本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





両角かほる

没年月日:2010/07/16

読み:もろずみかほる  泉屋博古館分館学芸員の両角かほるは7月16日、癌のため急逝した。享年39。1970(昭和45)年7月22日、横浜市に生まれる。1989(平成元)年、学習院大学文学部哲学科に入学。93年、学習院大学大学院人文学研究科哲学専攻博士前期課程(指導教官 小林忠教授)に進み95年に修了。その後、学習院大学研究生、共立女子大学家政学部科目等履修生となり、日本染織史などを学ぶ。この間、93年より96年まで東京国立博物館学芸部工芸課染織室に事務補佐員として勤務。長崎巌(現共立女子大学教授)の指導を受け、主に能装束を研究。併せて、実践的な作品の扱いを体得する。97年「摺匹田の発生と流行に関する一考察」(『日本風俗史学会会誌』35号)を発表。98年泉屋博古館分館開設準備室に勤務。建物、収蔵庫などの設計・設備の打ち合わせに勤しむ。2002年の開館以降、工芸担当として活躍し多くの展覧会を手掛ける。主なものに「特別展 共立女子大学コレクション 華麗なる装いの世界 江戸・明治・大正」(2005年)、「特別展 金箔のあやなす彩りとロマン 人間国宝 江里佐代子・截金の世界」(2005年)、「大名から公爵へ―鍋島家の華―」(2007年)「近代工芸の華 明治の七宝―世界を魅了した技と美―」(2008年)、「板谷波山をめぐる近代陶磁」(2009年)などがあげられる。一方、国内外において調査、研究も精力的に行い、「翻刻『御茶會記』(上)・(下)」を『泉屋博古館紀要』第19巻・20巻(2003年、2004年)に発表。04年から2年間にわたり『茶道の研究』三徳庵、名品シリーズを担当。05年、「黒綸子地蝶捻花模樣小袖」(『國華』(特輯寛文小袖)110巻9号、掲載通号1314)を発表。06年「風景をまとう」(『『KIMONO』小袖にみる華 デザインの世界』展図録)を執筆。09年には「東京瓢池園小史」(『幻の京焼 京都瓢池園』展図録)を執筆。同年より服飾文化共同拠点において共同研究「三井家伝来小袖服飾類に関する服飾文化史的研究:現存遺品と円山派衣裳下絵との関係を中心に」(植木淑子、長崎巌、福田博美、両☆かほる、菊池理予)を開始。これらの成果は『服飾文化共同研究最終報告書』(文化ファッション研究機構、2011年)にまとめられている。10年、「泉屋博古館創立50周年記念 住友コレクションの茶道具」展開催に向け、自宅にてカタログ編集、展示配置予定図などの作業を進める。このカタログが遺著となる。教育面では、非常勤講師として実践女子大学では博物館実習を、共立女子大学では博物館各論と博物館実習を担当していた。泉屋博古館分館の川口直宜館長による「追悼・両角かほるさん」(『泉屋博古館紀要』第27巻、2011年)には、生前の活躍の様子や人となりがまとめられている。

