本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,073 件)





富山秀男

没年月日:2018/12/20

読み:とみやまひでお、 Tomiyama, Hideo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  近代日本美術の研究者で、京都国立近代美術館、ブリヂストン美術館の館長を歴任した富山秀男は12月20日、胃がんのため死去した。享年88。 1930(昭和5)年7月26日、東京に生まれ、53年に東京教育大学教育学部芸術学科を卒業、同年国立近代美術館(1967年に東京国立近代美術館に改称)に研究員として採用された。76年4月に国立西洋美術館学芸課長に異動。82年8月に東京国立近代美術館次長となる。1992(平成4)年4月、京都国立近代美術館長となる。98年まで同美術館に勤務した後、同年6月にブリヂストン美術館長となる、2001年には、勲三等旭日中綬章を受ける。02年から13年まで、式年遷宮記念神宮美術館長を務めた。 東京国立近代美術館に在職中は、今泉篤男、河北倫明、本間正義という歴代3人の次長から薫陶を受けた。とりわけ河北倫明とは、その晩年まで親交があり、多くの影響を受けたといわれる。89年に河北倫明夫妻が、若手研究者と美術家を顕彰する目的で公益信託として設立した倫雅美術奨励賞では、20年以上にわたり同賞の運営委員長を務めた。 研究面では、岸田劉生の研究が特筆される。没後50年にあたる79年にあたり、画家の遺族ならびに各界の劉生愛好者と研究者によって企画された、劉生芸術顕彰を目的とする展覧会開催、全集、画集の刊行の計画と実施にあたっては、いずれにも深く関与した。国立西洋美術館に勤務していた79年に、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館において「没後50年記念 岸田劉生展」が開催された折には、調査の面で協力を惜しまなかった。また、『岸田劉生全集』全10巻(岩波書店、1979年から80年)にあたっては、編集のための委員となり、84年に刊行された東京国立近代美術館監修『岸田劉生画集』(岩波書店)では、編集委員を務めた。これらの成果をもとに86年には、単著として『岸田劉生』(岩波新書)を刊行した。同書は、今日まで岸田劉生を知るための入門書であり、実証的な評伝として高く評価されている。 その他、主要なものを下記にあげるように画集等の編著が多数ある。 岡鹿之助共著『世界の名画 第6巻 ルソー・ルドン』(学習研究社、1965年) 『近代の美術 第8号 岸田劉生』(至文堂、1972年) 山崎正和、高階秀爾共著『世界の名画 第7巻ルノワール』(中央公論社、1972年) 『日本の名画41 国吉康雄』(講談社、1974年) 『日本の名画21 岸田劉生』(中央公論社、1976年) 『近代の美術 第42号 安井曾太郎』(至文堂、1977年) 『原色現代日本の美術 第7巻 近代洋画の展開』(小学館、1979年) 『日本水彩画名作全集4 岸田劉生』(第一法規出版、1982年) 『近代日本洋画素描大系3 昭和1 戦前』(講談社、1984年) 原田実共編著『20世紀日本の美術14 梅原龍三郎/安井曾太郎』(集英社、1987年) 浅野徹共編著『20世紀日本の美術15 岸田劉生/佐伯祐三』(集英社、1987年) 『日本の水彩画17 萬鉄五郎』(第一法規出版、1989年) 『昭和の洋画100選』(朝日新聞社、1991年) 『日経ポケットギャラリー 佐伯祐三』(日本経済新聞社、1991年) 安井曾太郎、梅原龍三郎、岸田劉生をはじめとして、大正、昭和期の洋画家の中心とする実証的な美術史研究が中心であったが、実際に接してきた巨匠といわれる画家たち、あるいは画家を直接知る多くの関係者との間で生まれた豊富なエピソードの数々は、残された多くの画家論のなかで巧みに織り込まれている。そして草創期の国内の主要な美術館に勤務し、しかも館長としてその運営にあたった一貫した美術館人であった。

水沼啓和

没年月日:2018/12/20

読み:みずぬまひろかず、 Mizunuma, Hirokazu※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  千葉市美術館学芸員の水沼啓和は12月20日死去した。長く人工透析を続けるなか、自身が担当した展覧会「1968年 激動の時代の芸術」が開幕したのちの逝去であった。享年55。 1965(昭和40)年8月1日生まれ。1992(平成4)年慶應義塾大学文学部哲学科卒業、同大学大学院文学研究科修士課程入学、94年修了。修士論文は「マルセル・デュシャンと展示制度:1913―68における言説と実践の推移」。同年4月、財団法人千葉市文化財調査協会(千葉市美術館開設準備室担当)学芸員となる。翌年11月、千葉市美術館にともない開館、同館に赴任、日本と欧米の現代美術に関する展覧会を担当、その研究発展に貢献した。精緻な調査をを反映した論考、資料編による充実した展覧会カタログを数多く出版した。担当したおもな展覧会に、「ジョゼフ・コスース 1965―1999 訪問者と外国人、孤立の時代」(1999―2000年)、「ダン・グレアムによるダン・グレアム展」(2003―04年)、「瀧口修造とマルセル・デュシャン」(2011年)、「須田悦弘展」(2012年)、「赤瀬川原平の芸術原論 1960年代から現在まで」(2014年)、「杉本博司 趣味と芸術―味占郷/今昔三部作」(2015年)、「見立ての手法―岡崎和郎のWho’s Who」(2016年)、「小沢剛 不完全―パラレルな美術史」(2018年)、「1968年 激動の時代の芸術」(2018年)がある。「赤瀬川原平の芸術原論展」は、2015年、第27回倫雅美術奨励賞を共同受賞。また「1968年 激動の時代の芸術」は、18年、美連協大賞を共同受賞。 論文に「ジョゼフ・コスースとアド・ラインハート:1960年代後期におけるコンセプチュアル・アートと絵画に関する一考察」(千葉市美術館研究紀要『採蓮』2、1999年)、「ダン・グレアムの«連結する三つのキューブ/ヴィデオ上映スペースのためのインテリアデザイン»について―コンテクストの介入からコンテクストの仲介へ」(『採蓮』8、2005年)、「不要になったら捨てられるアート―ニューヨークのコンセプチュアル・アートとエフェメラ」(『セログラフィーと70年代:Xerography and 70s』富士ゼロックス、2005年)、「ダン・フレイヴィンとコンセプチュアル・アート」(『採蓮』13、2010年)等がある。 没後、『千葉市美術館ニュース「C’n」』96号(2020年)において、同館長河合正朝が、美術館での水沼と美術家や同僚、後輩との交友、あるいは担当展や美術館の将来への向き合い方等をエッセイにまとめ、「美術が大好き、展覧会には持てる全力を尽くす、何事にも策を弄することのない真っ直ぐな性格の、わが社中の快男児」と評した。

持田季未子

没年月日:2018/12/18

読み:もちだきみこ、 Mochida, Kimiko※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  大妻女子大学名誉教授の美術史家持田季未子は12月18日、がんによる多臓器不全のため死去した。享年71。 1947(昭和22)年東京都港区高輪に生まれる。本名公子。70年国際基督教大学教養学部人文科学科を卒業。同学では関屋光彦に師事し、プラトンやアリストテレスなどの西洋古典を読むことによって、「自分の頭と心で物事を考える方法をつかみとることが重要」(『美的判断力考』)であることを学ぶ。80年東京大学人文科学研究科比較文学比較文化修了(文学修士)単位取得満期退学。立原道造研究から絵画、建築、庭園に興味を持ち、作品とは本来、それぞれ「本質的な固有の意味の層を持つ」(『絵画の思考』)という立場から、既存の方法論に依拠せず、作品のみを拠り所として、言葉を紡ぐことを目指すようになる。80年東京造形大学助教授となり、同学教授で『ことばのない思考―事物・空間・映像についての覚書』(田畑書店、1972年)、『生きられた家』(田畑書店、1976年)等、目に見えるものから過去の人の営みを明らかにする書物を世に問うていた多木浩二の知遇を得る。83年、アンリ・マスペロ著『道教の養生術』(せりか書房)、『芸術の記号論』(谷川渥 加藤茂らと共著、勁草書房)を刊行。84年1月に「連なりの史学」(『東京造形大学雑誌』)、85年9月に「庭園の眼差し、あるいは生成する庭園」(『思想』)を発表し、87年には『生成の詩学 かたちと動くもの』(新曜社)、ルーシー・スミス著『1930年代の美術 不安の時代』(多木浩二との共訳、岩波書店)、1991(平成3)年には『立原道造と伝統詩』(新典社)を刊行。92年にモンドリアン、マイケル・ハイザー、ロバート・スミッソンらによるアースワーク、村上華岳の作品について論じた『絵画の思考』(岩波書店)を刊行し、同書により吉田秀和賞受賞。93年東京造形大学教授となる。その後、『草木の精の能にみる日本的自然観』(共著、中央公論社、1994年)、『ベルリン―芸術と社会』(エバーハルト・ロータース編集、多木浩二らと共訳、岩波書店、1995年)、『芸術と宗教』(岩波書店、1997年)、『希望の倫理学 日本文化と暴力をめぐって』(平凡社選書、1998年)を刊行。98年に大妻大学比較文学部比較文化学科教授となり2016年まで教授として勤務し、18年に同学名誉教授となった。この間、『十七世紀の光―オランダ建築画の巨匠サーレンダム』(岩波書店、2009年)、自身の祖父について記した『明治の精神 持田巽の生涯』(彩流社、2012年)、『セザンヌの地質学 サント・ヴィクトワール山への道』(青土社、2017年)を刊行し、77年から様々な雑誌や書籍に発表した文章をまとめた『美的判断力考』(未知谷、2019年)を構想中に死去した。「第一章 絵画の世界」「第二章 建築・庭園」「第三相 詩から始まる」「第四章 哲学すること」「第五章 英語・フランス語論文」で構成された同書は、持田の仕事の展開を示すものとなっている。

