ワシオ・トシヒコ

没年月日:2019/06/02
分野:, (評)
読み:わしおとしひこ

 美術評論家で詩人のワシオ・トシヒコは6月2日に死去した。享年75。
 1943(昭和18)年12月19日、岩手県釜石市清水町に生まれる。本名は鷲尾俊彦。高校、大学ともに國學院に学び、「ワシオ・トシヒコ」のペンネームで、サークル誌にエッセイや紀行文を発表。66年、岩手県立福岡工業高校で国語科教員となるが、詩集『星ひとつ』(私家版)を上梓したのち、翌67年、教職を辞す。東京に戻り、銀座の詩誌句集専門書店瓢〓堂の店長として働き、季刊雑誌『ピエロタ』(母岩社)を編集する傍らで、金子光晴主宰詩誌『あいなめ』同人となり、詩人として活動。72年、サトー・デザインセンター入社、毎日新聞社出版宣伝部へ出向。渋谷の古書店で矢野文夫編著『野獣派長谷川利行』(芸術社)と出会い、翌年『月刊VISION』に「闇に生き狂う魂:長谷川利行」を発表。74年から毎日グラフ別冊「一億人の昭和五十年史」、その後、毎日新聞社昭和史編集部「一億人の昭和史」シリーズの編集に従事。81年、フリーランスとなり、82年から『毎日グラフ』で美術展評を、翌年から『三彩』で書評を寄稿。これ以降、本格的に美術紙誌に参入し、精力的に執筆活動を展開。83年、美術評論家連盟会員となり、このころからコンクール展や美術家団体の公募展を審査する機会が増える。86年、六本木のギャラリー、ストライプハウス美術館で四方田草炎展を企画したことを契機に、同館で本人曰く「異色物故作家シリーズ」を企画、閉館2000(平成12)年までに高山良策、宮崎喜三、クガ・マリフ、矢野文夫らの回顧展を実施。また同ギャラリーを拠点に発足した公開講座「世紀末大学」で講師を務めた。94年には駿河台大学で、97年には女子美術大学で非常勤講師に赴任。98年、中野市が主催する長野冬季オリンピック大会国際公募「小さな絵画、大きな輪」展を企画立案、審査員を務める。04年、ノー・ウォー美術家の集い横浜展(神奈川県民ホール)に詩の作品を展示、同年結成「<九条の会>アピールに賛同する詩人の輪」、翌年結成<美術・九条の会>の呼びかけ人となる。05年、新人具象画家の登竜門といわれる損保ジャパン美術財団・産経新聞社主催第25回選抜奨励展の審査員長となる。07年、『ワシオ・トシヒコ詩集』(土曜美術社出版販売)上梓。09年、青木繁「海の幸」会の発足に際して理事となる。晩年は、『美術屋百兵衛』で「読解・絵画鑑賞講座」、『月刊美術』で「連載わがまま絵画点評 深見東州の世界」、『月刊ギャラリー』で「評論の眼」等連載を数多くもった。
 雑誌メディアが隆盛を極めた昭和の終わりから、雑誌不況といわれた平成の終わりまで、“詩人美術評論家〟のひとりとして、とりわけ異端の画家、夭折の画家の評伝を得意とし、その生き様を多くの美術愛好者に届けた。継続的なフィールドワークによって成立する同時代作家に呼応した執筆活動を展開し膨大な数の著述を残した。
 著書に『具象系絵画の現在』(舷灯社、1987年)、『異色画家論ノート』(舷灯社、1989年)、『現代画家へのメッセージ50人』(生活の友社、1995年、MADO美術文庫)、編著書に『画家小泉清の肖像』(恒文社、1995年)、『矢野文夫芸術論集』(舷灯社、1996年)等がある。

出 典:『日本美術年鑑』令和2年版(491-492頁)
登録日:2023年09月13日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「ワシオ・トシヒコ」『日本美術年鑑』令和2年版(491-492頁)
例)「ワシオ・トシヒコ 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/2041021.html(閲覧日 2024-04-28)
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