長野重一

没年月日:2019/01/30
分野:, (写)
読み:ながのしげいち

 写真家の長野重一は1月30日、慢性腎不全のため東京都目黒区内の病院で死去した。享年93。
 1925(大正14)年3月30日大分県大分市に生まれる。生後すぐに父の叔父の戸籍に入り長野姓となる。小学校一年までは大分の生家(生野家)で育ち、1932(昭和7)年に上京、東京・高輪で養母と暮らし始めた。35年慶應幼稚舎に編入、同普通部を経て42年慶應義塾大学予科に進学。普通部在学中に本格的に写真を撮り始め、仲間と写真クラブを結成する。大学では「慶應フォトフレンズ」に入会し、OBの野島康三らの指導を受けた。47年9月に同大学経済学部を卒業。当初商社に就職するが、慶應の先輩にあたる写真家三木淳の紹介で、名取洋之助が創刊準備を進めていた『週刊サンニュース』に編集部員として採用されることになり、ひと月ほどで商社を辞めサンニュースフォトスに入社した。同社では編集および撮影助手などを務める。49年3月『週刊サンニュース』が廃刊となり、同12月、翌年6月創刊の『岩波写真文庫』に、編集責任者となった名取の誘いで加わり、撮影を担当するようになる。この間、『サンニュース』誌に初めて掲載される予定で養老院を取材したうちの一点を『アルス写真年鑑1950年版』に応募し特選を受賞、これが初の作品掲載となる。『岩波写真文庫』では共作も含め60冊あまりの撮影を担当した他、同社の総合誌『世界』の撮影も担当した。
 54年に岩波を辞しフリーランスとなる。当初カメラ雑誌に技法記事を寄稿、その後週刊誌、総合誌等の仕事をてがけるようになった。56年木村伊兵衛と土門拳を顧問とする若手写真家のグループ「集団フォト」に参加、59年まで「集団フォト」展に出品。58年には初の海外取材で香港に渡航、同年初個展「香港」(富士フォトサロン、東京)を開催。60年には東ベルリンで開催された国際報道写真家会議に日本代表として出席するとともに東西ベルリンを取材、その成果を個展「ベルリン-東と西と」(富士フォトサロン)や雑誌で発表、安保闘争における権力側の象徴として機動隊をとらえた「警視庁機動隊」や高度成長期の世相を映す「五時のサラリーマン」等が注目された『アサヒカメラ』での連載「話題のフォト・ルポ」とあわせ、同年の日本写真批評家協会賞作家賞を受賞した。後年、それらの仕事は写真集『1960 長野重一写真集』(平凡社、1990年)にまとめられる。
 60年代を通じてカメラ雑誌、一般誌に多くの寄稿を重ね、67年から70年にかけては『朝日ジャーナル』のグラビア頁の企画・編集を担当した。長野は、さまざまな社会事象を写真家自身の問題意識に立脚したドキュメンタリーとして撮影する自らの手法をフォトエッセイと位置づけ、客観性を過度に重視する報道写真とは一線を画した。77年にはそうした自身の方法をふまえつつ、ドキュメンタリー写真のあり方と歴史を考察した『ドキュメンタリー写真』(現代カメラ新書 No.30、朝日ソノラマ)を著している。
 59年テレビ用記録映画「年輪の秘密」シリーズ(岩波映画)の『出雲かぐら』の撮影を、制作を手がけた羽仁進の誘いで担当。以後、ムービー撮影を多くてがける。撮影を担当した映画に、「東京オリンピック」(撮影と編集の一部を担当、市川崑総監督、1965年公開)、「アンデスの花嫁」(羽仁進監督、1966年公開)、人形劇映画「トッポ・ジージョのボタン戦争」(市川崑監督、1967年公開)等。また60年代末から70年代にかけコマーシャル・フィルムの撮影を多くてがけ、73年には撮影を担当したレナウン「イエイエ」のテレビCMがADC賞を受賞した。この時期、多くのコマーシャル・フィルムの仕事を大林宜彦とともにしており、後に「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群」(1988年公開)、「北京的西瓜」(1989年公開)、「ふたり」(1991年公開)等の大林作品で撮影を担当した。
 80年代には東京をモティーフとした写真の撮影を開始、それらをまとめた86年の個展「遠い視線」(ニコンサロン、東京および大阪)で伊奈信男賞(ニコンサロン年度賞)を受賞。その後も「遠い視線Ⅱ」(ニコンサロン、東京、1988年)、「東京好日」(コニカプラザ、東京、1996年)などの個展を開催。1997(平成9)年には「研究・長野重一の写真学 焼け跡から「遠い視線」まで―長野重一の原点を探る 発見して撮り、感じて写す。」(ガーディアン・ガーデン、東京)、2000年には「この国の記憶 長野重一・写真の仕事」(東京都写真美術館)と、回顧的な個展が開催された。
 上記以外のおもな写真集に『ドリームエイジ』(ソノラマ写真選書10、朝日ソノラマ、1978年)、『遠い視線』(アイピーシー、1989年)、『東京好日』(平凡社、1995年)等がある。
 91年および95年に日本写真協会賞年度賞(それぞれ『1960 長野重一写真集』、個展「私の出逢った半世紀」に対して)。93年に紫綬褒章、98年に勲四等旭日小綬章を受章。06年には長年の功績に対し日本写真協会賞功労賞を受賞した。

出 典:『日本美術年鑑』令和2年版(479-480頁)
登録日:2023年09月13日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「長野重一」『日本美術年鑑』令和2年版(479-480頁)
例)「長野重一 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/2040921.html(閲覧日 2024-04-28)

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