本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





上平貢

没年月日:2012/09/30

読み:うえひらみつぎ  京都工芸繊維大学名誉教授で元京都市美術館長の上平貢は9月30日、鳥取県内の病院で死去した。享年87。 1925(大正14)年8月20日、広島県呉市に生まれる。1951(昭和26)年に京都大学文学部哲学科(美学美術史専攻)を卒業し、同大学文学部の助手を務める。元々日本美術史を志望していたが、美学の理論研究を進めるうちにイタリア美術、とくにルネサンス美術を研究の対象とする。その一方で子供の頃から書を本格的に学び、また京都大学在籍中には森田子龍ら前衛的な書家が同大学の井島勉や久松真一に書の理論を求めて出入りしていたこともあり、書の評論も手がけている。57年から京都市立美術大学で専任講師、66年より助教授を務め、その間65・66年度イタリア政府留学生としてフィレンツェ大学文科哲学部美術史研究室で、とくに彫刻家ティーノ・ディ・カマーノについて研究。68年から京都工芸繊維大学工芸学部で助教授、73年より教授を務め、1989(平成元)年に退官し名誉教授となる。その間84~86年には同大学附属図書館長も務める。退官後の89年に京都市美術館館長となり2004年まで奉職、同館の別館開館(2000年)にも尽力した。一方で89~94年に宝塚造形芸術大学教授、94~01年嵯峨美術短期大学(現、京都嵯峨芸術大学)の学長を務め、01年の嵯峨美術短期大学退職とともに同大学名誉教授となる。また91年より意匠学会会長、96年より財団法人京都市芸術文化協会理事長、02年より特定非営利活動法人文字文化研究所副理事長(05年より理事長)、04年より京都市文化芸術振興条令策定協議会会長を歴任。この間、03年には京都市文化功労者の表彰を受け、04年には京都で社会貢献活動をし、顕著な功績のあった個人を顕彰する第19回ヒューマン大賞を受賞している。主要著書に『フィレンツェの壁画 保存と発見』(岩崎美術社、1973年)、『レオナルドと彫刻』(岩崎美術社、1977年)がある。

清水善三

没年月日:2012/07/16

読み:しみずぜんぞう  京都大学名誉教授で、日本彫刻史研究者の清水善三は、7月16日、虚血性心疾患のため京都市内の自宅で死去した。享年81。 1931(昭和6)年5月13日、静岡県浜名郡鷲津町(現、湖西市)に生まれる。50年愛知県立豊橋時習館高等学校卒業、同年京都大学文学部に入学。大学2年の時に結核にかかり、4年間の休学を余儀なくされた。その病床で出会ったのが仏像であったという(「ひと 新世紀 仏の顔」『京都新聞』1985年12月19日)。京大教養部で教鞭をとっていた、インド美術史を専門とする上野照夫の「美学はやるな。飯が食えんぞ」という口癖を乗り越えて、58年に同大学院文学研究科修士課程(美学専攻)に進学。芸術の自律的原理および芸術の自律的研究方法を追求した植田寿蔵を師とする井島勉、文化財保護委員会や奈良国立博物館等を歴任し、平安初期彫刻と室町水墨画など多ジャンルにわたる研究をおこなった蓮實重康のもとで、仏教美術を学んだ。くわえて学生時代には、当時、京都国立博物館学芸課に勤めていた毛利久に調査手法を学び、また京大文学部で「平安初期密教美術」を講義していた佐和隆研の授業に出席し、佐和のお伴で醍醐寺をはじめとする全国各地の調査に加わったという。 63年京大大学院文学研究科博士課程(美学専攻)単位取得満期退学、68年4月京都精華短期大学助教授に着任。71年4月に京大文学部助教授、79年11月学位論文『平安彫刻史の研究』を提出。翌年に教授となり、着任より24年間にわたって後進の指導に従事した。1995(平成7)年3月に定年退官。退官後は、さらに東海女子大学文学部教授(2002年まで)、文化庁文化財保護審議会第一専門調査会専門委員(2000年まで)を務めた。 清水の彫刻史研究は、彫刻様式の発展過程を跡づける様式論と史料読解にもとづく仏師論に大別され、またいち早く「場」の問題(仏像と空間の関係)に言及したことも特筆される。清水の様式論は、当時、優美性や情緒性などの印象批評的な評言で語られることの多かった彫刻史への批判に発し、彫刻の様式の概念を明確に規定して、その様式概念にもとづいて彫刻史全体を体系化しようとするものであった。作品のもつ固有の特質・視覚的造形的な本質・内的な形式を見極め、美術の固有の歴史を解明しようとする京大美学の学風を色濃く受け継ぐもので、様式論を完全に美学的に昇華させた点に特色がある。一方、様式史の対象とならないとみなされた、個々の彫刻がもつ特殊性(尊格や図像の相違、作者の違い等)にも目配りをしており、仏師と仏師組織に関する研究が、様式論を補完する役割として展開されることになったと想像される。 立体物としての彫刻がもつ「物理的量」と、それに独自な彫刻的手法をほどこすことによって造形化される「視覚的量」の関係を彫刻の「様式」と規定し、時代様式として完成しているものについては両者の一致がみられ、過渡期においては両者に齟齬が生じるという独特の彫刻史観は、仏像の美的価値の構造を客観的に真摯に追究しようとした清水の到達点であった。 主著に『平安彫刻史の研究』(中央公論美術出版、1996年)、『仏教美術史の研究』(同、1997年)があるほか、解説・書評等多数。大宮康男による追悼文「清水先生の思い出」(京都大学以文会『以文』57、2014年)より、誠実温厚な人となりがうかがわれる。

赤澤英二

没年月日:2012/05/23

読み:あかざわえいじ  美術史家の赤澤英二は5月23日、心不全のため死去した。享年82。 1929(昭和4)年6月22日東京府に生まれる。54年東京大学農学部水産学科卒業後、57年3月東京大学文学部美学美術史学科卒業、同年4月東京大学大学院人文科学研究科(美学美術史専攻)修士課程に入り、翌58年6月中退。同年7月東京学芸大学教育学部助手、65年4月講師、68年4月同大学大学院教育学研究科造形芸術学担当、同年6月助教授、76年4月教授。93年3月東京学芸大学を定年退官、5月同大学名誉教授号授与。この間、84年4月から88年3月まで同大学学部主事(第4部長)、1991(平成3)年4月から93年3月まで同大学教育学部附属野外教育実習施設長を務める。95年4月実践女子大学文学部教授に就き、2000年3月同大学を定年退職。 日本中世美術史、ことに室町時代水墨画史、とりわけ雪村周継の研究で多くの業績を残した。また各地の寺院所在中世絵画の調査を精力的に行ったことも特筆される。 60年に「応永詩画軸研究1応永詩画軸の前提」(『東京学芸大学研究報告』1巻11号)、「詩軸と詩画軸」(『美術史』40号)を発表。室町時代水墨画研究の基本問題を追及する姿勢を明らかにした。「応永詩画軸研究」は、「2詩画軸画題考」(1961年)、「3山水画構図論」(1963年)と続けて基本問題を追及する一方、「「李朝実録」の美術史料抄録(一)~(五)」(『国華』882~898号、1965~67年)を発表して中世美術史の分野ではじめて朝鮮美術史料をとりあげ、今日では当然となった東アジアを視野に収めた中世絵画史研究の必要性を提起するなど、後年の幅広い研究姿勢を早くから表している。最晩年の論文も「室町水墨画と李朝画の関係」(『大和文華』117号、2008年)である。 赤澤の業績の視野は広かったが、特筆される業績のひとつは、室町の代表的な画人である雪村周継の研究を一貫して進めたことにあった。「雪村の人物画における様式展開の一つのケース―用墨法の問題に関連して」(1975年)を初めとして多くの論文を発表し、85年『国華』の雪村特集号では編集と執筆の中心となるなど研究を進め、2003年にはその集大成である『雪村研究』(中央公論美術出版)を刊行した。これは、生没年など不確定な要素の多かった雪村の伝記について有力な仮説を提示し、模作などを含む百点に及ぶ作品を精査して、様式や落款印章の形式の比較検討を経た編年を試みた大著である。さらに2008年には人物評伝『雪村周継―多年雪舟に学ぶといへども』(ミネルヴァ日本評伝選)を著した。 また大きな業績のひとつは「地方寺院伝来の中世絵画調査」をテーマとして精力的な実地調査を行い、多くの資料の発掘・顕彰を行ったことである。調査は71年から95年までで北海道を除く全国44府県の350ヵ寺、調査作品は1,100点以上に及んだ。調査により発見された優れた作品を「海西人良詮筆仏涅槃図について」、「徳報寺蔵宗祇像について」、「室町時代の絵師「土蔵」詩論」などとして数多く発表。さらに長年にわたるこれらの成果は、その中から279点155ヵ寺1神社2博物館の作品を選択し収録した大著『日本中世絵画の新資料とその研究』(中央公論美術出版、1995年)、及び数多くの涅槃図の作例を通観することによってその図像の展開を論じた『涅槃図の図像学―仏陀を囲む悲哀の聖と俗千年の展開』(中央公論美術出版、2011年)に多くの図版とともにまとめられた。幅広い実作品を互いに連関させながら学術的に紹介したこれらの成果は、今なお日本美術研究上貴重な資料である。『新資料とその研究』の後序「模倣から引用へ」では、仏画と漢画の「模倣性」と「引用性」によってその展開をみる赤澤の日本絵画史観が記されている。他方、その精力的な実地調査は文化財行政に寄与し、結果として、赤澤によって見出された多くの文化財が各自治体や国の指定となった。福井・本覚寺蔵仏涅槃図や愛知・冨賀寺蔵三千仏名宝塔図などが国指定重要文化財となったのも赤澤の学術論文によって世に知られたことによる。 共著、報告書を含む著書に上述のほか『日本美術史』(共著、美術出版社、1977年)、『日本美術全集16室町の水墨画』(共著、学習研究社、1980年)に始まる11本、主要論文は室町水墨画、雪村に関するものはもとより「縄文前期筒型土器・口付土器」(『国華』854号、1963年)や「十五世紀における金屏風」(『国華』849号、1962年)などをも含む69編におよぶ。 他方、東京学芸大学の教育学部という場にあって、教育活動にも力を注いだ。とくに4年間にわたる学部主事の時代には、88年からの新課程の設置に伴う学部再編に尽力し、この結果、既成の教員養成課程に加えて環境、国際、情報などをふまえて学校教育以外の分野でも社会貢献できる人材養成の過程が造られ、これは広く基本モデルとなった。 小金井市文化財専門委員、同専門委員会副議長、小金井市文化財審議会会長、国華賞選考委員、文化庁文化財買取協議会委員等を務めた。小金井市市政功労表彰(1983年)、東京都功労者表彰(1996年)、正四位叙位・瑞宝中綬章受章(死亡叙位叙勲)。美術史学会、美学会に所属。道子夫人との間の3男の父。