中野政樹

没年月日:2010/06/04

読み:なかのまさき  金属工芸史の研究者である中野政樹は6月4日、肝不全のため順天堂病院に入院中死去した。享年80。1929(昭和4)年8月13日、鍛金作家である父中野恵祥、母ろくの長男として、東京都荒川区西日暮里に生まれる。49年、東京美術学校に入学、工芸科に進み漆芸を専攻し、52年同校を卒業する。卒業制作は卵殻フクロウ文八角箱である(中野家所蔵)。卒業と同時に東京国立博物館学芸部に文部技官として採用され、この時点から金工史の研究を始める。67年、金工室長、77年企画課長を歴任し、81年、東京藝術大学芸術学部芸術学科教授に転任する。大学では日本工芸史、日本金工史を中心に講義、演習を行う。88年から1991(平成3)年まで芸術資料館(後に大学美術館となる)館長となる。96年、同大学を退官、名誉教授を授与される。97年、ふくやま美術館館長に就任、没する直前まで館長を務めた。また同年から2003年まで文化女子大学教授を務めた。専門とした日本金工史のなかでも奈良時代の鏡鑑、仏教用具に造詣が深く、「奈良時代の鏡 本館保管の唐式鏡」1~9(『MUSEUM』東京国立博物館 1962年~1964年)、「奈良時代における唐式鏡の基礎資料」(『東京国立博物館紀要』8 東京国立博物館 1973年)はじめ多くの論文を発表した。とくに「奈良時代における唐式鏡の基礎資料」は発表された時点での日本出土、伝世の鏡を網羅し、文様ごとに系統立て、踏返しなどについて考察したもので、古代鏡鑑研究の基礎的文献となっている。また仏教用具では法隆寺献納宝物を対象として、金銅灌頂幡、竜首水瓶などを研究し、「金銅灌頂小幡」(『MUSEUM』72 1957年)、「金銅透彫灌頂幡」(『国華』928 1970年)、「金銅透彫灌頂幡の規矩性と尺度」(『MUSEUM』282 1974年)、『国宝金銅透彫灌頂幡』(大塚巧芸社インターナショナル、2000年)、「龍首水瓶」(『MUSEUM』457 1989年)を発表した。また、1970年から1972年まで正倉院宝物の調査を宮内庁から委嘱された。その成果は『正倉院の金工』(日本経済新聞社、1976年)で公表され、宝物の金工関係の論文としては「正倉院宝物の匙・加盤碗」がある。奈良時代の以降では、日本の鏡、鏡像についても研究し、『和鏡』(至文堂、1969年)、『和鏡』(フジアート出版、1973年)、『鏡像』(東京国立博物館、1974年)を刊行している。

小松茂美

没年月日:2010/05/21

読み:こまつしげみ  古筆学研究者の小松茂美は5月21日午後0時53分、心不全のため死去した。享年85。古筆学は、書道史、歴史学、国文学、絵画史を超越する、学際的な新たな学問である。小松はその樹立に、凄まじい情熱を注ぎ、人生のすべてを捧げた。1925(大正14)年3月30日、山口県三田尻(現、防府市)に生まれる。旧制中学を卒業後、広島鉄道局に勤務した。1945(昭和20)年8月6日爆心地から1.8キロメートルという勤務先において被爆した。生死の境界をさまよう病床で、厳島神社の秘宝「平家納経」(国宝、全33巻)を視察中の文化人が披見という記事を読んだ。