本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





河原正彦

没年月日:2017/05/09

読み:かわはらまさひこ  京都国立博物館名誉館員で、元京都橘大学教授の河原正彦は5月9日、細菌性肺炎のため京都府城陽市内の病院で死去した。享年81。 1935(昭和10)年9月25日、長野市に生まれる。68年、同志社大学大学院文学研究科文化史学専攻博士課程単位取得退学。大学院在籍中の64年より京都府立総合資料館に4年間勤務し、68年に京都国立博物館へ職場を転じた。76年から同館学芸課工芸室長、95年から同館学芸課長を務めた。1997(平成9)年に退官した後、2006年まで京都橘女子大学(後に京都橘大学)教授として教鞭を執る傍ら、滋賀県立陶芸の森館長を務めた。 京都国立博物館には、陶磁器担当の研究員として勤務していたが、工芸品全般、とりわけ意匠としての文様に造詣が深く、その一端を京都国立博物館の特別展覧会「日本の意匠―工芸にみる古典文学の世界」(1978年)の図録論文「工芸にみる古典文学意匠の流れ」をはじめとして、共編著の『日本の文様』全30巻および別冊3巻(光琳社出版、1970~79年)の中に窺うことができる。 陶磁器に関しては、『古清水』(京都書院、1972年)、『陶磁大系26京焼』(〓凡社、1973年)、「御室仁清窯の基礎的研究―文献史料を中心とする考察」(『東洋陶磁』4、1974年)、『日本陶磁全集27仁清』(中央公論社、1976年)、『日本のやきもの22仁清』(講談社、1976年)、『日本のやきもの 現代の巨匠15清水六兵衛』(講談社、1977年)、『日本陶磁全集29頴川・木米』(中央公論社、1978年)、『乾山』(日本の美術154、1979年)、『頴川・木米・道八』(日本の美術227、1985年)、「仁清作色絵雉香炉―その製作期をめぐって」(『國華』1100、1987年)、「京焼の「陶法伝書」―『陶工必用』『陶磁製方』『陶器指南』」(『学叢』28、2006年)など京焼に関する著作が目立って多いが、『陶磁大系9丹波』(〓凡社、1975年)、『日本陶磁全集12信楽』(中央公論社、1977年)、『信楽と伊賀』(日本の美術169、1980年)、『丹波』(日本の美術398、1999年)など焼締陶器に関する著書も少なくない。さらには、『染付伊万里大皿』(京都書院、1974年)、『古染付』(京都書院、1977年)、『唐津』(日本の美術136、1977年)といった唐津焼・伊万里焼・中国陶磁に関する著作も手掛けるなど、陶磁器全般に関する広汎な見識を有していた。 京都国立博物館在職時に企画を担当し、日本人と中国陶磁の関わりを古代から近世まで通時代的に捉えて展観してみせた特別展覧会「日本人が好んだ中国陶磁」(1991年)では、研究領域が幅広い陶磁器研究者としての本領を遺憾なく発揮している。 75年から01年まで東洋陶磁学会常任委員、85年には文化史学会評議委員を務め、93年には小山冨士夫記念賞を受賞した。

高田良信

没年月日:2017/04/26

読み:たかだりょうしん  仏教史学・歴史学者で法隆寺長老、第128世住職を務めた高田良信は、老衰のため4月26日に死去した。享年76。 1941(昭和16)年2月22日、奈良県奈良市に生まれる。幼名は信二。53年、法隆寺に入り、良信と改名。当時の管主だった佐伯良謙(1880~1963)の徒弟となる。龍谷大学文学部仏教学科を卒業し、65年、龍谷大学大学院仏教学専攻修士課程修了。82~1992(平成4)年、法隆寺執事長。93年、法隆寺住職代行に就任。94年、法隆寺管主(代表役員)就任。95~98年、聖徳宗第5代管長・法隆寺第128世住職を務める。自坊は法隆寺実相院。 東大寺に縁のある家に生まれ育ち、当時の東大寺管長・平岡明海の紹介により12歳で法隆寺に入る。幼い頃より寺域から掘り出される古瓦や古材、周辺の古墳に強い関心を持ち、大学院在学の頃には寺内の過去帳や年表、室町時代の子院配置図を自作するなどして、法隆寺の学問的な整理・体系化を志し、のちに「法隆寺学」を提唱。生涯に渡って史料や宝物の調査・研究に取り組んだ。 67年に金堂壁画の再現事業が、68年には若草伽藍の再発掘、同じ頃、『奈良六大寺大観』(岩波書店)刊行のための宝物調査が始まり、考古や歴史、建築、絵画・彫刻の研究者らと交流する機会を多く持つ。71年4月、聖徳太子1350年御忌にて会奉行を務める。81年、聖徳太子1360年御忌事業として高田が提案した『法隆寺昭和資財帳』の編纂事業が開始される。宝物の調査・目録化を行い、のちに全15巻の『資財帳』(小学館、1991~1992年)が刊行された。97年、法隆寺史編纂所を開設。98年10月、百済観音堂の落慶法要を営む。「印鑰継承の儀」や「慈恩会」などの途絶えていた法隆寺の古儀再興にも努めたほか、81年にNY・ジャパンソサイエティ―で開催された法隆寺宝物展や88年の「百済観音像展」(東京国立博物館)など、国内外の展覧会に数多く携わった。 主要な著作は次の通りである。共著『法隆寺』(学生社、1974年)、『法隆寺のなぞ』(主婦の友社、1977年)、『近代法隆寺の歴史』(同朋舎出版、1980年)、『法隆寺の秘話』(小学館、1985年)、共著『四季法隆寺』(新潮社、1986年)、『「法隆寺日記」をひらく:廃仏毀釈から100年』(日本放送出版協会、1986年)、共著『追跡!法隆寺の秘宝』(徳間書店、1990年)、『法隆寺の〓を解く』(小学館、1990年)、共著『再現・法隆寺壁画』(NHK取材班編、日本放送出版協会、1992年)、『法隆寺の〓と秘話』(小学館、1993年)、『法隆寺建立の〓:聖徳太子と藤ノ木古墳』(春秋社、1993年)、『世界文化遺産法隆寺』(吉川弘文館、1996年)、『法隆寺教学の研究』(聖徳宗総本山法隆寺、1998年)、『法隆寺辞典』・『法隆寺年表』(柳原出版、2007年)、『法隆寺学のススメ―知られざる一四〇〇年の軌跡―』(雄山閣、2015年)ほか多数。没後の17年10月、朝日新聞デジタルでの連載(2016年4月~2017年3月)をまとめた『高田長老の法隆寺いま昔』(構成:小滝ちひろ、朝日新聞社)が出版された。

見城敏子

没年月日:2017/04/01

読み:けんじょうとしこ  東京文化財研究所名誉研究員の見城敏子は、4月1日に死去した。享年89。 見城は1927(昭和2)年9月14日、大阪市住吉区に生まれた。40年に大連弥生高等女学校に入学、同校を44年3月に卒業後、4月に大連メリノール家政学院入学、46年4月に同校を卒業、48年に帰国し、50年4月に東京都立大学応用化学科入学、51年3月同大学中退、53年4月日本大学短期大学部応用化学科入学、55年3月同大学卒業、56年4月日本大学工学部工業化学科編入学、58年3月同大学を卒業した。同年4月より東京国立文化財研究所保存科学部に勤務。77年11月30日、日本大学から漆塗膜に関する研究で工学博士を授与される。79年8月より物理研究室長を務めた。1989(平成元)年3月に同研究所を退官した。90~2000年まで玉川大学通信教育部非常勤講師として、00~02年には東京学芸大学教育学部非常勤講師、02~04年静岡文化芸術大学非常勤講師として教鞭をとり、文化財保存科学の分野において、人材の育成にもつとめた。07年第1回文化財保存修復学会学会賞を受賞。また、文化財虫害研究所評議員、古文化財科学研究会評議員、千葉県文化財保護審議委員、中国泉州文物保護科協議会顧問、色材協会審議委員、漆を科学する会顧問をつとめた。 東京国立文化財研究所では、伝統技法と文化財の保存・修復に関する研究を進めた。研究対象は日本画材料、油絵材料、木材など、すべての美術品材料に及んでいるが、顕著な業績として、漆工芸品の保存のために漆材料の研究、硬化条件と物性、漆材料と顔料の相互作用、分析手法の検討とデータの集積、混合する油の影響について検討した。基礎的な研究から現場で試験可能な方法の応用開発、出土資料の分析にも成果が展開され、日本の文化財科学の進展に多大な功績を残した。 文化財の保存に関わる研究においては、新築のコンクリート造建物内で美術品が受ける影響、防腐剤・防虫剤の影響について化学的な研究を進めるとともに、文化財の長期保存のための環境の監視方法や湿度調整方法、伝統技法の効果について科学的検証を進め、収蔵庫に求められる条件を明示し、特に酸・アルカリ対策の必要性を明確にした。室内空気の偏酸・偏苛性を判断する変色モニター、変退色に対する光モニター、防湿性・ガスバリア性を持つ二軸延伸ビニロンフィルム法による保存手法の開発など時代をリードする画期的な、かつ、利用者の視線に沿った環境監視ツールの開発は、文化財保存現場の管理能力底上げに資するものであった。 国宝・東照宮陽明門修理、岩内山遺跡北陸自動車関係遺跡調査、メスリ山古墳奈良県史跡名勝天然記念物調査、上総山王山古墳調査、宮城県多賀城席調査、史跡・虎塚古墳彩色壁画調査、茨城県教育財団鹿の子C遺跡漆紙文書調査、寿能泥炭層遺跡調査、千葉県香取郡栗源町台の内古墳調査、二条城書院環境調査、小山市宮内北遺跡文化財調査、糸井宮前遺跡Ⅱ加熱自動車道地域埋蔵文化財調査、港区済海寺・長岡藩牧野家墓所発掘調査、粟野町戸木内遺跡埋蔵文化財調査、中田横穴保存状態調査、出雲岡田山古墳調査、石巻市五松山洞窟遺跡文化財調査、大歳御祖神社拝殿調査、広島壬生西谷遺跡美亜像文化財調査、久米島具志川村清水貝塚発掘調査、杉谷三号墳八区調査、一の谷中世墳墓群遺跡調査、厚木市吾妻坂古墳調査、長柄町横穴群徳増支群発掘調査などに保存科学者として関わり、多くの報告を著した。 研究成果は雑誌に数多発表され、『古文化財之科学』、『日本漆工』、『色材協会誌』、『塗装技術』、『塗装工学』、『塗装と塗料』、『考古学雑誌』、『保存科学』、『文化財の虫菌害』、『照明学会誌』、『博物館学雑誌』、『博物館研究』、『文化庁月報』、『建築知識』などで読むことができる。