松浦正昭

没年月日:2018/12/07

読み:まつうらまさあき、 Matsuura, Masaaki※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  美術史家・仏教彫刻史研究者の松浦正昭は、肺がんのため12月7日に死去した。享年72。 1946(昭和21)年7月21日、群馬県新高尾村中尾(現、高崎市)に生まれる。65年3月、群馬県立前橋高等学校を卒業、同年4月に東北大学文学部に入学。70年3月、同大学を卒業、読売新聞社勤務を経て72年4月、東北大学大学院文学研究科美学・美術史学専攻に入学。74年3月、同研究科修士課程を修了し、4月より同大学文学部助手に採用される。77年10月、奈良国立博物館に着任。学芸課教育普及室長、仏教美術資料研究センター仏教美術研究室長を務め、2004(平成16)年4月より東京国立博物館に上席研究員として着任(文化庁美術学芸課美術館・博物館主任文化財調査官を兼務)。06年4月に富山大学芸術文化学部教授、11年3月、同大学を定年退職した。放送大学客員教授。 東北大学文学部東洋・日本美術史研究室で仏教美術史研究者の亀田孜、高田修、日本中・近世絵画史研究者の辻惟雄に指導を仰ぐ。とりわけ亀田からは、文献学に基づいた実証的な研究方法や自然科学的手法を取り入れた調査といった面で強い影響を受けたという。修士論文のテーマは平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像だった。奈良国立博物館に勤務して以降は日本彫刻のみならず、韓国・中国の仏像、絵画や工芸にも関心を広げていく。作品を徹底して観察することに重きをおき、自らX線透過撮影を行うなどして彫刻の素材や技法的側面に関する研究を深めた。 奈良国立博物館在職中には展覧会「菩薩」(1987年)、「檀像―白檀仏から日本の木彫仏へ―」(1991年)、「東アジアの仏たち」(1996年)、「ぶつぞう入門」(1996年)、「阿修羅との出会い」(1997年)、「国宝中宮寺菩〓像」(2000年)等を担当した。特に「東アジアの仏たち」は、広範にわたる地域や時代、横断的なジャンルの作品によって構成されており、松浦の関心領域の幅広さを示した展覧会と言える。東京国立博物館に籍を移して以降も「国宝吉祥天画像」(2005年)、「模写・模造と日本美術―うつす・まなぶ・つたえるー」(2005年)等の展覧会に携わった。著書に『日本の美術315 毘沙門天像』(至文堂、1992年)、『日本の美術455 飛鳥白鳳の仏像 古代仏教のかたち』(至文堂、2004年)。論文に「鳳凰堂供養飛天群とその密教的性格」(『美術史』97・98、1976年)、「東寺講堂の真言彫像」(『佛教藝術』150、1983年)、「天台薬師像の成立と展開」(『美術史学』15、1994年/『美術史学』16、1995年)、「頭塔石仏の図像的考察」(『國華』1215、1997年)、「毘沙門天法の請来と羅城門安置像」(『美術研究』370、1998年)、「法華堂天平美術新論」(『南都仏教』82、2002年)、「年輪に秘められた法隆寺創建―法隆寺論の美術―」(『古代大和の謎』学生社、2010年)等。

中村昌生

没年月日:2018/11/05

読み:なかむらまさお、 Nakamura, Masao※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  建築家・建築史家で京都工芸繊維大学名誉教授の中村昌生は11月5日、呼吸不全のため死去した。享年91。 1927(昭和2)年8月2日愛知県名古屋市に生まれる。47年に彦根工業専門学校建築科を卒業後、京都大学工学部研修員を経て、49年に同助手。62年に京都工芸繊維大学工芸学部助教授、73年に同教授となる。1991(平成3)年に定年退官し、同大学名誉教授。同年より2002年まで福井工業大学教授。 日本建築史における数寄屋建築の伝統、とりわけ茶室と生涯一貫して向き合い、この分野での研究を第一人者として牽引するとともに、実作を通じてその継承と普及に努めた。 62年に「初期茶室の基礎的研究」にて京都大学より工学博士号授与。71年には、千利休をはじめとする六人の代表的茶匠の作風を分析し、その造形思想と設計方法を探ることを通じて室町末から江戸初期に至る茶室の形成・展開過程を明らかにした「茶室の研究」(同年に墨水書房より公刊)にて日本建築学会賞(論文賞)を受賞した。 社寺建築においては時代ごとの様式や木割といった意匠や寸法比例の規範が明確に存在するのに対して、数寄屋はそこから逸脱する自由さに本質があり、作者の嗜好と感性に依拠する性格が極めて強い。このことからも、中村において数寄屋や茶室の研究はその設計活動の実践と表裏一体の関係にあり、建築家あるいは茶人として数多くの建物の創作や復元を行ってきた。67年に京都の大工棟梁や工務店関係者などと伝統建築研究会を結成、これを母体として78年に伝統木造建築技術の保存向上を実践する組織として文化財修理を含む設計・施工も行う京都伝統建築技術協会(1980年に財団法人化)を発起人代表として設立する。そして最初に設計を手掛けたのが宝紅庵(山形、1979年)で、特定の流派・流儀に偏らず、茶の湯以外にも多目的に使用できる「公共茶室」という新たな分野を開拓した。「庭屋一如」を理想として掲げた設計作品は数多いが、主なものとして、大濠公園日本庭園茶会館(福岡、1984年)、新宿御苑楽羽亭(東京、1987年)、山寺芭蕉記念館(山形、1989年)、出羽遊心館(山形、1994年)、兼六園時雨亭(石川、2000年)、ギメ東洋美術館虚白庵(パリ、2001年)等がある。91年には白鳥公園「清羽亭」(愛知)の建築設計にて日本芸術院賞を受賞した。 これらのプロジェクトは創作活動の場であると同時に、伝統木造建築技術の伝承と発展のための機会としても常に意識されていた。87年には後継技術者養成を目的とする日本建築専門学校の設立に協力、後に理事長を務めた。さらに、11年には一般社団法人伝統を未来につなげる会を設立し、理事長として伝統木造建築技術の継承普及に尽力した。 数寄屋や茶室を中心とする歴史的建造物の保存への貢献も中村の大きな功績である。桂離宮の昭和大修理に伴って宮内庁が設置した整備懇談会の委員を76年から83年まで務めたほか、86年から03年まで文化庁文化財保護審議会の専門委員を務め、京都府をはじめとする地方自治体でも文化財保護審議会委員として文化財保護行政に助言した。 その他の受賞歴として、98年京都市文化功労者、00年淡々斎茶道文化賞、06年京都府文化賞特別功労賞等。上記以外の主な著作に、『茶匠と建築』(鹿島出版会、1971年)、『日本建築史基礎資料集成20 茶室』(中央公論美術出版、1974年)、『茶室大観1~3』(創元社、1977―78年)、『数寄屋建築集成』(小学館、1978―85年)、『図説 茶室の歴史-基礎がわかるQ&A』(淡交社、1998年)、『古典に学ぶ茶室の設計』(建築知識、1999年)、『茶室露地大事典』(淡交社、2018年:監修)等があり、設計作品集としては『公共茶室―中村昌生の仕事』(建築資料研究社、1994年)、『数寄の空間―中村昌生の仕事』(淡交社、2000年)等がある。