これを契機に、ひとりの国鉄職員が180度違う学問に目覚めた。学究生活を推し進めるため上京を企図し、運輸省に転勤した。幾多の苦難を乗り越え、53年、待望の東京国立博物館の研究員となる。以降、『後撰和歌集 校本と研究』(誠信書房、1961年)、『校本浜松中納言物語』(二玄社、1964年)と、水を得た魚の如く業績を積み、わずか34歳にして文学博士、『光悦』(共著、第一法規出版、1964年)により毎日出版文化賞特別賞、『平安朝伝来の白氏文集と三蹟の研究』(墨水書房、1965年)で学士院賞、ついには念願の『平家納経の研究』(講談社、1976年)を完成して朝日賞を受賞した。また、従来、絵巻は絵画史からの研究のみであったが、詞書にもスポットをあて古筆学の手法を取り入れて研究する。小松の編集になる『日本絵巻大成』(全27冊、中央公論社、1977~79年)、『続日本絵巻大成』(全20冊、同、1981~85年)、『続々日本絵巻大成』(全8冊、同、1993~95年)は、オールカラーで全巻掲載という画期的な出版であった。いまなお、絵巻の鑑賞、研究の決定版である。さらに、筆者を明らかにする書跡を可能なかぎり所収した小松茂美編『日本書蹟大鑑』(全25冊、講談社、1978~80年)は、書跡や歴史研究の基本台帳として研究者や愛好家に常用されている。また、公私立の博物館・美術館、個人のコレクター所蔵の平安時代から鎌倉時代にかけての歌切や歌論書などの古筆を集大成した『古筆学大成』(全30巻、講談社、1989~93年)は、通常の個人研究の枠では計り知れないもので、小松の公私の人脈を駆使して成し遂げることが出来た空前絶後の偉業である。今日でも、古筆研究に際しては、まず『古筆学大成』所収の有無を確認することからはじめなければならないというほどで、国文学、書道史研究の必須文献の一つである。また、後進の育成にも励み、東京教育大学・東北大学・早稲田大学などの講師も勤めた。86年に東京国立博物館を定年で退職すると、古筆学研究所を設立し、『水茎』などの学術雑誌を発行するほか古筆学の普及に尽力した。1990(平成2)年には、センチュリーミュージアム館長に就任し、以後没するまで古筆学の視点での展示に努めた。98年に、山口県柳井市の名誉市民に選ばれた。この間に上梓した『光悦書状Ⅰ』(二玄社、1980年)、『利休の手紙』(小学館、1985年)は古筆学を駆使した研究で、従来の数寄者的な本阿弥光悦、千利休研究にとどまらず、筆跡研究はもとより、両者の交友人物まで解き明かした名著である。ほかに、古筆、写経、手紙、宸翰などに関する多くの編著があり、研究者だけでなく、多くの人々への啓蒙活動も注目される。こうした著述の主な論文は全33巻にも及ぶ『小松茂美著作集』(旺文社、1995~2001年)に収録されている。ことに晩年の10年は、骨身を削って後白河院の研究に没頭した。文字どおりの古筆学の集大成と意気込み、公卿日記の資料の海から、膨大な記事の抄出と整理を終えていた。研究編を執筆中の逝去であったが、その成果は、2012年5月、『後白河法皇日録』(小松茂美編著 前田多美子補訂、学藝書院)としてまとめられた。今後の後白河研究のみならず、同時代のすべての研究の基盤となる大著である。

