木幡和枝

没年月日:2019/04/15
分野:, (美関)
読み:こばたかずえ

 アート・プロデューサーで東京藝術大学名誉教授の木幡和枝は4月15日、上部消化器の多量出血で死去した。享年72。
 1946(昭和21)年7月26日、東京都に生まれる。69年に上智大学文学部新聞学科を卒業後、TBSブリタニカ、工作舎での編集者として活動。工作舎で手がけた『スーパーレディ1009』(1977年)での取材が縁で、草間彌生に執筆を促し長編小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』(1978年)の刊行となる。70年代より音楽、舞踊の公演や美術展等を企画し、とくに舞踊家の田中泯の海外活動プロデュースに参加。当時の現代美術の動向として、作品の収蔵や保存、売買を目的とせずインスタレーションやパフォーマンス等の場を提供するオルタナティヴ・スペースが出現していたが、これを受けて82年、木幡は東京、中野富士見町に日本のオルタナティヴ・スペースの先駆となるplan-Bを田中泯と設立、アーティストの自主管理による共同スペースとして美術や音楽、演劇といった、あらゆる表現の実験的追求をテーマに実行委員会方式で企画を展開する。また海外でも、オルタナティヴ・スペースの主導者で、70年代より木幡と親交のあったキュレーターのアラナ・ハイスが発足させたニューヨークのP.S.1コンテンポラリー・アート・センター(2000年にニューヨーク近代美術館と提携しMoma P.S.1と改称)の客員キュレーターを85年より務める。88年には、田中泯が身体気象農場として農場と舞塾を開いていた山梨県白州町(現、北杜市)で「白州・夏・フェスティバル」(後に「アートキャンプ白州」、「ダンス白州」と改称)を開始、その事務局長・実行委員を務めた。同フェスティバルは農山村の住民と積極的に交わりながら現地の建物や風景を劇場に、町全体を美術館にする試みで、舞踊、音楽、映像等のプログラムを展開する他、plan-Bの実行委員でもある美術家の榎倉康二、高山登、原口典之らにより町内の各所で野外展示が行なわれた。2000年より東京藝術大学先端芸術表現科教授、03年より同大学美術学部美術研究科修士課程教授を兼任。同大学先端芸術表現科では米の美術家ゴードン・マッタ=クラークの検証プロジェクト等を通して、美術館等の既成のシステムから解き放たれた「場所に拝跪しないアート」を指導。05年の愛知万国博覧会では「地球市民村」のアドバイザリー・プロデューサーを務めた。米国の作家で批評家のスーザン・ソンタグと親交を結び、その著作等、翻訳を多数手がけたことでも知られ、ジャーナリスト、批評家としても幅広く活動した。14年東京藝術大学名誉教授となる。没後の19年9月から10月にかけて、その設立に関わったplan-Bにて木幡を追悼し、高山登展覧会「地下動物園」が開催された。

出 典:『日本美術年鑑』令和2年版(486頁)
登録日:2023年09月13日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「木幡和枝」『日本美術年鑑』令和2年版(486頁)
例)「木幡和枝 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/2040976.html(閲覧日 2024-04-28)

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