小笠原信夫

没年月日:2018/10/29

読み:おがさわらのぶお、 Ogasawara, Nobuo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  日本刀剣史の研究者である小笠原信夫は、10月29日心筋梗塞により死去した。享年80。 1939(昭和14)年、千葉県香取市佐原に父勤一、母らくの長男として生まれる。62年、早稲田大学政治経済学部を卒業。幼少の頃から日本刀が好きであったと語っており、大学時代に師となる佐藤貫一(寒山)の指導を受け、64年佐藤が設立に加わった財団法人日本美術刀剣保存協会に研究職として採用される。67年、東京国立博物館の学芸部工芸課に転職し、刀剣室員・主任研究官を経て83年刀剣室長、1994(平成6)年、工芸課長を務め、2000年3月退官する。その後10年まで聖心女子大学の非常勤講師として博物館学等を講義した。 専門とした日本刀剣史では、初めは桃山から江戸時代の新刀について、実物作品の作風や銘文の精査、それに当時の刀剣書のみならず随筆などから刀工について再検討を行い、多くの論文を発表した。江戸の刀工については、『長曽祢乕徹新考』(雄山閣、1973年)、「江戸の新刀鍛冶」(『MUSEUM』209・213・225、1968年・68年・69年)、また京、大阪の新刀については、「大阪新刀鍛冶・河内守国助考」(『MUSEUM』197、1967年)、「出羽大掾国路に関する一私考」(『MUSEUM』265、1973年)、「埋忠明寿とその周辺に関する一考察」(『MUSEUM』265、1976年)等がある。 その後研究の幅を広げ、古刀についても実物資料を重視するとともに、室町時代以来の刀剣書の記述内容を再検討し、刀工の系譜や代別等について新たな見解を示した。79年の「長谷部国重についての一考察」(『MUSEUM』338)では相州鍛冶新藤五国光との関係と系譜に新解釈を加え、83年の『備前大宮鍛冶の系譜に関する問題』(『MUSEUM』385)では、これまでの大宮鍛冶と言われていた者は全くの別系統であることを示した。これらの論文のほか、古刀に関しては、「備前長船鍛冶長光の研究」(『東京国立博物館紀要』15、1979年)、「山城鍛冶了戒・信国考」(『MUSEUM』409、1985年)、「正宗弟子説の成立過程―『古今銘尽』開版の諸条件―」(『MUSEUM』495、1992年)等がある。18年、それまでの論文をまとめた『刀鍛冶考―その系譜と美の表現』(雄山閣、2019年、没後刊行)を発刊準備中に亡くなった。 東京国立博物館では特別展「日本のかたな 鉄のわざと武のこころ」(1997年)、特設展観「打刀拵」(1987年)等の展覧会を企画した。

馬杉宗夫

没年月日:2018/10/12

読み:うますぎむねお、 Umasugi, Muneo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  フランス中世を専門とする美術史家で武蔵野美術大学名誉教授の馬杉宗夫は10月12日、肺炎のために死去した。享年76。 1942(昭和17)年9月15日広島県呉市に生まれる。67年東京藝術大学美術学部芸術学科卒業、69年同大学修士課程修了後、同大学芸術学科副手(非常勤助手)を経て、70年よりパリ大学付属美術・考古学研究所にフランス政府給付留学生として入学、フランス・ゴシック美術の大家ルイ・グロデッキに師事した。フランス中世美術(サン・ドニ修道院の彫刻)を研究テーマとし、74年に博士課程を修了した。帰国後は、75年以降、東京経済大学、日本大学、清泉女子大学、武蔵野美術大学、津田塾大学で非常勤講師を務めた。80年より武蔵野美術大学助教授に着任、84年に同教授に昇任し、2009(平成21)年の定年退官に至る約30年の長きにわたり、同大学にて研究、学生指導、大学運営に尽力する。同年に同名誉教授となる。 その生涯を通じ、フランスをはじめとする西洋の中世美術史研究に従事した。とりわけフランス留学中の経験に基づきつつ、ロマネスクおよびゴシック美術の多様性に光を当てたエッセイや著作は、広く中世美術を紹介することに貢献した。西洋美術に関する著作としては、巨大なゴシック大聖堂の誕生に至るまでを教会堂建築の起源から丁寧にたどった『大聖堂のコスモロジー:中世の聖なる空間を読む』(講談社、1992年)、正統なキリスト教美術からは逸脱した異質な図像表現に焦点を絞った『黒い聖母と悪魔の謎:キリスト教異形の図像学』(講談社、1998年)が挙げられ、きわめて専門的な内容ながらも、斬新な切り口と明瞭な文章により、一般読者のための中世美術史入門書として意義深い。また、2000年から2003年にかけて出版された中世美術に関する四部作、すなわち『シャルトル大聖堂:ゴシック美術への誘い』(八坂書房、2000年)、『ロマネスクの美術』(同、2001年)、『パリのノートル・ダム』(同、2002年)、『ゴシック美術:サン・ドニからの旅立ち』(同、2003年)は代表的著作と言うべきシリーズであり、教会堂を核とした総合美術として中世美術を捉えつつ、建築や彫刻、ステンドグラスや壁画といった諸作品を分析してゆく視点は、他の著作でも一貫するものである。 上記以外の主要な編著書および訳書は下記の通りである。『ダヴィッド/アングル/ドラクロワ/ジェリコー/シャッセリオー』(ファブリ研秀世界美術全集:8、研秀出版、1978年)、『シャルトルの大聖堂』(共著、世界の聖域:15、講談社、1980年)、『ロマネスクの旅:中世フランス美術探訪』(日本経済新聞社、1982年)、『イスラム/ロマネスク/ゴシック』(翻訳、世界の至宝:3、ぎょうせい、1983年)、『図説西洋美術史』(共著、八坂書房、1984年)、『ヨーロッパの文様』(共編、世界の文様:1、小学館、1991年)、『スペインの光と影:ロマネスク美術紀行』(日本経済新聞社、1992年)、ユルギス・バルトルシャイティス著『異形のロマネスク:石に刻まれた中世の奇想』(翻訳、講談社、2009年)。

亀井伸雄

没年月日:2018/07/17

読み:かめいのぶお、 Kamei, Nobuo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  長らく文化庁に勤め、文化財行政に大きな功績を残した亀井伸雄は7月17日に死去した。享年69。 1948(昭和23)年9月19日、神奈川県に生まれる。神奈川県立小田原高等学校を卒業後、東京大学に入学、73年に同大学院工学系研究科修士課程都市工学専門課程を修了。同年4月より文化庁建造物課に勤務した。75年に奈良国立文化財研究所に異動、さらに84年から3年余にわたって奈良市教育委員会に勤務した後、87年に文化庁に戻っている。1999(平成11)年には建造物課長に就任し、2003年には国立都城工業高等専門学校長として宮崎県に赴任、2年間を高等教育の現場で過ごしている。05年には文化庁に復帰し、文化財鑑査官として文化財行政全般を専門的観点から統括する重責を担った。その後、文化庁参与などを経て、10年からは東京文化財研究所の所長を務めている。 行政にあっての亀井の業績は、町並保存、建造物修理、国宝・重要文化財の指定など幅広いが、その功績の中で特筆されるべきものとして災害への対応が挙げられる。95年1月の阪神・淡路大震災においては、建造物課修理企画部門の主任文化財調査官として、文化財建造物の復旧事業を舵取りする立場にあった。また、東京文化財研究所長在任中の11年に起きた東日本大震災に当たっては、東京文化財研究所に置かれた東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援委員会委員長として、被災した文化財のレスキュー事業を統括する役割を担った。この間、大規模災害時における文化財の復旧・復興の重要性への世の認識は大きく変わり、かつて「文化財どころではない」と語られていたことと比べると、文化財に復旧・復興全体のシンボルとしてのイメージが定着した今日は隔世の感がある。亀井は、こうした文化財の社会の中での位置づけが、大きく変わり続ける転換点に立ち会ったことになる。 同じように、文化財、特に建造物の対象が大きく広がる過程にあって、その原動力の一端を担ったことも亀井の功績と言ってよい。96年の登録文化財制度の新設にあたっては、建造物課調査部門の主任調査官としてその中核を成し、明治以降の建造物や、土木構造物の指定・登録も積極的に推進した。さらに、文化庁退任後の15年には文化審議会文化財分科会長に就任し、文化財の活用の重視や保存計画の位置付けの明確化がなされた18年の文化財保護法改正にも関わっている。 また研究者としての亀井の成果は、都市工学科出身という出自を反映してか町並関係の論考が中心である。それらは、奈良国立文化財研究所在籍当時の調査等を中心に、それまでの研究のまとめとして、92年の学位論文「歴史的市街地の構造と保存の評価に関する研究」に結実している。