山﨑一雄

没年月日:2010/04/10

読み:やまざきかずお  学士院会員で名古屋大学名誉教授、無機化学者で文化財科学研究者の山﨑一雄は心不全のため4月10日に死去した。享年99。1911(明治44)年3月15日に名古屋で生まれ、1930(昭和5)年に旧制大阪高等学校を卒業した後、東京帝国大学理学部化学科に進み、後に日本学士院長となる柴田雄次教授の下で研究を行う。33年に卒業し、2年間大学院に進んだ後、35年に副手、翌36年から41年まで助手をつとめた。この間に39年に設置された法隆寺金堂壁画保存調査会に、委員である柴田と共に調査員として参加し、壁画の顔料分析を行った。これを始まりとして、以後、文化財の顔料分析に係わるようになる。またこの頃に、当時東京帝国大学文学部の学生として平等院鳳凰堂壁扉画を研究していた秋山光和と知り合い、互いに協力して研究を行うようになった。山﨑は新設された名古屋大学理工学部に41年に助教授として赴任した。翌42年には東京帝国大学を定年退官した柴田が理工学部から新しくできた理学部の学部長として赴任した。43年に理学部教授となる。大学では専門である無機化学(錯体化学)の研究を行うと同時に、法隆寺金堂壁画の顔料分析を続け、名古屋に移って奈良が近くなったこともあり、戦中から戦後までの交通が困難な時代に合計すると百回近く、大半が私費で現地に通ったと対談の中で述べている(「先学訪問01」2005、学士会)。金堂壁画は49年1月26日に火災にあったが、山﨑はすぐに現場に駆けつけ火災後の調査に参加し、火災後の壁画顔料の分析を行った。その報告では、火災によって赤色の朱は分解して水銀は消失し、鉛丹は一酸化鉛になって黄色に変色したが、ベンガラは不変であったなどと生々しい被災の様子が述べられて、貴重な分析結果となっている。この頃に山﨑が利用していた分析方法はほとんどが微量定性分析で、その他に発光分光分析を用いていた。法隆寺金堂壁画の調査の後、山﨑は装飾古墳や平等院鳳凰堂、醍醐寺五重塔などの調査を行い、特に醍醐寺五重塔の共同研究(高田修編『醍醐寺五重塔の壁画』吉川弘文館、1959年)では、60年に高田修・柳澤孝などと共に日本学士院賞(恩賜賞)を受賞した。山﨑の広い時代に渡る顔料分析により、わが国では白色顔料として、初期に白土が用いられ、平安時代頃には鉛白を用い、室町時代頃からは胡粉が用いられるようになったというおおまかな変遷が明らかになった。山崎は戦後始まった正倉院の宝物調査においても調査員として活躍した。最初に関わった調査は薬物の調査で、その後の正倉院宝物特別調査では、密陀絵、絵画、ガラス、陶器、石材などの調査に参加した。中でも密陀絵の調査の際には、明治時代から漆絵か密陀絵か議論になっていた法隆寺の玉虫厨子を調査し、須弥座の捨身飼虎図に紫外線をあてたところ部分的に蛍光が見えたことから、一部に油を用いた密陀絵であろうと判断している。この当時の密陀絵の調査では、紫外線による蛍光の有無と色だけしか材料を判断する方法がなかったので、予想される各種の顔料を漆、荏油、膠などでといてあらかじめ各種の手板を作り、それに紫外線を当てて出てきた蛍光を調査対象と比較している。この実験結果は、その後も密陀絵かどうか判断する時の基礎資料となった。山﨑の研究は絵画だけでなく、陶器、ガラス、金属など広い分野に及び、それらの成果は87年に出版された『古文化財の科学』(思文閣出版)に詳しくまとめられている。74年に名古屋大学を定年退官して名誉教授となり、82年に勲二等瑞宝章を受章、88年に国際文化財保存学会(IIC)のフォーブス記念賞を受賞する。翌1989(平成元)年に、無機化学だけでなく文化財科学への貢献も評価されて、日本学士院会員に選定された。山﨑は優れた無機化学者としてわが国の文化財科学の成立と発展に大きく貢献しただけでなく、文化財科学に関する学会の発足や発展に力を尽くした。1948年には古文化資料自然科学研究会(現、一般社団法人文化財保存修復学会)の会員として、82年には日本文化財科学会の初代会長としてそれらの発足に関わり、国際文化財保存学会(IIC)では副会長として、文化財保存・修復に関わる国際学会大会をわが国で初めて88年9月に京都で開催するなど、広く国内外で文化財科学の発展に尽くした。また山﨑は若いときから会合などの細かいメモを丁寧に残していたので、多くの関係者が物故した後にも、確かな記憶とそれらのメモを元に学会誌などに文化財科学の黎明期について度々記し、それらの記事は文化財科学の始まりから発展の歴史を語る貴重な記録となっている。ほぼ百年にわたった山﨑の生涯は、その足跡そのものがわが国の文化財科学の歴史といえる。

