星忠伸

没年月日:2018/07/14
分野:, (美関)
読み:ほしただのぶ

 東京日本橋の一番星画廊の創業者で美術商の星忠伸は癌のため7月14日死去した。享年71。
 1947(昭和22)年12月5日、福島県双葉郡広野町に生まれる。福島県立勿来工業高等学校を卒業後、幼い頃から好きだった絵を学ぶため、京都市立芸術大学への入学をめざし京都に移り住む。新聞配達をしながら受験勉強に励んだものの進学に至らず、当時面識を得ていた画家の福田平八郎の助言により、画商として身を立てることを決心し、上京する。67年から銀座の石井三柳堂に勤務し、中川一政をはじめ多くの画家と出会う。72年、自宅営業の美術商として開業する。77年、作家で僧侶の今東光を通じて美術史家の田中一松と知り合う。星と田中はたまたま近所に住んでいたことから、これ以後、星は83年に田中が亡くなるまで、日常的に田中の運転手役を買って出るなど親交を深め、田中から古美術の手ほどきを受け、その後の星の仕事にも大きな影響を与えたという。一番星画廊が関わった山形県酒田市の本間美術館での展覧会の仕事なども、田中が同館の相談役を務めていた機縁によるという。
 87年、古美術商の組田昌平の協力のもと、東京日本橋に株式会社一番星画廊を設立し、公立美術館への作品納入を中心に画廊経営をおこなう。屋号の「一番星」は中川一政の命名によるもので、開廊記念として中川一政展を開催した。看板とした墨書「一番星」も中川一政の印象的な書風が今なお輝かしく、画家と画商のあいだの豊かな親交を物語っている。星は、第一線で活躍する画家のスケッチ旅行の運転手としてその制作を手助けする一方、若い駆け出しの画家を温かく励まし支援するなど、星の明るい人柄とやさしさ、機転の利いた行動力をうかがわせるエピソードを数々の画家や美術関係者が伝えている。1996(平成8)年から2010年にかけて、日本画家・小泉淳作による建長寺法堂天井画および建仁寺法堂天井画の雲龍図や東大寺本坊障壁画等の制作プロジェクトに関わった。星は絵をこよなく愛し、自分がほれ込むような絵を描く画家を大切にしてきた。病を得て、入院先の病室でも小品の絵を賞翫していたという。2020(令和2)年2月29日から3月12日に、星を追悼して「よいの明星」展が一番星画廊にて開催され、親交のあった画家や大寺院の僧侶、美術関係者らの追悼文が寄せられた小冊子が発行されている。

出 典:『日本美術年鑑』令和元年版(514-515頁)
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「星忠伸」『日本美術年鑑』令和元年版(514-515頁)
例)「星忠伸 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995746.html(閲覧日 2024-04-24)

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