吉田千鶴子

没年月日:2018/06/09

読み:よしだちづこ、 Yoshida, Chizuko※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  近代日本の美術史研究者であった吉田千鶴子は、6月9日松戸市内の病院で死去した。享年73。 1944(昭和19)年、群馬県に生まれる。群馬県立前橋女子高等学校を卒業、東京藝術大学美術学部芸術学科に進学し、68年3月卒業。同大学大学院に進み、吉沢忠教授のもとで東洋美術史を学び、71年3月に同大学院修士課程を修了。同年4月から同大学美術学部非常勤助手となる。後に同大学美術学部教育資料編纂室助手となる。81年から2003(平成15)年まで、『東京芸術大学百年史』編纂に従事した。同編纂事業では、一貫してその中心となり、同大学の前身東京美術学校開校時から現在までの資料を広範に調査収集し、精緻な考証と丹念な記述によって、下記のように浩瀚な年史にまとめあげた。同書は、一学校、大学の歴史にとどまらず、日本の近代美術の形成史となる内容であり、斯界の研究にとって基本文献、基礎資料となっている。 財団法人芸術研究振興財団、東京芸術大学百年史編集委員会編『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇一』(ぎょうせい、1987年) 同上編『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇二』(ぎょうせい、1992年) 同上編『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇三』(ぎょうせい、1997年) 同上編『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇別巻「上野直昭日記」』(ぎょうせい、1997年) 同上編『東京芸術大学百年史 美術学部篇』(ぎょうせい、2003年) その後、08年から15年まで、東京文化財研究所客員研究員。12年から16年まで、東京藝術大学総合アーカイブセンター特別研究員を務め、茨城大学五浦美術文化研究所客員研究員でもあった。 研究者としては、この編纂事業の過程で、日本の美術史学の史的形成にも関心を深め、岡倉天心をはじめとする教育者たちの研究もすすめた。また東京美術学校の時代から、同大学が東アジアにおける近代的、組織的な美術教育の拠点だったところから、留学生の研究もあわせておこない、その成果は『近代東アジア美術留学生の研究 東京美術学校留学生史料』(ゆまに書房、2009年)にまとめられた。同時に、中国、台湾等の近代美術研究者との交流も深まり、12年から、杭州師範大学弘一大師・豊子愷研究中心客員研究員を務め、また各地域の大学等での講演、シンポジウムへの参加等を通じて研究交流を果たした。 論文、発表等は数多く残されているが、主要な著作は下記のとおりである。 磯崎康彦共著『東京美術学校の歴史』(日本文教出版、1977年) 山川武共編『日本画 東京美術学校卒業制作』(京都書院、1983年) 責任編集『木心彫舎大川逞一回想』(三好企画、1906年) 大西純子共編『六角紫水の古社寺調査日記』(東京芸術大学出版会、2009年) 『「日本美術」の発見 岡倉天心がめざしたもの』(吉川弘文館、2011年) 後藤亮子編修協力『西崖中国旅行日記』(ゆまに書房、2016年) 20年以上にわたる上記編纂事業を通じて蓄積された知見と研究成果は、日本、東アジアの近代美術史、ならびに日本における「美術史」形成過程の一端を膨大な資料を通じて実証したものであり、その功績は大きい。

宇野茂樹

没年月日:2018/03/23

読み:うのしげき、 Uno, Shigeki※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  彫刻史研究者・滋賀県立短期大学名誉教授の宇野茂樹は、癌のため3月23日に死去した。享年97。 1921(大正10)年3月9日、滋賀県栗太郡栗東町に生まれる。滋賀県立膳所中学校(現、滋賀県立膳所高等学校)を経て1944(昭和19)年9月、國學院大学神道部本科を卒業。応召によって敦賀歩兵連隊に入隊し中国へ出征する。46年8月に復員し、9月より京都帝国大学文学部国史研究室に学ぶ。48年3月に滋賀県重要美術品等調査事務取扱嘱託となり、12月に滋賀県技術吏員(技師)として滋賀県立産業文化館(後の琵琶湖文化館)に勤務する。61年4月、学芸員として滋賀県立琵琶湖文化館勤務。65年4月、滋賀県立短期大学に助教授として着任、71年4月、教授に昇進。86年3月、同大学を定年退職し、名誉教授の称号を授与される。同年4月、大阪商業大学商経学部教授に着任。1990(平成2)年7月、栗東歴史民俗博物館館長となる。94年3月、大阪商業大学を定年退職。2000年4月、栗東歴史民俗博物館名誉館長。滋賀大学、同志社大学で非常勤講師として教鞭を執ったほか、滋賀県文化財保護審議会委員、滋賀県文化財保護協会理事、野洲町立歴史民俗資料館運営審議会委員など、滋賀県内の文化財・博物館行政の要職を歴任した。91年に滋賀県文化賞を受賞。96年に勲三等に叙され瑞宝章を授与される。小槻大社宮司・五百井神社宮司を務めた。 宇野は小槻大社宮司職を務める家に生まれ、國學院大学で考古学者・大場磐雄の指導を仰いだ。滋賀県庁に奉職後は県内各地の寺院調査を行い、近江地域の彫刻史研究に精力的に取り組んだ。58年には滋賀県内の在銘彫刻63点にコロタイプ写真を付した『近江造像銘』(山本湖舟写真工芸部)を、74年には近江地域の古代から中世へと至る彫刻史を論じた『近江路の彫像』を刊行する。77年、論文「近江宗教彫刻論」を國學院大学に提出し、博士号を授与される。多年にわたる実地調査に基づき、天台宗や神仏習合といった複雑な信仰背景を持つ近江の仏像・神像彫刻を数多く紹介し、当該地域における彫刻史研究の発展に大きく寄与した。大学では博物館での勤務や豊富な調査経験を踏まえて後進の指導と育成に努め、とりわけ同志社大学では長く博物館実習を受け持っていたため、その薫陶を受けた者は多い。 著作に『日本の仏像と仏師たち』(雄山閣、1982年)、『近江の美術と民俗』(思文閣出版、1994年)、『仏教東漸の旅:はるかなるブッダの道』(思文閣出版、1999年)など。論文に「近江常楽寺二十八部衆について」(『日本歴史』148、1960年)、「石山寺本尊考」(『文化史研究』17、1965年)、「園城寺新羅明神像」(『史跡と美術』384、1968年)、「近江の白鳳彫刻―韓国古代彫刻を中心として」(『文化史学』27、1971年)、「比叡山常行堂の阿弥陀像―近江国梵釈寺像を中心として―」(『佛教藝術』96、1974年)、「鎌倉時代初期の延暦寺における仏師動静」(『史跡と美術』465、1976年)、「熊野信仰と園城寺」(『神道及び神道史(西田長男博士追悼号1)』37・38、1982年)、「神像彫刻の展開」(『栗東歴史民俗博物館紀要』2、1996年)ほか多数。