成瀬不二雄

没年月日:2012/04/26

読み:なるせふじお  日本の洋風画研究者成瀬不二雄は4月26日、死去した。享年80。 1931(昭和6)年10月16日、福岡県福岡市に九州帝国大学仏文科教授成瀬正一の長男として生まれる。東京の森村学園小学校を卒業して、神戸甲南学園中学に学び、同高校を1年にて修了し神戸大学文学部に入学。53年3月神戸大学文学部芸術学を卒業し、翌54年3月同大学文学専攻科を終了。同年5月から神戸市立神戸美術館(後の神戸市立南蛮美術館)の嘱託となるが、同年11月に退職して神戸大学文学部芸術学助手となる。61年4月大和文華館学芸員となり、学芸係長、同課長、学芸部長を経て、同館次長となった。神戸大学在職中は、「ボードレールの詩的世界の成立とアングル及びドラクロアの影響について」(『近代』14号、1956年4月)、「ボードレールの詩「灯台」についての序説」(『近代』17号、1956年12月)、「ルーベンスとボードレール」(『近代』18号、1958年1月)、「レンブラントとボードレール」(『近代』19号、1957年5月)、「ゴヤとボードレール」『神戸大学文学会研究』(18号、1959年2月)に見られるように、ボードレールとそれに関わる美術家について研究を行っていたが、大和文華館に入った後、日本における西欧美術の受容を対象とするようになり、「桃山時代童子肖像画の一資料」(『大和文華』44号、1966年12月)、「日本洋画のあけぼの・秋田蘭画」『(美術手帖』283号、1967年6月)など、その後のライフワークとなる洋風画に関する論考が発表されるようになった。秋田蘭画における西洋的な空間表現の受容を論じ、近景を画面の前面に大きく描き、中景を水面などのモティーフとして、遠景を小さく描く特色ある構図を「近像型構図」と名づけてその系譜を跡づけ、また富士山が描かれた洋風画を悉皆的に調査し、実景と比較することによって、司馬江漢ら近世の洋風画の絵師たちが西洋風の写実を学びながらも、絵になる構図を求めて富士山を実景とは異なる位置に描いていることを実証するなど、洋風画史に大きな足跡を残した。それと並行して、従来、日本文化の近代化という文化史的側面から見られる傾向の強かった洋風画の美術的価値への理解を広めることに寄与した。1993(平成5)年、『国華』1170号掲載の「司馬江漢の肖像画制作を中心として-西洋画法による肖像画の系譜」によって第5回国華賞を受賞。97年3月に大和文華館次長を退職し2年間同館嘱託として在職、99年4月に九州産業大学大学院芸術研究科教授となり、洋風画史を講じた。晩年の著作となった『司馬江漢-生涯と画業』本文篇・資料篇(八坂書房、1995年)、『日本絵画の風景表現 原始から幕末まで』(中央公論美術出版、1998年)、『江戸時代洋風画史』(中央公論美術出版、2002年)、『日本肖像画史 奈良時代から幕末まで、特に近世の女性・幼童像を中心として』(中央公論美術出版、2004年)、『富士山の絵画史』(中央公論美術出版、2005年)は半世紀近い調査研究の集大成となっている。主要著書『東洋美術選書 曙山・直武』(三彩社、1969年)『原色日本の美術25 南蛮美術と洋風画』(坂本満・菅瀬正と共著、小学館、1970年)『日本美術絵画全集25 司馬江漢』(集英社、1977年)『江戸の洋風画』(小学館、1977年)『百富士』(毎日新聞社、1982年)『司馬江漢-生涯と画業』本文篇・資料篇(八坂書房、1995年)『日本絵画の風景表現 原始から幕末まで』(中央公論美術出版、1998年)『江戸時代洋風画史』(中央公論美術出版、2002年)『日本肖像画史 奈良時代から幕末まで、特に近世の女性・幼童像を中心として』(中央公論美術出版、2004年)『富士山の絵画史』(中央公論美術出版、2005年)

中川幸夫

没年月日:2012/03/30

読み:なかがわゆきお  生け花作家の中川幸夫は3月30日、老衰のため香川県坂出市内の介護施設で死去した。享年93。 1918(大正7)年7月25日、香川県丸亀市に生まれる。幼名は恒太郎。生家は代々土地持ちの農家で、母方の隅家も裕福な農家であり、祖父隅鷹三郎は樟蔭亭芳薫と号し、池坊生花の讃岐支部長を務めた。幼くして脊椎カリエスを患う。1932(昭和7)年、大阪の石版画工房へ入社、ここで映画、文学、文楽などに眼を開く。同社を6年ほどで退職したのち、大阪の印刷会社2社に務め、雑誌、映画ポスター制作などに従事。41年、身体を壊し帰郷、翌年伯母隅ひさの勧めにより本格的に池坊を習い始める。終戦後から53年にかけて、印刷会社に勤務。このころ、池坊・後藤春庭に立華を学び、草月流・岡野月香を知り草月の花に感銘を受ける。49年、丸亀市の大松屋で初個展「花個展 中川幸夫」を開催、出品作品が『いけばな芸術』第2号に掲載される。50年、「白東社」に参加。この年、池坊全国選抜展(東京都美術館)に出品。52年、第2回日本花道展(大阪・松坂屋、主催は文部省)に出品するが落選、池坊を脱退。以後、流派に属さず、個人の生け花作家となる。同年、第1回白東社展(大阪・三越)に出品(55年第3回展まで出品)。54年、モダンアートフェア(大阪・大丸、主催は朝日新聞社、第1回展)に招待出品(第2回、第3回も出品)。55年、自費出版で『中川幸夫作品集』を刊行。56年、東京都中野区江古田へ転居、半田唄子(白東社同人、元千家古儀家元)との結婚挨拶状を友人・知人に送る。六畳一間のアパートに暮し、喫茶店、バーなどに花を活けて生計を立てたという。58年集団オブジェ結成に参加。61年第13回読売アンデパンダン展に出品(第14回、第15回も出品)。68年東京での初個展を銀座・いとう画廊で開催。84年銀座・自由ケ丘画廊で個展を開催、花液を海綿を介して和紙にしみこませる手法を用いた作品をはじめて発表。この年、半田唄子死去。93年、大野一雄舞踏公演「御殿、空を飛ぶ」(横浜・赤レンガ倉庫)の舞台装置を制作。98年、1年間、山口県立萩美術館・浦上記念館で茶室のインスタレーション«鏡の中の鏡の鏡»を展示。同年、「Etre Nature」展(カルティエ現代美術財団)に写真作品15点を出品。2002年、大地の芸術祭において新潟県十日町市信濃川河川敷でパフォーマンス「天空散華 中川幸夫『花狂い』」を実施。2003年ころから郷里丸亀に転居、故郷に拠点を移していた。ザ・ギンザ・アートスペース(2000年)、鹿児島県霧島アートの森(2002年)、大原美術館(2003年)、宮城県美術館、丸亀市猪熊弦一郎美術館(ともに2005年)などで個展を開催した。作品集に上記のほか『中川幸夫の花』(求龍堂、1989年)、『魔の山 中川幸夫作品集』(求龍堂、2003年)など、評伝に森山明子『まっしぐらの花 中川幸夫』(美術出版社、2005年)、早坂暁『君は歩いて行くらん 中川幸夫狂伝』(求龍堂、2010年)、また中川幸夫をモデルとした小説に、芝木好子「幻華」(『文学界』1970年11月号)などがある。『華 中川幸夫作品集』(求龍堂、1977年)で「世界で最も美しい本」国際コンクールに入賞。1999年織部賞グランプリ受賞、丸亀市文化功労者となる。2004年、第20回東川賞(北海道東川町)を受賞。2014年にはドキュメンタリー映画「華いのち 中川幸夫」(企画、監督、編集=谷光章)が公開、各地で上映される。花の生命力そのものを鮮やかに浮かび上がらせた作品の数々で美術界からも高い評価を受けた。

川上貢

没年月日:2012/03/20

読み:かわかみみつぐ  建築史家で京都大学名誉教授の川上貢は3月20日午前10時45分、大阪府高槻市内の病院で肺炎のため死去した。享年87。 1924(大正13)年9月6日大阪府に生まれる。1946(昭和21)年京都帝国大学工学部建築学科に入学。49年に卒業後、同大学院の特別研究生として村田治郎に師事、53年に京都大学工学部講師、55年に助教授、66年に同教授となる。88年に定年退官し、同大学名誉教授。同年より1990(平成2)年まで福井大学工学部教授、同年より95年まで大阪産業大学工学部教授を歴任。 京大助教授時代の58年に、「日本中世住宅の研究」にて同大より工学博士号授与、翌59年には同論文に対して日本建築学会賞(論文賞)を受賞した。 近世の書院造より以前の、実物遺構が現存しない鎌倉・室町時代の住宅建築の平面形式とその空間の具体的使われ方を歴史史料に現れる記述の分析を通じて解明するとともに、寝殿造から書院造に至る支配階級の住宅の変遷過程を初めて提示した学位論文は、『日本中世住宅の研究』(墨水書房、1967年)として公刊され、建築史学にとどまらず関連学会からも基本文献として評価されることとなった。実物遺構の調査に基づく研究としては、学部生当時から禅宗寺院の塔頭建築の意義と構成の考究に力を注ぎ、その成果は『禅院の建築』(河原書店、1968年)として刊行されている。 後年には、近世や近代の建築調査を主導することを通じて、多くの建造物の文化財指定、保存に貢献したほか、教育や学会活動の面でも大いに活躍した。76年から94年まで文化庁文化財保護審議会の専門委員を務めたほか、京都府をはじめとする地方自治体でも文化財保護審議会委員として文化財保護行政に助言した。さらに、日本建築学会の理事、監事や、87年より89年の間は建築史学会会長を務め、学会の発展に貢献した。94年より財団法人京都市埋蔵文化財研究所所長として、また98年より2006年まで財団法人建築研究協会理事長として、考古学調査や文化財建造物の保存修理にも指導的役割を果たした。これらの業績により03年に旭日中綬章を受章、10年には「日本建築史に関する研究・教育と建築文化遺産保存活動の功績」にて日本建築学会大賞を受賞した。 上記以外の主な著作に、『室町建築』(日本の美術199 至文堂、1982年)、『近世建築の生産組織と技術』(編著 中央公論美術出版、1984年)、『建築指図を読む』(中央公論美術出版、1988年)、『近世上方大工の組・仲間』(思文閣出版、1997年)などがあり、調査報告書の執筆や編集も数多く担当している。

