藤戸竹喜

没年月日:2018/10/26
分野:, (彫)
読み:ふじとたけき

 アイヌ民族彫刻家の藤戸竹喜は10月26日多臓器不全のため死去した。享年84。
 1934(昭和9)年8月22日、北海道美幌町に生まれる。父・竹夫は彫り師であった。幼い頃に旭川の近文コタンへ移り、12歳から父のもとで熊彫りをはじめたという。熊彫りは、北海道において土産物として人気を博していた民芸品であり、旭川はそのルーツのひとつといわれている。その旭川で修業をはじめた藤戸は、15、6歳の頃に、当時熊彫りが作られはじめた阿寒湖に父と訪れ、以後3年間、夏季に同地の土産物産、吉田屋で職人として仕事を受けもつようになった。
 54年、札幌に移った父の片腕として仕事をするとともに、全国の観光地をめぐって熊彫りの武者修行を行う。60年には阿寒に戻り、再び吉田屋に入るが、64年に独立し、同地に民芸店「熊の家」を構えるようになった。この頃の作品に「怒り熊」などがあげられる他、熊彫りのレリーフなども制作した。65年には第1回木彫製品作成コンクールにて北海道知事賞を受賞するなど、その腕を上げ、67年には阿寒湖の環境保全や観光振興を担っていた前田一歩園に「群熊」を納めている。
 69年、前田一歩園三代目園主の前田光子より、二代目園主である前田正次の十三回忌に供える「樹霊観音像」(正徳院蔵)の制作依頼を受ける。それまで藤戸は熊彫りの制作に専念していたが、この「樹霊観音像」をきっかけに、アイヌ風俗や文化を反映した作品を制作するようになる。翌年には、「カムイノミ まりも祭り 日川善次郎」や、「熊狩の像 菊池儀之助」などアイヌの伝統文化を守る身近な人物をモデルとした作品を制作。これらは販売を目的としない作品であった。以後、アイヌ文化の精神を彫刻作品に表すことを使命として制作活動を行った。
 また、「樹霊観音像」完成後から肖像彫刻の依頼が増えたことも表現の広がりにつながったとみられる。71年には札幌ソビエト領事館の依頼により「レーニン胸像」を、翌年には東海大学の依頼により、「東海大学総長松前重義像」を制作。その後も、さまざまな肖像彫刻を手掛けた。
 75年には自身のアトリエ兼住居の藤戸民芸館が完成し、78年には「藤戸竹喜彫刻展」(旭川 西武百貨店)、82年には「木彫小品展」(画廊丹青)、86年には、「カムイとエカシ 藤戸竹喜作品展」(優佳良織工芸館)を開催する。そして、1992(平成4)年には祖母をモデルとした「藤戸タケ像」を制作し、翌年に同作は国立民族学博物館へ収蔵された。また、94年から97年までは毎年個展を行うなど精力的な活動を展開した。
 2000年代前後からは発表の場が北海道だけではなく本土、さらには海外の展覧会に出品される機会が増え、99年には「ANIU:Spirit of a Northern People」(スミソニアン国立自然史博物館)、2003年には「アイヌからのメッセージ」(徳島県立博物館他)、07年には「アイヌからのメッセージ2007」(一関市博物館他)において作品を発表している。
 14年には釧路市文化賞、翌年には北海道文化賞を受賞。また、16年には地域文化功労者(芸術文化分野)として文部科学省大臣賞を受賞。そして、17年には大規模個展「現れよ。森羅の生命―木彫家藤戸竹喜の世界」(札幌芸術の森美術館、国立民族学博物館)が行われ、その制作活動が顕彰された。
 藤戸は生涯、砂澤ビッキなどの一部を除き、彫刻家との交流も少なく、中央の美術界と直接接点を持つことはなかったようである。そのため、同時代の作家とは異なり、野外彫刻展や国際美術展等で評価されていた彫刻家とは異なる文脈で活動していた作家といえよう。
 熊をはじめとする動物たちの姿を通し、豊かでありながらも険しい北海道の自然を表す一方で、アイヌの伝統や文化、精神を表現した作品や、先人に思いを馳せた美術作品を多く手がけた。商業的性格が強かった「熊彫り」を美術作品へ昇華させ、さらにはアイヌの伝統と文化を国内外に広めた功績は大きい。

出 典:『日本美術年鑑』令和元年版(526-527頁)
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「藤戸竹喜」『日本美術年鑑』令和元年版(526-527頁)
例)「藤戸竹喜 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995836.html(閲覧日 2024-12-04)

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