村田省蔵

没年月日:2018/07/14
分野:, (洋)
読み:むらたしょうぞう

 日本芸術院会員の洋画家村田省蔵は7月14日午前1時8分、肝臓がんのため、神奈川県鎌倉市の自宅で死去した。享年89。
 1929年(昭和4)6月15日、金沢市上堤町に生まれる。生家は生糸問屋を営む。42年、金沢県立第二中学校に入学。44年海軍飛行予科練習生として滋賀航空隊に入隊する。45年の終戦により金沢第二中学校に復学。同年10月に金沢地方海軍付属海軍会館を石川県美術館として開催された第1回現代美術展を訪れて宮本三郎の作品に感動し、画家を志す。46年10月金沢美術工芸専門学校予科に入学し、洋画を専攻して高光一也宮本三郎に師事。同校での同級生に鴨居玲がいる。49年第35回光風会展に金沢美術工芸専門学校の中庭に集う学生たちを階上から見下ろした「昼近き中庭」で初入選。また、同年、同作と並行して制作していた「診療室の女医さん」で第5回日展に初入選。50年金沢美術工芸専門学校(現、金沢美術工芸大学)洋画科卒業、引き続き研究科に在籍。同年第36回光風会展に「窓辺の女」を出品してムーン賞受賞。同年から小絲源太郎に師事。51年上京し、引き続き小絲の指導を受け、59年第45回光風会展に「渡船場」を出品して会友賞受賞。61年第4回日展に「河」を出品して特選受賞。65年3月日本橋三越で初個展開催。66年光風会を退会する。67年秋、横浜港からモスクワ経由でパリに渡り、ヨーロッパ、アメリカを訪れて68年に帰国。同年、第11回日展に「箱根新涼」を出品して菊華賞受賞。72年および74年にメキシコに旅行する。74年日展審査員となり75年に同会員となる。79年、フランス、スペインを旅する。81年訪中。82年イタリアへ、84年、アメリカ旅行。86年に北海道富良野を訪れ、以後、北海道シリーズを描く。1989(平成元)年、インドネシアのバリ島、イタリアのシチリア島へ旅行。90年から日展評議員をつとめる。93年新潟県長岡市岩室には稲架木の取材に訪れ、以後、稲架木のある風景を好んで描く。98年第30回日展に稲架木のある冬景色を描いた「春めく」を出品して内閣総理大臣賞受賞。2005年第37回日展にやはり稲架木のある冬景色を描いた「春耕」を出品し、06年に同作によって恩賜賞、日本芸術院賞を受賞。同年12月に日本芸術院会員となる。07年に『村田省蔵画集』(北国新聞社)が刊行される。09年9月東京日本橋三越にて「村田省蔵 画業60年 傘寿記念展」を開催。11年5月北國新聞社主催により北國文化交流センターで「画業60年の軌跡」展を開催。12年イタリア、ボローニャに取材旅行。13年1月、郷里の石川県立美術館で「村田省蔵 画業60年の歩み」が開催され、1948年制作の自画像から2012年第68回現代美術展出品作「冬野」まで94点が展観される。年譜は同展図録に詳しい。金沢市が戦後、市民の昂揚のために設立した現代美術展には48年の第4回展から出品を続けたほか、00年に金沢学院大学美術文化学部教授、12年には同名誉教授となるなど、郷里の美術活動に長らく寄与した。初期には人物を主なモチーフとしたが、50年代後半から風景画を中心に描くようになり、67年の渡欧、72年のメキシコ旅行を経て、明るく豊かな色彩を特色とする都市風景画を多く制作した。80年代には北海道の大地を、90年代以降は稲架木のある景色を好んで、自然と人の営みが織りなす風景を描いた。没後の2019(令和元)年6月、石川県立美術館で所蔵作品27点を展観する「没後1年村田省蔵展-大地を描く」展が開催された。

出 典:『日本美術年鑑』令和元年版(515頁)
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「村田省蔵」『日本美術年鑑』令和元年版(515頁)
例)「村田省蔵 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995751.html(閲覧日 2024-03-29)

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