山口桂三郎

没年月日:2012/01/17

読み:やまぐちけいざぶろう  浮世絵研究者で国際浮世絵学会会長の山口桂三郎は1月6日、東京国立博物館での中国故宮博物院展開会式出席の後に転倒して救急治療を受けたが、1月17日未明に心不全のため死去した。享年83。 1928(昭和3)年11月3日、東京千代田区に生まれる。生家は駿河台ホテルを営んでいた。本名は昭三郎。桂三郎は自らの好む桂の字を入れた筆名である。明治大学史学科で神道美術を中心に学び、57年、明治大学大学院史学専攻修士課程を修了。59年に「雪舟」(『駿台史学』9号)を発表。60年、同博士課程を修了。59年12月「垂迹画の特長」(『美学』43号)を、61年には「拝殿と能舞台-万祥殿の建築について-」(『風俗』1巻2・3号)、62年には「板絵春日曼荼羅・仏涅槃図解説」(『国華』840号)、「風俗資料としての神道絵画」(『風俗』2巻2・3号)を発表するが、藤懸静也と出会って浮世絵の研究に進む。日本浮世絵協会に所属して、研究者のみならず、浮世絵版画の工房や技術者、愛好家や美術商をも含む浮世絵界全体を盛り立てるべく尽力し、会誌『浮世絵芸術』の編集発行に長く携わった。61年より日本大学、戸板女子短期大学、東洋大学、明治大学等にて非常勤講師をつとめて浮世絵について教授し、76年に立正大学教養学部助教授となり、80年に同教授となった。1991(平成3)年に日本浮世絵協会理事長となり、また同年から10年間、櫛形町春仙美術館館長をつとめた。98年日本浮世絵協会が国際浮世絵学会に改組されるにあたり、同会会長となり、国際浮世絵大会の実施、平成の浮世絵事典の編集刊行、学会企画の浮世絵展の実施を目標に掲げ、国際学会の開催や2008年に学会編による『浮世絵大事典』(東京堂出版)の刊行を実現させた。一方、衰退していく浮世絵制作技術を残し、次代に継承しようと、日本の伝統工芸品としての浮世絵の評価の確立に尽力。浮世絵の支持体である和紙製造、木版画の版木作成、摺りの技術の伝承のために、92年の東京伝統木版画協会の発足に参加し、「江戸木版画」が東京都伝統工芸品の指定を受けるのに寄与した。また、98年から04年まで安藤広重の「名所江戸百景」120景の復刻事業に参加し、それらの復刻作品の展覧会開催にも尽力して浮世絵作成技術の伝承と作品の普及につとめた。07年に「江戸木版画」が経済産業省の「伝統的工芸品」に指定される際にも、同省への説明に出向いている。99年3月に立正大学を定年退職して同名誉教授となり、長年の研究をまとめた「浮世絵における美人・役者絵の史的研究」で04年、立正大学より文学博士号を取得した。能楽にも造詣が深く、特権階級の文化や信仰にまつわる造形への理解を踏まえて、市井の人々の生活と深く結びついた浮世絵について考究し、その普及につとめた。著作には以下のようなものがある。『浮世絵名作選集19 江戸名所』(日本浮世絵協会編、山田書院、1968年)『東洋美術選書 広重』(三彩社、1969年)『浮世絵大系7 写楽』(編集製作:座右宝刊行会、集英社、1973年)『浮世絵大系11 広重』(同上、1974年)『浮世絵概論』(言論社、1978年)『浮世絵聚花4 シカゴ美術館 1』(鈴木重三と共著、小学館、1979年)『浮世絵聚花11 大英博物館』(楢崎宗重と共著、小学館、1979年)『浮世絵聚花12 ギメ東洋美術館・パリ国立図書館』(小学館、1980年)『原色浮世絵大百科事典6-9巻』(浅野秀剛と共著、大修館書店、1980-82年)『肉筆浮世絵 清長 重政』(集英社、1983年)『写楽の全貌』(東京書籍、1994年)『東洲斎写楽』(浅野秀剛・諏訪春雄と共著、小学館、2002年)

辻佐保子

没年月日:2011/12/24

読み:つじさほこ  西洋美術史研究者で、初期・中世のキリスト教美術研究において多大な功績を残した辻佐保子は、12月24日東京都港区高輪の自宅で死去した。享年81。 1930(昭和5)年11月21日愛知県名古屋市に生まれる。50年3月愛知県立女子専門学校英文科卒業、同年4月東京大学文学部美学美術史学科に入学。吉川逸治に師事する。 54年4月、同大学大学院人文科学研究科修士課程(美術史学専攻)に入学、57年4月同博士課程に進学する。同年10月、フランス政府給費留学生としてパリ大学高等学術研究所(エコール・デ・オート・ゼチュード)に留学、アンドレ・グラバアルに師事。1961(昭和36)年10月、パリ大学に博士論文(Etude iconographique des reliefs des portes de Sainte-Sabine a Rome,Paris,1961)を提出し、博士号を取得。同年12月に帰国し、62年より日仏学院(~66年)、64年より武蔵野美術大学(~66年)で講師を勤める。1966(昭和41)年4月、フランス政府招聘研究員として再度渡仏。パリ大学高等学術研究所に在籍し、『コトン・ゲネシス』(ブリティッシュ・ライブラリー所蔵)の研究にあたった。同年12月の帰国後は、東京教育大学、聖心女子大学、広島大学、武蔵野美術大学、日本女子大学の非常勤講師を歴任。1971年11月より名古屋大学文学部美学美術史学科助教授、77年5月に同教授となる。1989(平成元)年4月、お茶の水女子大学文教育学部哲学科教授に転任、96年3月に退官。 95年、イタリア政府より国家功労賞カヴァリエーレ・ウフィツィアーレ(上級騎士勲位章)、2003年、フランス政府より教育功労賞オフィシエ勲位章を受章。名古屋大学およびお茶の水女子大学名誉教授。 東西初期キリスト教美術、ビザンティン美術、西欧初期中世美術、ロマネスク美術を主な研究対象とし、なかでも、古代から中世の転換期におけるキリスト教美術の図像成立について、誕生の契機や主題の解明に心血を注いだ。聖書、外典、教父の説教集などのテキストに密着した図像の成立を自ら「イコノゲネシス」(図像生成)と命名、写本挿絵、石棺、カタコンベ、教会堂装飾、象牙浮彫などを綿密に比較検討し、時に複雑に絡み合い発展していくキリスト教美術成立期の様を明らかにした。それらは、主著5冊、日本語論文50点、欧文論文11点等に発表されている。 『古典世界からキリスト教世界へ―舗床モザイクをめぐる試論―』(岩波書店、1982年)では、床面モザイク装飾を対象に、初期キリスト教美術が、古典古代からあるいはユダヤ教を通じて取り入れた図像を詳細に検討し、図像解釈やプログラムの解明にあたるとともに、「上下の投影」「90度の投影」という独自の視点を用いて、床面装飾と壁面及び天井装飾が相互に及ぼす影響関係を明らかにし、同年のサントリー学芸賞を受賞した。 また、仏語の博士論文は、半世紀にわたる追記の末、2003年に日本語版として『ローマ サンタ・サビーナ教会木彫扉の研究』(中央公論美術出版)を出版、2004年度の地中海学会賞を受賞している。主要な研究書はほかに『ビザンティン美術の表象世界』(岩波書店、1993年)『中世写本の彩飾と挿絵―言葉と画像の研究』(岩波書店、1995年)『ロマネスク美術とその周辺』(岩波書店、2007年)。このほか美術全集などの執筆にも数多く携わり、名も無き画家たちに時に温かなまなざしを向けながら、その魅力を世に広めた。 また、作家辻邦生の妻として公私にわたり夫を支え、『辻邦生のために』(新潮社、2002年)『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』(中央公論新社、2008年)などを刊行している。 2012年、故人の遺志により、遺産の一部が美術史学会に寄付された。同学会は辻佐保子美術史学振興基金運営委員会を設立。2013年度よりこの基金を用いて、日本における美術史学の振興のため、毎年1回、高名な外国人研究者等を招聘し、Sahoko Tsuji Memorial Conferenceが企画、実施されることとなった。

遠藤幸一

没年月日:2011/12/07

読み:えんどうこういち  美術史研究者で、高岡市美術館長であった遠藤幸一は12月7日肝不全のため、東京都内の病院で死去した。亨年61。 1950(昭和25)年東京に生まれる。本名宮野幸一。69年3月、東京都立日比谷高等学校を卒業。74年3月、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業。77年3月、同大学大学院美術研究科修士課程(日本東洋美術史専攻)を修了。同年4月から9月まで同大学院研究生、翌10月から78年3月まで同大学非常勤講師を務める。78年4月から富山大学教育学部講師(美学・美術史担当)となる。82年12月、同大学同学部助教授となり、1995(平成7)年3月まで勤務。教育活動としては、他に金沢美術工芸大学、山野美容芸術短期大学、群馬県立女子大学、東京理科大学等で非常勤講師を務めた。93年6月から2002年3月まで、高岡市美術館収集美術品選考委員を務め、02年4月から同美術館長となり、長らく館長として勤務していたところ現職で急逝した。 大学では教育にあたりながら、専門とする長谷川等伯研究では、生誕地である能登の地域と時代背景を検証考察するために、作品と文献資料を丹念に渉猟し、下記の諸論文等において春信時代の実像に迫り、斯界の研究の進展に寄与した。また、高岡市美術館の館長に就任してからは、美術館人として、近世から現代美術まで多岐にわたる企画展を担当しながら、同美術館「友の会」をはじめ、市民の視線にたちながら美術の普及事業に熱心にあたった。没後の平成24年2月5日に高岡市内で開かれた「遠藤幸一館長を偲ぶ会」には、個人の明るく温厚な人柄と美術館における幅広い活動を偲んで、300人をこえる参加者があった。主要論文・評論等「長谷川信春と能登(一) 信春の出自及び能登の政治的文化的宗教的状況」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』28号、1980年3月)「長谷川信春と能登(二)」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』29号、1981年3月)「長谷川信春と能登(三)」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』30号、1982年3月)「新出「信春」印・「法印日禛」銘高僧図について」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』31号、1983年3月)「長谷川信春筆大法寺仏画攷-日蓮宗十界曼荼羅の伝統と信春作品」(久保尋二編『芸術における伝統と変革』、多賀出版、1983年12月)「第四章 戦国期の越中 第五節 戦国期の社会と文化」(分担執筆)(『富山県史 通史編Ⅱ 中世』、富山県、1984年)「長谷川信春と能登(四)」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』36号、1988年3月)「第一章 御細工所の沿革」(分担執筆)(『加賀藩御細工所の研究』(一)、金沢美術工芸大学 美術工芸研究所、1989年)「批評 洋画 四人から洋画の問題を考える」(『展』2号、能登印刷・出版部、1991年12月)「展評 洋画 『完成度』の上に求めるもの」(『展』3号、能登印刷・出版部、1992年6月)「展評 洋画 芸術家の才気とは」(『展』4号、能登印刷・出版部、1993年3月)「第五章 御細工所と加賀の工芸 第二節「御用内留帳」に見る工芸職種 四 象眼細工、六 塗物細工、七 絵細工」(分担執筆)(『加賀藩御細工所の研究』(二)、金沢美術工芸大学 美術工芸研究所、1993年)分野別専門委員(美術・工芸)(『富山大百科事典』上、下巻、北日本新聞社、1994年)「結城正明の画業と大観」(『富山県水墨美術館開館記念特別展 横山大観展』図録、富山県水墨美術館、1999年4月)「大角勲芸術の歩み」(『大角勲 天・地・生・命』展図録、高岡市美術館、2004年6月)「沿革と十年の総括・展望」(『高岡市美術館年報 2004年』、高岡市美術館、2005年)座談会「第三十七回日展-新たなる歩み」(『日展ニュース』119号、2005年12月)「『若き日の長谷川等伯』展によせて」(『若き日の長谷川等伯』展記録集、2006年10月)「富山県俊英作家にみる日本画の最前線」(『日本画の最前線―富山・俊英作家たちの軌跡』展図録、高岡市美術館、2007年2月)シンポジウム「日本画の最前線―富山・俊英作家たちの軌跡-シンポジウム『日本画の可能性』」(『PATIO』25号、2007年5月)「左右は展示のポイント」(『PATIO』26号、2008年3月)「嶋田しづの作品とあゆみ」(『嶋田しづ 第15回井上靖文化賞受賞記念-画業60年の歩み』展図録、高岡市美術館、2008年6月)編集委員『ふるさと美術館 愛蔵版』(北國新聞社、2009年8月)「~鳳凰鳴き文化の華ひらく~『高岡の名宝展』によせて」(『高岡の名宝展~鳳凰鳴き文化の華ひらく~-前田家と瑞龍寺・勝興寺を中心に-』図録、高岡市美術館、2009年9月)「池田太一さんの画業」(『池田太一展』図録、滑川市立博物館、2009年10月)「(コラム)能登畠山家の文化と盛衰」(『別冊太陽 日本のこころ166 長谷川等伯 桃山画壇の変革者』、2010年2月)「東山庵グループコレクションの精華」(『安土桃山・江戸の美~知られざる日本美術の名品~東山庵グループコレクション』展、高岡市美術館、2010年9月)「日本美術のススメ 今月の逸品『桜下遊楽風俗図』」(『美術の窓』325号、2010年10月)