林屋晴三

没年月日:2017/04/01

読み:はやしやせいぞう  日本陶磁史、とくに茶陶の研究を進めた東京国立博物館名誉館員の林屋晴三は、4月1日に誤嚥性肺炎のため死去した。享年88。林屋は日々茶の湯を実践していたので、数寄者という印象で見られがちであるが、東京国立博物館次長、裏千家茶道資料館顧問、頴川美術館理事長、菊池寛実記念智美術館館長などを歴任し、博物館や美術館における展覧会活動には終生関わりながら、陶磁史研究者としての矜持をもち続けた生涯であった。 1928(昭和3)年7月25日、京都で五人兄弟の末っ子として誕生。母親が茶の湯を嗜むことから、幼いころから自然と茶の湯に親しんできた。40年頃に表千家に入門し、終戦前には表千家の最高位の次の「唐物盆点」の免状をもらうに至っている。林屋の一族はもと加賀藩のお茶師の家で、明治時代末期に京都へ移住、宇治・木幡に製茶会社を立ち上げていた。京都府立京都第五中学校を卒業した後、敢えて大学で学ぶことは選ばなかった。しかし、陶磁研究者への道は、京都の絵画専門学校(現、京都市立芸大)に進んだ長兄の紹介で、日満文化協会理事で中国美術史研究者の杉村勇造と面識を得、杉村の薦めで東京にて学芸員になることを目指すこととなる。47年5月に18歳で東京に出て、杉村の紹介で東京国立博物館を訪れる。正式な職を得るまで図書室で独学、48年2月に非常勤の事務員(雇員)となり、その後数年を経て技師として採用される。「終戦直後で、博物館に入ろうという人間はいなかった時代ですから、僕みたいな中学しか出ていない者でも採用してくれたんですよ」と本人が語っている通り、林屋は大学で育ったアカデミックな世界にどっぷりと浸かった研究者とは異なり、博物館という現場で実際に陶磁器に触れながら鑑識眼を叩き上げていった。そして持ち前の自由な発想と柔軟な指向性から、「林屋メソッド」といわれる独自の審美眼や方法論を構築した。 東京国立博物館では陳列課陶磁係として、陶磁学者の奥田誠一の下に配属され、若干二十歳そこそこで展示作業、収蔵庫倉での作品調査など経験を積み、さらには『日本の陶磁』(東都文化出版、1954年)の編集を奥田から一任され、写真撮影から編纂のほとんどを手掛けることとなる。後に林屋は陶磁関連の図書を積極的に出版していくことになるが、林屋ほど多くの陶磁全集を手掛けた研究者は現在に至るまでその例を見ない。その関連した陶磁全集は、『世界陶磁全集 全16巻』(河出書房、1955~61年)、『陶器全集 全30巻』(〓凡社、1958~66年)、『日本の陶磁』(中央公論社、1971~74年)、『陶磁大系 全53巻』(〓凡社、1973~78年)、『世界陶磁全集 全22巻』(小学館、1976~86年)、『日本の陶磁-現代編 全8巻』(中央公論社、1992~93年)など枚挙に暇ない。特筆されるのが、『日本の陶磁』(中央公論社、1971~74年)で明らかなように、良質の写真図版、そして秀逸なる図版レイアウトなど、その質の確かさである。器を美しく見せるポイントを熟知した林屋は、陶磁器図録作成の先達的存在であり、彼に育てられた編集者や写真カメラマンは数えきれない。 さらに林屋が企画した代表的な展覧会としては、中国陶磁・韓国陶磁・日本陶磁の名品が集められた「東洋陶磁器」展(東京国立博物館、1970年)、本格的な日本陶磁の海外展となった「米国巡回 日本陶磁展」(米国四会場で開催、1972年)、そして特別展「茶の美術」(東京国立博物館、1980年)が挙げられる。とくに「茶の美術」は、茶の湯をテーマとする国立博物館で初の企画展で、その点でも大いに話題となった。かつて日本美術史の研究者は茶の湯道具を研究対象と見做さない傾向もあったが、この展観をきっかけに、茶の湯道具の歴史的意義と美術的価値が再認識されることとなる、重要なエポックとなった展覧会であった。 林屋はその開放的な人柄から、様々な分野の人々と垣根を作らず、幅広い人脈を築いていた。東洋陶磁学会では古窯跡研究の〓崎彰一(1925~2010年)ら考古学者とも交流し、陶磁学の分野に考古学的成果を活かす研究視点を積極的に打ち出している。また、長く理事を務めた日本陶磁器協会(1950年~)においても多くの研究者、コレクター、陶芸家に大いに刺激を与える存在であった。とくに研究者や陶芸家には思ったことは遠慮なくズバリと指摘する怖い教師役であったが、しばしば叱った後に独特の愛嬌のある笑顔を見せる、面倒見の良い「叱り上手」であった。 日本の陶磁史研究は西欧諸国の影響を受け、大正時代後期に本格的に開始されたと言われる。産学共同で「陶磁器研究会」や「彩壺会」などが結成され、やきものを芸術として鑑賞する「鑑賞陶磁」という概念が確立された。その動きの中心人物の一人が奥田誠一であった。奥田の愛弟子である林屋は、紛れもなくこの近代に確立した鑑賞陶磁研究を現代にまで繋げた、最後の生き証人であった。

森田稔

没年月日:2017/02/13

読み:もりたみのる  九州国立博物館名誉館員で一般財団法人環境文化創造研究所理事の森田稔は消化器疾患のため2月13日に急逝した。享年62。 1954(昭和29)年6月14日に岐阜県岐阜市に生まれ、73年に岐阜県立岐阜北高等学校を卒業し、広島大学文学部史学科(考古学専攻)に入学した。広島大学卒業後、名古屋大学大学院文学研究科に進学し、80年に史学地理学専攻考古学専門博士課程(前期)を修了した。同年4月1日に神戸市教育委員会事務局文化課学芸員に採用され、同市の埋蔵文化財調査担当を経て、85年4月1日に神戸市立博物館学芸課に学芸員として配置された。在職中、1995(平成7)年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)に遭遇し、地元の博物館職員として被災した文化財のレスキュー事業にかかわり、その後96年12月1日に文化庁文化財保護部美術工芸課文化財調査官(考古部門)として採用された。翌97年4月1日から文化財管理指導官を併任し、全国の博物館・美術館の指導に当たった。 文化庁在籍時代の森田は、阪神・淡路大震災の経験を活かして文化財の災害対策に積極的に取り組んだ。また国内で広く行われていた臭化メチルによる燻蒸処理を、国際的な流れに沿った新しい生物被害防止方法に切り替えるために、担当官として大きな働きをした。当時は97年9月にカナダのモントリオールで開催されたモントリオール締約国会議で、オゾン層保護のため臭化メチルの国際的な全廃が前倒しされて2004年末に繰り上がることが決まり、カビや虫の被害が多い日本としてどの様に対処するかが喫緊の課題となっていた時期であった。臭化メチルの代替法については東京国立文化財研究所保存科学部(当時)が調査・研究を行っていたが、森田は行政の立場から博物館、美術館、社寺、各地の教育委員会などの現場が抱える不安の解消にあたり、文化庁に調査研究協力者会議を立ち上げ「文化財の生物被害防止に関する日常管理の手引き」(2001年3月)を取りまとめ、総合的有害生物管理(IPM)による文化財の生物被害防止への道を作った。 その後、森田は01年4月1日に美術学芸課主任文化財調査官となり、04年4月1日に独立行政法人国立博物館(当時)京都国立博物館に学芸課長として転出した。さらに08年4月1日には独立行政法人国立文化財機構九州国立博物館の学芸部長として異動し、その2年半前に開館した九州国立博物館の運営に当たった。森田は09年8月1日に副館長に昇任し、11年4月には放送大学の客員教授にも就任して「博物館資料保存論」を同館学芸部博物館科学課長の本田光子と共に担当し、博物館におけるIPMの普及に努めた。その後、森田は体調不良から定年一年前の14年3月に退職し、同年4月1日に九州国立博物館の名誉館員となった。同日、一般財団法人環境文化創造研究所の理事(文化財担当)、同年10月1日には福岡県田川市文化財アドバイザーに就任した。 阪神・淡路大震災を神戸市立博物館の学芸員として体験した森田は生涯、文化財の防災対策に大きな関心を持ち文化庁においてだけでなく、一般社団法人文化財保存修復学会でも理事として学会内に災害対策調査部会を設置するなど尽力し、それらの功績により16年6月に第10回学会賞を受賞した。救済の対象を指定文化財だけに限らない文化財レスキューが、災害発生後に迅速に開始されるようになったことには、生涯、文化財の防災対策の必要性を訴え続けた森田の功績が大きい。

