週刊宝石』では、表紙のアートディレクションを担当した。その他に、広告、装丁、CIと活動は多岐にわたる。自由な画面構成や手描きのタイポグラフィーは、長友のシグネチャースタイルである。アナログ感を持たせたグラフィックは、遊び心があり、親しみやすい。大阪のラジオステーションFM802のCI(1988年)やアパレルブランド、組曲のロゴタイプ(1992年)などがよく知られている仕事で挙げられ、どちらも手描き文字を基調としている。『成功する名刺デザイン』(講談社、2008年)、『死なない練習』(講談社、2011年)など、著書多数。絵本『青のない国』(小さい書房、2014年)を風木一人、松昭教共著で出版している。73年東京アートディレクターズクラブ賞受賞、74年ワルシャワポスタービエンナーレ銅賞、84年講談社出版文化賞さしえ賞などを受賞。日本工学院専門学校グラフィックデザイン科顧問、東京造形大学客員教授を務めた。

高木聖鶴

没年月日:2017/02/24

読み:たかきせいかく、 Takagi, Seikaku*  仮名の書家で文化功労者、文化勲章受章者であった高木聖鶴は2月24日、肺炎のため死去した。享年93。 1923(大正12)年7月12日、岡山県総社市に生まれる。本名郁太(いくた)。旧制高梁中学を卒業ののち会社に勤めながら、1947(昭和22)年、書家内田鶴雲に師事した。50年に第6回日展で初入選し、73年改組第5回日展では特選を受賞。日展においては、日展審査員、会員、評議員、理事などを歴任した。 67年には聖雲書道会を主宰し、78年には内田鶴雲のあとを継ぎ朝陽書道会会長になり、後進の育成にも努める。自身の発表の場としては、70年に岡山市天満屋にて「高木聖鶴書道展」を開催したのをはじめ、83年岡山市森川美術、93年・98年岡山高島屋、2001(平成13)年総社市図書館など、地元岡山を中心に展覧会を開催。出身地である岡山県総社市で活動を続け、85年山陽新聞賞(文化功労)、93年岡山県文化賞ほか受け、04年には総社市名誉市民となった。 91年から11年まで朝日現代書道二十人展のメンバーになり、読売書法会最高顧問、日本書芸院最高顧問、全国書美術振興会名誉顧問、全日本書道連盟名誉顧問、岡山県書道連盟名誉顧問、朝陽書道会会長をつとめる。日本書道をユネスコ無形文化遺産への登録を目指す運動にも尽力した。 学書のために平安時代の書を中心に収集もしており、その秀逸なコレクションを東京国立博物館、九州国立博物館他に寄贈している。日々の鍛錬の大切さを訴えつづけ、「古今和歌集」をはじめとする古典研究につとめ、仮名のみならず、日本・中国の漢字書も学んだ。上代の仮名に倣った小さな仮名の作品も数多く揮毫したが、近代的な展覧会での展示に適した大字の仮名の作品も残している。 平安朝の仮名を習得した上で現代の感覚を加味して表現した仮名に漢字を融合させ、独自の書風を打ち出した。その書は気品があると高い評価を受け続け、仮名書の第一人者として業界を牽引した。 そのほか受賞歴は次のとおりである。91年、第23回日展で「古今和歌集抄」が内閣総理大臣賞を受賞94年、紺綬褒章95年、第26回日展(94年)に出品した「春」により、第51回日本芸術院賞を受賞98年、勲四等旭日小綬章06年、文化功労者13年、文化勲章受章17年、従三位追贈

中川邦彦

没年月日:2017/02/21

読み:なかがわくにひこ、 Nakagawa, Kunihiko*  映像作家、アーティスト、東京造形大学名誉教授、日本映像学会会員、日本フランス語フランス文学学会会員の中川邦彦は2月21日に東京都新宿区にて死去した。享年73。 1943(昭和18)年4月8日、新潟県に生まれる。68年、青山学院大学フランス文学科卒業。卒業後、71年から73年まで映画記事等の記者としてフランスに滞在。73年から東京造形大学非常勤講師を務め、75年より同大学専任教員となる。81年にフランス政府給費研究員として、パリ第三大学にて映画学者ミシェル・マリー指導のもと映画記号学を専攻。88年には東京造形大学海外研究員として、パリ社会科学・言語学高等研究所にて映画記号論の先駆であるクリスチャン・メッツの指導をうけた。1989(平成元)年より東京造形大学教授。映画理論や映画記号学による物語構造の研究や、自身による映像作品制作を続け、理論と制作の両面で後進の指導にあたった。 主な論文や著書としては、フランスの作家・映画作家であるアラン・ロブ=グリエの作品を対象とした「アラン・ロブ=グリエの短編小説「マネキン」を映画によって読むことについて」(『映像学』1―13、1979年)、『難解物語映画-アラン・ロブ=グリエ・フィルムスタディー』(高文堂出版社、2005年)などがある。アラン・ロブ=グリエとは中川自身、親交が厚く、彼の小説を原作にした短編映画『浜辺、はるかに』(1977年、16mm/白黒 15分)なども制作している。さらに、『芸術の記号論』(加藤茂・谷川渥・持田公子共著、勁草書房、1983年)、物語を映画で述べることの形相研究として『Narratologie formelle du film(映画物語形相論)』(青山フランス文学論集 復刊2,79―94、1993年)など、映画記号学や映像理論分析的な面から論じたものがある。 一方、映像作家としても、『L’ESPACE DE TRANSFORMATION(変身の空間)』(未公開、1968年16mm/白黒 20分)の制作をはじめとし、前衛的な実験映画や制作した各作品が70年代からグルノーブル国際短編映画祭(1976年)、リール国際短編映画祭(1977年)、ベルフォール映画祭(1978年)、モントリオール映画祭(1978年)などフランスやその他各国の映画祭で上映される。日本における実験映画作家の作品を取り上げる企画のなかで、81年には当時パリのポンピドゥーセンターにあったシネマテーク・フランセーズにて『日本の実験映画:中川邦彦』として、それまで制作した16mm映画全作品の上映が行われた。シネマテーク・フランセーズでは『距てられた部屋、あるいは…』(1975年、16mm/白黒 15分)、前述の『浜辺、はるかに』などの作品を収蔵している。近年ではドイツのボンでの『明日は今日はじまる』展(2000年)、オマーンのマスカットでの第一回国際美術展(2006年)等にインタラクティブムービー『DEF』シリーズの出品を行った。加えて、2006年からは春秋映画株式会社専務取締役として記録映画制作にも携わっており、実験映画だけでなく映像作家としても幅広く活動した。

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