杉山二郎

没年月日:2011/11/30

読み:すぎやまじろう  美術史家の杉山二郎は11月30日、膵臓がんのために死去した。享年83。 昭和3(1928)年9月14日、東京府に生まれる。54年東京大学美学美術史学科を卒業し、55年奈良国立文化財研究所美術工芸室に勤務した。この時期は、天平時代の美術を中心に研究していたが、一方で、正倉院御物などを通じて東西交渉史に強い関心を覚え、中央アジアの発掘、イランのサーサーン朝やパルティア朝の美術、ヘレニズムの東漸などに関わる種々の書物を読みふけり、これがその後の学問的関心の素地を作った。 60年東京国立博物館学芸部に転じ、東洋課の東洋考古室長、西アジア・エジプト室長などを勤めた。『東京国立博物館図版目録 大谷探検隊将来品篇』の編集刊行(1971年)、『特別展観 東洋の古代ガラス―東西交渉史の視点から―』の開催(1978年)及び図録刊行(1980年)など、東洋美術や東洋考古に関する陳列品の収集、保管、展示、種々の展覧会の企画、運営に関わった。68年の東洋館開館に関わる諸事業にも携わった。 この時期に、西アジアやシルクロード、中国などにおける現地調査を数多く行ったが、とくに東京大学のイラク・イラン遺跡調査団に参加し、現地の発掘調査を行ったことは貴重な経験となった。江上波夫を団長とする第一次遺跡調査では、65年とその翌年のテル・サラート遺跡第1号丘と第5号丘の発掘、タル・イ・ムシュキの発掘、ターク・イ・ブスターンの測量調査などに参加、深井晋司を団長とする第二次遺跡調査では、76年のハリメジャン遺跡の発掘、テル・サラート遺跡第1号丘、第2号丘の発掘に、78年のラメ・ザミーンの発掘調査、ターク・イ・ブスターンの測量調査に参加した。 彼は多くの著作を残した。68年に刊行した『大仏建立』により、69年に毎日出版文化賞を受賞した。彼の関心は美術や考古にとどまらず、日本における人間性(ユマニテ)の育成の歴史、芸術よりみた日本精神史の研究にまで及んでおり、それに関わる多くの著作がこの時期に成っている。もともと医科志望であったためか、木下杢太郎や森鴎外など、医者であり、かつ文化や芸術の探究者に対して強い親和力をもつ。木下杢太郎を対象として、近代における日本人の人格形成のプロセスを追った『木下杢太郎 ユマニテの系譜』(1974年)はまさにその傾向を強く映している。 博物館を退いた後、88年に長岡技術科学大学工学部教授、1991(平成3)年に佛教大学文学部教授、96年に国際仏教学大学院大学教授を勤め、2002年に退任した。主な著書『天平彫刻』日本の美術15(至文堂、1967年)『大仏建立』(学生社、1968年)『鑑真』東洋美術選書(三彩社、1971年)『カラー大和路の魅力 寧楽』(写真:入江泰吉)(淡交社、1972年)『木下杢太郎 ユマニテの系譜』(平凡社、1974年)『正倉院 流沙と潮の香の秘密をさぐる』(ブレーン出版、1975年)『西アジア南北記 沙漠の思想と造形』(瑠璃書房、1978年)『オリエント考古美術誌 中東文化と日本』NHKブックス(日本放送出版協会、1981年)『オリエントへの情熱 自叙伝的試み』(福武書店、1983年)『仏像 仏教美術の源流』(柏書房、1984年)『極楽浄土の起源 祖型としてのターク・イ・ブスターン洞』(筑摩書房、1984年)『風鐸 歳時風物誌』(瑠璃書房、1985年)『大仏以後』(学生社、1987年)『遊民の系譜 ユーラシアの漂泊者たち』(青土社、1988年)『真贋往来 文化論的視点から』(瑠璃書房、1990年)『日本彫刻史研究法』(東京美術、1991年)『遊牧と農耕の峡にて ユーラシア精神史考』(学生社、1993年)『天平のペルシア人』(青土社、1998年)『仏教文化の回廊』(青土社、1994年)『大仏再興』(学生社、1999年)『善光寺建立の謎 日本文化史の探究』(信濃毎日新聞社、2006年)『仏像がきた道』(青土社、2010年)『山紫水明綺譚 京洛の文学散歩』(冨山房インターナショナル、2010年)共編著 『批評日本史 政治的人間の系譜1 藤原鎌足』(梅原猛、田辺昭三と共著)(思索社、1972年)『批評日本史 政治的人間の系譜4 織田信長』(会田雄次、原田伴彦と共著)(思索社、1972年)『毒の文化史 新しきユマニテを求めて』(山崎幹夫と共著)(講談社、1981年)『世界の大遺跡7 シルクロードの残映』(共著)(講談社、1988年)翻訳『考古学探検家スタイン伝』(J.ミルスキー著、共訳)(六興出版、1984年)『長春眞人西遊記 王観堂静安先生校注本』(李志常、校註)(国際仏教学大学院大学、2002年)

町田章

没年月日:2011/07/31

読み:まちだ あきら  考古学者の町田章は7月31日、肺がんのため死去した。享年72。 1939(昭和14)年2月5日、香川県善通寺市に生まれる。62年に関西大学文学部史学科東洋史専攻を卒業後、立命館大学大学院文学研究科に進学。64年4月に奈良国立文化財研究所に入所する。86年平城宮跡発掘調査部長に就任、1994(平成6)年からは京都大学大学院人間・環境学研究科文部教官を四年間併任。98年に文化庁文化財保護部文化財監査官となり、翌年4月から奈良国立文化財研究所長、独立行政法人文化財研究所理事・奈良文化財研究所長(2001年)、文化財審議会専門委員、同法人理事長(2004年)をへて、2005年3月に同理事長・所長を退任する。 立命館大学大学院在学中には、白川静に師事して東洋史、東洋思想史を学び、中国古代墓葬の研究をおこなった。一方、奈良国立文化財研究所の榧本亀治郎の指導のもと『楽浪漢墓』の報告書作成に関わったことで、榧本に推挙され64年に奈良国立文化財研究所に入所する。前年に設立したばかりの平城宮発掘調査部に配属されるが、65年から二年間、文化財保護委員会事務局記念物課に出向し、全国的な開発に伴う埋蔵文化財保護行政の基礎づくりに携わった。研究所に戻ってからは平城京の発掘調査に従事した。発掘調査報告書では、平城宮の東北に位置するウワナベ古墳と平城京条坊との関係を明らかにし(『平城宮跡発掘調査報告書Ⅵ』、奈良国立文化財研究所、1974年)、平城宮の中枢部である第一次大極殿地区の発掘成果をまとめ、その変遷と歴史的意義を世に問うた(『平城宮跡発掘調査報告書Ⅺ』、同所、1981年)。86年『平城京』(ニューサイエンス社)では、三十年ちかい平城京調査の全容をまとめ、専門家だけでなく一般読者にむけて平城京の重要性を紹介した。 高松塚古墳の壁画が発見された72年に「唐代壁画墓と高松塚古墳」(『日本美術工芸』405号)を発表し、この壁画が唐の影響を強く受けていたことをいち早く指摘した。この研究は、のちに東アジアにおける装飾墓を総括した86年『古代東アジアの装飾墓』(同朋舎)に結実する。95年「胡服東漸」(『文化財論叢Ⅲ』、奈良国立文化財研究所)は高松塚古墳の人物像に代表される日本古代の服装を東アジアの服制に位置づけたものである。 研究所で金属器・木器を中心とする遺物整理を担当したことから、日本古代の装飾具や武器へと関心を広げる。70年「古代帯金具考」(『考古学雑誌』第56巻第1号)では、古墳出土の帯金具の系譜を中国、朝鮮にもとめた。帯金具に端を発した研究は古墳時代の装身具全般におよび、97年『日本の美術 第371号 古墳時代の装身具』(至文堂)を刊行した。姫路市宮山古墳出土の鉄器類を整理する過程で環刀を発見し、76年「環刀の系譜」(『研究論集Ⅲ』、奈良国立文化財研究所)では、中国における環刀の変遷を明らかにした。 平城京の調査研究に従事する傍ら、70年代には漢墓を中心とする論考もいくつか発表する。文化大革命終結後間もない78年には、関西の文化財行政に携わる考古学者を率いて北京、安陽、洛陽、西安、広州の遺跡・遺物を調査した。81年「隋唐都城論」(『東アジア世界における日本古代史講座』第5巻、学生社)は、文献史料と発掘成果から隋唐都城の構造を明らかにしたもので、日本古代都城との構造比較を見据えた論考である。 91年には奈良国立文化財研究所と中国社会科学院考古研究所との間で「友好共同研究議定書」を取り交わし、「日中古代都城の考古学的比較研究」を課題とする本格的な日中共同研究を実現した。今日にいたるまで二十数年におよぶ共同研究の礎となった。98年『北魏洛陽永寧寺』(奈良国立文化財研究所)は共同調査の最初の成果報告である。また、ユネスコ世界文化遺産保護機構の参与として、唐長安城大明宮含元殿や中国新疆ウイグル自治区の交河故城の保護に尽力した。所長就任後は、漢長安城桂宮、唐長安城大明宮の発掘調査、唐三彩、三燕時代金属器の調査を指揮し、共同研究を推進した。こうした業績が評価され、03年には外国人として初の中国社会科学院栄誉教授となる。 所長の重責を負いつつも研究への情熱は衰えず、職務の合間をぬって完成させたのが、02年『中国古代の葬玉』と06年『中国古代の銅剣』の単著である。2つの大著は90年代以降の共同研究、70年代の刀剣研究に源を発し、それらを集大成したものといえよう。 町田の研究は中国考古学を基軸としている。平城京の調査、古墳時代から古代に至る遺物の研究では、その淵源を中国、朝鮮にもとめ、東アジア全体のなかに遺跡や遺物の歴史的意義を見出そうとする視点が常にあった。この背景には、文化大革命によって中国の遺跡や遺物を実見できない時期が長く続いたという不運な境遇もあっただろう。しかし、そうした逆境のなか、眼前にある日本の遺跡や遺物を中国考古学の知見と結びつけ評価する努力をつづけ、最終的に中国との共同研究を実現するまでに至ったのである。これら一連の業績により、09年には勲三等瑞宝中綬章を受章した。

