堀尾貞治

没年月日:2018/11/03
分野:, (美)
読み:ほりおさだはる

 具体美術協会会員で芸術家の堀尾貞治は11月3日に兵庫運河貯木場跡で死去した。享年79。
 1939(昭和14)年神戸市兵庫区浜中町に父壽春、母まさの三男一女の長男として生まれる。父はカメラマン、叔父幹雄は陶芸家濱田庄司のコレクターで、大阪民藝協会設立とともに常務理事を務めた。中学卒業後、家計を支えるために、三菱重工業神戸造船所に就職。造船所養成校で学び、製図の仕事に従事、洋画部にも所属、主に製造部門で定年まで勤める。在職中は仕事と創作活動を両立させ、これまで多い時には年間100回以上の個展やパフォーマンスなどを行った。57年より芦屋市展に出品、自由美術協会展と独立美術協会展にも入選。64年より京都アンデパンダンに出品。65年、第15回具体美術展に初出品、翌年会員となり、72年の同協会が解散するまで参加。66年、初個展を開催(大阪・信濃橋画廊、企画=高橋亨)。68年、木村昭子と結婚。73年に坂本昌也とはじめた「京都北白川美術村」を舞台にした活動をはじめる。75年頃からの神戸の居酒屋「ぼんくら」、79年に神戸三宮東門筋のうどん屋の2階に開設した東門画廊等で、実験的な展覧会が数多く行われるスペースの運営に携わる。80年代は職場でのストレス等により、しばしば精神不安定となり、怪我も多く入院することもあったという。その一方でこの時期に「空気」「あたりまえのこと」という生涯にわたる創作のテーマを見いだす。82年、京都・アートスペース虹にて個展を開催。85年、白内障手術の際に、失明しても可能な制作行為として、身の周りのあらゆるものに、毎日1色ずつ塗り重ねていくことで、アトリエの物質自体を行為の集積造形として現前化させる「色塗り」をはじめる。同年、東門画廊が閉廊、そのあとを継ぐかたちで六間画廊開設。86年に出向、その同僚周治央城と大判木版画「妙好人伝」シリーズ等を制作・発表。87年、神戸国際交流館内に画廊ポルティコがオープン、神戸市文化振興財団から運営を受託。1993(平成5)年、山下克彦との往復書簡「SADA」がはじまる。95年、阪神淡路大震災に際して、叔父からの助言で震災風景を描き、学校、役所、寺院等で展示する。97年から毎日起床後、アトリエに10枚ほどの紙を並べ、1枚1分以内の速さで描く「1分打法」をはじめる。2002年、「堀尾貞治展 あたりまえのこと」(芦屋市立美術博物館)開催。03年、神戸・兵庫運河貯木場で野外展「空気美術館」開催、堀尾と交流のあったアーティスト達が参加し約1年間作品展示とパフォーマンスを行う。これを契機として現場芸術集団「空気」(事務局長=原口研治)が誕生。05年、横浜トリエンナーレに現場芸術集団「空気」と参加、連続82日のパフォーマンスを行う。11年、ベルギーで個展、作品集刊行。14年、個展「堀尾貞治 あたりまえのこと 今」(神戸・BBプラザ美術館)開催。16年、奈良県額田部・喜多ギャラリーで1000枚のパネル作品「千Go千点物語」制作。このころ、メニエール病を発症、18年に鬱状態となり自死を選んだ。その時々で自らの状況を受け入れ、時間や空間、人を含めた日常生活全般と美術活動を共鳴させ、自身の創作精神を具現化した。晩年は、具体美術協会の活動を再評価する機運が国内外に高まり、注目を集めた。
 作品集に『堀尾貞治80年代の記録』(熊谷寿美子、1998年)、『親戚のさだはるさん』(松田陽子、2010年)、『堀尾貞治』(堀尾あや、2020年)等、展覧会記録映像に『Sadaharu Horio Solo Exhibition:Oridinary Things』(〓屋市立美術博物館、2003年)。堀尾と妻昭子の活動をまとめた公式サイト「堀尾貞治・堀尾昭子」(https://sadaharuhorio.net/index.html)、YouTubeチャンネル「堀尾貞治 あたりまえのこと」(https://www.youtube.com/channel/UCwM―gmmvWrMtRAk3kBRGj6A/featured)がある。

出 典:『日本美術年鑑』令和元年版(528頁)
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「堀尾貞治」『日本美術年鑑』令和元年版(528頁)
例)「堀尾貞治 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995851.html(閲覧日 2024-05-27)

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