服部峻昇

没年月日:2018/07/29
分野:, (工)
読み:はっとりしゅんしょう

 漆芸家の服部峻昇(本名・俊夫)は7月29日、肺炎のため死去した。享年75。
 1943(昭和18)年1月6日、白生地屋を営む父・正太郎と母・うのの三男として、京都府京都市下京区に生まれる。中学校時代の美術教師の勧めで、58年に京都市立日吉ヶ丘高等学校(現、京都市立銅駝美術工芸高等学校)美術工芸課程漆芸科に入学、同校で指導していた漆芸家の水内杏平、平石晃祥らの指導を受ける。61年の卒業作品である漆パネル「佳人」は教育委員会賞を受賞。同年、京都市内の中村デザインスタジオに入り、65年まで勤務の傍ら作品制作を続ける。62年、第14回京展に漆パネル「おんな」で初入選、以後毎年出品を重ねる。63年、第6回新日展に漆パネル「夜の演奏者」で初入選。64年、第17回京都工芸美術展に初出品、以後毎年出品。同年、現代漆芸研究集団「朱玄会」の会員となり、漆パネル「翔」を出品、以後毎年出品。朱玄会を主宰していた番浦省吾に漆芸を学ぶ。65年、上原清に弟子入りし、蒔絵を学ぶ。69年、第22回京都工芸美術展に「漆卓」を出品、優賞受賞。70年、第22回京展に二曲屏風「花象」で市長賞受賞。またこの年、京都で活動する若手の漆芸家によるグループ「フォルメ」を伊藤祐司、鈴木雅也(三代鈴木表朔)らとともに結成、創立同人となる。「フォルメ」では60年代から70年代にかけて隆盛した前衛美術の影響を受けて、とりわけアクリルやカシュー漆などの新素材を漆芸表現に積極的に取り入れた。78年の解散まで、新たな素材との融合から漆工芸のあり方を模索する意欲的な制作を行う。72年、第4回日展で二曲屏風「陽の芯」で特選受賞。75年、文化庁在外研修員として1年間欧米に留学し、スウェーデンのコンストアカデミーやフランスのS.W.ヘイター氏の版画工房などでエッチングを学ぶ。79年、創立第1回日本新工芸展に二曲屏風「パトラスの月」を出品、審査員を務める。80年頃までの作品は、主に太陽や月などをモチーフに、抽象的かつ幾何学的な心象風景と明快な色彩の対比を特徴とした大型のパネルや屏風などの平面作品を中心とした。帰国後は、ギリシャの港町パトラスで見た月夜を題材にした作品シリーズに着手。この一連の作品は、その後「現代の琳派」と評されるようになる作風へと繋がってゆく転換点となる。82年、京都市芸術新人賞を受賞、また第14回日展で飾棚「潮光空間」が特選受賞。服部は以前から螺鈿を用いていたが、この頃より、南方のメキシコやニュージーランドの海で採れる螺鈿(耀貝)を作品制作の主要な素材として用い始める。耀貝のゆらめくような輝きは、波や光、風の移ろいなどの五感に訴える自然現象を表現する際の手法として生かされた。作品は次第に具象的傾向を強め、四季の草花や鳥などのモチーフに耀貝の光沢を組み合わせた情趣豊かな飾棚や飾箱が制作の中心となる。84年、日本新工芸展で耀貝飾箱「曄光」が日本新工芸会員賞受賞。87年、第40回京都工芸美術展で耀貝飾箱「潮文」が大賞受賞。88年、本名の「俊夫」から「峻昇」に改名する。1992(平成4)年、第4回倫雅美術奨励賞(創作活動部門)を受賞。95年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世に謁見、漆の典書台を献上。97年、京都府文化賞功労賞受賞。98年、紺綬褒章受章。99年、第12回京都美術文化賞受賞。玉虫採集家との出会いから、緑色に光る玉虫の翅を手に入れ、2004年から作品制作に取り入れる。05年、京都迎賓館主賓室の飾棚「波の燦」および調度品を制作。06年、京都市文化功労者。12年、第22回日工会展で文部科学大臣賞受賞。日展理事、日工会代表、京都府工芸美術作家協会理事などを歴任。京都に受け継がれた漆芸の伝統を受け継ぐとともに、さまざまな種類の螺鈿の光沢、さらに晩年は玉虫ならではの独特のきらめきを新たに組み合わせ、漆芸の素材に由来する光や質感を大胆に対比させた装飾性の高い日本的風景に独自の世界観を示し、その表現を追求した。

出 典:『日本美術年鑑』令和元年版(518-519頁)
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「服部峻昇」『日本美術年鑑』令和元年版(518-519頁)
例)「服部峻昇 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995776.html(閲覧日 2024-10-05)

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