金関恕

没年月日:2018/03/13

読み:かなせきひろし、 Kanaseki, Hiroshi※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  弥生時代研究の第一人者で天理大学名誉教授、大阪府弥生文化博物館名誉館長の金関恕は3月13日、心不全のため死去した。享年90。 1927(昭和2)年11月19日、京都市で医学博士の父金関丈夫・母みどりの次男として出生。36年、丈夫の京都帝国大学から台北帝国大学への赴任に伴い、台湾へ転居し青年期までを過ごした。丈夫は赴任前、考古学者濱田耕作の研究室座談会の常連で、第2次世界大戦後に弥生時代出土人骨の研究から弥生人渡来説を核とした日本民族起源論を唱えた高名な人類学者・解剖学者である。幼少年期に父の書斎に並ぶ歴史書・美術書・文芸書の中で育ち、石器採集をはじめ、父の遺跡発掘調査を手伝うことで、考古学に深い関心をもつ。なお、台北帝国大学(医科大学)予科在学時の従軍体験はプロパガンダ・連呼による命令を嫌う氏の思想の根幹をなしたと長女ふき子が回想している。 45年帰国後、旧制松江高等学校を経て、49年に京都大学文学部(考古学専攻)に入学。考古学者の梅原末治・小林行雄に師事し、遺跡・遺物(考古資料)の調査研究方法をそれぞれから徹底的に学び、先輩坪井清足らと考古学研究に打ち込む。53年京都大学大学院入学、同時に坪井が所長を務める奈良国立文化財研究所臨時筆生となり、奈良県飛鳥寺や大阪府四天王寺の発掘調査に従事、飛鳥寺塔心礎の発掘調査では舎利容器に接した感動は忘れ難いと述懐している。また49年、丈夫の九州大学(医学部)赴任に伴い始まった山口県土井ヶ浜遺跡や鹿児島県広田遺跡等の発掘調査に参加した。59年に、師梅原末治が勤める天理大学に赴任。61年から奈良県東大寺山古墳の発掘調査に携わる(副葬品は1972年重要文化財、2016年国宝指定)。また、同調査で知遇を得た三笠宮殿下他の推挙で、日本オリエント学会10周年記念「西アジア文化遺跡発掘調査団(聖書遺跡調査団)」のイスラエル発掘調査に65年第2次調査から測量兼写真担当として参加。同年帰国後、大阪万国博覧会のための国道新設に伴う大阪府池上・曽根遺跡の発掘調査に際し、部分的に西アジア調査で学んだ組織的な大規模分業調査方式を提案、今日の大規模緊急調査の先駆的事例となった。同調査では遺跡の重要性から現地保存運動が興り、70年発掘調査報告書『池上・四ツ池』(第二阪和国道遺跡調査会)刊行、75年国史跡指定や1991(平成3)年大阪府立弥生文化博物館建設等に尽力した。このほか、山口県綾羅木郷遺跡、佐賀県吉野ケ里遺跡、鳥取県妻木晩田遺跡等の代表的弥生集落遺跡の保存・活用活動にも貢献した。 一方、60年頃から文化人類学・民俗学による神話・祭儀等の宗教史的な視点から分析を加えた論考を発表し、75年『稲作の始まり』(古代史発掘4 弥生時代1:佐原真と共編)(講談社)を刊行、当時最新の発掘調査成果と斬新な視点から新たな弥生時代像を提示した。その後も、『日本考古学を学ぶ』(有斐閣、1978年)・『岩波講座 日本考古学』(岩波書店、1985年)などの叢書を中心に、西アジア調査・米国インディアナ大学交換教授の経験を踏まえた欧米考古学との比較研究や、東アジアにおける弥生文化の位置づけ等の弥生時代史像に関する論考を重ねた。85年からは『弥生文化の研究』(全10巻:佐原真と共編、雄山閣)を刊行(~1988年)、全国の研究者を編制して弥生文化研究の現代的水準を示した。86年『宇宙への祈り 古代人の心を読む』(日本古代史3:責任編集・総論、集英社)では先史時代から奈良時代までの研究成果を俯瞰し、2004年『弥生の習俗と宗教』(学生社)で宗教史的視点による弥生時代研究の方法的展望を示した。17年『弥生の木の鳥の歌―習俗と宗教の考古学―』(雄山閣)、『考古学と精神文化』(桑原久男編、雄山閣)を刊行した。 また、91年から大阪府立弥生文化博物館館長(~2013年)に就任し、年2回の特別展監修と図録巻頭論文の執筆を続け、弥生時代研究の成果を広く普及・啓発する活動に尽力する一方、95年『弥生文化の成立 大変革の主体は「縄紋人」だった』(同博物館と共編、角川書店)等で、従来の弥生時代像の転換を促して大きな影響を及ぼした。ほかにも、99年からユネスコ・アジア文化センター遺産保護協力事務所長(~2003年)、2000年から財団法人辰馬考古資料館館長(~2011年)、06年世界考古学会議(WAC)中間会議大阪大会実行委員長、山口県史等の編纂事業や各地の文化財関係国公立機関の座長・審議員等を歴任した。96年天理大学退任。03年大阪文化賞受賞・文部科学大臣地域文化功労者表彰、14年イスラエル考古局功労者表彰。 なお、遺言により骨格標本として献体。これは父丈夫の学術研究のために祖父喜三郎(1943年逝去)が献体を申し出たことに始まり、丈夫(1983年逝去)が遺言で九州大学医学部に献体され、その遺志を継いだ長男毅(2015年逝去:佐賀医科大学名誉教授)に続いたものである。遺伝学史上、生前記録や親族関係が残る男子直系3代の骨格標本は世界的にも類がなく、心身共に学問に生涯を捧げた一族を象徴する事績であろう。

倉田公裕

没年月日:2018/02/26

読み:くらたきみひろ、 Kurata, Kimihiro※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  元北海道立近代美術館長の倉田公裕は2月26日、偽膜性腸炎のため死去した。享年94。 1924(大正13)年1月10日、三重県に生まれる。関西大学文学部を卒業後、1959(昭和34)年よりサントリー美術館の設立準備に学芸員として当たり、63年からは山種美術館の設立準備に従事。山種美術館の学芸部長を務めた後、73年より北海道立近代美術館の設立準備室長となり、地域性と国際性を重視した本格的な美術館作りに尽力、また展示に複製や映像を積極的に導入するなど新たな美術館像を示した。同館副館長を経て78年から86年まで北海道立近代美術館館長(非常勤)を務め、また78年に明治大学文学部教授となり、1995(平成7)年に定年退任するまで教鞭をとる。一方でサントリー美術館勤務時代より縁のあった日本画家鏑木清方の遺族から、土地・建物・作品の鎌倉市への寄贈の相談を受けて記念美術館の設立に協力、98年に鎌倉市鏑木清方記念美術館として開館すると、その専門委員を2004年まで務めた。 その業績は近代日本画に関するものが多く、『日本の名画15 竹内栖鳳』(講談社、1973年)、『近代の美術14 小林古径』(至文堂、1973年)、『森田曠平画集』(駸々堂出版、1993年)といった画集の編集に携わる。一方でサントリー美術館、山種美術館、北海道立近代美術館の設立に関わった経験から博物館学についての著述も多数あり、著書としては『博物館学』(東京堂出版、1979年)、『博物館の風景』(六興出版、1988年)、また新聞に発表したコラム等をまとめた『曲臍庵随記』(私家版、1986年)、その続編として編集され、博物館学関係の著作目録も収載した『続曲臍庵随記』(明治大学博物館学研究会、1994年)がある。鎌倉市鏑木清方記念美術館が清方の基礎資料集として継続的に刊行する『鏑木清方記念美術館叢書』についても、晩年に至るまでその監修を務めている。