上原和

没年月日:2017/02/09

読み:うえはらかず  日本美術史研究者の上原和は2月9日、心不全のため死去した。享年92。 1924(大正13)年12月30日、台湾台中市において父・繁秀、母・登美子の次男として生まれる。1944(昭和19)年9月台北帝国大学予科文科三年を修了し、台北帝国大学文政学部に入学するが、学徒出陣として同年同月茨城県土浦海軍航空隊に入隊。45年8月の終戦にともない鹿児島県桜島海軍第五水上特攻戦隊司令部より復員。翌年1月に九州帝国大学法文学部に転入学して哲学科美学美術史学を専攻する。48年3月、九州大学法文学部を卒業し、4月よりは同大学大学院文学研究科特別研究生前期課程美学及美術史専攻に進学。矢崎美盛に師事し、ドイツ古典主義美学及び美術様式論を研究する。50年3月同前期過程を修了。4月より55年10月まで宮崎大学学芸学部講師として美学を担当。11月には相良徳三の招請により成城大学文芸学部の芸術コース(のちの芸術学科)の設立のため専任講師として着任。美学・美術史を担当する。56年10月成城大学文芸学部助教授に昇任。64年10月同大学同学部教授に昇任。学科の発展に尽くし、75年には同大学大学院文学研究科に美学美術史専攻を開設。同年には『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』(朝日新聞社)で亀井勝一郎賞を受賞(なお、同書は1978年には朝日選書として、84年には朝日文庫として、また、92年には講談社学術文庫の一冊として再刊を重ねた)。86年4月より同大学文芸学部長を併任(1990年3月まで)、1992(平成4)年10月には『玉虫厨子 飛鳥・白鳳美術史様式史論』(吉川弘文館、1991年)で九州大学より博士(文学)の学位を受ける。翌年4月、成城大学大学院文学研究科長を併任し、95年3月に退任。大学より名誉教授の称号を受ける。この間、成城大学内の役職として学園評議員、学園理事、大学評議員を務め、学外にあっては美学会、美術史学会、民族藝術学会、日本文芸家協会、日本ペンクラブに所属して、美学会委員、民族藝術学会評議員、日本キリスト教芸術センター幹事を務めた。 上原の学問的業績の全貌は『上原和博士古稀記念美術史論集』(同刊行会、1995年)に付された著作等目録に示される通りであるが、日本古代仏教史を専門とし、その視野はギリシアから西アジアをへて印度・中央アジア・中国・朝鮮・日本に及ぶ広汎なものであり、現地踏査のうえでの緻密かつ実証的であった点に特色がある。研究の中心は、法隆寺の遺構および遺物を中心とする日本古典美術と朝鮮・中国美術との様式的比較研究にあり、ことに法隆寺と玉虫厨子、聖徳太子研究の第一人者として斯界の研究を長く牽引した。また、研究の過程で培い、親交のあった中国・敦煌研究院との交流は、本務の成城大学に留まらず、97年から行われた朝日新聞社の「敦煌研究員派遣制度」へと結実。その初回より選考委員長に就任し、多くの若手研究者を現地研修に送り出すとともに、研究者の育成と輩出に尽力したことは彼の大きな業績として特筆されなければならないであろう。

内田啓一

没年月日:2017/02/08

読み:うちだけいいち  美術史家・早稲田大学文学学術院教授の内田啓一は、癌のため2月8日に死去した。享年56。 1960(昭和35)年11月1日、神奈川県横浜市鶴見区に生まれる。79年3月、神奈川県立横浜翠嵐高校卒業。83年3月、早稲田大学第二文学部を卒業し、同年4月、同大大学院文学研究科に入学。1989(平成元)年10月、同研究科博士後期課程を満期退学、町田市立国際版画美術館に学芸員として採用される。2000年4月に昭和女子大学に専任講師として着任し、04年4月、同大助教授、05年4月、同大教授。11年4月より早稲田大学文学学術院准教授、13年4月、同大教授。女子美術大学、早稲田大学、東北芸術工科大学、拓殖大学、青山学院大学、成城短期大学、昭和女子大学で非常勤講師として教鞭を執ったほか、奈良国立博物館調査員、世田谷区文化財保護審議会委員を務めた。 早稲田大学で日本美術史家・星山晋也の指導を仰ぐ。大学院在学時から鎌倉時代に西大寺を復興させた僧・叡尊に関わる仏教絵画に関心を寄せ、修士論文「八字文殊画像について―叡尊を中心とした西大寺本・旧東寺本の考察―」を提出した。国際版画美術館に勤務してからは、「仏教版画入門」(1990年)、「奈良・元興寺仏教版画」(1992年)、「大和路の仏教版画」(1994年)、「版になった絵・絵になった版―中世日本の版画と絵画―」(1995年)、「名品でたどる―版と型の日本美術」(1997年)など、とりわけ仏教版画に関する展覧会を数多く担当する。従来、研究対象としては等閑視されがちだった摺仏・印仏の作例を展覧会・学術論文を通じて数多く紹介し、その受容や制作背景を丹念に解き明かすことで仏教版画研究を大きく進展させた。他方、修士論文以来の関心テーマであった西大寺流に関する研究にも精力的に取り組み、02年には博士論文「中世律宗諸流派における造像とその特徴―西大寺流を中心に―」を早稲田大学大学院文学研究科に提出し、03年6月に博士号を取得した。 大学に籍を移して以降は後進の指導と育成に努めながら、作品調査と論文の執筆を続けた。作品の深い鑑識から出発し、その制作を巡る時代背景や関与した人物を生き生きと浮かび上がらせ、一見結びつきのなかった作品同士の関連性を示すことで、研究成果を体系的に積み重ねていった。自らが真摯に作品と向き合い、図様の分析と制作背景に関する鋭い考察を第一とするその研究姿勢は、指導を受けた学生に少なからず影響を与えた。美術史研究に対する情熱的な態度、そして何よりも大らかで明るく、衒いのない人柄は多くの同業者・学生に慕われていた。 主要な著書に、共著『中世・勧進・結縁・供養 大和路の仏教版画』(東京美術、1994年)、『文観房弘真と美術』(法藏館、2006年)、『江戸の出版事情』(青幻舎、2007年)、『後醍醐天皇と密教』(法藏館、2010年)、『日本仏教版画史論考』(法藏館、2011年)があるほか、没後、『美しき日本の仏教版画 すりうつしまいらせるほとけ』(東京美術、2018年)が刊行された。 主要な論文は次の通り。「八字文殊画像の図像学的考察」(『南都仏教』58、1987年)、「宋請来版画と密教図像―応現観音図と清凉寺釈〓像納入版画を中心に―」(『佛教藝術』254、2001年)、「サンフランシスコ・アジア美術館所蔵文殊菩薩図像について―宋本図像と形式の踏襲―」(『佛教藝術』310、2010年)、「個人蔵清凉寺式釈〓如来画像について―西大寺像との関わりを中心に―」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』61第3分冊、2016年)ほか多数。業績は『内田啓一教授 著作目録』(「内田啓一さんを偲ぶ会実行委員会」編集、2017年)に詳しい。また、20年5月に『内田啓一中世仏教美術論集(仮)』(法藏館)が刊行予定である。

木村重信

没年月日:2017/01/30

読み:きむらしげのぶ  美術史家の木村重信は1月30日、肺炎のため大阪府吹田市内の病院で死去した。享年91。 1925(大正14)年8月10日、京都府綴喜郡青谷村(現、城陽市)にて、享保年間から続く宇治茶問屋(屋号山城園)に、6人兄弟の次男として生まれる。小学校時代には肋膜炎を患い、通算で3年間通っただけであったという。卒業後は商業学校へ進学し、その後祖父が名古屋で茶問屋を開業していたことから名古屋高等商業学校(現、名古屋大学経済学部)へ進学。2年生の折に学徒動員で繰り上げ卒業となり、1944(昭和19)年徴兵。豊橋陸軍予備士官学校に特別甲種幹部候補生伍長として入学する。45年6月に同校を卒業すると広島師団に配属されるが、本籍が京都であったことから京都師団へ転属、さらに旗手要員として志摩半島の442聯隊本部へと移った。終戦後の46年には京都大学文学部へ入学。文芸を学び、卒業論文では「文芸における表現の問題」をテーマに取り上げた。49年に同大を卒業後は大学院に通いつつ、大阪成蹊女子短期大学などに非常勤講師として勤務。53年京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)の講師となり、現代美術の講義を担当した。ほぼ同じ頃、自身のテーマとして「美術の始原」を意識し始める。56年より翌年にかけてフランス・パリ大学付属の民族学研究所に留学。アンドレ・ルロワ=グーランに教えを受け、洞窟壁画の実地研究などに従事した。また、近・現代美術への見識を深め、同地で交友を深めた堂本尚郎や今井俊満らをとおしてアンフォルメル運動に触れ、帰国後には前衛芸術運動についての評論を盛んに行うとともに、パンリアル美術協会やケラ美術協会、具体美術協会などの作家らと交流し、美術史家としての立場から前衛芸術運動に深くかかわる活動を行った。その後京都市立美術大学助教授を経て、69年10月京都市立芸術大学美術学部教授となる。この間、65年には南アフリカのカラハリ砂漠へ調査に行き、翌66年には『カラハリ砂漠 アフリカ最古の種族ブッシュマン探検記』(講談社)で第20回毎日出版文化賞を受賞。また67年11月から翌68年4月まで、山下孝介率いる大サハラ学術探検隊に参加。サハラ砂漠の先史岩壁画やマリ共和国のドゴン族の美術、エチオピアにおけるキリスト教美術や先史遺物などの調査を行った。74年大阪大学文学部教授となり、翌75年「美術の始原」で同大文学博士を取得。先史美術に関する木村の研究の集大成とされた同論文は、フランスへの留学以来、世界各地で行ったフィールドワークによる成果をとおして、人類の美的活動の根元を問おうとしたもので、美学と美術史学両方の視点からの考察を行った点が評価された。またこの頃、木村は芸術とはそれ自身で完結するものではなく、外的要因によって規定されるものであるとし、80年代後半以降の研究動向を先取りする発言を残している。76年国立民族学博物館併任教授に就任。同館では「民族芸術学の基礎的研究」(1980~82年)、「民族芸術学的世界の構築」(1982~84年)などの課題で共同研究を主宰した。84年4月には既存の研究領域や専門の枠を超え、芸術現象を広く議論できる場として民族藝術学会を創設、初代会長となる(のち名誉会長)。1989(平成元)年大阪大学を定年退官、同大名誉教授となった。また同年には当時の大阪府知事岸昌の要請により大阪府顧問となり、国際現代造形コンクール・大阪トリエンナーレや関西系現代作家展の開催、それら事業による美術作品の収集など行政的手腕を発揮する。91年には民族芸術学という新しい学問分野の開拓や、欧米や日本の近代美術に一種の社会芸術学的方法により新たな光をあてた業績が評価され、大阪文化賞を受賞。92年には国立国際美術館館長に就任。98年同館長を退任し、同年4月兵庫県立近代美術館(現、兵庫県立美術館)の館長に就任、2002年に同館が兵庫県立美術館に新築移転すると初代館長となった。木村は持ち前の美術史学的教養と行政的手腕を発揮し、同館中興の祖とも称された。館長時代には神戸市内で毎年、若手作家との懇親会を開くなど、後進の育成にも尽力し、01年兵庫県文化賞を受賞している。また、98年には勲三等旭日中綬章を受章、翌99年には評論の分野での功績を評価され、京都市文化功労者に選ばれた。同年12月には『木村重信著作集 第1巻 美術の始源』(思文閣出版)が刊行され、04年7月までに全8巻を刊行。06年4月には兵庫県立美術館長を退き名誉館長となる。同年にはまた、京都にて設立された染・清流館の初代館長に就任。日本の現代染色アートを世界へ発信することに尽力した。晩年にはあらゆる役職を辞任した木村であったが、同館の館長だけは最期まで続け、ギャラリー・トークなどにも積極的に参加していたという。

