上原和

没年月日:2017/02/09
分野:, (学)
読み:うえはらかず

 日本美術史研究者の上原和は2月9日、心不全のため死去した。享年92。
 1924(大正13)年12月30日、台湾台中市において父・繁秀、母・登美子の次男として生まれる。1944(昭和19)年9月台北帝国大学予科文科三年を修了し、台北帝国大学文政学部に入学するが、学徒出陣として同年同月茨城県土浦海軍航空隊に入隊。45年8月の終戦にともない鹿児島県桜島海軍第五水上特攻戦隊司令部より復員。翌年1月に九州帝国大学法文学部に転入学して哲学科美学美術史学を専攻する。48年3月、九州大学法文学部を卒業し、4月よりは同大学大学院文学研究科特別研究生前期課程美学及美術史専攻に進学。矢崎美盛に師事し、ドイツ古典主義美学及び美術様式論を研究する。50年3月同前期過程を修了。4月より55年10月まで宮崎大学学芸学部講師として美学を担当。11月には相良徳三の招請により成城大学文芸学部の芸術コース(のちの芸術学科)の設立のため専任講師として着任。美学・美術史を担当する。56年10月成城大学文芸学部助教授に昇任。64年10月同大学同学部教授に昇任。学科の発展に尽くし、75年には同大学大学院文学研究科に美学美術史専攻を開設。同年には『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』(朝日新聞社)で亀井勝一郎賞を受賞(なお、同書は1978年には朝日選書として、84年には朝日文庫として、また、92年には講談社学術文庫の一冊として再刊を重ねた)。86年4月より同大学文芸学部長を併任(1990年3月まで)、1992(平成4)年10月には『玉虫厨子 飛鳥・白鳳美術史様式史論』(吉川弘文館、1991年)で九州大学より博士(文学)の学位を受ける。翌年4月、成城大学大学院文学研究科長を併任し、95年3月に退任。大学より名誉教授の称号を受ける。この間、成城大学内の役職として学園評議員、学園理事、大学評議員を務め、学外にあっては美学会、美術史学会、民族藝術学会、日本文芸家協会、日本ペンクラブに所属して、美学会委員、民族藝術学会評議員、日本キリスト教芸術センター幹事を務めた。
 上原の学問的業績の全貌は『上原和博士古稀記念美術史論集』(同刊行会、1995年)に付された著作等目録に示される通りであるが、日本古代仏教史を専門とし、その視野はギリシアから西アジアをへて印度・中央アジア・中国・朝鮮・日本に及ぶ広汎なものであり、現地踏査のうえでの緻密かつ実証的であった点に特色がある。研究の中心は、法隆寺の遺構および遺物を中心とする日本古典美術と朝鮮・中国美術との様式的比較研究にあり、ことに法隆寺と玉虫厨子、聖徳太子研究の第一人者として斯界の研究を長く牽引した。また、研究の過程で培い、親交のあった中国・敦煌研究院との交流は、本務の成城大学に留まらず、97年から行われた朝日新聞社の「敦煌研究員派遣制度」へと結実。その初回より選考委員長に就任し、多くの若手研究者を現地研修に送り出すとともに、研究者の育成と輩出に尽力したことは彼の大きな業績として特筆されなければならないであろう。

出 典:『日本美術年鑑』平成30年版(431頁)
登録日:2020年12月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「上原和」『日本美術年鑑』平成30年版(431頁)
例)「上原和 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/824161.html(閲覧日 2024-04-19)

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