有光教一

没年月日:2011/05/11

読み:ありみつきょういち  朝鮮考古学者で京都大学名誉教授の有光教一博士は5月11日、膿胸のため死去した。享年103。 1907(明治40)年11月10日、山口県豊浦郡長府村(現、下関市)に生まれた。1925(大正14)年3月大分県中津中学校卒業、同年4月福岡高等学校入学、1928(昭和3)年4月京都帝国大学文学部史学科入学。翌年、当時日本で唯一同大に開設されていた考古学専攻に進学し、31年3月に卒業する。専攻進学以降、大学に在籍した三年半にわたり主任教授の濱田耕作、また梅原末治から指導を受けたことが朝鮮考古学に傾倒する大きなきっかけとなった。 31年4月、引き続き京都帝国大学大学院に入学するとともに副手として考古学研究室に勤務するが、同年8月には濱田の斡旋により朝鮮古蹟研究会助手として採用され、朝鮮半島に赴く。さらに9月には慶州勤務の朝鮮総督府古蹟調査事務嘱託となり、二年ほどの間、慶州皇南里82・83号墳、金仁問墓碑、忠孝里古墳群、南山仏蹟、皇吾里16・54号墳、路西里215番地古墳などの調査・整理作業を実施する。33年1月に京城の総督府博物館勤務指示を受け3月にソウルに転出した後は、半島各地での調査のほか、遺跡遺物の文化財指定に関する準備作業、博物館の展示などを担当する。37年10月に朝鮮総督府学務局技手嘱任、41年6月には藤田亮策の後を受け、朝鮮総督府学務局社会教育課古蹟係主任および朝鮮総督府博物館主任兼務となり、実質的な総督府博物館長として戦時下の博物館運営管理を担った。さらに戦況の悪化により館に被害が及ぶ危険性が高まると、総督府の協力が得られない中、わずかな人数の館員で手持ち、列車輸送による収蔵品の扶餘・慶州分館疎開を行った。 日本敗戦直後の45年9月、米軍政庁統治下で氏以外の日本人博物館職員はすべて罷免され、韓国側担当となった金載元博士を補佐して疎開品の回収や国立博物館への引継ぎと再開館準備を行った。12月に軍政期国立博物館は無事開館したものの、その後も博物館運営および発掘調査指導のため米軍政庁文教部顧問として残留を余儀なくされ、この間には混乱下にあった民間所在文化財の散逸拡散防止に腐心し、また好太王の銘が鋳出された青銅椀が出土したことで知られる路西里140号墳(壺 塚)の発掘を国立博物館メンバーと行い、調査を終えた46年6月にようやく帰国を果たした。 引揚後の同年10月にG・H・Q九州地区軍政司令部顧問(民間教育課文化財担当)、また49年10月に福岡県教育委員会事務局嘱託となり九州各県の文化財調査を実施、50年3月に京都大学講師、また同年9月にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校東洋語学部講師として渡米、帰国後の52年12月に京都大学文学部助教授、56年8月に京都大学文学博士学位を授与され(学位論文「鉄器時代初期の朝鮮文化:石剣を中心とした考察」)、57年3月京都大学文学部教授就任、71年3月に京都大学を定年退官する。73年6月に奈良県立橿原考古学研究所副所長に迎えられ、80年11月に同研究所所長就任(1984年3月まで)、また1989(平成元)年11月には創設者である鄭詔文たっての希望により高麗美術館研究所所長となり、以降亡くなるまでの二十二年間、同研究所所長を務めた。 氏は、戦前は現地において、戦後は梅原考古資料(朝鮮之部)の整理などによって、新石器時代から青銅器時代を中心に、朝鮮半島各時代の幅広い遺跡遺物について調査研究を精力的に進められ、単著には『朝鮮磨製石剣の研究』(京都大学文学部、1959年)、『朝鮮櫛目文土器の研究』(京都大学文学部、1962年)、『有光教一著作集』第1~3巻(同朋舎出版、1990~99年)、『朝鮮考古学七十五年』(昭和堂、2007年)などが、また多数の共著や論文がある。発刊に携わった発掘調査報告には、氏が戦前の発掘時に勤務地の異動や戦前戦後の混乱といった事情のため報告できずにいた慶州皇吾里16号墳他の発掘調査記録を、齢90歳を超えてから韓国語を主語として発刊した『朝鮮古蹟研究会遺稿』Ⅰ~Ⅲ(東洋文庫、2000~03年)を始め、戦前に朝鮮総督府や朝鮮古蹟研究会から出版された多くの報告書類等がある。 これら一連の業績により、78年に勲三等旭日中綬章、2000年に京都新聞大賞文化学術賞が授与された。 氏は一般に、朝鮮考古学者として標榜されることが多いが、その活動は上述のように、朝鮮半島における戦前の総督府博物館の維持管理から戦後の国立博物館の成立に至る博物館業務、さらに大学退官後の橿原考古学研究所所長・副所長、高麗美術館研究所所長としての長年の活動など、様々な文化財の保全や博物館・美術館の維持発展に尽力された博物館人でもあった。 自身の半生を回顧した「私の朝鮮考古学」(1984-87年、『季刊三千里』に連載)の最後で氏は、「「私の朝鮮考古学」のすべてが現代史である」と述懐されている。日本と大韓民国にとって最も困難な時代をその中心で生き抜き、そして終生両国の人々からの信頼と敬愛を保ち続けたその生き方は、学問業績に勝るとも劣らない大きな価値を放っている。

門倉武夫

没年月日:2010/12/26

読み:かどくらたけお  保存科学分野の研究者である門倉武夫は12月26日、自宅にて急逝した。享年76。 1934(昭和9)年8月27日、東京都八王子市に生まれる。57年工学院大学を卒業後、同年、東京国立文化財研究所(現、東京文化財研究所)保存科学部化学研究室に就職。その後、78年以降、保存科学部主任研究官を経て、1993(平成5)年から保存科学部生物研究室室長を務める。また、東京国立文化財研究所を退官後は、東京国立文化財研究所名誉研究員となり、東京都埋蔵文化財センター嘱託研究員として研究を続けた。またその間、明治大学、和光大学、女子美術大学、東京学芸大学等で講師として文化財の保存科学について教鞭をとった。一貫して文化財の保存科学に生涯を捧げた。とくに、文化財を取り巻く大気環境調査や、大気汚染や酸性雨が文化財に及ぼす影響などについて調査を行い、大理石やブロンズ彫刻など、屋外の文化財の保存環境の研究に取り組んだ。また、ひたちなか市(旧勝田市)の虎塚古墳については、71年から文化財保存対策委員を務め、発掘の際の古墳の環境調査を担当するとともに、その後も毎年の点検に欠かさず参加し、その保存対策に終生貢献した。文化財の保存科学や人間に向き合う真摯な姿勢と、その温かい人柄から、年齢を問わず、多くの親交があり慕われた。 主要な研究業績は以下の通りである。  「上野公園内の大気汚染」(『古文化財の科学』17 1953年) 「大気汚染が文化財の及ぼす影響」(江本と共著、『分析化学』12,11 1963年) 「古文化財と空気汚染の諸問題」(『産業環境工学』31 1964年) “Exhibition of the wall-paintings on the tumulus Torazuka;The7th International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property and Analytical Chemistry,1966) 「如庵(国宝)及び旧正伝院(重文)の被覆燻蒸」(森八郎と共著、『古文化財の科学』20-21 1967年) 「ガスクロマトグラフィーによる収蔵庫内外の文化財環境調査」(江本と共著、『保存科学』8 1972年) 「奈良国立博物館における正倉院展展示環境調査」(江本と共著、『保存科学』8 1972年) 「万国博覧会美術館の展示環境調査」(江本と共著、『保存科学』9 1972年) 『虎塚古墳「保存整備報告書」』(共著、茨城県勝田市(現、ひたちなか市)、1977年) 「文化財周辺の塵埃に関する研究(1)-奈良国立博物館における収蔵庫、展示室、ケース内塵埃調査-」(『保存科学』12、1979年) 「文化財周辺の塵埃に関する研究(1)-走査電子顕微鏡、X線マイクロアナライザーによる銅版葺屋根の汚染物質の測定-」(『保存科学』18、1975年) 「緑青成分による大気汚染解析」(加藤、秋山と共著、『古文化財の科学』27 1982年) 「高松塚古墳壁画修理用剤蒸気除去対策」(『国宝高松塚古墳壁画-保存と修理-』文化庁、第一法規出版、1987年) “Concentration of nitrogen dioxide in the museum environment and its effects on the fading of dyed fabrics”(Kadokura,Yoshizumi,Kashiwagi and Saito,Preprints of the contributions to the Kyoto congress,19-23September,The Conservation of Far Eastern Art,987-89,The International Institute for Conservation of Historic and Artistic Works,1988) 「非破壊式蛍光X線分析法による蒔絵柱の分析」(共著、『国宝中尊寺金色堂附旧組高欄・附古材保存修理工事報告書』(財)文化財建造物保存協会、中尊寺、1990年) 「文化財環境と汚染因子の挙動」(『環境技術』20-8、1991年) 「建築装飾金具の耐久性の研究」(青木・斉藤・鈴木・木下と共著、『保存科学』31、1992年) 「文化財の保存環境と汚染因子」(『環境と測定技術』19-10 1992年) 「遺跡保存と公害による影響」(『地理・歴史』62、帝国書院、1992年) 『「酸性雨の科学と対策」文化財への影響』(共著、(財)日本環境測定協会、環境庁大気保存局大気規制課、監修、溝口次男、1994年) 「文化財と環境問題」(『産業と環境誌』23-10 1994年) 「東アジヤ地域を対象とした酸性大気汚染物質の文化財および材料への国際共同影響調査」(辻野らと共著、『全国公害研究誌』20-1 1994年) “Acidic mist in the surrounding of cultural property and its effect on restoration of cultural property -Cultural property and environment-(Tokyo National Research Institute for Cultural Properties,p53-66,1995) “Study on the influence of environmental pollution on the cultural properties.- Researching test on copper and bronze test plates by acid rain-(Kadokura,Ninomiya,Ono and Udagawa,Proceedings of the36th International Seminar on the Environmental Acidification,2Dec1997,National Institute of Public Health,1995) 「文化財への影響」(共著、『「酸性雨」-地球環境の行方-』環境庁地球環境部監修、中央法規出版、1997年)