伊藤鄭爾

没年月日:2010/01/31

読み:いとうていじ  建築史家で工学院大学名誉教授の伊藤鄭爾は、1月31日、呼吸不全のため死去した。享年88。1922(大正11)年1月11日、岐阜県安八郡北杭瀬村(現、大垣市)に生まれる。1942(昭和17)年第四高等学校を卒業後、東京帝国大学第二工学部建築学科に入学。45年卒業後、東京大学第二工学部大学院を経て、48年東京大学副手、49年同助手。病気療養等を経て、63年より65年までワシントン大学客員教授。72年工学院大学教授、75年同学長、78年同理事長。1992(平成4)年同定年退官、同大学名誉教授。97年より99年まで財団法人文化財建造物保存技術協会理事長。建築史研究者としてはほぼ一貫して民家を中心とする日本の中近世住宅史をフィールドとしたが、日本の建築文化の海外への紹介に早くから取り組んだほか、建築評論の分野でも活躍した。大学院在学中から関野克の指導を受け、54年より今井町を訪れ、今西家をはじめとする町屋の調査に携わった頃から本格的な民家研究を開始する。56年に建築写真家の二川幸夫と知り合い、翌年から共著で『日本の民家』(美術出版社)全10巻を出版して注目され、うち『日本の民家』「高山・白川」「山陽路」で59年に毎日出版文化賞受賞。61年には「日本民家史の研究(中世住居の研究)」で日本建築学会賞(論文)を受賞。同年に「中世住居の研究」にて工学博士号を取得している。その一方で、建築家や社会学者との協働を模索し始めるとともに、60年に東京で開催された世界デザイン会議の準備に携わったことなどを契機に、米国との国際的な交流にも関わるようになる。65年にオレゴン大学の金沢幸町調査でコーディネーターを務め、その成果を『国際建築』誌に発表した際に「デザイン・サーヴェイ」の語を初めて日本に紹介したとされる。この時期の伊藤は、『日本デザイン論』(鹿島出版会、1966年)や磯崎新などとの共著による『日本の都市空間』(彰国社、1968年)を刊行するなど、建築評論家としての印象が強く、マスメディア等でも積極的に発言した。工学院大学に教職を得てからは、倉敷などでの町並み調査や保存計画づくりを率いるとともに、文化財保護審議会の専門委員などとして、町並み保存制度の整備・拡充に貢献した。上記以外の主な著作に、『中世住居史』(東京大学出版会、1958年)、『民家は生きてきた』(美術出版社、1963年)、『谷間の花が見えなかった時』(彰国社、1982年)、『重源』(新潮社、1994年)など。また、“The Gardens of Japan”(Kodansha international、1984年)ほか、英語での著書や著作の外国語訳も多数出版されている。

前川誠郎

没年月日:2010/01/15

読み:まえかわせいろう  西洋美術史家の前川誠郎は、1月15日心不全のため死去した。享年89。1920(大正9)年2月23日京都に生まれる。26年から1937(昭和12)年までの小中学校を満州の大連で過ごす。42年、東京帝国大学に入学。文学部美学美術史学科にて児島喜久雄に師事する。44年同学科を卒業。46年同大学大学院修士課程修了。母校の第三高等学校(49年より京都大学第三高等学校、50年より京都大学教養学部)にてドイツ語教師となる。57年10月、ドイツ内務省留学生としてミュンヘンに留学。中央美術史研究所にてルートヴィッヒ・H・ハイデンライヒの下で1年間学ぶ。59年九州大学文学部美術史学科助教授、70年東京大学文学部美術史学助教授、翌年同教授となる。80年に東京大学教授を定年退官した後、国立西洋美術館次長となる。82年同館長に就任(~90年)。1990(平成2)年新潟県美術博物館長、93年より新潟県立近代美術館長。2000年同館名誉館長。デューラー研究の第一人者として数々の功績を残す。特に、デューラーの「四人の使徒」に関する新解釈の提示と、ジョルジョーネの「嵐」におけるデューラー版画の影響に関する考察は、欧米においても高い評価を得た。「四人の使徒」論では、画面下部の銘文と人物の配置が一致していないこと、通常裸足で描かれる使徒たちの足には、サンダル(草鞋)が克明に描かれていることに着目。「四人の使徒」は、従来、宗教的背景あるいは四性論との関わりから論じられてきたが、右翼に描かれた福音書記者聖マルコの存在が本作品の意味を説く鍵であり、それは、聖書において唯一マルコ伝(6、7-9)が伝える「使徒の派遣」を表すためであるとした。ミュンヘン留学時代に構想されたこの論は、同地での詳細な作品観察の結果得られたものであり、「図像上の問題に新しい光を投げかけるもの」(パノフスキー)などの賞賛を得た。デューラーとイタリア画家との関係においては、「嵐」における構図やモティーフが、デューラー版画の転用であることを論証、デューラーの手紙をもとに、その背景にヴェネツィアのドイツ人商館の壁画装飾事業をめぐるジョルジョーネのライバル心があることを推察した。モティーフの類似については、テオドール・ヘッツァー以来(1929年)、ジョルジョーネ研究者が見過ごしてきた問題であり、ジョルジョーネ生誕500年を記念した国際記念学会での口頭発表は、ジョルジョーネ研究者の賛同も得、高く評価された。文献資料に重きをおき、徹底してデューラー遺文(手紙、日記、家譜)を読み込むとともに、美術史研究とはあくまでも形体伝承の学問であるという態度に徹した。ジョルジョーネ論はその成果の一つである。二つの論考をおさめたZwei Dürerprobleme,Leo Leonhardt Verlag,Konstanz(デューラー二題)が1984年に刊行され、同著ならびに永年にわたるドイツ文化の研究と紹介に対して1986年にゲーテ・メダーユが贈られた。『デューラー二題』はさらにBlick nach Westen(西への眼、1990年)と増訂新版され、これにより、ドイツ美術に関する年間の最優秀論文としてテオドール・ホイス・メダーユを受賞している。他に、93年フランス芸術文化勲章、オフィシェを受勲。国立西洋美術館ならびに新潟県立近代美術館の館長職にあっては、版画の収集に力をそそぎ、マンテーニャ、レンブラント(通称「100グルテン版画」)、デューラーの木版画連作「黙示録」、ヤーコポ・デ・バルバリの「鳥瞰図」などを含む、両館の豊かな版画コレクションの形成に尽力している。2011年、氏の偉業をたたえて「美の軌跡 前川誠郎の美学 デューラーから中村彝まで」展が新潟県立近代美術館において開催された。西洋美術史のみならず、西洋音楽、さらには日本文化にも造詣が深く、多くの著作を残した。詳細は、「美の軌跡」展カタログ巻末の著作目録に詳しい。