菊地貞夫

没年月日:2017/01/27

読み:きくちさだお  浮世絵研究者の菊地貞夫は1月27日、死去した。享年92。 1924(大正13)年2月18日、東京・八丁堀に生まれる。立正大学で〓崎宗重に師事し、浮世絵の研究をはじめた。大学卒業後、東京国立博物館に就職し、同館の近藤市太郎のもとで、浮世絵関連の仕事に従事した。『東京国立博物館図版目録 浮世絵版画〓』上巻(1960年)、中巻(1962年)、下巻(1963年)は、編著者名が記載されていないため不明ではあるが、時期的にみて菊地が編集に関わった刊行物であると考えられ、同館所蔵の3926点の浮世絵版画の総目録となっている。1968(昭和43)年主任研究官、79年絵画室長となる。東京国立博物館の展覧会「浮世絵―旧松方コレクションを中心として―」(1984年10月16日~11月25日)はその年度末に退官を控えた菊地が中心となって開催された浮世絵の体系的な展観で、近世初期風俗画をはじめ江戸時代から明治時代までの肉筆画46点、版画663点の合計698点の作品が出陳された。展覧会図録のほか翌年度に豪華本の特別展図録『浮世絵』(東京国立博物館、1986年)も刊行されている。この展覧会で浮世絵の文化的価値を一層高めた功績により、85年に第4回内山晋米寿記念浮世絵奨励賞特別賞を受賞した。東京国立博物館に38年間勤続し、85年に定年退官した後、那須ロイヤル美術館副館長を7年間勤めたほか、85年から6年間国際浮世絵学会の前身、日本浮世絵協会で理事長を務めた。「ボストンで見つかった北斎展―ボストン美術館の版木新発見」(たばこと塩の博物館、1987年1月15日~2月8日ほか6カ所を巡回)ではボストン美術館に所蔵されていたビゲローが購入した版木など527点の調査と展覧会の開催に関わり、同展図録に菊地の論文「ボストン美術館で新発見された北斎の板木について」が掲載されている。著書に『カラーブックス21 浮世絵』(保育社、1963年)、『原色日本の美術17 浮世絵』(小学館、1968年)『日本の美術74 北斎』(至文堂、1972年)、『浮世絵大系5 歌麿』(集英社、1973年)、などがある。また全集類などへの執筆や解説も数多く手がけ、「浮世絵師の〓風」(『日本〓風絵集成14 風俗画―遊楽 誰ヵ袖』講談社、1977年)、「歌麿・栄之の浮世絵」(『在外日本の至宝7 浮世絵』毎日新聞社、1980年)などがある。

宮野秋彦

没年月日:2016/12/07

読み:みやのあきひこ  名古屋工業大学名誉教授で建築研究者の宮野秋彦は12月7日に死去した。享年93。 1923(大正12)年10月15日に名古屋で生まれ、1945(昭和22)年に東京工業大学工学部建築学科を卒業した。東京工業大学の助手、助教授をつとめた後、名古屋工業大学に異動し、助教授、教授をつとめた。この間、建築材料中の熱や湿気の移動に関する研究を行い、「建築物に於ける温度変動に関する研究」で62年2月12日に東京工業大学から工学博士の学位を受けた。また83年~84年には日本建築学会の副会長をつとめた。名古屋工業大学退官後は福山大学の教授となり、その後、名古屋工業大学名誉教授、日本建築学会名誉会員、中国文物学会名誉理事となる。 宮野は名古屋工業大学在職中に、多くの文化財が伝統的な倉の中で保存されてきたことに着目して、文化庁文化財保護部建造物課(当時)の文化財調査官であった半澤重信とともに全国の倉の環境調査を行い、成果を日本建築学会の大会などで長年発表し続けた。やがて研究対象を屋台蔵や遺構などにまで広げ、斉藤平蔵亡き後、建築環境工学の第一人者として、文化財における温湿度環境の整備に欠かせない専門家となった。特に86年から1990(平成2)年にかけて行われた中尊寺金色堂覆堂の改修工事では、金色堂が入るガラスケース内の新しい空調システム設計について中心的な役割を果たした。それまでの空調システムは、空調空気を金色堂のある室内に吹き出す方法であったが、風が表面の境界層を吹き飛ばして金色堂の表面を乾燥させることを避けるため、宮野は空気を強制的に動かさないで湿度を一定に保つことを提唱した。宮野の提言を受けて、改修工事ではガラスケース全体の断熱を高め、ガラス以外の壁面には調湿ボードを用い、湿度が一定値を越えた時だけ入り口に置いた除湿器が作動するシステムを採用した。除湿器だけを用いて加湿器を用いないことにしたのは、ガラスケース内で測定された長年の記録を宮野が解析して、中尊寺の環境ではガラスケース内の湿度が上がることはあっても、乾燥しすぎることはないことがわかったからである。修理委員会に於ける宮野の献身的な協力もあって、改修工事後は67%RH前後の相対湿度に、金色堂のあるガラスケース内は保たれている。 宮野はその後も、多くの文化財の保存について協力を続けた。岩手県立博物館におけるコンクリート屋根スラブ内の水分挙動を丹念に調べ、長期にわたり館内がアルカリ性性状になっていた原因を突き止め解決した。また木質系調湿材、石質系調湿材に加え土質系調湿材を対象に、調湿建材によって環境湿度の調節を図る取り組みは、博物館に加えて、対象を社寺(薬師寺玄奘三蔵院伽藍大唐西域壁画殿、静岡県指定文化財可睡斎護国塔ほか)、城郭(熊本城「細川家舟屋形」)、歴史的近代建造物(神山復生記念館)、整備事業の復原建物(富山市北代縄文広場)にも広げ、文化財の保存環境制御に多大な功績を残した。 主な著書として『建物の断熱と防湿』(学芸出版社、1981年)、『生きている地下住居』(彰国社、1988年、共著)、『屋根の知識』(日本屋根経済新聞社、1994年、共著・監修)、『屋根の物理学』(日本屋根経済新聞社、2000年)、『新版 屋根の知識』(日本屋根経済新聞社、2003年、共著・監修)がある。1972年日本建築学会賞(論文)「建築物における熱ならびに湿気伝播に関する一連の研究」、2001年勲三等瑞宝章。