永田生慈

没年月日:2018/02/06

読み:ながたせいじ、 Nagata, Seiji※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  浮世絵研究者で美術評論家の永田生慈は肺癌のため2月6日に死去した。享年66。 1951(昭和26)年、島根県津和野町生まれ、その後東京都世田谷区で育つ。幼少の頃から骨董など古いものに興味をもち、初めてのコレクションは小学校3年の頃、〓飾北斎の絵手本『画本早引』であったといい、以後、生涯にわたり北斎作品の収集、研究に身を捧げた。高校卒業後、浮世絵研究の泰斗、〓崎宗重が教鞭を執っていた立正大学に進学し、師の薫陶を受ける。処女論文は「学生レポート 広重進出後の北斎」(『浮世絵芸術』30、1971年)、大学在籍中に仲間と東京北斎会を発足し、72年に『北斎研究』を創刊し(2017年、第57号をもって終刊)、精力的に北斎の調査研究を進めた。生涯に著した論文は200本余、専門的な学術書から一般向けの解説書や啓蒙書まで多数の著作を残した。大学卒業後、書店経営なども経て、太田記念美術館の設立に尽力し、学芸員から副館長兼学芸部長を務め、2008(平成20)年に退任するまで、同館の展覧会や調査研究活動に従事した。なかでも05年に太田記念美術館の開館25周年を記念し、初の海外展としてパリのギメ東洋美術館で開催された「太田記念美術館所蔵浮世絵名品展」の際、クーリエとして赴いていた永田の調査によって、ギメ東洋美術館に所蔵されている北斎の「龍図」が、太田記念美術館の所蔵品であった「虎図」と本来対をなす作品であることが発見されたことは大きな反響を呼んだ。この「龍図」は07年1月から太田記念美術館と大阪市立美術館でおこなわれた「ギメ東洋美術館所蔵浮世絵名品展」で里帰りを果たし、虎図とともに展示され、北斎の絶筆に近い時期の大作として注目された。永田が研究を始めた頃は、フランスやアメリカでは高く評価されている北斎が、日本国内では過小評価されていたといい、永田は『〓飾北斎年譜』(1985年)など基礎研究を基盤に、膨大な数の作品論を積み重ね、画風展開を論じた。国内外の数々の北斎展に関わったが、その最大級のものがゲストキュレーターとして企画した2005年の東京国立博物館での「北斎展」で、作品総数約500点が出陳された。また14年にパリのグラン・パレで開催された「北斎展」でも主導的役割を果たして大きな反響を呼び、この功績により16年にフランスの芸術文化勲章オフィシエが贈られている。一方、自らも北斎やその門人の作品の収集活動を続け、90年、北斎の命日である4月18日に郷里の津和野町に自らの私財を投じて〓飾北斎美術館を開館した。同館は15年に閉館したが、散逸することを避けるため永田のコレクション約2000点は17年に島根県立美術館に寄贈された。19年2月に島根県立美術館で「開館20周年記念展 北斎―永田コレクションの全貌公開」が開催され、『永田生慈 北斎コレクション100選』が刊行されている。

北野康

没年月日:2018/01/27

読み:きたのやすし、 Kitano, Yasushi※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  地球化学者で名古屋大学名誉教授および椙山女学園大学名誉教授の北野康は肺炎のため1月27日に死去した。享年94。 1923(大正12)年2月6日に山梨県甲府市で生まれ、1942(昭和17)年に北海道帝国大学予科理類に入学し、47年に同大学理学部化学科を卒業した。49年に同大学理学部の助手になった後、52年に神戸大学文理学部講師として転出した。55年に助教授に昇任した後、57年に理学部助教授として名古屋大学に異動し、その後63年に同大学理学部教授、73年に同大学水圏科学研究所教授、77年に同所長となり、86年に名古屋大学を退官した。退官後は87年に椙山女学園大学人間関係学部教授に就任し、1989(平成元)年からは93年に大学を退任するまで学長を務めた。この間、日本地球化学会柴田賞(1996年)など数多くの賞を受賞し、勲三等旭日中綬章を叙勲されている。 本人は「水の地球化学者」と自称していたが、北野の研究の関心は海水、河川水、温泉水など、地球のあらゆる水に含まれる元素の種類や分量を明らかにすることで、その興味の対象は氷河や南極の氷から、地球が生まれた約45億年前の原始海水にまで及んでいた。例えばある元素が地球の大気、海水、河川水等の中にどれだけ含まれているか調べることにより、それらの収支から陸地、河川、海洋さらには大気への元素の移動・蓄積と循環のサイクルを調べることができる。またその地球規模の元素循環に人間活動が与えた影響も知ることができる。それ故、北野は化石燃料燃焼による二酸化炭素の増加が引き起こす地球温暖化への関心も高く、地球環境問題に関する国内外の多くの国際会議の委員を務めた。 86年に文化庁は中国の敦煌研究院との間で敦煌莫高窟壁画保存に関する協定を結び、敦煌莫高窟壁画保存修復協力会議を設置した。莫高窟は砂漠の乾燥地帯にあり、北野は長年、自然界における岩石の化学的風化の研究をしてきたことから、要請されて協力会議の議長に就任した。これが北野の古文化財とのつながりの始まりである。95年に出版された著書『新版 水の科学』(NHKブックス)の中で「元来砂漠地域は水の蒸発量が降水量より遙かに大きいところであり、地球規模で見ると砂漠地域は大気中の水蒸気の供給源の一つであるとさえいえる」と述べているが、岩石の上に描かれた敦煌壁画の保存には水、空気と岩石の相互作用という問題が基本に存在していて、岩石の風化の研究を抜きにして保存の問題は解決できない。そこで北野は訪中団の一員として二回にわたって敦煌現地を訪れ実地調査を行った。 二回の訪中の際に敦煌周辺で採取した天然水の分析成果が『保存科学』第33号(1994年)に記されている。敦煌周辺の水は、世界各地域の河川水、雨水と比較して硫酸イオン濃度が高いなど、地球上の一般的な水とは違った化学組成を示している。また塩分濃度が高いことで有名な死海の水とも、同じ乾燥地帯にありながら異なっている。硫酸イオンの起源として、①石油・石炭などの化石燃料、②海水由来、③岩石からの溶出が考えられるが、北野は敦煌周辺の岩石の化学的風化によるものではないかと考え、敦煌周辺の地質環境を調べてイオウの同位体比分析を行った。この論文で北野は研究の方向性を示したが、その死去により研究が未完に終わったことは残念である。

田村隆照

没年月日:2018/01/12

読み:たむtらたかてる、 Tamura, Takateru※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  仏教美術史研究者・京都市立芸術大学名誉教授の田村隆照は、1月12日に死去した。享年92。 1926(大正15)年2月17日、広島県に生まれる。1951(昭和26)年、高野山大学仏教芸術学科を卒業した。52年より京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)に助手として勤務。60年8月、助手から講師に昇任。69年4月より助教授、72年12月、教授に昇任。1989(平成元)年4月、京都市立芸術大学図書館長に就任した。91年3月、同大学を定年退職し、同年4月に名誉教授の称号を授与される。91年、大阪産業大学に着任。高野山大学、京都府立大学、奈良女子大学、神戸大学、大阪大学、種智院大学で非常勤講師として教鞭を執った。満願寺(奈良県五條市)住職。 高野山大学で密教美術研究の泰斗・佐和隆研の薫陶を受け、京都市立美術大学に着任以降も、同大で教授を務めていた佐和の傍らで仏教彫刻の研究に励んだ。「石山寺文化財総合調査団」や東寺観智院金剛蔵聖教調査など膨大な密教図像や聖教類の調査に関わる一方で、インドネシアへの美術調査に参加(1964年・67年)、東南アジア地域の仏教美術へと関心を広げていく。81年9月には密教図像学会が発足(初代会長:佐和隆研)、常任委員となる。90年には密教図像学会第3代会長に就任して2期8年を務め、その後も学会顧問として多年にわたって運営に尽力した。88年には石山寺が所蔵する図像集「図像抄(十巻抄)」を原寸カラー図版で刊行(『図像抄:石山寺所蔵十巻抄』法藏館)、2004年には京都市立芸術大学が所蔵する仏画粉本を集成した『仏教図像聚成:六角堂能満院仏画粉本』(京都市立芸術大学芸術資料館編、法藏館)を刊行するなど、密教美術研究の進展に果たした功績は大きい。大阪・叡福寺の文化財調査のほか、インドネシア・インドへの美術調査は数回に及ぶ。84年、第22回密教学芸賞を受賞。04年、瑞宝中綬章を授与される。 著作に『高野山(カラーブックス33)』(共著、保育社、1963年)、『現代密教講座 第六巻』(共著、大東出版社、1980年)、『図説 真言密教のほとけ』(朱鷺書房、1990年)。主要な論文に「高野山焼失金堂諸像考」(『密教文化』56、1961年、のち『密教大系第11巻 密教美術Ⅱ』法藏館、1994年)、「ボロブドゥル彫刻の周辺」(『佛教藝術』58、1965年)、「定印阿弥陀如来像をめぐる諸問題」(『佛教藝術』65、1967年)、「図像抄 成立と内容に関する問題」(『佛教藝術』70、1969年)、「上の太子叡福寺の寺宝」(『佛教藝術』119、1978年)、「大日如来と失われた密教空間」(『MUSEUM』386、1983年)、「十三仏図像と十王図本地仏―信仰資料の図像学―」(『密教図像』4、1986年)、ほか多数。