楢崎彰一

没年月日:2010/01/10

読み:ならさきしょういち  名古屋大学名誉教授で日本陶磁史研究者の楢崎彰一は胆管がんのため1月10日に死去した。享年84。1925(大正14)年6月27日、大阪府大阪市に生まれた。1949(昭和24)年3月に京都大学文学部史学科(考古学)を卒業後、50年4月から名古屋大学文学部史学科考古学研究室の開設に伴い助手として勤務、62年10月同講師、66年11月同助教授、78年4月同教授となり、1989(平成元)年3月に定年退官し、4月に同名誉教授。退官後には89年4月に愛知県陶磁資料館参与(~95年3月)、92年4月に財団法人瀬戸市埋蔵文化財センター所長(~05年3月)、95年4月に愛知県陶磁資料館総長(~99年3月)、05年4月に財団法人瀬戸市文化振興財団埋蔵文化財センター顧問(~07年3月)等を歴任した。京都大学では小林行雄の教えを受けて古墳時代の研究を行い、名古屋大学着任後も東海地方の古墳について発掘調査を進め、それらの成果の集大成として59年「後期古墳時代の初段階」『名古屋大学文学部十周年記念論集』(名古屋大学)を発表したが、その業績は今日でも高く評価されている。研究の一大転機となったのは、愛知県下における愛知用水建設工事に伴う55~61年にかけて実施された猿投山西南麓古窯跡群(猿投窯)発掘調査に中心として携わり、古墳時代から平安時代の陶器生産の実態を解明したことである。この発掘調査により、それまで日本陶磁史において暗黒時代とされてきた平安時代にも須恵器生産が継続され、灰釉陶器・緑釉陶器を新たに生産した猿投窯が日本の中心的な窯業地であり、中世の瀬戸窯や常滑窯へ展開する母胎であったことを初めて明らかにした。これらの成果は66年『陶器全集31 猿投窯』(平凡社)、73年『陶磁大系5 三彩・緑釉・灰釉』(平凡社)、74年『日本の陶磁 古代・中世篇Ⅰ 土師器・須恵器・三彩・緑釉・灰釉』(中央公論社)、76年『原色愛蔵版日本の陶磁 古代・中世篇2 三彩・緑釉・灰釉』(中央公論社)、同年『日本陶磁全集6 白瓷』(中央公論社)、79年『世界陶磁全集2 日本古代』(小学館・共著)を初めとする一連の出版物として刊行された。この猿投窯の研究を出発点として、愛知・岐阜県下を主なフィールドとして、以降考古学的な窯跡の発掘調査の成果を用いて、古墳時代の須恵器から桃山・江戸時代の陶器に至る編年研究に邁進し、古墳時代から平安時代における猿投窯の須恵器・灰釉陶器、中世の瀬戸窯、近世の瀬戸窯・美濃窯の編年を確立するとともに、古窯跡の構造とその変遷も解明した。この間数多くの陶磁史研究者を育成する一方、福井県越前窯、滋賀県信楽窯、石川県九谷窯、山口県萩窯、広島県姫谷窯、福島県会津大戸窯などの発掘調査にも携わり日本各地の陶磁史研究に大きな影響を与えた。晩年には日本に止まらず、日本の中近世陶磁のルーツについて中国福建省古窯跡との関連を明らかにする研究も進めた。これらの一連の研究業績により、62年には第15回中日文化賞、67年には第21回毎日出版文化賞、80年には第1回小山富士夫記念褒賞を受賞した。 