三笠宮崇仁親王

没年月日:2016/10/27

読み:みかさのみやたかひとしんのう  オリエント学者で、日本オリエント学会名誉会長、中近東文化センター名誉総裁、日本・トルコ協会名誉総裁、日本赤十字社名誉副総裁、日本フォークダンス連盟名誉総裁などを務めた三笠宮崇仁親王は、東京都中央区の聖路加国際病院にて、10月27日に心不全のため薨去した。享年100。 1915(大正4)年12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四皇子として、東京の青山御所に生まれる。昭和天皇の末弟にあたる。学習院初等科・中等科、陸軍士官学校、陸軍騎兵学校、陸軍大学校卒業後、1943(昭和18)年に支那派遣軍参謀として南京に派遣された。44年には大本営参謀となり、陸軍少佐として終戦を迎えた。 終戦後の47年、戦争への反省から歴史を学ぶことを決意し、東京大学文学部史学科の研究生になる。古代オリエント史を専攻し、その後、歴史学者として活躍し、数多くの論文や著書、翻訳書などを発表した。 54年には日本オリエント学会の創設に尽力し、54年から76年までは初代会長、76年から1996(平成8)年までは名誉会長を務め、日本の古代オリエント史研究をながらく牽引した。 55年には、皇族としてはじめて大学の講師になり、東京女子大学の教壇に立つ。大学への通勤は国鉄を利用し、昼食は必ず学生たちにまじり学生食堂で一杯20円のキツネうどんを食べるなど、三笠宮崇仁親王の庶民的で気さくな人柄を伝える逸話が数多く残されている。東京女子大学のほか、北海道大学や静岡大学、青山学院大学や天理大学、拓殖大学、東京芸術大学でも、古代オリエント史の講義を担当した。また、テレビやラジオにも積極的に出演し、古代オリエント史の普及と啓蒙につとめた。 56年に上梓した処女作『帝王と墓と民衆―オリエントのあけぼの―』(光文社)は、石原慎太郎の『太陽の季節』(新潮社)とともに56年を代表するベストセラーとなった。 また同年、戦後初の本格的な海外調査団の1つである『東京大学イラク・イラン遺跡調査団』の立ち上げに関与し、イラクのテル・サラサート遺跡において同調査団による発掘調査開始を記念した鋤入れ式にも参加している。 日本オリエント学会創立10周年の記念事業として、64年から66年にかけて行われたイスラエルのテル・ゼロ―ル遺跡の発掘調査に関しても、オリエント学会の会長として寄付金集めなどに尽力した。 79年には、三笠宮崇仁親王の発意のもと、出光佐三や佐藤栄作、石坂泰三が協力をし、日本最初の古代オリエント研究機関として中近東文化センターが東京の三鷹に創設された。三笠宮崇仁親王殿下が総裁、名誉総裁を務めた中近東文化センターは、86年以降、トルコのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査を実施し、現在では、世界的な研究機関となっている。 著作には、『帝王と墓と民衆―オリエントのあけぼの―』(光文社、1956年)、『乾燥の国―イラン・イラクの旅―』(平凡社、1957年)、『日本のあけぼの―建国と紀元をめぐって―』(光文社、1959年)、『ここに歴史はじまる(大世界史第一巻)』(文藝春秋、1967年)、『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)、『古代エジプトの神々―その誕生と発展―』(日本放送出版協会、1988年)、『文明のあけぼの―古代オリエントの世界―』(集英社、2002年)、『わが歴史研究の七十年』(学生社、2008年)など多数。

井出洋一郎

没年月日:2016/10/19

読み:いでよういちろう  19世紀フランス絵画を専門とする美術史研究者で、美術評論家の井出洋一郎は、10月19日に胆管がんのため死去した。享年67。 1949(昭和24)年5月8日、群馬県高崎市昭和町に生まれる。上智大学外国語学部フランス語学科を卒業後、早稲田大学大学院文学研究科に進学し、78年に同大学院博士課程を満期退学(西洋美術史専攻)。同年、山梨県立美術館学芸員に採用される。在職中、同美術館のミレー・レクションを担当した。87年に退職し、私立の村内美術館(東京都八王子市)の顧問を務めるかたわら美術評論家として活動した。また、教育面では、非常勤講師として上智大学で西洋美術史を担当し、跡見学園女子大学、武蔵野美術大学、実践女子大学で博物館学等を担当した。1992(平成4)年に東京都青梅市に開設された明星大学日本文化学部生活芸術学科の助教授として勤務。その後、東京都八王子市の東京純心女子大学芸術文化学科教授となる。2009年に府中市美術館長、15年から翌年まで群馬県立近代美術館長を務めた。 その生涯において数多くの西洋美術史、欧米の美術館をめぐる啓蒙書、ガイドブックを執筆したが、本領は山梨県立美術館学芸員の時代から取り組んでいたジャン・フランソア・ミレーに関する研究であった。その成果は、ミレーを中心とする各種展覧会の企画監修に生かされたと同時に、長年にわたり取り組んでいたアルフレッド・サンスィエ著『ミレーの生涯』(角川ソフィア文庫、2014年)の翻訳監修と、『「農民画家」ミレーの真実』(NHK出版新書、2014年)に結実した。なお、主要な著作は下記のとおりである。主要著書:『西洋名画の謎-ミステリー・ギャラリー』(小学館、1991年)『美術館学入門』(明星大学出版部、1993年)(新版、2005年)『バルビゾン派』(世界美術双書)(東信堂、1993年)『美術の森の散歩道-マイ・ギャラリートーク』(小学館ライブラリー、1994年)『マイ・ギャラリートーク 美楽極楽のこころ』(小学館ライブラリー、1998年)『フランス美術鑑賞紀行パリ編(美術の旅ガイド)』(美術出版社、1998年)『フランス美術鑑賞紀行パリ近郊と南仏編(美術の旅ガイド)』(美術出版社、1998年)『世界の博物館 謎の収集』(プレイブックス・インテリジェンス)(青春出版社、2005年)『カラー版 聖書の名画を楽しく読む』(中経出版、2007年)『カラー版 ギリシャ神話の名画を楽しく読む』(中経出版、2007年)『絵画の見方・楽しみ方-巨匠の代表作でわかる』(日本文芸社、2008年)『聖書の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2010年)『ギリシャ神話の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2010年)『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2011年)『印象派の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2012年)『ルネサンスの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2013年)『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2014年)『「農民画家」ミレーの真実』(NHK出版新書、2014年)アルフレッド・サンスィエ著、井出洋一郎監訳『ミレーの生涯』(角川ソフィア文庫、2014年)『名画のネコはなんでも知っている』(エクスナレッジ、2015年)『知れば知るほど面白い聖書の“名画”』(KADOKAWA、2016年)

加藤九祚

没年月日:2016/09/11

読み:かとうきゅうぞう  国立民族学博物館名誉教授で人類学者の加藤九祚は、仏教遺跡の発掘調査で滞在していたウズベキスタンの病院で9月11日(日本時間9月12日)死去した。享年94。シルクロードに憧れ、シルクロードを遊歴し、ついに生涯発掘の場をアムダリヤ河畔に見いだし、その現場で生涯を終えた学究の歩みは、波瀾の歴史を背負う苦難の道そのものであった。 1922(大正11)年5月18日、韓国、慶尚北道漆谷(テルコク)郡若木面(ヤンモクミヨン)に生まれる。1932(昭和7)年、宇部で働く兄をたよって来日。山口県宇部市立宇部小学校に入学、韓国姓李を加藤に改称。その後、乙種長門工業学校を経て39年に宇部鉄工所に入社する。太平洋戦争が始まった41年に横浜に移住、横浜第一中学校で高等学校入学者検定試験を受け合格。42年、上智大学予科に入学し、ドイツ語を学び、翌43年に予科を仮卒業する。44年、仙台の工兵第二連隊に志願入隊し、陸軍工兵学校(松戸)を経て工兵見習士官となり、関東軍の第101連隊に配属され、ついで第139師団の工兵連隊に転属する。45年、満州東南部敦化飛行場で武装解除を受け、ソ連軍の捕虜としてシベリアの収容所を転々とする。50年に明優丸で舞鶴に上陸、帰国をはたす。翌51年に上智大学文学部ドイツ文学科に復学し、『リルケ詩論』を学ぶ。53年、卒論『ロシアにおけるゲーテ像』(ドイツ語)を書き上げ卒業。恩師で神学者の小林珍雄の紹介によって平凡社に入社し、『世界百科辞典』などの編集に関わる一方で『シベリアの歴史』(紀伊國屋新書、1963年)や訳書『西域の秘宝を求めて』(新時代社、1969年)を出版した。71年に平凡社を退職するが、その直前に出版された岡正雄の編になるネフスキーの論集『月と不死』(東洋文庫・185)の末尾に「ニコライ・ネフスキーの生涯」という長大な解説を付した。この解説が5年後熟成し、『天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯』(河出書房、1976年)として結実し、大佛次郎賞に輝いた。退職したあと念願のシルクロードの旅にでる。旅の模様は『ユーラシア文明の旅』(新潮選書、1974年)に記された。この旅の途次に出合った梅棹忠夫に招かれて75年に国立民俗博物館教授に就任し、ソ連とモンゴルの民俗学標本収集と研究に従事する。83年に論考「北東アジア民族学史の研究―江戸時代日本人の観察記録を中心として」によって大阪大学学術博士号を取得する。86年、国立民族博物館を定年退職した後、相愛大学人文学部教授に就任し、ついで88年、創価大学文学部教授となり、創価大学シルクロード学術調査団を組織し、同学シルクロード研究センター長に就任する。その間にウズベキスタンとキルギスで発掘調査をおこない、日本の中央アジアにおける発掘調査活動の基盤をつくる。1995(平成7)年に『中央アジア歴史群像』(岩波新書)を上梓。98年に創価大学を退職すると、自費でウズベキスタン科学アカデミー考古学研究所と共同でテルメズ郊外のカラテパの仏教遺跡の発掘に着手する。意気に賛同した奈良薬師寺が「テルメズ仏教跡発掘基金」を創設して支援をした。この支援は逝去の日を迎えるまでつづけられた。 99年、南方熊楠賞を受賞。2001年、加藤九祚が一人で編み上げる年報『アイハヌム』(東海大学出版)を創刊する。ロシアや中央アジアに関する発掘活動の成果や活躍する考古学者の自伝、希少な論文・書籍を自在に翻訳紹介するこの活動は編集者の退職によって幕を下ろす12年までつづいた。その間09年に、この活動は「アカデミズムの外で達成された学問的業績」として高く評価されパピルス賞が贈られた。加藤九祚が古曳正夫・前田耕作とともに「オクサス学会」を創設したのもこの年である。「自由な発想と囚われない言葉、憶見や仮説の交錯からこれまでにはないなにものかが泡立ち始める思考の活動の場を生みだす」ことが狙いであった。10年、国際シンポジウム「ウズベキスタンの古代文明及び仏教―日本文化の源流を尋ねて」を東洋大学と奈良大学の協力をえて東京と奈良で開催する。同年、「ウズベキスタンにおける考古学を通じた学術交流の促進」によって外務大臣表彰を受けた。11年にはエドヴァルド・ルトヴェラゼの雄作『考古学が語るシルクロード史』(原題:中央アジアの文明・国家・文化)を翻訳出版(平凡社)、同年、瑞宝小綬章を受ける。書き下ろし『シルクロードの古代都市―アムダリヤ遺跡の旅』(岩波新書、2013年)が最後の著作となった。 16年9月3日、立正大学ウズベキスタン学術調査隊とともに終生愛してやまなかったカラテパへ入ったのが最後の旅となった。「オクサス学会紀要」3号(2017年6月)はその冒頭に、「労働者であり、学究であり、思索の人であり、行動の人であり、夢見る人であり、文筆の人であり、大地を掘り下げる人であり、人間をこよなく愛する人であり、酒盃に詩の言葉を浮かべた人であり、ひたすら人びとに愛された人」加藤九祚に追悼の言葉を捧げている。