中村俊春

没年月日:2018/01/09

読み:なかむらとしはる、 Nakamura, Toshiharu※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  京都大学大学院教授で、17世紀の北方ヨーロッパ美術研究を中心に多大な功績を残した中村俊春は1月9日に死去した。享年62。 1955(昭和30)年12月2日、大阪府寝屋川市に生まれる。74年4月、京都大学文学部入学。西ドイツ遊学を経て79年3月卒業(美学美術史学専攻)。同年4月、京都大学大学院文学研究科修士課程(美学美術史学専攻)入学、81年4月に博士後期課程(同)に進学した。82―85年の西ドイツ、ミュンヘン大学留学を経て、87年3月に博士後期課程研究指導認定退学。同年4月に京都大学文学部助手に任じられた。1989(平成元)年4月より国立西洋美術館に研究官として勤務したのち、93年4月、京都大学文学部助教授就任(1996年4月、京都大学大学院文学研究科助教授に配置換え)。2003年4月教授に昇任し、06年には「ペーテル・パウル・ルーベンス――絵画と政治の間で」(三元社より2006年刊行)で博士号(文学)を取得。18年の逝去まで研究と教育に尽力した。 研究業績は、17世紀の北方ヨーロッパ美術を中心に美術史学の幅広い分野に及び、それらは、英語による執筆、発表を含め、著書3冊(うち1冊は近刊予定)、編著・監修18冊、共著・共編著2冊、学位論文を含む論文64点、学会発表・講演等45件、企画・監修した展覧会7件等で発表されている。なかでも重要な研究成果は画家ペーテル・パウル・ルーベンスに関するもので、上述の博士論文は、祖国ネーデルラントの分断と混乱の時代を生き、外交官としても活躍したルーベンスの絵画制作と政治活動の関わりを、鋭い作品分析、膨大な先行研究の的確な咀嚼と批判、同時代史料の丹念な読解に基づいて論じた大著となっている。 ルーベンス研究については、さらにいまひとつの軸があり、それは、この画家の工房運営や周辺画家たちとのかかわりをめぐるものであった。それらの論考は優れた鑑識眼に支えられたものであり、ときに通説に対する大胆な対案を提示するものとなっている。成果の多くは展覧会と関連して発表されており、『ソドムを去るロトとその家族――ルーベンスと工房』(国立西洋美術館、1993年)、『ルーベンス――栄光のアントワープ工房と原点のイタリア』展(Bunkamura ザ・ミュージアム他、2013年)等は、その精華と言えるものである。 さらに、17世紀ネーデルラント美術を代表するもうひとりの画家、レンブラントも、重要な研究対象となった。ルーベンスとの対比を念頭に置いた独創的なレンブラント論が展開されたが、その着眼点のひとつは、芸術的競合という名のもとにおける画家たちの相互作用であった。本人の遺志に基づいて18年に出版された著作集Inspira‐tion and Emulation: Selected Studies on Rubens and Rembrandt (Peter Lang, Bern)は、まさにこのテーマに沿って編まれている。 学際研究にも積極的に参加し、とくに親密圏、つまり家庭や母子などの表象に関する分野に優れた成果を残した。女性の使用人を描いたオランダ風俗画群より構成し、監修した『フェルメール«牛乳を注ぐ女»とオランダ風俗画展』(国立新美術館、2007年)の図録は、17世紀オランダにおける女性の家内労働の表象に関する専門書となっている。さらに16年には、『美術フォーラム』において、西洋の伝統的図像「人生の階段」に着想を得た「人生の諸階段」に関する特集も組んでおり、こうした研究は、歴史社会学の分野からも注目を集めるものとなった。 研究活動のかたわら、国内外の研究者が同一テーマについて最新の研究成果を発表する国際コロッキウムKyoto Art History Colloquiumの定期的開催と、その成果論集でもある英文紀要Kyoto Studies in Art Historyの創刊を実現したほか、学術雑誌『西洋美術研究』に当初より編集委員として参加するなど、西洋美術研究の振興や後進の育成にも労を惜しまず、大きな足跡を残した。*本記事は以下に基づき執筆されている:故中村俊春先生を偲ぶ会実行委員会編『中村俊春先生 業績目録』2018年6月発行

桐敷真次郎

没年月日:2017/12/07

読み:きりしきしんじろう、 Kirishiki, Shinjiro※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  建築史家、東京都立大学名誉教授の桐敷真次郎は12月7日死去した。享年91。 1926(大正15)年8月31日、東京都神田区(現、千代田区)に生まれる。1947年に第一高等学校理工科甲類(旧制)を卒業、同年東京帝国大学第二工学部建築学科(旧制)に進学、53年には同大学院を退学して東京都立大学工学部建築学科の助手に就任した。60年には助教授、71年に教授に昇任し、長きにわたって東京都立大学にて教鞭を執った。1990(平成2)年に同大学を定年退職し、その後97年まで東京家政学院大学家政学部住居学科にて教授を務めた。 我が国における西洋建築史学の先駆者の一人であり、そのことは2012年度に受賞した日本建築学会大賞の受賞理由「わが国の西洋建築史学に関する研究・教育および建築評論に対する多大な貢献」に如実に表されている。それまで国内での書物を通じた研究が中心であったなかで、ロンドン大学コートールド美術史研究所に留学し、海外留学の戦後第一世代の一人として後進に道を開いた業績も銘記すべきであろう。 桐敷の幅広い研究分野の中でも、その中核をなすのは何と言ってもイタリア・ルネサンス研究である。86年に日本建築学会賞(論文)を受賞した「パラーディオ『建築四書』の研究」、及びイタリアに関する優れた著作に対して贈られるマルコ・ポーロ賞を受賞した『パラーディオ「建築四書」注解』(中央公論美術出版)は、桐敷の業績の中でも特によく知られている。 また、『建築学大系5「西洋建築史」』(彰国社、1956年)、『西洋建築史図集』(彰国社、1981年(三訂版))など建築教育の場で広く用いられる基本書を著述・編纂したほか、日本の近代建築の通史書である『明治の建築』(日本経済新聞社、1965年)も広く参照される労作である。また、個別の研究分野に留まらず建築史全般にかかる著作の翻訳を精力的に行ったことでも知られ、J.M.リチャーズ『近代建築とは何か』(彰国社、1952年)、D.ワトキン『建築史学の興隆』(中央公論美術出版、1993年)、オーギュスト・ショワジー『建築史(上下)』(中央公論美術出版、2008年)、ジェフリー・スコット『ヒューマニズムの建築(注解)』(中央公論美術出版、2011年)などの翻訳がある。さらに、英訳を通じたわが国の建築の対外発信にも努めた。 他方で、地中海学会会長(1997~2001年)を務め、また自身の個別的研究としてイギリスのタウンハウスや江戸の都市計画に関する論考などがある。さらに現代建築への関心も強く、多くの建築批評やくまもとアートポリスとの関わりも忘れることができない。

松平修文

没年月日:2017/11/23

読み:まつだいらおさふみ、 Matsudaira, Osafumi※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  長らく青梅市立美術館に学芸員として務め、自らも日本画を制作、また歌人としても活躍した松平修文は11月23日、直腸がんのため青梅市立病院で死去した。享年71。 1945(昭和20)年12月21日、北海道北見市に生まれる。父の転勤に伴い北海道内を転々としながら、絵画や詩作に耽る少年期をおくる。64年に札幌西高等学校を卒業し上京。66年東京藝術大学美術学部へ入学し日本画を専攻、その後同大学院に学ぶ。83年、青梅市立美術館の開設準備に学芸員として関わり、翌84年の開館後も数々の展覧会を企画、青梅市を中心とした西多摩地域における芸術文化の発展に貢献し、副館長等を経て2009(平成21)年の退職まで務めた。松平が手がけた展覧会の中でも特筆すべきは、自身も制作者として専攻した日本画に関する企画であり、とくに「佐藤多持代表作展」(1986年)や「長崎莫人展」(1988年)、また佐藤が所属する知求会の歩みを紹介した「或るグループ展の軌跡」(1991年)等といった戦後の日本画家、あるいは「夏目利政展」(1997年)や「大正日本画の新風 目黒赤曜会の作家たち」展(2004年)といった明治末~大正期に活躍した画家等、近現代日本画の流れの中でも革新的な試みを行った画家達に注目し、その評価に果たした役割は大きい。 歌人としては69年より大野誠夫に師事、松平修文(しゅうぶん)の名で『水村』(雁書館、1979年)、『原始の響き』(雁書館、1983年)、『夢死』(雁書館、1995年)、『蓬』(砂子屋書房、2011年)、『トゥオネラ』(ながらみ書房、2017年)の5冊の歌集を刊行した。没後の18年1月には『歌誌 月光』54号で、松平の追悼特集が組まれている。また2019(令和元)年9月には奉職した青梅市立美術館の市民ギャラリーで「松平修文遺作展 風の中でみた村落や森や魚や花が」が開催、学芸員や歌人として活躍する傍ら、絵筆を離さず制作を続けた日本画家としての側面があらためて着目された。妻は歌人の王紅花。

