明珍昭二

没年月日:2018/10/26
分野:, (美関)
読み:みょうちんしょうじ

 株式会社明古堂設立者で仏師・修理技術者の明珍昭二は10月26日に死去した。享年91。
 1927(昭和2)年7月29日、奈良県奈良市高畑町に明珍家の五男として生まれる。父の明珍恒男は明治から昭和にかけて数多くの仏像修理を手がけ、奈良県美術院主事を務めた。40年3月、恒男が死去。44年3月に大阪府立四条畷中学校(現、大阪府立四条畷高等学校)を卒業し、4月、南満州鉄道株式会社に就職する。45年8月、満州にて終戦を迎え、46年に帰国した。47年4月、東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻学科に入学し、彫刻家・平櫛田中の指導を受ける。52年3月、同大学を卒業。同年7月には鎌倉・覚園寺で美術院が行っていた木造薬師三尊像・十二神将像の修理作業に参加し、修理者としての道を歩むようになる。同じ頃、修理の仕事と並行して世田谷区立中学校(梅ヶ丘・駒留・砧)にて美術の非常勤講師として勤務する。彫刻史研究者の丸尾彰三郎西川新次らの勧めによって、次第に指定文化財の仏像修理に携わるようになり、64年6月には株式会社明古堂を設立。当初は合成樹脂を用いて仏像などのレプリカ制作を行う会社であったが、第一次オイルショックの影響で原材料の入手が難しくなって以降は仏像修理に専念することになる。
 修理技術者として、生涯にわたって数多くの指定文化財の修理を手掛けた。主な修理作品に、千葉・観音院阿弥陀如来坐像(千葉県指定文化財)、東京・浄真寺五劫思惟阿弥陀如来坐像(世田谷区指定文化財)、静岡・桑原薬師堂阿弥陀如来坐像および両脇侍像(重要文化財)、千葉・正延寺五智如来坐像(千葉県指定文化財)、千葉・迎接寺阿弥陀如来坐像及び両脇侍像(千葉県指定文化財)、北海道・宗圓寺五百羅漢像(北海道指定文化財)など。また、神奈川・宝樹院阿弥陀三尊像(神奈川県指定文化財)や、福島・泉竜寺十一面観音菩薩立像(福島県指定文化財)、鎌倉国宝館(旧辻薬師堂)・十二神将立像(神奈川県指定文化財)、神奈川・寶金剛寺不動明王および二童子立像(神奈川県指定文化財)など、明珍が解体修理を行った過程において像内銘記や納入品が発見された作例も少なくない。
 1989(平成元)年から90年にかけては、火災に遭った東京・寛永寺開山堂(両大師)天海僧正坐像の修理を行い、「大仏師」の称号を授与された。95年10月、長年の文化財保護の功績により文化庁長官表彰を受ける。

出 典:『日本美術年鑑』令和元年版(527頁)
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「明珍昭二」『日本美術年鑑』令和元年版(527頁)
例)「明珍昭二 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995841.html(閲覧日 2024-06-24)

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