武者小路穣

没年月日:2010/11/11

読み:むしゃこうじみのる  和光大学名誉教授で、日本古代・中世文化史の研究者であった武者小路穣は、11月11日、心不全のため死去した。享年89。1921(大正10)年3月27日、奈良県奈良市に生まれる。東京府立一中、第一高等学校(文科甲類)を経て、1941(昭和16)年に東京帝国大学文学部入学し、国史学を専攻する。卒業半年前に、第二次大戦末期の兵力不足をおぎなうため、舞鶴海軍機関学校に教官として入隊、敗戦後復員。翌年の46年から48年まで日本読書講読利用組合に勤務。その後、明星学園高等学校教諭を経て、70年に和光大学文学部に赴任。以後、1991(平成3)年に定年退職するまで後進の育成に取り組んだ。文学、絵巻、襖絵、仏像など、実に幅広い対象を扱い、そこから歴史を説き起こそうとする独自の研究スタイルを追求した。こうしたスタイルの確立には、とりわけ次の3人の研究者に影響を受けたことを述懐している。まず、実証史学のありようや史料の扱いの基本を学んだのは学生時代の恩師坂本太郎からであった。また46~48年の出版関係の仕事を通じて、戦後歴史学に大きな影響を与えた石母田正との知遇を得たが、このことが歴史を考える上で非常に大きかったという。戦後に出版された石母田の一連の論考に、武者小路自身も大きな衝撃を受けており、その石母田から文学・美術分野での古代中世を掘り下げるように励まされたことがその後の研究の方向性を決定したようだ。石母田との共著『物語による日本の歴史』(学生社、1957年初版、ちくま学芸文庫、講談社学術文庫版として再刊)の出版準備過程で、自宅にほど近かった石母田宅に毎晩のように通い、薫陶を受けたという。さらに、美術史学者の宮川寅雄、日本史学者の川崎庸之の誘いを受け、さまざまな分野の研究者がつどった研究会である文化史懇談会に参加。そこで美術史学者の田中一松に出会い、作品を幅広く徹底的によく見るという氏の姿勢に大いに感銘を受ける。後に和光大学赴任後、現地で見ること、記述することを徹底する教育へとつながった。またこの懇談会に参加したことを直接のきっかけとして、川崎のすすめにより絵巻研究に従事し、文学のジャンルから美術史のジャンルへと視野を広げることとなる。その研究成果は『原色版美術ライブラリー 絵巻物』(みすず書房、1957年)、『絵巻―プレパラートにのせた中世』(美術出版社、1963年)等に結実。こうした学術研究のかたわら、『日本歴史物語』(河出書房新社、1955~1962年)、『少年少女人物日本百年史』(盛光社、1965~1966年)、『新しい日本』(盛光社、1967年)等、児童向けの歴史書の共同執筆や監修を手がけた。上記以外の主な著作に、『ものと人間の文化史 地方仏Ⅰ・Ⅱ』(法政大学出版局、1980年・1997年)、『ものと人間の文化史 絵師』(同、1990年)、『絵巻の歴史』(吉川弘文館、1990年)、『ものと人間の文化史 襖』(法政大学出版局、2002年)などがある。なお、妻は作家の武者小路実篤の三女辰子。85年に開館した調布市武者小路実篤記念館の顧問を務めた。

岡畏三郎

没年月日:2010/09/17

読み:おかいさぶろう  美術史家の岡畏三郎は9月17日午前1時35分、老衰のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年96。 1914(大正3)年1月18日、演劇評論家岡鬼太郎(本名、嘉太郎)の次男として東京に生まれる。兄は洋画家の岡鹿之助。1931(昭和6)年私立麻布中学校を卒業。32年東京の都立高等学校理科乙類に入学し、35年に同校を卒業する。36年4月に東京帝国大学農学部農学科に入学し39年3月に同科を卒業。同年4月東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。41年12月に同科を卒業し、42年1月に財団法人国際文化振興会(現、国際交流基金)に勤務する。45年5月15日、同会を退職して美術研究所に助手として入所する。当時、同所助手であった河北倫明が応召するのに伴い、補充採用となったもの。隈元謙次郎、河北倫明らとともに日本近代美術の調査研究事業に従事し、大正期の洋画と18世紀以降の浮世絵・木版画を研究対象とした。51年3月「明治末期に於ける『新傾向』に就て」(『美術研究』160号)を発表して以来、専門分野に関する著作、講演を多数行う。手堅い史料調査による作家研究を行い、日本美術の近代化の中で江戸時代までの造形の蓄積を表現に取り入れた作家たちを積極的に評価した。戦後、美術研究所は東京国立文化財研究所となったが、同所美術部第二研究室長を長く務め、72年4月から同部長となった。76年4月1日、同所を退官。76年から86年まで群馬県立近代美術館館長を務めた。主な著作に以下のようなものがある。 「明治末期に於ける「新傾向」に就て」(『美術研究』160 1951年3月) 「フュウザン会」(『美術研究』185 1956年3月) 「大正・昭和期の洋画史」(『日本文化史大系12』 1957年9月) 『広重』(平凡社、1957年6月) 『近代の洋画人・岡田三郎助』(中央公論、1959年) 「近代洋画の展開と版画芸術の復興」(『世界名画全集』23、平凡社、1960年1月) 「大正期洋画史」(『世界美術全集』11、角川書店、1961年9月) 「奥村・石川派を中心とする美人画の開拓」(『日本版画全集』2、講談社、1961年12月) 「小出楢重・岸田劉生」(『世界名画全集続編』5(共著)、平凡社、1962年3月) 「橋口五葉伝」(『浮世絵芸術』2 1962年8月) 「小出楢重の美術学校時代と初期作品」(『美術研究』223 1963年3月) 「大正期版画」(『浮世絵芸術』4 1963年12月) 「小出楢重の初期作品について」(『美術研究』228 1964年3月) 『浮世絵(平木コレクション)』編集・解説(毎日新聞社、1964-66年) 「小絲源太郎年譜」『小絲源太郎』(美術出版社、1965年10月) 『広重(Ⅱ)』(山田書院、1967年7月) 『北斎(Ⅱ)』(山田書院、1967年10月) 「明治・大正・昭和の版画」(『現代の眼』151 1967年6月) 「岸田劉生と小出楢重」(『近代洋画名作展図録』、中日新聞社、1967年10月) 「近代美術年譜」『現代の日本画(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)』(三彩社、1967年11月・68年1月・68年6月) 「山下りん筆『十二大祭図』について」(『美術研究』258 1969年3月) 「橋口五葉と大正版画」(『三彩』243 1969年6月) 「末期美人画」(『浮世絵』、日本経済新聞社、1969年3月) 「近代洋画の抬頭と展開」(『日本絵画館・明治』、講談社、1970年1月) 『浮世絵』(1-12巻)(共著)(毎日新聞社、1970年1月-71年3月) 「創作版画の抬頭」(『日本絵画館・大正』、講談社、1971年6月) 「小出楢重」(『現代の眼』201 1971年11月) 『風景版画』(至文堂、1972年1月) 「山下りんの伝記と作品」(『美術研究』279 1972年1月) 『在外秘宝・清長』(共著)(学習研究社、1972年7月) 「岸田劉生」(『現代日本美術全集』、集英社、1972年12月) 『藤島武二』(日本の名画31)(講談社、1973年7月) 『歌川広重』(日本の名画12)(講談社、1974年1月) 『北斎読み本挿絵集成』2巻・5巻(共著)(美術出版社、1973年3月・11月) 「フュウザン会について」(『絵』126 日動出版 1974年8月) 『浮世絵版画大系 8北斎』(集英社、1974年11月) 「草土社の創立について」(『美術研究』297 1975年3月) 「内国勧業博覧会について」(『明治美術基礎資料集』、東京国立文化財研究所、1975年3月) 『高橋コレクション』(第1巻・第2巻・第5巻)(共同編集、解説)(中央公論社、1975年6-12月) 『山下りん-黎明期の聖像画家』(共著)(鹿島出版会、1976年12月) 『原色浮世絵大百科事典』(大修館書店、1981年) 『劉生日記』1-4(岩波書店、1984年) 

