村松秀太郎

没年月日:2018/11/21
分野:, (日)
読み:むらまつひでたろう

 日本画家で元創画会会員の村松秀太郎は11月21日に死去した。享年83。
 1935(昭和10)年1月5日、静岡県清水市(現、静岡市清水区)の材木商の家に11人兄弟の末っ子として生まれる。横山大観の「夜桜」に感銘を受けて日本画の世界を志し、56年東京藝術大学に入学、61年同大学美術学部を卒業し、同大学専攻科に入学する。この年、卒業制作で60年の安保闘争に取材した裸体群像「六月」が再興第46回日本美術院展に入選、また「人体A」が第25回新制作協会展に入選し、以後同展に毎年出品する。63年東京藝術大学日本画専攻科修了。63、68、71年に新制作展新作家賞、63、64、73、74年春季展賞受賞。新制作展に引き続いて創画展に出品し、76年春季展賞および第3回展の創画会賞、77年春季展賞を得て、翌78年創画会会員となる。一方で73年に市川保道、大山鎮、滝沢具幸、戸田康一、松本俊喬とグループ展メガロパを結成、78年までに5回の展覧会を開催した。人間群像を大画面に繰り広げ、生と死、男女の業といった根源的なテーマに取り組んだ村松は、油彩画のような重厚なタッチやマチエールの作風でありながら、箔押しの技術を導入し、カオスを感じさせる大胆な表現のうちに日本画のリアリティを追求した。また64年にカンボジアのアンコールワットを訪ねて以来、世界各地へ精力的にスケッチ旅行に出かけ、とりわけアンコールワットやインドのカジュラーホーで出会った官能的な人体表現は、性愛を主題とした制作に大きな影響を与えている。81年には山形県金山町役場大壁画「団結、力、調和」、83年清水市新市庁舎陶板大壁画「海の子讃歌」、87年立教高等学校図書館陶板壁画「騎馬民族説」といった公共施設の壁画を制作。90年代には中国の桂林や黄山に取材した山水画を手がけ、個展で発表。また1995(平成7)年9月から1年余にわたり『日本経済新聞』に連載された、渡辺淳一による小説「失楽園」の挿絵を担当し、97年『失楽園』挿絵石版画集を刊行。この間、96年に茨城県近代美術館で開催の「交感する磁場―6つの個展」でエネルギッシュに活躍する作家の一人として作品8点が展示される。98年には日本橋高島屋にて新旧の大作を交えた自選展を開催。同年から2002年にかけて岡村桂三郎、斉藤典彦といった世代の異なる作家とともにMETA展を開催、全5回の展覧会に毎回出品する。99年東京芝の増上寺中広間の襖絵「双龍と天女」および天井画「牡丹」を完成させる。2006年美術年鑑社より『村松秀太郎画集 愛と生の讃歌』を刊行。07年創画会を退会。09年、14年に市川市芳澤ガーデンギャラリーで「村松秀太郎展」を開催。75~81年多摩美術大学講師、88年筑波大学助教授、92~98年同大学教授、2000~04年千葉商大政策情報学部講師、00~08年大阪芸術大学教授を務めた。

出 典:『日本美術年鑑』令和元年版(530-531頁)
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「村松秀太郎」『日本美術年鑑』令和元年版(530-531頁)
例)「村松秀太郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995871.html(閲覧日 2024-03-28)

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