川崎清

没年月日:2018/06/09
分野:, (建)
読み:かわさききよし

 建築家で京都大学名誉教授の川崎清は入院療養中のところ、6月9日、胃がんのため死去した。享年86。
 1932(昭和7)年4月28日新潟県南蒲原郡加茂町(現、加茂市)生まれ、51年に県立三条高等学校を卒業し、京都大学理学部に進学、在学中に工学部建築学科に転じ、建築家で同科講師(1958年助教授、1962年教授)の増田友也に師事した。58年京都大学大学院博士課程を退学して同大建築学科講師に着任、64年助教授、70年大阪大学工学部環境工学科に移り、71年に「建築設計のシステム化に関する基礎的研究-建築設計における情報処理の研究-」により学位を取得、72年教授となった。83年に京都大学に戻り、1996(平成8)年の定年退官後は立命館大学理工学部教授となり、2003年に定年退職するまでのおよそ半世紀に渡って大学に籍を置き、生涯を通じて旺盛であった設計活動と並行して、その大半を教職に献じた。
 建築家としては、国立国際会議場競技設計(1963年)や日本万国博覧会会場計画案(1965年)等の論理的かつ挑戦的な提案に加え、後楽園植物温室(1964年)、斐川農協会館、大津柳ヶ崎浄水場(1965年)等先鋭的で凄みのある実作を次々と発表し、早くからモダニズム建築の旗手として注目された。70年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)では、丹下健三のもとに大高正人菊竹清訓、磯崎新、曽根幸一ら気鋭の建築家が集った設計チームに抜擢され、丹下自ら設計したシンボルゾーン(お祭り広場)に池を挟んで対峙する万国博美術館を担当した。万国博美術館は、巨大な三角形のボリュームにコンクリートの量感ある構造と透明性の高いガラスの空間を対比的に統合した、モダニズム建築家としての川崎の初期の設計活動を象徴する建築である。
 大阪万博の閉幕後、京都市内に個人事務所(環境・建築研究所)を設立して設計活動を本格化し、建築の大半を地下に埋め込むことで岡崎公園の近代的景観の継承に深い配慮を示した京都市美術館収蔵庫(1971年)、元々敷地にあったスズカケの大樹を手がかりに地形に呼応した幾何学的構成の中に美術館機能をまとめた栃木県立美術館(1972年)と、自身の代表作となる建築を立て続けに手掛けた。その後も自らの事務所名に冠した通り、建築が存在する「環境」に主眼を置いた設計活動を精力的に展開した。川崎の「環境」への視座は、建築周囲の物理的な状態のみに留まらず、風や水などの流動的な自然環境を意識した徳島県文化の森総合公園(1990年)や能動的な市民活動の活性化を意図した京都市勧業館みやこめっせ(1996年)で顕著に示されるように、建築と相互に関連する外的事象の総体に及んでいる。新築の設計のみならず、史跡・重要文化財の旧緒方洪庵住宅(適塾)の修復整備(1981年)や旧京都帝国大学本館(百周年時計台記念館)の保存再生(2003年)など歴史的建造物の改修にも関わり、また信楽町のまちづくりを主導するなど、川崎が生涯に手がけた建築は多彩かつ幅広い。また、関西を中心に多くの建築設計競技の審査員を務め、激しい景観論争を巻き起こしたJR京都駅改築国際設計競技(1989年)では委員長として審査の取りまとめに尽力した。
 万国博美術館の日本建築学会万国博特別賞、栃木県立美術館の芸術選奨・文部大臣賞、京都市勧業館みやこめっせの京都デザイン賞・京都市長賞ほか建築関係の受賞多数、2011年瑞宝中綬章。主な著作に『仕組まれた意匠-京都空間の研究』(鹿島出版会、1991年)、『空間の風景-川崎清建築作品集-』(新建築社、1996年)がある。

出 典:『日本美術年鑑』令和元年版(512頁)
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「川崎清」『日本美術年鑑』令和元年版(512頁)
例)「川崎清 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995726.html(閲覧日 2024-04-18)

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