海津忠雄

没年月日:2009/07/21

読み:かいづただお  西洋美術史研究者で、慶應義塾大学名誉教授の海津忠雄は、7月21日午前3時45分、心不全のため湘南鎌倉総合病院にて死去した。享年78。1930(昭和5)年8月15日、東京都千代田区神田に鉄工所を経営する清作、ための子として生まれる。37年蒲田の小学校に入学。中学校時代は勤労動員として働く。48年慶応義塾高等学校に入り、51年4月慶応義塾大学文学部に入学、55年3月卒業。同年4月、慶應義塾大学大学院文学研究科哲学専攻に入学し、守屋謙二に師事する。60年3月、同博士課程単位取得退学。57年4月に同大学文学部副手に任用。助手、専任講師、助教授を経て、73年4月より同大学文学部教授となる。1994年3月、2年の任期を残して退任。同年4月に同大学名誉教授となる。その間、早稲田大学、学習院大学、成城大学等に出講、また86年10月から1992(平成4)年までの6年間にわたり、慶應義塾女子高等学校長を兼任した。慶応義塾大学退任後の94年4月より2001年3月まで下関にある東亜大学大学院教授を務めた。三田哲学会会長。86年、文学博士。氏の優れた業績は、とりわけ北方ルネサンス美術研究に見出されるが、初期の研究対象はギリシア彫刻であった。これは、西洋美術史理解の鍵を「ギリシア彫刻とローマ建築」に見る氏の態度に由来する。アルカイック期の青年立像と浮彫彫刻における様式の平行現象、浮彫の発展形式、記念碑的な彫刻の発展段階といったテーマで研究を重ね、その成果は、「ギリシア浮彫の考察」(『美學』31号、1957年)、「浮彫の種類について」(『藝文研究』8号、1958年)、「初期ギリシアの青年像」(『哲学』43集、慶応義塾大学三田哲学会、1963年)に現れている。65年7月から1年間、スイス政府奨学金によりバーゼル大学に留学。これを機に、研究対象をドイツ・ルネサンス美術へと向ける。同地においてホルバイン研究を開始。また、美術史家ヨーゼフ・ガントナーに師事、ブルクハルト、ヴェルフリン、ガントナーに至る「バーゼル学派」を中心とする美術史方法論について研鑽を積んだ。帰国後の66年より、ホルバインをテーマとした論考を次々に発表、74年の『ホルバイン』(岩崎美術社)の刊行をもって「ホルバイン研究が一段落」した後は、ルーカス・クラーナハを対象に据える。「偉大な芸術家はその時代の最高の証人」との観点にたち、ホルバイン、クラーナハ、デューラーを中心に、作品の詳細な分析によって15世紀後半から16世紀の時代精神を明らかにした。ドイツ・ルネサンス美術研究はやがて学位論文「ドイツ美術と人文主義―著述者像としてのエラスムスの肖像―」(1986年)に結実していく。マサイス、デューラー、ホルバインによって描かれたエラスムスの肖像が、全て著述者像で描かれることに着目。背景に人文主義者による聖ヒエロニムス崇拝があることを検証、ドイツにおいてはそれが書斎における姿として描かれることを提示し、著述者像としてのエラスムス像が聖ヒエロニムス像の一つのヴァージョンであることを論証した。図像の「生育・発展」の過程を詳述した同学位論文は、4編の副論文とともに『肖像画のイコノロジー』(多賀出版、1987年)にまとめられている。