石田尚豊

没年月日:2016/07/29

読み:いしだひさとよ  美術史家である石田尚豊は、7月29日死去した。享年93。 1922(大正11)年8月9日東京都上根岸に生まれる。1929(昭和4)年4月東京都世田谷区深沢尋常小学校入学、35年4月京華中学校入学、41年4月都立高等学校文科乙類入学。45年4月東京大学文学部国史学科に入学し、50年3月卒業した。同年4月に東京大学大学院に進み、52年3月に満期修了して、同年4月、東京国立博物館の資料課資料室員となった。64年7月東京国立博物館に法隆寺宝物館が開館し、資料課内に置かれた法隆寺宝物掛の主任となった。67年5月資料課資料室長兼法隆寺宝物掛主任となり、法隆寺宝物室の新設を目指した。70年4月資料課内に法隆寺宝物室が新設されたが、彼は、70年4月に国立歴史民俗博物館(1983年開館)の設立準備のため文化庁に出向し、文化庁美術工芸課文化財調査官(絵画部門)兼管理課長補佐となった。この間、71年に基本構想委員会が設置され、72年に基本構想案がまとめられた。それに基づいて、展示準備委員会及び展示計画委員会が設置され、資料調査と資料収集が開始された。 72年11月、再び東京国立博物館に戻り、普及課主任調査官、74年4月資料課資料調査室長。76年7月資料課長となった。この頃に、資料館(1984年2月開館)設立準備に携わった。75年11月『曼陀羅の研究』(東京美術)を刊行し、78年1月、同著によって、東京大学から文学博士を授与され、また、78年3月、同著により、日本学士院賞を受賞した。81年3月東京国立博物館を退職し、同年4月青山学院大学文学部史学科教授となった。88年2月『日本美術史論集―その構造的把握―』(中央公論美術出版)を刊行、同年11月、同著により、青山学院学術褒賞を受賞した。1991(平成3)年3月青山学院大学文学部史学科教授を退職し、同年4月聖徳大学人文学部日本文化学科教授となり、2001年4月に同職を退職した。92年11月勲三等瑞宝章を授与されている。常勤職以外に、明治大学、中央大学、東京大学、学習院大学、東京女子大学、聖徳大学にて非常勤講師をつとめ、弘前大学、東北大学、九州大学、高野山大学にて集中講義を行った。 彼の研究対象は、玉虫厨子、華厳経美術、密教美術、浄土教美術、重源、洛中洛外図屏風、職人絵と多岐にわたり、どれを対象としても、膨大な史料を読み込み、深く思考して、緻密に論理を構成する点が共通する。また、未解決の問題があると、先学や専門家に面謁し、その教えを真摯に乞うことが少なからずあったことは、彼の『日本美術史論集』の「あとがき」などに明らかである。 彼の経歴と業績については、「石田尚豊先生年譜と業績」(『青山史学』12 今野國雄教授・石田尚豊教授退任記念号、1991年)に詳しい。それ以降の著作、論文、講演等は、以下の通りである。【著作・監修・編著】『日本史写真集 続(文化編)』(土田直鎮と共同監修、山川出版社、1995年)、『聖徳太子と玉虫厨子―現代に問う飛鳥仏教―』(東京美術、1998年)、『聖徳太子事典』(編集代表、柏書房、1997年)、『ブッダ―大いなる旅路 救いの思想・大乗仏教(NHKスペシャル)』(NHK「ブッダ」プロジェクトと共著、NHK出版、1998年)、『空海の帰結―現象学的史学―』(中央公論美術出版、2004年)。【論文・講演記録・随筆】「ともしび」(『青山史学』13、1992年)、「『MUSEUM』の回想」(『MUSEUM』500、1992年)、「曼荼羅研究の現代的意義」(講演、『愛知学院大学人間文化研究所紀要』8、1993年)、「『絵仏師の時代―研究篇・資料篇(全2)』平田寛」(『日本歴史』566、1995年)、「玉虫厨子は語る」(公開講演、『鶴見大学佛教文化研究所紀要』2、1997年)、「玉虫厨子をめぐって―『文献の学』と『物の学』」(『史学雑誌』107―12、1998年)、「飛鳥の曙―小墾田新宮殿」(『学燈』95―5、1998年)、「聖徳太子の実像を求めて―アジア的視野で考察する」(『大法輪』(上)68―9、(下)68―10、2001年)、「聖徳太子とその時代―太子を貫く思想 含 聖徳太子略年表」(『大法輪』68―12、2001年)、「新しい歴史学を求めて―現象学的史学」(『文化史学』59、2003年)。

杉原たく哉

没年月日:2016/05/31

読み:すぎはらたくや  美術史家の杉原たく哉は5月31日、癌のため死去した。享年61。 1954(昭和29)年12月20日、東京都渋谷区に生まれる。東京都立小石川高等学校から早稲田大学第一文学部へ進学し、79年に同大学同学部美術史専攻を卒業、同大学大学院文学研究科修士課程・博士課程(芸術学・美術史)を経て88年から同大学第一文学部助手を務めた。その後、早稲田大学、群馬県立女子大学、和光大学、お茶の水女子大学、多摩美術大学、跡見学園女子大学、大東文化大学、北海道大学、愛知県教育大学、フェリス女学院大学、沖縄県立芸術大学、岡山就実大学、女子美術大学、放送大学などで講師を務め、東洋美術史などの講義を担当した。 杉原は若い頃から古代オリエントに関心を持っており、大学時代に古代中国の画像石の研究で知られる土居淑子の薫陶を受け、中国古代美術史研究に東西交渉史、比較芸術学、図像学など学際的な視点を用いて、独創的な研究を展開した。82年度に早稲田大学に提出した修士論文「七星剣について」に基づき、「七星剣の図様とその思想―法隆寺・四天王寺・正倉院所蔵の三剣をめぐって」『美術史研究』21(1984年)を発表した。この論文では従来一括りにみなされていた七星剣について、刀身に刻まれた天体文様の考察によって、二系統があることと、その思想的背景の差異を明らかにした。「銅雀硯考」『美術史研究』24(1986年)では、魏の曹操が建立した銅雀台の遺構の瓦をもって硯とした銅雀硯が、実際は300年ほど後の北斉の城の遺瓦を用いた可能性が高いことを提示し、その硯が文房の至宝とみなされ、宋・元・明・清の各時代の文人たちによって賞玩され、さらに室町時代の交易によって日本にもたらされていたことに言及し、瓦の硯が文学的・歴史的イメージの乗り物となって時空を超えて伝えられていったことを明らかにした。杉原の研究手法は、美術作品の形や文様・図様などを徹底的に観察し、幅広い文献史料を渉猟してその源泉を探り、中国から日本、古代から中世・近世、そして近現代へと伝播し、変遷する様相をダイナミックに描き出すところに最大の特徴がある。 杉原の研究は広範な地域・時代をフィールドとするが、その根本には中国古代美術があった。1991(平成3)年9月には土居淑子らとともに中国山東省の仏教史蹟調査を行っており、その内容は土居淑子・杉原たく哉・北進一「山東省仏跡調査概報」(『象徴図像研究』7・8、1993・94年)にまとめられている。主要な論文には「漢代画像石に見られる胡人の諸相―胡漢交戦図を中心に」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 別冊(文学・芸術学編)』14、1987年)、「不動明王の利剣と中国の宝剣思想」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 別冊(文学・芸術学編)』15、1988年)、「神農図の成立と展開」(『斯文』101、1992年)、「狩野山雪筆歴聖大儒像について」(『美術史研究』30、1992年)、「張騫図と乗槎伝説」(『象徴図像研究』8、1994年)、「聖賢図の系譜 背を向けた肖像をめぐって」(『美術史研究』36、1998年)、「始皇帝像の諸相」(『東洋美術史論叢』吉村怜博士古稀記念会編、雄山閣、1999年)、「道教と絵画」(『道教と中国思想』(講座 道教 第4巻)雄山閣出版、2000年)、「揺銭樹を支える羊―「スキタイの子羊」への射程」(『神話・象徴・イメージ:Hommage a Kosaku Maeda』、原書房、2003年)などがある。「蠣崎波響筆「夷酋列像」の図像学的考察」(『てら ゆき めぐれ―大橋一章博士古稀記念美術史論集』中央公論美術出版、2013年)は杉原の最後の論文となった。また妻の杉原篤子との共著「柳橋図屏風と橋姫伝承」は『古美術』100号記念研究論文の佳作賞を受賞し、『古美術』104(1992年)に掲載されている。 杉原は時代・地域を大局的に捉え、図像学的考察によって独創性豊かな研究を進める一方、そうした専門的な研究を、一般向けにわかりやすく紹介した著作も多い。単著には『中華図像遊覧』(大修館書店、2000年)、『いま見ても新しい古代中国の造形』(小学館、2001年)、『しあわせ絵あわせ音あわせ―中国ハッピー図像入門』(日本放送協会、2006年)、『天狗はどこから来たか』(大修館書店、2007年)などがある。ギャラリー繭において行われた漢代画像石・拓本展に関連して刊行された『乾坤を生きた人々―漢代徐州画像石の世界』(まゆ企画、2001年)は、豊富な図版とともに杉原による解説、画像石の概説がまとめられている。共著には『カラー版 東洋美術史』(美術出版社、2000年)、『中国文化55のキーワード』(ミネルヴァ書房、2016年)などがある。 杉原は、東京友禅の作家であった杉原聰(1922―2006)の長男として生まれたこともあり、父の生涯にわたる作品をまとめた『杉原聰きもの作品選 昭和・平成の女性美を彩った友禅作家 回顧展開催記念』(文京シビックセンター)図録(2012年)を編集・刊行している。

