三笠宮崇仁親王

没年月日:2016/10/27
分野:, (学)
読み:みかさのみやたかひとしんのう

 オリエント学者で、日本オリエント学会名誉会長、中近東文化センター名誉総裁、日本・トルコ協会名誉総裁、日本赤十字社名誉副総裁、日本フォークダンス連盟名誉総裁などを務めた三笠宮崇仁親王は、東京都中央区の聖路加国際病院にて、10月27日に心不全のため薨去した。享年100。
 1915(大正4)年12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四皇子として、東京の青山御所に生まれる。昭和天皇の末弟にあたる。学習院初等科・中等科、陸軍士官学校、陸軍騎兵学校、陸軍大学校卒業後、1943(昭和18)年に支那派遣軍参謀として南京に派遣された。44年には大本営参謀となり、陸軍少佐として終戦を迎えた。
 終戦後の47年、戦争への反省から歴史を学ぶことを決意し、東京大学文学部史学科の研究生になる。古代オリエント史を専攻し、その後、歴史学者として活躍し、数多くの論文や著書、翻訳書などを発表した。
 54年には日本オリエント学会の創設に尽力し、54年から76年までは初代会長、76年から1996(平成8)年までは名誉会長を務め、日本の古代オリエント史研究をながらく牽引した。
 55年には、皇族としてはじめて大学の講師になり、東京女子大学の教壇に立つ。大学への通勤は国鉄を利用し、昼食は必ず学生たちにまじり学生食堂で一杯20円のキツネうどんを食べるなど、三笠宮崇仁親王の庶民的で気さくな人柄を伝える逸話が数多く残されている。東京女子大学のほか、北海道大学や静岡大学、青山学院大学や天理大学、拓殖大学、東京芸術大学でも、古代オリエント史の講義を担当した。また、テレビやラジオにも積極的に出演し、古代オリエント史の普及と啓蒙につとめた。
 56年に上梓した処女作『帝王と墓と民衆―オリエントのあけぼの―』(光文社)は、石原慎太郎の『太陽の季節』(新潮社)とともに56年を代表するベストセラーとなった。
 また同年、戦後初の本格的な海外調査団の1つである『東京大学イラク・イラン遺跡調査団』の立ち上げに関与し、イラクのテル・サラサート遺跡において同調査団による発掘調査開始を記念した鋤入れ式にも参加している。
 日本オリエント学会創立10周年の記念事業として、64年から66年にかけて行われたイスラエルのテル・ゼロ―ル遺跡の発掘調査に関しても、オリエント学会の会長として寄付金集めなどに尽力した。
 79年には、三笠宮崇仁親王の発意のもと、出光佐三や佐藤栄作、石坂泰三が協力をし、日本最初の古代オリエント研究機関として中近東文化センターが東京の三鷹に創設された。三笠宮崇仁親王殿下が総裁、名誉総裁を務めた中近東文化センターは、86年以降、トルコのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査を実施し、現在では、世界的な研究機関となっている。
 著作には、『帝王と墓と民衆―オリエントのあけぼの―』(光文社、1956年)、『乾燥の国―イラン・イラクの旅―』(平凡社、1957年)、『日本のあけぼの―建国と紀元をめぐって―』(光文社、1959年)、『ここに歴史はじまる(大世界史第一巻)』(文藝春秋、1967年)、『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)、『古代エジプトの神々―その誕生と発展―』(日本放送出版協会、1988年)、『文明のあけぼの―古代オリエントの世界―』(集英社、2002年)、『わが歴史研究の七十年』(学生社、2008年)など多数。

出 典:『日本美術年鑑』平成29年版(560頁)
登録日:2019年10月17日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「三笠宮崇仁親王」『日本美術年鑑』平成29年版(560頁)
例)「三笠宮崇仁親王 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/818866.html(閲覧日 2024-04-27)
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