上村清雄

没年月日:2017/10/17

読み:うえむらきよお、 Uemura, Kiyoo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  千葉大学教授で美術史研究者の上村清雄は、10月17日、肝臓癌のため死去した。享年65。 1952(昭和27)年10月10日兵庫県に生まれる。75年3月に東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業。4月に同大学大学院美術研究科(修士課程西洋美術史専攻)に入学、78年3月に修了。修士論文は「ドナテッロ研究―1420―30年代の『多様性をめぐって』」。同年4月から81年9月まで同大学西洋美術史研究室の非常勤助手を務める。81年10月からイタリア政府給費留学生としてシエナ大学大学院考古学美術史研究科に留学し、86年11月に修了(考古学および美術史修士)。翌87年1月に群馬県立近代美術館学芸員となり、88年4月に主任学芸員、1993(平成5)年4月に専門員、94年4月に学芸課長、96年4月に主幹兼学芸課長、2001年4月に主任専門員兼学芸課長となった。02年3月、同美術館を退職し、4月に千葉大学文学部助教授に就任。西洋美術史を担当し、また大学院でイメージ学や視覚表象論の授業を受け持った。07年4月に准教授、10年4月に教授となり、研究、学生指導、大学運営に尽力した。この間、東京大学、お茶の水女子大学、武蔵野美術大学、立教大学、千葉工業大学において非常勤講師を務めた。 学芸員及び大学教員として広い分野にまたがる研究業績を残したが、学生時代から一貫して研究の中心にあったのは14-16世紀のイタリア美術史であった。一方で、群馬県立近代美術館に就職後はイタリア近現代彫刻も専門とした。 シエナ美術に関する研究は留学以来のライフワークと言え、帰国後すぐの88年に「十五世紀末シエナ美術の動向――『彫刻家』ネロッチォ・ディ・ランディの新しい帰属作品をめぐって――」(『日伊文化研究』26)を発表した。00年には『シエナ美術展』(群馬県立近代美術館ほか)を担当。さらに科学研究費を得て「15世紀シエナの彩色木彫研究―絵画表現との関連とその社会的な役割―」(2003-04年度)、「アントニオ・ペトルッチ時代のシエナ芸術研究――1500年前後の芸術奨励政策――」(2007-08年度)、「アントニオ・フェデリーギの彫刻:15世紀シエナにおけるドナテッロ芸術の受容」(2009-11年度)、および「フランチェスコ・ディ・ジョルジョの芸術―15世紀後半シエナとウルビーノの芸術交流――」(2012-14年度)の調査を行い、研究成果報告書等の成果を残した。 自らが担当した1990―91年の『ウルビーノの宮廷美術展』(群馬県立近代美術館ほか)以来、ラファエッロとその弟子ジュリオ・ロマーノにも関心を寄せてきた。08年刊行の『ラファエッロとジュリオ・ロマーノ――「署名の間」から「プシュケの間」へ』(ありな書房)は主著であり、美術史上の意義に反してわが国では十分な紹介がなされてこなかった晩年のラファエッロとその工房による作品の数々、特にヴァチカン宮スタンツェ(諸室)の壁画と、ジュリオ・ロマーノによるマントヴァのパラッツォ・テの壁画について、制作の過程を〓りつつ詳細に解説し、ラファエッロからジュリオ・ロマーノへの画風の継承と、ジュリオの個性の発展を考察した。以後もラファエッロおよびジュリオ・ロマーノに関する論文を、千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書に発表し続けた。 近現代イタリア彫刻については、卒業論文と修士論文にドナテッロを取り上げたことが示すように、もともと彫刻に強い関心があったことと、群馬県立近代美術館に奉職したことがきっかけとなった。学芸員としては88-89年の「20世紀イタリア具象彫刻展」と98年の「ヴェナンツォ・クロチェッティ展」(どちらも群馬県立近代美術館ほか)の企画に関わり、大学に移った後も、05年に学術委員を務めた「ミラノ展」(大阪市立美術館・千葉市美術館)や06年の「クロチェッティ展」(鹿児島市立美術館)等にイタリア近現代彫刻に関する論文を寄せた。 ほかの特筆すべき活動としては、まず翻訳がある。エルウィン・パノフスキーやアビ・ヴァールブルクの著作のような英語からの訳もあるが、イタリア語の美術史文献に関しては屈指の訳者であり、とりわけマリオ・プラーツの一連の著作の、訳者のひとりとして重要な役割を担った。また、温厚かつ面倒見の良い人柄を見込まれて書籍の監修者を依頼されたことも多く、『フレスコ画の身体学』(ありな書房、2012年)と、「感覚のラビュリントゥス」シリーズ(ありな書房、全6巻)を世に出した。17年の『レオナルド×ミケランジェロ展』(三菱一号館美術館・岐阜市歴史博物館)の学術協力も務め、巻頭論文を執筆。その会期中に亡くなった。 公的な活動としては、文化庁や豊田市、前橋市、千葉市、国立西洋美術館、鹿島美術財団、ポーラ美術館の各種委員を務めた。14年以降は『日伊文化研究』の編集委員でもあった。 その履歴・業績については池田忍「上村清雄先生を送る」(『千葉大学人文研究』47、2018年)に詳しい。妻は美術史家で金沢美術工芸大学教授の保井亜弓。

井関正昭

没年月日:2017/10/06

読み:いせきまさあき、 Iseki, Masaaki※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  美術史家で、東京都庭園美術館名誉館長だった井関正昭は10月6日に病気のため死去した。享年89。 1928(昭和3)年1月25日、横浜市に生まれる。44年、成城中学校5年で広島県江田島市にあった海軍兵学校76期生として入学。47年に家族の疎開先であった福島経済専門学校に入学。50年、東北大学法文学部美学美術史科に入学。53年に同大学を卒業、同年神奈川県立近代美術館の学芸員として採用される。61年に同美術館を休職して、イタリアに私費留学する。翌年帰国、同美術館に復職することなく、国際文化振興会が外務省より運営を委託された新設のローマ日本文化会館(同年開館)の派遣職員に採用され、再びローマに赴任。同文化会館において日本文化を紹介する事業を担当するかたわら、64年、66年のヴェネツィア・ビエンナーレの日本の参加にともないその企画実施を担当した。72年、国際文化振興会が発展解消して特殊法人国際交流基金となり、同基金に勤務することとなり、国際交流事業を担当した。85年、ローマ日本文化会館の館長、ならびに在イタリア日本大使館公使兼務となる。在任中、ヴェネツィア、ケルンで、初めてヨーロッパで日本の近代洋画を紹介する展覧会「近代日本洋画展」を開催した。88年、同基金を定年退職して帰国。同年から94年まで、北海道立近代美術館長を務める。89年には、イタリア政府より文化勲章グランデ・ウフィッチャーレを受賞。また、1989(平成元)年から97年まで、明星大学日本文化学部生活芸術学科主任教授として勤務。97年、東京都庭園美術館の館長となる。同美術館長在職中、「フォンタネージと日本の近代美術展 志士の美術家たち」(1997年)、「ジョルジュ・モランディ展」(1998年)、「デペロの未来派芸術展」(2000年)、「カラヴァッジョ 光と影の巨匠 バロック絵画の先駆者たち」(2001年)など、イタリア美術を紹介する展覧会を企画監修した。2016年に同美術館名誉館長となった。戦後から今日まで、日本とイタリア両国の美術を中心とした文化交流に尽力した美術史家、美術評論家であった。主要著書:『画家フォンタネージ』(中央公論美術出版、1984年)『イタリアの近代美術』(小沢書店、1989年)『日本の近代美術・入門 1800-1900』(明星大学出版部、1995年)『Pittura giapponese dal 1800 al 2000』(Skira,Milano, 2001年)『未来派―イタリア・ロシア・日本』(形文社、2003年)『私が愛したイタリアの美術』(中央公論美術出版、2006年)『イタリア・わが回想』(自家出版、2008年)『点描近代美術』(生活の友社、2011年)

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