金澤弘

没年月日:2016/05/07

読み:かなざわひろし  京都国立博物館名誉館員、および元京都造形芸術大学教授の金澤弘は、5月7日に死去した。享年81。 金澤は1935(昭和10)年、大阪市に生まれた。61年、慶応義塾大学大学院修士課程史学科を修了し、同年より、京都国立博物館に勤務。87年から同館学芸課長を務めた。1995(平成7)年に同館を退官し、京都造形芸術大学芸術学科教授となり、2005年まで教鞭をとった。また、島根県文化財保護委員、仏教美術研究記念上野財団理事、頴川美術館理事、茶の湯文化学会理事をつとめた。 京都国立博物館では、「室町時代美術」展(1968年)、「中世障屏画」展(1970年)において、15世紀水墨画の画題、画派、画風、受容について多角的調査を行い、その成果を展観した。「日本の肖像」展(1978年)では頂相について、「禅の美術」展(1981年)では禅余画と詩画軸について論じ、「花鳥の美」展(1982年)では水墨花鳥画の作画理念を、「写意から装飾への変化」として展観した。また、至文堂より刊行の『日本の美術』シリーズでは、『初期水墨画』『室町絵画』『水墨画―如拙・周文・宗湛』(1972、1983、1994年)を著し、初期水墨画の成立と展開を詳述した。その業績は、室町絵画についての幅広い作品調査にもとづく優れた分析によるものであった。なかでも、『雪舟』(ブック・オブ・ブックス14、小学館、1976年)において、雪舟の生涯と作品を丹念に追求し、拙宗等楊と雪舟の同人説を否定した。 その他、共著に、『華厳宗祖師絵巻』(中央公論社、1978年)、Zen―Meister der Meditation in Bildern und Schriften (Museum Rietberg, Zurich, 1993)、『雪舟の芸術・水墨画論集』(秀作社出版、2002年)などがあり、単著に、『日本美術絵画全集 可翁・明兆』(集英社、1977年)、『日本美術全集 金閣・銀閣』(学習研究社、1979年)、『花鳥画の世界 水墨の花と鳥』(学習研究社、1982年)などがある。 また、室町水墨画を中心に、「長福寺蔵・清信筆 瀟湘八景図について」(『MUSEUM』146、1963年)、「旧養徳院襖絵について」(『美術史』55、1964年)、「相阿弥筆 瀟湘八景図(大仙院)」(『國華』886、1966年)、「雪舟筆天橋立図とその周辺」(『哲学』53、1968年)、「如拙・周文とさまざまの画派と画風」(『水墨美術大系』6、講談社、1974年)、「明兆とその周辺」(『水墨美術大系』5、講談社、1975年)、「琴棋書画図の展開」(『屏風絵集成』2、講談社、1980年)、「白衣観音図の展開」(『大和文華』68、1981年)、「瀟湘八景図の展開」(『茶道聚錦』9、小学館、1984年)、「慕帰絵の画風と構成」(『続日本絵巻大成』4、中央公論社、1985年)、「富岡鉄斎筆 蓬莱仙境図・武陵桃源図屏風」(『國華』1250、1999年)など、多数の論考をのこした。

坪井清足

没年月日:2016/05/07

読み:つぼいきよたり  考古学者で元奈良国立文化財研究所所長の坪井清足は5月7日、急性心不全のため死去した。享年94。 1921(大正10)年11月26日、大阪府大阪市に生まれ、その後は東京都で育つ。父は実業家の傍ら在野の考古学者として梵鐘研究を開拓した坪井良平。41年に京都大学文学部に入学。43年に学徒動員により兵役に従事し、台湾に送られた。台湾では台北帝国大学医学部の人類学者である金関丈夫と交流を持った他、鳳鼻頭遺跡近くの陣地に派遣された折には、壕の壁面の上層に黒陶(新石器時代後半期)、下層に彩陶(新石器時代前半期)が包含されていることを確認し、戦陣にあっても考古学研究から離れることはなかった。 46年に京都大学復学。49年に京都大学大学院進学。平安中学校・平安高等学校教諭などを経て、55年に京都国立博物館に採用。同年、奈良国立文化財研究所に転出。それ以降、65~67年に文化財保護委員会(現、文化庁)への出向、75~77年に文化庁文化財保護部文化財鑑査官の任を務めた時期を除くと、77年の奈良国立文化財研究所所長就任を経て、86年の所長任期満了退職に至るまで、奈良国立文化財研究所を拠点として考古学研究の推進と埋蔵文化財行政の確立に邁進した。退職後は、86年に財団法人大阪文化財センター理事長就任、2000(平成12)年に財団法人元興寺文化財研究所所長就任を経て、13年以降は公益財団法人元興寺文化財研究所顧問を務めた。 役職としては、文化財保護審議会第三専門調査会長、学術審議会専門委員、宮内庁陵墓管理委員、日本ユネスコ国内委員会委員などを歴任した。叙勲等は、91年に勲三等旭日中綬章、99年に文化功労者に叙せられ、死後、従四位に叙位された。受賞歴としては、83年に日本放送協会放送文化賞、90年に大阪文化賞、91年に朝日賞を受賞している。 坪井は奈良国立文化財研究所および文化財保護委員会・文化庁での職務に従事する中で、現在に至る埋蔵文化財行政の枠組みを構築するために尽力した。当時、高度経済成長期の我が国においては、高速道路網計画や住宅団地建設などの大型開発が各地で進み始めていた。それらの工事にともなう事前の発掘調査体制や、発掘経費の捻出方法など、埋蔵文化財行政の課題が山積していた。坪井は、事前の発掘調査を義務付け、発掘調査費用は開発者側が負担する「原因者負担」の原則を確立する上で中心的な役割を果たした。この原則は、埋蔵文化財行政を進展させる礎となり、その後、地方自治体の文化財担当者の増強を促すきっかけとなった。 坪井は文化庁文化財鑑査官、奈良国立文化財研究所所長を歴任して辣腕をふるったことから、多くの人から畏怖される存在であったが、実際に口が悪いことは有名で、「清足(きよたり)」ではなく「悪足(あくたれ)」と呼ばれることもあった。このあだ名は、本人もまんざらではなかったようで、「飽多禮(あくたれ)」という雅号を自ら用いることもあったという。 主な著書は以下の通り。『古代追跡―ある考古学徒の回想』(草風館、1986年)『埋蔵文化財と考古学』(平凡社、1986年)『東と西の考古学』(草風館、2000年)『考古学今昔物語』(金関恕・佐原真との共著、文化財サービス、2003年) またインタビュー記事「戦後埋文保護行政の羅針盤」(2009年8月17日収録)が、日本遺跡学会編『遺跡学の宇宙―戦後黎明期を築いた十三人の記録』(六一書房、2014年)に所収されている。