鷲塚泰光

没年月日:2010/09/16

読み:わしづかひろみつ  美術史家(日本彫刻史)の鷲塚泰光は、下咽頭癌のため東京都新宿区信濃町の慶應義塾病院で9月16日午前4時51分に死去した。享年72。葬儀・告別式は21日午後3時から夫人の葬儀の時と同様に国柱会本部(東京都江戸川区一之江6の19の18)で行われた。鷲塚は1938(昭和13)年8月30日に東京に生まれた。62年慶應義塾大学文学部哲学科(美学美術史学専攻)を卒業し、64年には慶応義塾大学大学院文学研究科哲学専攻(美術史)の修士課程を修了する。65年に文化財保護委員会事務局美術工芸課に任用、68年には文化庁文化財保護部美術工芸課に配属。75年5月より同課文化財調査官(彫刻部門)、83年12月より主任文化財調査官(同)を歴任。この間に唐招提寺国宝鑑真和上像のはじめての海外展観(77年パリ・プチパレ美術館、80年中国・揚州と北京)の実現に尽力した。86年より東京国立博物館企画課長、美術課長を歴任。1992(平成4)年には文化庁文化財保護部美術工芸課長、94年には東京国立博物館学芸部長、96年に同館次長、2000年から05年まで奈良国立博物館館長を勤めた。長年の文化財行政ならびに博物館勤務における実績を高く評価され、08年には瑞寶中綬章の叙勲を受けた。鷲塚は非常に後進思いであり、誰もが鷲塚を敬い慕った。また、文化庁時代以来、社寺関係の信頼が非常に厚かった。後者の一端は、奈良国立博物館長の職にあった02年に同館で開催された特別展「大仏開眼1250年東大寺のすべて」において、門外不出の同寺法華堂の国宝塑像である日光・月光菩薩像の出展を実現したのも、ひとえに鷲塚に対する信頼によるところが大きい。当時、東大寺別当だった橋本聖圓長老が「像の移動では、リハーサルの時も含めていつも立ち会っておられた姿が印象に残っている。頭が下がる思いだった」というコメントが『毎日新聞』9月17日付朝刊の鷲塚の物故記事(花澤茂人執筆)に見える。寺社との信頼関係と文化財に対する責任感の一端をよく伝えていよう。鷲塚は文章を多く残し、文化財保護委員会以来の彫刻の現地調査、重要文化財指定後の修理時の知見等については一端が「文化財集中地区特別総合調査報告―滋賀県湖東地区―」『月刊文化財』119(1973年)、「彫刻の修理について」『佛教藝術』139(1981年)に述べられている。また、現場での文化財の扱いを踏まえて「美術工芸品の保存と公開1~5」『博物館研究』140~147(1980年、この論文で日本博物館協会の棚橋賞を受賞)、「美術工芸品の保存と公開」『MUSEOLOGY』4(1985年)が執筆されており、このほか文化財行政に関わっての「文化財保護百年」『博物館研究』354(1997年)がある。活躍の場が東京国立博物館に移った90年代以降は、博物館のあり方について積極的に発言し、「日本美術系博物館への一考察」『博物館研究』277(1991年)、「随筆 『博物館』は生涯学習社会に本当に役立っているのか」『博物館研究』350(1997年)、「歴史の焦点 東京国立博物館『平成館』」『歴史と地理』537(2000年)、「独立行政法人国立博物館」『国立博物館ニュース』647(2001年)などの文章を執筆するとともに、博物館のあり方について求めに応じて国立博物館の責任ある立場として講演者あるいはパネラーとして壇上に立ち、発話内容は「座談会 全国博物館大会を振り返って」『博物館研究』344(97年)、「第44回全国博物館大会報告 シンポジウム 今博物館に求められているもの―博物館相互の連携 特に相互信頼の醸成について」『博物館研究』346(1997年)、「アート・マネジメント研究フォーラム シンポジウム美術館の21世紀をひらく」『慶応義塾大学アート・センター年報』4(1997年)に窺うことが出来る。ことに国立博物館が独立行政法人へと移行する前後の時期が東京国立博物館、奈良国立博物館の要職にあたり、指導力を発揮して博物館改革に尽力し、その時期の発言は「緊急特集 美術史学会東支部シンポジウム 国立博物館、美術館、文化財研究所などの独立行政法人化問題について(ドキュメント)」『ドーム』41(1998年)に収められている。主要編著として『石仏(日本の美術147)』(1978年)、『金銅仏(同223)』(1987年)、『丹後・若狭の仏像(日本の美術251)』(1984年)、『仏像を旅する・山陰線-ふるさとの自然・文学・民俗-』(1989年)、『室生寺』(保育社、1991年)、がある。論文・解説等は70年代から80年代に精力的になされており、「中山寺と相応峯寺の十一観音像」『MUSEUM』248(1971年)、「円応寺の閻魔十王像について」『佛教藝術』89(1972年)、「北陸・越後に遺る金銅仏」『同』91(1973年)、「伊豆善名寺の仏像」『三浦古文化』14(1973年)、「千葉県君津市と富津市の彫刻」(松島健と共著)『同』16(1974年)、「十二神将像(亥神) 静嘉堂」/「快成作 愛染明王像 文化庁」『國華』1000(1977年)、「地蔵菩薩像 東福寺」『同』1001(1977年)、「伊豆南禅寺の平安仏」『三浦古文化』29(1981年)、「山梨県・福光園寺蔵の木造吉祥天及び二天像について」『佛教藝術』149(1983年)、「瀬戸神社の彫刻」『三浦古文化』35(1984年)、「東光寺の薬師如来像」『同』40(1986年)、「『公余探勝図』解説」『同』46(1989年)、「源頼朝ゆかりの造像―滝山寺聖観音・梵天・帝釈天立像―」『同』50(1992年)、「康尚・定朝への道 寄木造りを生み出した時代」『日本の国宝(週刊朝日百科)』74(1998年)などがある。90年以降になると執筆は専ら展覧会図録に移行する。すなわち、「仏像内に納入された仏様」『仏教版画入門展』(町田市立国際版画美術館、1990年)、「南禅寺の仏像」『伊豆国の遺宝MOA美術館開館10周年記念展』(MOA美術館、1992年)、「美術に表現された花」『花展』(東京国立博物館、1995年)、「神々の国の仏たち」『古代出雲文化展神々の国 悠久の遺産』(東武美術館、1997年)、「室生寺の建築と彫刻」『女人高野室生寺のみ仏たち国宝・五重塔復興支援展』(東京国立博物館、1999年)、「東大寺の文化財」『東大寺の至宝展』(東武美術館、1999年)、「唐招提寺の美術と歴史」『国宝鑑真和上唐招提寺金堂平成大修理記念展』(東京都美術館、2001年)、「宝物寸描-紫檀小架の使い方-」『第53回正倉院展』(奈良国立博物館、2001年)、「東大寺の美術」『大仏開眼1250年東大寺のすべて』(同館、2002年)、「黎明期法隆寺の美術」『法隆寺日本仏教美術の黎明』(同館、2004年)、「興福寺鎌倉復興期の彫刻」『興福寺国宝展鎌倉復興期のみほとけ』(東京藝術大学大学美術館、2004年)、「唐招提寺の美術と歴史」『国宝鑑真和上唐招提寺金堂平成大修理記念』(奈良国立博物館、2009年)など。公職を辞してからも、文化庁・国立博物館時代の実績と手腕を買われ、奈良を中心とする寺社関係の展覧会のプロデュースに尽力した。ことに平成の大改修にともなう唐招提寺10年プロジェクトによる国宝鑑真和上展の東京、愛知、宮城、北海道、静岡などの各地での実現は鷲塚の信用と尽力なくしては実現しなかったであろう。なお、鷲塚といえば日本彫刻史の研究者としてのイメージが強いが、慶應義塾大学大学院時代には松下隆章に師事し、文化財保護委員会へは絵画部門での採用であり、この頃の論文・解説類の執筆が専ら絵画作例であったことは意外と知られていない。この時期に執筆されたものとして「住吉具慶筆徒然草絵詞」『古美術』12(1966年)、「新指定重要文化財紹介 祇園祭礼図・慶長遣欧使節関係資料」『MUSEUM』185(1966年)、「古美術用語解説絵画篇Ⅰ~Ⅲ」『古美術』15~17(1966年~67年)、「月の絵画の歴史」『三彩』220(1967年)、「吉野山花見図屏風」『古美術』20(1967年)、「日吉山王祭礼図(京都檀王法林寺蔵)」『哲学』53(1968年)がある。ちなみに、日本彫刻史に本格的な言及がなされるようになるのは「静岡県の彫刻」『月刊文化財』86(1970年)以降である。

井村彰

没年月日:2010/09/13

読み:いむらあきら  美学研究者で、東京藝術大学美術学部准教授の井村彰は、2008年より病気療養中であったが、9月13日脳梗塞のため死去した。享年54。1956(昭和31)年2月16日、広島県竹原市に生まれる。74年3月広島県立呉三津田高校を卒業、翌年4月東京藝術大学美術学部芸術学科に入学。79年3月同大学卒業、4月同大学大学院修士課程に入学。82年3月、同大学院修了、4月同大学美術学部美学研究室非常勤講師となる。84年から86年まで、ドイツ学術交流会留学生としてミュンヘン大学に学ぶ。帰国後、芝浦工業大学、法政大学、文化学院芸術専門学校にて非常勤講師を務める。88年7月、三村尚子と結婚。1990(平成2)年4月、大分大学教育学部専任講師となる。92年4月、同大学同学部助教授となる。97年4月、東京藝術大学美術学部芸術学科専任講師となる。98年同大学同学部助教授となる(2007年から准教授)。2002年9月、「東京藝術大学美術学部+ワイマール・バウハウス大学造形学部 現代美術交流展」に運営委員として参加。翌年7月、「アーティスト・ガーデン・ワイマール」のプロジェクト事業に参加、ワイマール・バウハウス大学にて講演。2004年6月、東京藝術大学美術学部副学部長となる(2007年11月まで在任)。井村の美学研究は、学生時代のヘーゲル、ヘルベルト・マルクーゼの美学理論にはじまり、テオドール・アドルノの美学へと進み、そこから個人がもつ「趣味」(hobbyとtaste)の問題、また芸術と社会、現代美術、あるいは近現代の構築物と社会の関係を「環境美学」として研究領域を広げ、考察を深めていった。こうした研究のなか生みだされた成果として、「モニュメントにおける文化と野蛮―宮崎市の『平和の塔』を事例にして―」(科学研究費補助金研究成果報告書「メタ環境としての都市芸術―環境美学研究―」、2000年3月)では、野外のモニュメントの芸術性と政治性の関係を、その関係に含まれる諸問題を基点に考察し、美学の視点で論じていた。また、「趣味の領分―雑誌『趣味』における坪内逍遥・西本翠蔭・下田歌子―」(科学研究費補助金研究成果報告書「日本の近代美学(明治・大正期)」、2004年3月)では、上記の「趣味」の問題を、近代日本における翻訳を通した文化受容の問題として論じている。さらに、モニュメントに端を発して考察された課題では、「モニュメント・文化財・芸術作品」(科学研究費補助金研究成果報告書「芸術における公共性」、2005年3月)において、近代、現代における文化生産、文化消費の問題を歴史的に俯瞰しようと試みていた。このように井村の美学研究は、現代における芸術の諸問題を、その背後にある歴史、社会を念頭に考察を深めていこうとするものであり、そこに現代に息づく美学の可能性を見いだいしていたといえる。数多くの論文、報告の他に主要な翻訳書に、下記のものがある。ヨハネス・パウリーク著『色彩の実践―絵画造形のための色彩―』(美術出版社、1988年)、ゲルノート・ベーメ著『感覚学としての美学』(共訳であるが訳者代表、勁草書房、2005年)。なお、『カリスタ』第17号(美学・藝術論研究会編集発行、2010年12月)において、追悼記事が掲載された。謙虚で温和な人柄ながら、研究者としては、ドイツの学問的土壌を敬愛し、つねに時代と社会を視野に入れつつ、美学という位置から確固たる識見のもと真摯に研究をつづけるとともに、後進の指導にあたっていた。

藤本強

没年月日:2010/09/10

読み:ふじもとつよし  考古学者で東京大学名誉教授の藤本強は9月10日、旅行先のドイツ、ローテンブルクで死去した。享年74。1936(昭和11)年5月20日に東京都に生まれる。59年東京大学文学部考古学科卒業。61年東京大学大学院人文科学研究科考古学専門課程修士修了、65年東京大学大学院人文科学研究科考古学専門課程博士課程満期退学。専門は先史考古学で、農耕が開始されるころの西アジアの石器文化を研究した。65年東京大学文学部助手。73年からは東京大学文学部附属北海文化研究常呂実習施設助教授として、オホーツク海沿岸の常呂町に赴任し、北海道の独特の文化的特性を持つ遺跡の発掘に従事した。この時の成果が、『北辺の遺跡』(教育社歴史新書、1979年)、『擦文文化』(教育社歴史新書、1982年)などとして刊行されている。さらに、日本列島の文化の多様性を評価する態度につながり、『もう二つの日本文化 北海道と南島の文化』(東京大学出版会、1988年)などの著書として結実した。85年には東京大学文学部教授として東京に戻る。83年以来、東京大学本郷キャンパスでは、創立100周年事業の一環として御殿下記念館、山上会館などの建設が計画されていた。キャンパス地下の加賀藩本郷邸の発掘のため、遺跡調査室(現、埋蔵文化財調査室)が組織され、藤本は構内の発掘にも尽力することになる。この調査は、江戸遺跡の大規模な調査として、その後の江戸考古学に与えた影響が大きい。藤本は発掘・報告のみならず、研究成果を『埋もれた江戸 東大の地下の大名屋敷』(平凡社、1990年)などの形で刊行し、普及にも努めた。このように、藤本の研究範囲は多くの地域、時代におよんだ。研究の基本を記した『考古学を考える 方法論的展望と課題』(雄山閣、1985年)、『考古学の方法 調査と分析』(東京大学出版会、2000年)などを刊行したほか、幅広い知見を活かした『モノが語る日本列島史 旧石器から江戸時代まで』(同成社、1994年)、『東は東、西は西 文化の考古学』(平凡社、1994年)が刊行されている。研究・教育とともに、人望と指導力を買われて1994(平成6)年から96年まで東京大学文学部長・大学院人文社会系研究科長となり、大学改革の波を乗り切った。97年に東京大学文学部を定年退官、名誉教授となった。同年、新潟大学人文学部教授。2002年、國學院大学文学部教授。國學院大學では03年から大学院委員長も務めた。07年には國學院大學を退職し、教育の最前線から退く。一方、00年から日本学術会議会員、06年からは文化審議会世界文化遺産特別委員会委員長を務めた。08年には文化庁の古墳壁画保存活用検討会の座長となり、キトラ古墳の石室壁画の解体保存の決断など、文化財保護にかかわる重要な案件にかかわる。そうした経歴の一方で、大学時代ハンドボール部に所属するスポーツマンであった藤本は、大先生として祭り上げられることを嫌った。東京大学の退官に際しては、一般にありがちな献呈論文集という形を嫌い、自らの編集による特定テーマの論文集を逆提案。研究仲間や後輩・弟子たちの執筆した『住の考古学』(同成社、1997年)を刊行した。古稀を迎えたときも、東大退官の際と同様、自らの編集による『生業の考古学』(同成社、2006年)を刊行した。01年に福島県文化財センター白河館「まほろん」の館長に就任すると、館長講演会などの形で一般への文化財の普及に尽力した。『ごはんとパンの考古学』(同成社、2007年)や、没後に刊行された『日本の世界文化遺産を歩く』(同成社、2010年)も、そのような講演内容をまとめたものである。最期の地であったドイツも、世界遺産に関する新たな講演や著作の準備のための滞在であった。

