上前智祐
現代美術家の上前智祐は4月16日に老衰のため死去した。享年97。
1920(大正9)年7月31日、京都府中郡奥大野村(現、京丹後市)に生まれる。1歳の時に実父由蔵を亡くし、病気がちな母の里んと共に苦難と貧困の幼少期を送る。4歳のころ耳を患い、難聴となる。小学校卒業後18歳まで洗い張り店へ奉公にで、挿絵画家を夢見て、肖像画、イラスト、南画などを独学。神戸、横浜などを転々としたのち、1944(昭和19)年、召集を受け、翌年陸軍一等兵として八丈島で終戦を迎える。実家の舞鶴へ戻り、舞鶴海軍経理部や日本通運舞鶴支所で勤務、クレーン運転免許証取得。この頃、木村荘八『美術講座』を読み、洋画を志すようになる。47年、第二紀会第1回展に「舞鶴港の夕景」(同展出品目録では「風景」)を出品、初入選。京都の関西美術院に通い黒田重太郎に指導を受ける。49年、同郷の看護婦小谷徳枝と結婚。51年、西舞鶴図書館で初の個展を開催。以後1950年代前半は朱舷会展、神戸モダンアート研究会展、ゲンビ展などに参加、本格的に抽象画の制作・発表をはじめる。神戸に移り、川崎重工業神戸工場に勤務。52年、吉原治良の非具象のクレパス画を見て感銘を受け、翌年、吉原宅を訪問、指導を仰ぐようになる。54年、具体美術協会の結成に参加、72年の同協会解散まで在籍。55年、第7回読売アンデパンダン展に「具体(上)」「具体(前)」を初出品。56年には兵庫県神戸市垂水区に100坪の山林を購入、数年掛けて住居とアトリエを建設。57年、第7回モダンアート協会展に出品、新人賞受賞。58年、新しい絵画世界展-アンフォルメルと具体(なんば〓島屋ほか)への出品作品は、吉原治良の評価も高く、下見をしたミシェル・タピエも「今回の1番の注目すべき作品だ」と絶賛したという。64年、現代美術の動向 絵画と彫刻展(国立近代美術館・京都分館)に出品。66年、具体ピナコテカにて個展を開催。75年にはアーティスト・ユニオンに、76年にはGe展に参加。80年、神戸製鋼所のクレーン操作の仕事を退職、創作活動に打ち込む。個展としては、集合と綢密のコスモロジー・上前智祐展(大阪府立現代美術センター、1999年)、「上前智祐と具体美術協会」展(福岡市美術館 常設展示室内企画展示室、2005年)、点と面の詩情 上前智祐・山中嘉一・坪田政彦展(和歌山県立近代美術館、2008年)、卒寿を超えて 上前智祐の自画道(神戸・BBプラザ美術館、2012年)、上前智祐・最初の始まり・さとかえりてん(京丹後市・大宮ふれあい工房、2013年、第3回郷土偉人展)等がある。具体美術協会に所属しつつも、所謂アクション・ペインティングとは一線を画し、地道な手作業の積み重ねによる反復、油絵具を多層に塗重ねた点描、パレットナイフを用いた線のパターンによる油彩、マッチ軸・おが屑・絵具のキャップ等を油絵具で塗り固めたミックスメディアの作品等を創作、マチエールと対峙し、非具象の世界を独自に探究し続けた。具体解散以降も「縫い」、版画、四角がモチーフの油彩やミックスメディアなど新たな制作に挑み、2012(平成24)年前後まで創作活動を継続。晩年は、具体美術協会の活動を再評価する機運が国内外に高まり、具体―ニッポンの前衛 18年の軌跡(国立新美術館、2012年)、具体展(グッゲンハイム美術館、2013年)に出品、多方面から注目を集めた。
自費による出版も多く、作品集に『孤立の道 上前智祐画集』(1995年)、『版画作品 2000年4月―8月』(2000年)等、著書に『とび出しナイフ』(1976年)、『自画道』(共同出版社、1985年)、『現代美術―僕の場合』(1988年)、『ある人への返書』(1998年)、『上前智祐 非具象の仕事』(2002年)、『「縫い」の作品について』(2005年)、『思い出 神戸の灘浜にて』(2010年)。また日記翻刻に中塚宏行編『上前日記 1947―2010 上前智祐と具体』(上前智祐記念財団、2019年)がある。
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「上前智祐」『日本美術年鑑』令和元年版(506-507頁)
例)「上前智祐 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995691.html(閲覧日 2024-12-03)
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