中部義隆

没年月日:2016/04/05

読み:なかべよしたか  日本絵画史研究者の中部義隆は、4月5日、膵臓がんのため、大阪市の湯川胃腸病院で死去した。享年56。 1960(昭和35)年1月29日、大阪府大阪市大正区に生まれる。78年3月に大阪府立市岡高等学校を卒業し、同年神戸大学文学部へ入学。その後、85年3月に同大学を卒業し、同年4月神戸大学大学院へ進学、87年3月に同大学院文学研究科修士課程を修了した。同年4月からは同大学院文学研究科博士課程へ進学、同年12月に同課程を中途退学し、翌88年1月に神戸大学文学部の助手となるが、同年4月に財団法人大和文華館学芸部員として採用される。以後28年間、同館での勤務を続け、2000(平成12)年6月に同館学芸部課長、06年4月に学芸部次長、12年に学芸部長となり、常に同館の展覧会を主導していった。 専門分野は、広く江戸時代の絵画全般に及んだが、とくに俵屋宗達や本阿弥光悦、尾形光琳など琳派に関する多くの展覧会や研究は、ライフワークとして最も重要な業績である。研究面では、琳派の装飾技法における版木の活用を指摘するなど、きわめて実証的な手法を用いたが、同時に、琳派の工芸品等の持つ造形感覚への鋭い理解は、直感的でもあり、その冴え渡る大胆な直感を、緻密な作品観察によって、実証的に裏付けていく研究スタイルにこそ真骨頂がある。また、展覧会を通して、従来あまり注目されてこなかった画家を取り上げることにも意欲的で、大和文華館で企画した松花堂昭乗、渡辺始興、冷泉為恭の展覧会や図録は、美術史の研究上でも、とりわけ高い評価を受けた。 一方、後進の指導や育成にも積極的にあたり、02年4月からは神戸大学大学院客員助教授、05年4月からは同大学院客員教授を務めたほか、奈良大学、京都造形芸術大学、佛教大学、大阪大学、大阪府立大学などでも非常勤講師として教鞭をとったが、むしろ、大和文華館のみならず、関西を代表する学芸員として各方面から慕われた点も見逃せない。繊細でありながらユーモアにあふれた作品への語り口は独特で、ギャラリートークは鑑賞者から常に好評だった。また、厳しくもあたたかい人柄に惹かれ、その薫陶を受けた学芸諸氏も多い。一流の研究者でありながら、作品と鑑賞者に親しく寄り添う学芸員らしい姿が、後進に与えた影響は絶大である。 なお、企画に関わった主要な展覧会としては、「俵屋宗達―料紙装飾と扇面画を中心に―」(大和文華館、1990年)、「松花堂昭乗―茶の湯の心と筆墨」(大和文華館、1993年)、「東洋美術1000年の軌跡 福岡市美術館«松永コレクション»«黒田資料»の名宝を中心に」(大和文華館、1997年)、「渡辺始興―京雅の復興―」(大和文華館、2000年)、「松花堂昭乗の眼差し 絵画に見る美意識」(八幡市立松花堂美術館、2005年)、「復古大和絵師 為恭―幕末王朝恋慕―」(大和文華館、2005年)、「大倉集古館所蔵 江戸の狩野派―武家の典雅」(大和文華館、2007年)、「茶の藝術」(岡崎市美術博物館、2007年)、「大和文華館所蔵 富岡鉄斎展」(大和文華館、2007年)、「松花堂昭乗 没後370年 先人たちへの憧憬」(八幡市立松花堂美術館、2009年)、「女性像の系譜―松浦屏風から歌麿まで」(大和文華館、2011年)、「乾山と木米―陶磁と絵画―」(大和文華館、2011年)、「琳派 京を彩る」(京都国立博物館、2015年)などが挙げられる。 また、主要な論文としては、「木版金銀泥刷料紙装飾について―版木とその活用法を中心に―」(『大和文華』81、1989年)、「伝宗達筆 草花図扇面散貼付屏風をめぐって」(『大和文華』87、1992年)、「新出の伝宗達下絵光悦書四季草花下絵三十六歌仙和歌色紙について」(『国華』1219、1997年)、「渡辺始興展望」(『大和文華』110、2003年)、「「舞楽図屏風」と「風神雷神図屏風」の画面構成について」(『美術史論集』5、2005年)、「新収品紹介 春秋鷹狩茸狩図屏風」(『大和文華』122、2010年)、「松花堂昭乗作品の木版雲母刷料紙」(百橋明穂先生退職記念献呈論文集刊行委員会編『美術史歴参 百橋明穂先生退職記念献呈論文集』中央公論美術出版、2013年)、「沃懸地青貝金貝蒔絵群鹿門笛筒の意匠構成」(『大和文華』126、2014年)、「光琳と乾山―町衆文化の精華―」(河野元昭監修『年譜でたどる琳派400年』淡交社、2015年)、「藤田美術館所蔵の光琳乾山合作銹絵角皿をめぐって」(『陶説』749、2015年)などがあり、江戸時代の絵画のみならず、漆工、陶芸など多様な分野の造形表現に精通していたこともうかがえよう。

河原由雄

没年月日:2016/03/23

読み:かわはらよしお  美術史家・河原由雄は3月23日、急性大動脈解離のため死去した。享年80。 河原は1936(昭和11)年1月30日、京都市に生まれた。京都大学大学院文学研究科美学美術史学専修において修士論文「平安初期彫刻の作風展開―和様への成立過程―」を執筆・提出し、65年3月修士課程を修了。同年4月1日付で奈良国立博物館に文部技官として採用・着任。以来、75年4月1日付で学芸課資料室長に昇任、80年4月1日付で仏教美術資料センター資料管理研究室長に配置換え、82年4月6日付で同センター仏教美術研究室長、87年4月1日付で学芸課美術室長、1993(平成5)年4月1日付で学芸課長に昇任し、97年3月末に定年を迎える。同年4月より愛知県立大学教授に就任(2002年3月まで)。この間、特筆されるのは82年に創設された密教図像学会において、当初より常任委員にとして運営にあたり、以来、2000年まで編集委員として会誌『密教図像』の刊行に尽力するとともに、95年より同学会副会長(2000年まで)、01年より会長をつとめた(2003年まで)。専門は仏教絵画史、とくに浄土教絵画の研究を中心に行う。09年には『当麻曼荼羅の研究』をまとめ、京都大学において学位申請し、10年3月23日付で博士の学位を取得する。主な論文に「たけ高き女性―平安時代」(『国文学 解釈と鑑賞』367、1965年)、「〓州会本尊像」(『大和文化研究』93、1966年)、「敦煌浄土変相の成立と展開」(『仏教芸術』68、1968年)、「勧進の美術」(『日本美術工芸』381、1970年)、「新資料紹介 当麻曼荼羅」(『古美術』42、1973年)、「敦煌画地蔵図資料」(『仏教芸術』97、1974年)、「西域・中国の浄土教絵画」(『浄土教美術の展開 仏教美術研究上野記念財団助成研究会報告書第1冊』1974年)、「観経曼荼羅図」(『國華』1013、1978年)、「祐全と琳賢」(『南都仏教』43・44、1980年)、「当麻曼荼羅下縁部九品来迎図像の形成」(『密教図像』1、1982年)「変相図の源流」(『図説 日本の仏教 第3巻 浄土教』新潮社、1988年)、「浄土曼荼羅礼賛」(『日本美術工芸』642、1992年)、「肖像を奉祀する時代以前―栄山寺八角堂の追善堂的性格」(『大和文華』96、1996年)、「牙をなくした阿修羅」(『阿修羅を極める』小学館、2001年)、「招福の神と仏」(『仏教図像聚成 六角堂能満院仏画粉本』法藏館、2004年)などがある。単著に『浄土図(日本の美術272)』(至文堂、1989年)、共著に『日本の仏画 第二期』第二巻(学習研究社、1977年)、『粉河寺縁起 (日本絵巻大成5)』(中央公論社、1977年)、『当麻曼荼羅縁起・稚児観音縁起(日本絵巻大成 24)』(同、1979年)、『西山派寺院の寺宝調査―とくに證空系観経図の形成と発展に関する図像学的研究(報告書)』(奈良国立博物館、1980年)、『薬師寺 白鳳再建への道』(薬師寺、1986年)、『奈良県史』第15巻(名著出版、1986年)、『当麻寺(日本の古寺美術11)』(保育社、1988年)、『我が国における請来系文物の基礎的資料の集成とその研究―古代中世の仏教美術を中心にして(報告書)』(奈良国立博物館、1993年)、『法隆寺再現壁画』(朝日新聞社、1995年)、『帯解寺』(同寺、1998年)などがある。このほか監修に『大和の名刹 信貴山の秘宝信貴山縁起と毘沙門天像』(ニューカラー印刷、1998年)、『仏像の見方 見分け方―正しい仏像鑑賞入門』(主婦と生活社、2002年)がある。

裾分一弘

没年月日:2016/02/17

読み:すそわけかずひろ  美術史家で学習院大学名誉教授の裾分一弘は2月17日、老衰のため死去した。享年91。 1924(大正13)年11月21日岡山県に生まれる。1951(昭和26)年九州大学文学部哲学科を卒業、同年同大学大学院に入学、美学・美術史学を専攻しのち中退。同大学文学部美学・美術史学研究生を経て58年、同大学文学部助手(文部教官)に着任。61年武蔵野美術大学講師に転任、翌62年助教授に昇任。64年に学習院大学文学部助教授に就任、以後67年に教授昇任を経て1995(平成7)年に退官するまでの30年以上、同学にて教鞭を執った。同時に東京大学、慶應義塾大学、成城大学など数多くの大学に非常勤講師として出講したほか、93-94年には日独ベルリン・センターの招聘によりジェノヴァ大学科学史研究所客員教授を務めた。 裾分は九州大学での学士論文以来一貫してレオナルド・ダ・ヴィンチを研究対象とし、とりわけレオナルドの手稿および素描・素画に関する研究に長年にわたり携わった。その分野においては国際的にも高く評価される存在であった。世界各地に散在するレオナルドの大量の手稿や素描を丹念に調査し、文字の読解、書誌学的検討から多岐にわたる図やモチーフの分類、同定、筆跡や描線の分析まで浩瀚な研究を手掛けた。その集大成は、『レオナルドの手稿、素描・素画に関する基礎的研究』(2巻、中央公論美術出版、2004年)として出版されている。また手稿研究に端を発してレオナルド及びイタリア・ルネサンスの芸術理論研究にも功績を残し、77年に『レオナルド・ダ・ヴィンチの「絵画論」攷』(中央公論美術出版)を、86年には『イタリア・ルネサンスの芸術論研究』(中央公論美術出版)を刊行している。同時に、『レオナルド「マドリッド手稿」』(共訳、岩波書店、1975年)、『レオナルド「解剖手稿」』(共訳、岩波書店、1982年)『レオナルド「パリ手稿M」』(岩波書店、1989年)、『レオナルド「パリ手稿L」』(岩波書店、1990年)などの訳書を通じ、レオナルドの手稿の日本語での紹介にも尽力した。 裾分の言葉によると、手稿および素描・素画に対する関心は、絵画作品と並んでそれらの研究の上にのみ真のレオナルド研究は成立する、との確信に基づいていた。それは、「片や美術作品を凝視し、片や制作者の身辺あるいは周辺・前後に遺るリテラルな資料・記録を視野に加える」両眼を備えることにより、美術史は「作品の単なる印象批評による美術史」を超克し、「美術史学としての資格を得る」という、学問の最も基本的な問題にたいする厳格な意識に裏付けされていた(『レオナルドの手稿、素描・素画に関する基礎的研究』537-38頁)。 裾分の真摯で密度の高い学風、誠実な性格と熱心な指導は、長年の奉職先であった学習院大学の内外を問わず多くの学徒を引き寄せ、とりわけイタリア美術史の分野を中心として数多くの後進を育てたことも特筆に値する。 その履歴、業績については上掲の『レオナルドの手稿、素描・素画に関する基礎的研究』に含まれる「著者の履歴および研究業績等一覧(平成14年4月現在)」に詳しい。

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