鈴木重三

没年月日:2010/09/01

読み:すずきじゅうぞう  近世国文学・浮世絵研究者の鈴木重三は9月1日午後6時23分、東京都目黒区の病院で死去した。享年91。1919(大正8)年3月30日東京市麻布区霞町(現、東京都港区西麻布)に生まれる。幼少の頃より芝居を好み、合巻(江戸時代後期に流行した草双紙、作者では山東京伝、曲亭馬琴など、絵師では豊国、国貞、国芳などが手がけた)など文芸に親しみ、その後の研究の素地を形成した。1939(昭和14)年、東京帝国大学に入学するが3年で戦時中の繰り上げ卒業となり、陸軍に応召されて出征、46年復員、翌年から浦和市立高等学校に勤務した。51年より国立国会図書館に奉職、84年に司書監で退官ののち、白百合女子大学文学部教授として教鞭をとった。生涯にわたって戯作など江戸時代の絵入版本と、関連する浮世絵との考察を数多く手がけたが、研究に着手した頃、こうした分野は、文学史からも美術史からも考察の対象外とされていた感があり、鈴木の業績は先駆的な研究となり、その後の研究の礎となった。70年刊行の『広重』(日本経済新聞社)は、多種多様な作品と資料を網羅し、広重の人物像に迫る大著である。また企画・編集を行った全集・画集類も多く、『浮世絵大系』(集英社)、『浮世絵聚花』(小学館)などがある。一方、絵本や合巻の底本の吟味、校閲、解説などを数多く手がけ、企画・編集に携わった主な書籍には『近世日本風俗絵本集成』(臨川書店)、『北斎読本挿絵集成』(美術出版社)、『山東京伝全集』(ぺりかん社)、『馬琴中編読本集成』(汲古書院)、『偐紫田舎源氏』(岩波書店)、『葛飾北斎伝』(岩波文庫)などがあり、いずれも幅広い研究の基礎資料となっている。また79年刊行の『絵本と浮世絵 江戸出版文化の考察』(美術出版社)は近世文学についての研鑽と浮世絵に対する鋭い観察眼によってなされた著作集である。85年刊行の『近世子どもの絵本集』(岩波書店)では毎日出版文化賞特別賞を受賞している。また1992(平成4)年の『国芳』(平凡社)は近世文学研究の豊富な蓄積を骨子に、国芳作品の集大成として結実させた。さらに2004年刊行の『保永堂版 広重東海道五拾三次』(岩波書店)では、周到なる調査をもとに、可能な限りの初期の摺を厳密に選定して資料とともに掲載している。同書は著名な同作品の図版の決定版であるとともに、この作品が広重の上洛を契機としたものではなく、従来から知られていた『東海道名所図会』に加え十返舎一九の『続膝栗毛』を参考に制作されたことを、詳細な挿図とともに明らかにしている。最晩年に至っても研究意欲は衰えることなく、既発表の論文による『絵本と浮世絵』の改訂版のために、最後までその訂正加筆に努められていた(ぺりかん社より刊行予定)。鈴木は、片岡球子(第73回院展出品作、1988年、北海道立近代美術館蔵)にその姿が描かれており、シリーズに唯一とりあげられた当世人物である。その縦2m、横3.7mを超える大画面には、国芳の三枚物「七浦大漁繁昌之図」の図様を背景として、国芳と背広姿の鈴木が配されている。76年頃から鈴木は片岡の浮世絵研究の相談役として交流があり、画中の「七浦大漁繁昌之図」も鈴木の所蔵作品を参考にしたという(土岐美由紀「インタビュー 鈴木重三=片岡球子先生との交流について」『氷華(北海道立旭川美術館だより)』82、2010年、および『片岡球子展』図録、札幌芸術の森美術館・北海道立旭川美術館、2010年)。没後「鈴木重三先生を偲ぶ会」が国際浮世絵学会の主催で行われ、その際の配布物の表紙に、片岡による鈴木の写生が載せられている。

陰里鉄郎

没年月日:2010/08/07

読み:かげさとてつろう  美術史研究者で美術評論家の陰里鉄郎は8月7日、心不全ため横浜市の病院で死去した。享年79。1931(昭和6)1月1日、長崎県南松浦郡岐宿村川原(現、五島市)に医師であった父陰里壽茂、母せいの次男として生まれる。小学校低学年の時、同県南松浦郡生月島に転校。長崎県立猶興館中学に入学、終戦後同学校は高等学校となり、49年3月に卒業。50年4月、日本大学教養学部医学進学コースに入学。52年3月、同大学教養学部修了。同年4月東京藝術大学美術学部芸術学科に入学。56年3月、同大学同学部を卒業、同年4月より芸術学科副手となる。59年4月、同大学美術学部助手となる。62年7月、神奈川県立近代美術館学芸員となる。同美術館採用後、当時副館長であった土方定一の命により同年7月開催の「萬鉄五郎展」を担当、以後土方より薫陶を受けることになり、本格的に日本近代美術史研究をはじめる。65年1月、同美術館の「司馬江漢とその時代」展を担当し、同年4月より東京国立博物館学芸部美術課絵画室に研究員として転出。66年4月、東京国立文化財研究所美術部第二研究室に異動。研究所在職中は、はじめに上記の美術館において担当した萬鉄五郎研究に傾注し、実証的な作家研究の成果として『美術研究』に「萬鉄五郎―生涯と芸術」(一)(255号、1968年1月)~(五)(290号、1973年11月)を連載。並行してその研究領域は、司馬江漢、石川大浪、亜欧堂田善、川原慶賀等の江戸洋風画から、明治、大正期の美術まで広範囲になっていった。個別な論文等の他に画集等の編著も数多く、主要なものに下記のものがある。『近代の美術29 萬鉄五郎』(至文堂、1975年1月)、『日本の名画5 黒田清輝』(中央公論社、1975年)、『巨匠の名画10 青木繁』(学研、1976年)、『原色現代日本の美術5 日本の印象派』(小学館、1977年)、『近代の美術50 村山槐多と関根正二』(至文堂、1979年1月)、『夏目漱石・美術批評』(講談社、1980年)、東京国立文化財研究所編『黒田清輝素描集』(日動出版部、1982年)。こうした作家等の研究のなかでも、『原色現代日本の美術5 日本の印象派』は、研究所が近代美術研究の根幹とする黒田清輝を中心に、同時代のヨーロッパ美術まで視野に入れながら考察した代表的な研究成果であった。82年5月、三重県立美術館館長に就任。同美術館には、設立準備から関わっていたことから、要請にもとづく転出であった。同美術館では、運営を主導して作品収集の基本方針の策定にあたり、それは、下記のようにそれまでの研究者としての専門性を反映した方針であった。(1)江戸時代以降の作品で三重県出身ないし三重にゆかりの深い作家の作品、(2)明治時代以降の近代洋画の流れをたどることのできる作品、また日本の近代美術に深い影響を与えた外国の作品、(3)作家の創作活動の背景を知ることのできる素描、下絵、水彩画等。この方針は、企画展の方向にもなっており、82年開館記念展として9月「三重の美術・現代」、10月「日本近代の洋画家たち展」開催をはじめ、館長在任中は展覧会の企画に積極的にあたり、日本近代美術、それに関連した海外展、また現代美術展を順次開催していった。とりわけ日本の近代美術では、「藤島武二」展(1983年4月)、「萬鉄五郎展」(1985年6月)、「橋本平八と円空展」(1985年9月)、「黒田清輝 生誕120年記念」展(1986年5月)、「関根正二とその時代展」(1986年9月)、「石井鶴三展」(1987年6月)、「鹿子木孟郎展」(1990年9月)等、いずれも今日にいたるまで基礎的、基本的な研究となっている。また、特色ある企画展として、「井上武吉展」(1987年1月)、「飯田善国展」(1988年1月)、「湯原和夫展」(1988年9月)、「向井良吉展」(1989年5月)、「多田美波展」(1991年8月)、「清水九兵衛展」(1992年5月)、「佐藤忠良展」(1994年4月)等を開催したが、これらは60年代に頭角を現した陰里とほぼ同世代の彫刻家の個展であり、戦後から現代美術における彫刻、立体表現を検証する点でも、他館にみられない意義ある企画であった。こうした数々の企画展の中で、「アーティストとクリティック 批評家・土方定一と戦後美術展」(1992年8月)は、かつて薫陶をうけた土方定一の批評的な視線をとおして戦後美術を跡づける、当時としてはユニークな試みであり、同時に土方へのオマージュでもあった。同美術館を退職後の1994(平成6)年4月、名古屋芸術大学美術学部教授となり、また同月横浜美術館館長に就任。98年4月、女子美術大学大学院美術研究科教授となる。2007年同大学を退職。陰里は、江戸洋風画から近代美術まで広範囲にわたる美術史研究のかたわら、美術評論においても現代美術を対象に積極的に執筆活動を行った。そうしたなかで培われた美術に関する高い見識と時代に対する深い洞察力、さらに何事にも平衡であろうとする姿勢は、美術館運営に如何なく発揮された。1980年代以降に誕生した多くの地方美術館のなかでも、三重県立美術館をひとつの成功したかたちにまで育て上げた「美術館人」としての功績は多とすべきである。その主要な著述は、『陰里鉄郎著作集』全3巻(一艸堂、2007年)に収録されている。

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