坪井清足

没年月日:2016/05/07
分野:, (学)
読み:つぼいきよたり

 考古学者で元奈良国立文化財研究所所長の坪井清足は5月7日、急性心不全のため死去した。享年94。
 1921(大正10)年11月26日、大阪府大阪市に生まれ、その後は東京都で育つ。父は実業家の傍ら在野の考古学者として梵鐘研究を開拓した坪井良平。41年に京都大学文学部に入学。43年に学徒動員により兵役に従事し、台湾に送られた。台湾では台北帝国大学医学部の人類学者である金関丈夫と交流を持った他、鳳鼻頭遺跡近くの陣地に派遣された折には、壕の壁面の上層に黒陶(新石器時代後半期)、下層に彩陶(新石器時代前半期)が包含されていることを確認し、戦陣にあっても考古学研究から離れることはなかった。
 46年に京都大学復学。49年に京都大学大学院進学。平安中学校・平安高等学校教諭などを経て、55年に京都国立博物館に採用。同年、奈良国立文化財研究所に転出。それ以降、65~67年に文化財保護委員会(現、文化庁)への出向、75~77年に文化庁文化財保護部文化財鑑査官の任を務めた時期を除くと、77年の奈良国立文化財研究所所長就任を経て、86年の所長任期満了退職に至るまで、奈良国立文化財研究所を拠点として考古学研究の推進と埋蔵文化財行政の確立に邁進した。退職後は、86年に財団法人大阪文化財センター理事長就任、2000(平成12)年に財団法人元興寺文化財研究所所長就任を経て、13年以降は公益財団法人元興寺文化財研究所顧問を務めた。
 役職としては、文化財保護審議会第三専門調査会長、学術審議会専門委員、宮内庁陵墓管理委員、日本ユネスコ国内委員会委員などを歴任した。叙勲等は、91年に勲三等旭日中綬章、99年に文化功労者に叙せられ、死後、従四位に叙位された。受賞歴としては、83年に日本放送協会放送文化賞、90年に大阪文化賞、91年に朝日賞を受賞している。
 坪井は奈良国立文化財研究所および文化財保護委員会・文化庁での職務に従事する中で、現在に至る埋蔵文化財行政の枠組みを構築するために尽力した。当時、高度経済成長期の我が国においては、高速道路網計画や住宅団地建設などの大型開発が各地で進み始めていた。それらの工事にともなう事前の発掘調査体制や、発掘経費の捻出方法など、埋蔵文化財行政の課題が山積していた。坪井は、事前の発掘調査を義務付け、発掘調査費用は開発者側が負担する「原因者負担」の原則を確立する上で中心的な役割を果たした。この原則は、埋蔵文化財行政を進展させる礎となり、その後、地方自治体の文化財担当者の増強を促すきっかけとなった。
 坪井は文化庁文化財鑑査官、奈良国立文化財研究所所長を歴任して辣腕をふるったことから、多くの人から畏怖される存在であったが、実際に口が悪いことは有名で、「清足(きよたり)」ではなく「悪足(あくたれ)」と呼ばれることもあった。このあだ名は、本人もまんざらではなかったようで、「飽多禮(あくたれ)」という雅号を自ら用いることもあったという。
 主な著書は以下の通り。
『古代追跡―ある考古学徒の回想』(草風館、1986年)
『埋蔵文化財と考古学』(平凡社、1986年)
『東と西の考古学』(草風館、2000年)
『考古学今昔物語』(金関恕・佐原真との共著、文化財サービス、2003年)
 またインタビュー記事「戦後埋文保護行政の羅針盤」(2009年8月17日収録)が、日本遺跡学会編『遺跡学の宇宙―戦後黎明期を築いた十三人の記録』(六一書房、2014年)に所収されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成29年版(543頁)
登録日:2019年10月17日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「坪井清足」『日本美術年鑑』平成29年版(543頁)
例)「坪井清足 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/818736.html(閲覧日 2024-04-20)

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