江口草玄
井上有一等と墨人会を結成し、書の革新に努めた書家の江口草玄は11月16日、老衰で死去した。享年98。
1919(大正8)年12月21日、新潟県刈羽郡西中通村(現、柏崎市)に生まれる。戦前より書作を始め、雑誌『南海書聖』『健筆』『書道藝術』等の競書に作品を提出。1940(昭和15)年に応召して中国へ赴くも銃創を負い内地送還され、陸軍病院で転地療養する中で再び書作に戻る。戦後、48年に創刊した研精会(上田桑鳩会長、森田子龍主幹)の『書の美』の競書に出品、桑鳩の美術的造形性にまで広がる視野に覚醒し、期待の新人の一人として見られるようになる。その一方で鈴木鳴鐸の『碧樹』(1946年創刊、翌年『蒼穹』に改題)も購読し、鳴鐸の批判精神に共鳴する。50年第6回日展に「幽居」が入選、特選候補となるも翌年の第7回日展に出品した釋處默詩「聖果寺」は落選し、師風伝承が色濃く残る書壇への不信感を募らせる。そうした中、51年洋画家長谷川三郎による「現代美術について」講習会に参加し、同じく参加者の中村木子、森田子龍、関谷大年と意気投合、新進気鋭の書家だった井上有一も交えて、52年墨人会を結成する。翌年京都へ転居。墨人会では長谷川三郎やイサム・ノグチ、京都大学の美学者井島勉、哲学・仏教学者久松真一、また津高和一や吉原治良等関西の美術家達との交流の中で、旧態的書から離れて先鋭化し、毛筆の代わりに鏝を使い、直接練り墨を手で掴み書く等の実験的制作により、毛筆と文字の拘束からの離脱を試みるも、55年にベルギーの画家ピエール・アレシンスキーによる映画「日本の書」撮影の際、書の骨格は文字を書くことでしか表せないのを自覚し、文字による作品制作に回帰していく。65年、初個展を京都市美術館で開催。76年、会創立の趣旨が失われたとして墨人会を脱退。以降、個展やグループ展等で作品を発表し続ける。78年作品集『草玄ことば書き』を刊行。83~84年頃に江戸時代の俳人慶紀逸の『俳諧武玉川』に魅せられ、その句を使って作品を作り出すようになる。一方でその活動は自身の書作だけに止まらず、子供たちに対し筆法伝授の習字ではなく、のびのびとした書教育を『ひびき』誌の発行を通じて実践。また80年より私家版の冊子『山階通信』を発行し、近況報告の他、良寛、池大雅、鈴木鳴鐸、白隠、中野越南等の書人の研究を同誌上で行なった。1996(平成8)年には新潟県立近代美術館で「戦後の書・その一変相 江口草玄」展、また亡くなる直前の2018年5月26日~7月1日にも同館で「白寿 江口草玄のすべて」展が開催されている。
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「江口草玄」『日本美術年鑑』令和元年版(530頁)
例)「江口草玄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995866.html(閲覧日 2024-11-03)
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