流政之

没年月日:2018/07/07
分野:, (彫)
読み:ながれまさゆき

 彫刻家の流政之は7月7日、老衰のため死去した。享年95。
 1923(大正12)年2月14日、長崎県に生まれる。父の中川小十郎は立命館大学創設者として知られており、流も同校へ1941(昭和16)年に入学している。在学中は衣笠鍛錬所にて作刀研磨を学ぶ他、太平洋戦争末期にゼロ戦パイロットとして兵役を務める。しかし、出撃命令の前に終戦となったという。
 46~51年頃、大学を中退するが、八木一夫熊倉順吉らを知り、陶芸をはじめた。52年、創元社出版の戸塚文子著『やぶかんぞう』(1952年)、テネシー・ウィリアムズ著『ストーン夫人のローマの春』(1953年)の表紙デザインを手がけるなど、美術関係の仕事をはじめるようになる。
 55年になると、彫刻作品の制作に打ち込むようになる。同年、美松画廊、村松画廊で個展を開催。58年、養清堂画廊で個展を開催し、ニューヨークシティバレー団のリンカーン・カースティンが個展を観覧した。また、建築家のイーロ・サーリネン夫婦が作品を購入したという。翌年には、フィリップ・ジョンソン、ミノル・ヤマサキ、マルセル・ブロイヤーなどが作品を購入。当初から海外の芸術家から高く評価され、60年に「受」がニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションとなった。61年にはピッツバーグ・インターナショナルに選出。62年には大分県庁の壁面に「恋矢車」を制作し、日本建築学会賞を受賞する。このように国内外から作品が評価され、同年渡米に至った。
 64年、ニューヨーク世界博覧会日本館で「ストーン クレージー」を発表。66年、香川県庵治半島に自身のアトリエを建設した。また、67年には早くも香川県文化功労者に選ばれ、74年には日本芸術大賞と第2回長野野外彫刻賞を受賞。翌年、7年をかけて制作した「雲の砦」が完成し、世界貿易センタービル前の広場に設置された(2001年のアメリカ同時多発テロ事件の際に撤去)。78年には「かくれた恋」で第9回中原悌二郎賞を受賞、83年には吉田五十八賞を受賞している。1995(平成7)年には「波しぐれ三度笠」で鳥取県景観大賞を受賞。そのほか、海外や日本で個展を開催した。
 流は、初期から香川県庵治半島で採掘される庵治石を使用し、62年には庵治の職人とともに「石匠塾」を立ち上げ、職人とともに作品制作を行った。また、翌年には、讃岐民具連を結成するなど、美術家だけではなく職人との交流を大切にしたようである。
 また、「ワレハダ」という庵治石の特性を生かした技法を考案し、作品に用いたことで知られる。このように、職人からの協力と、独自の技法を駆使し、石による巨大彫刻を制作した。600トンの石を使用した先述の「ストーン クレージー」をはじめ、総社市「神が辻」(1985~92年)、香川県「浜栗林」(1991年)など1000トン~4000トンを使った作品を発表。一方で、東京文化会館の「のぼり屏風」(1961年)、同施設の「江戸きんきら」(1992年)などの建築装飾や、鳥取県米子市の皆生温泉東光園の庭園を手がけるなど、さまざまな分野で活躍した。いずれにしても、空間を最大限に活用した、スケールの大きな作品を発表した。
 なお、2009年には高松市美術館で「流政之展」が開催され、これまでの活動が顕彰された。また、同年に『流政之作品論集』(美術出版社)が刊行され、森村泰昌や中ザワヒデキなどが文章を寄せている他、歿後の2019(令和元)年にはNAGARE STUDIO 流政之美術館が開館している。

出 典:『日本美術年鑑』令和元年版(513-514頁)
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「流政之」『日本美術年鑑』令和元年版(513-514頁)
例)「流政之 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995736.html(閲覧日 2024-04-20)

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