川﨑春彦

没年月日:2018/10/02
分野:, (日)
読み:かわさきはるひこ

 日本画家で日展顧問の川﨑春彦は10月2日、老衰のため死去した。享年89。
 1929(昭和4)年3月17日、東京都杉並区阿佐ヶ谷において、日本画家の父川﨑小虎と母清子の間に、5人兄弟の末子として生まれる。曾祖父は明治時代の大家として知られる川﨑千虎。また4歳上の兄鈴彦は日本画家で、長姉澄子は40年、春彦11歳の折に東山魁夷に嫁している。41年3月に東京府豊多摩郡杉並第一尋常小学校(現、杉並区立杉並第一小学校)を卒業、4月には日本大学第二中学校に入学する。同年12月には太平洋戦争がはじまり、道路工事や立川飛行機工場での作業に従事。44年12月には一家とともに山梨県中臣摩郡落合村へ疎開した。45年3月に日本大学第二中学校を卒業すると東京美術学校(現、東京藝術大学)予科へ進学。食糧難や社会情勢への不安などから、学校へはたまに行く程度であったといい、終戦後も疎開先に留まり、父小虎や兄鈴彦、義兄の東山魁夷らと山梨の山野を写生して歩き、絵を描く喜びを覚えたという。46年4月東京美術学校日本画科に入学。48年7月には父とともに東京へ戻り、50年3月、東京藝術大学を卒業した。同年4月第10回日本画院展に「山の湖」「十一月の頃」が初入選、10月には自宅近くに取材した「阿佐ヶ谷風景」が第6回日展で初入選を果たした。日本画院展ではその後、第11回展(1951年)で奨励賞、第12回展(1952年)で日本画院賞第一席、第13回展(1953年)で魚菜園賞、第14回展(1954年)で友の会賞、第15回展(1955年)でG氏賞を受賞し、第16回展(1956年)では日本画院賞受賞とともに、同人に推挙されている。51年3月には東京美術学校日本画科第60回卒業生10名による研究発表会「縁日会」の結成に参加、同年の第1回展から54年の第4回展まで毎年出品する。また同年6月には小虎塾の有志が研究会「森々会」を結成、その第1回展へ「四月の頃」「森」「高原」「丘」を出品した。同会へはその後も、56年まで毎年出品している。この頃から川﨑は全国の山や森林を写生して回るようになった。57年3月17日上田陽子と結婚。59年12月には長女麻子が誕生した。61年4月、兄鈴彦との二人展を文藝春秋画廊で開催。同年6月には栃木県会館で「川﨑春彦日本画展」を開く。さらにこの年の第4回新日展では、丹沢山麓でスケッチした、台風前の強風に揺れ動く森のようすに着想を得た「風の森」で特選・白寿賞を受賞した。この頃の作風は大量の写生をもとにした写実的なもので、ごまかしがきかないと自ら語る枯れ木をモチーフにした作品をしばしば手掛けている。62年には第5回新日展に「冬愁」が入選、同作は翌63年2月の第4回みづゑ賞選抜展に招待出品された。また63年には日展無鑑査となり、64年にはインドネシアに取材した「孤島」で再び特選・白寿賞を受賞、65年からは出品委嘱となる。「孤島」は暗く荒れた海と低く垂れこめた雲で構成された作品で、これ以降、川﨑は風や雲を中心テーマとして制作をするようになっていく。69年6月「空をテーマに―川﨑春彦近作展」(フジ・アート・ギャラリー)を開催。73年には日展会員となる。74年11月には「風をテーマに―川﨑春彦展」を日本橋・髙島屋にて開催。同展はさまざまな風の姿を描き分けようと、日本や外国で出会った風のスケッチをもとにした作品で構成された。76年10月の改組第8回日展には、雲間から射す光に照らされた富士を描いた「燿く」を出品。この頃より川﨑は富士山を描きはじめるが、写生だけでは絶対に描けないと、心で見た富士の姿を描き出していった。78年5月、横綱昇進した若乃花(二代)の化粧まわしをデザイン。80年5月には日展評議員となる。83年10月の改組第15回日展では英国に取材した「野」で文部大臣賞受賞。87年の改組第19回日展には富士山を背に勇ましい姿を見せる龍を描いた「天駆ける」を出品。翌年にかけて龍を描いた作品を複数制作する。これ以降、それまで自然の厳しさを表現してきた川﨑の作風が、1990(平成2)年の改組第22回日展へ出品された「天」のように、自然の優しさや美しさを感じさせるものへと変化していった。90年には日本相撲協会より横綱審議委員会委員を委嘱され(2003年まで)、95年に貴乃花が新横綱となった際には、明治神宮での奉納土俵入りに出席。その化粧まわし「日月赤富士」をデザインした。99年に若乃花(三代)が横綱昇進した折には、下保昭とともに化粧まわしのデザインを行い、2000年9月の断髪式には3番目にはさみを入れた。04年改組第36回日展に「朝明けの湖」を出品、翌05年6月同作に対して、恩賜賞・日本芸術院賞が贈られた。同年日展理事となり、06年12月には日本芸術院会員となった。07年には日展常務理事に、09年には同顧問となる。18年5月旭日中綬章受章。没後の10月27日には従四位に叙された。
 長女の川﨑麻児も日本画家として活躍している。

出 典:『日本美術年鑑』令和元年版(521-522頁)
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「川﨑春彦」『日本美術年鑑』令和元年版(521-522頁)
例)「川﨑春彦 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995806.html(閲覧日 2024-04-25)

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