加藤好弘

没年月日:2018/02/09
分野:, (美)
読み:かとうよしひろ

 1960年代に過激なパフォーマンスを展開した前衛芸術集団「ゼロ次元」を主導した加藤好弘は2月9日に膀胱がんのため死去した。享年81。
 1936(昭和11)年名古屋生まれ。生家は名古屋市南外堀町で食堂「好乃屋」を営み、父親は軍隊に2度招集され中国東北部に赴任したという。加藤も幼少期を1年ほど中国東北部で過ごし、終戦の3年ほど前に名古屋に戻り、母親の家に疎開。終戦後、中学のころに北川民次の塾に行き、絵を学ぶ。愛知県立明和高等学校に入学後、マルクス主義に傾倒。高校卒業後、多摩美術大学に進学、59年に同大学美術学部絵画科を卒業。大学時代に教員であった田中一松に歴史に向き合う姿勢についての影響を受け、また同大学と同じ世田谷区上野毛にアトリエを構えた岡本太郎の石版画制作のアシスタントをしたという。卒業後、名古屋に戻り教員として勤務。60年、岩田信市らが結成した絵画グループ「0次現」に、加藤らが合流し、<人間の行為をゼロに導く>というコンセプトで「ゼロ次元」を結成、同年1月の公開儀式「はいつくばり行進」を皮切りに数々のパフォーマンスを行う。64年に拠点を東京に移した加藤と、名古屋にとどまった岩田を中心に、都市空間のなかで数々のパフォーマンスを行った。同年、日本超芸術見本市(愛知県文化会館美術館、平和公園他)で、のちの「全裸儀式」の原型となるパフォーマンスを実施。65年、アンデパンダン・アート・フェスティバル(現代美術の祭典、通称岐阜アンパン)にてゼロ次元として河川敷に見世物小屋風テントを設営し儀式を行う。日本万国博覧会(大阪万博)が行われる前年69年には、秋山祐徳太子、告陰、ビタミン・アート、クロハタなどとともに反万博団体「万博破壊共闘派」を立ち上げ、各地で反万博運動を展開、加藤を含む数名が猥褻物陳列罪で逮捕されるなど社会を賑わせた。翌70年、パフォーマンス記録映画『いなばの白うさぎ』を製作したのち、加藤は次第にインドのタントラ研究に没頭し、グループとしての活動は減少することとなる。
 ヨシダ・ヨシエ針生一郎など一部の批評家を除き、美術界では永く言及されてこなかったが、三頭谷鷹史、椹木野衣、黒ダライ児らによって再評価が進んでいる。黒ダ『肉体のアナーキズム』(グラムブックス、2010年)では、ゼロ次元の活動がなければ、この時代における「反芸術パフォーマンス史」そのものが成立しなかったほど大きな存在といわれる。2006年には、写真家・平田実の作品集として『ゼロ次元 加藤好弘と六十年代』(河出書房新社、2006年)が刊行。15年に日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴとAsia Culture Center(韓国・光州)との共同事業として加藤の聞き取り調査を行った(聞き手は細谷修平、黒ダ、黒川典是)。

出 典:『日本美術年鑑』令和元年版(499頁)
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「加藤好弘」『日本美術年鑑』令和元年版(499頁)
例)「加藤好弘 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995636.html(閲覧日 2024-10-07)

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