研究対象への飽くなき追求は、美術史方法論や建築にも向けられた。方法論においては、自身をバーゼル学派の学統に位置づけ、ヴェルフリン、ガントナーの積極的な紹介に努めた。中でも最大の業績は、師守屋謙二(1936年、岩波書店)に続くハインリヒ・ヴェルフリン著『美術史の基礎概念―近世美術における様式発展の問題』の翻訳(付「解説」、慶応義塾大学出版会、2000年、2001年2刷、2004年3刷、2008年4刷)である。ガントナーへの敬慕、バーゼル学派への私淑はまた、その目を慶応義塾の先学澤木四方吉へと向けさせた。1913から14年にかけて、留学先のミュンヘンでヴェルフリンの講義を聴講した澤木を「学統の淵源」とし、『美術の都』の校訂出版(注及び解説、岩波文庫版、1998年)ならびに「審美学百年資料 澤木四方吉年譜」(加藤明子と共編、『哲学』94集、1993年)、慶応義塾図書館所蔵『サワキ文庫目録』(未刊)を作成し、澤木の再評価に務めた。特に「美術史家澤木四方吉の都市論」(『哲学』96集、1994年)では、澤木の著書『美術の都』を「都市論の先駆的業績」と位置づけ、一般には美文に彩られた紀行文として知られる同著を、文明批評ならびに文化史的考察の先駆的作品と評価し、澤木の先見性を示した。建築への造詣も深かった。ギリシア彫刻研究に始まった研究生活であるが、そもそも芸術世界への門戸は、高等学校時代に熱中した建築によって開かれた。その造詣の深さは『まぼろしのロルシュ―ヨーロッパ建築探訪』(1983年、日本基督教団出版局)、「ゼンパーのフォーラム計画」(『芸術学』5号、三田芸術学会、2001年)や書評「ヤーコプ・ブルクハルト『チチェローネ―イタリア美術作品享受の案内〔建築篇〕』瀧内槇雄訳」(『芸術学』11号、2007年)に現れている。キリスト教の敬虔な信者でもあった。聖書や神学に精通し、とりわけキリスト教美術研究においては、原典・原資料の提示ならびに各訳書との比較、さらには誤訳の指摘が随所でなされた。『愛の庭―キリスト教美術探求』(日本基督教団出版局、1981年)の他、レンブラントの版画作品に焦点を当て、レンブラント独自の聖書理解の世界に迫った『レンブラントの聖書』(2005年、慶応義塾大学出版会)が知られる。研究に対する態度は厳格そのものであり、学問上の誤謬や怠慢は決して認めず、教育者として峻厳な態度を以て多くの後進を育てた。家族が「研究意欲と情熱が衰えないこと鬼のごとし」と評したように、死の間際まで執筆を続けた。主要な著作は下記の通りである(本文中に挙げたもの、翻訳並びに2008年までの論文は除く)。2008年までのより詳細な著作目録は、『芸術学』11号(2008年)を参照のこと。 『ホルバイン 死の舞踏』(岩崎美術社、1972年) 『世界の素描8・クラナッハ』(講談社、1978年) 『中世人の知恵―バーゼルの美術から』(新教出版社、1984年) 『肖像画のイコノロジー―エラスムスの肖像の研究』(多賀出版株式会社、1987年) 『ホルバイン 死の舞踏―新版』(岩崎美術社、1991年) 『レンブラントをめぐって ブルクハルト、ヴェルフリン、ガントナーのレンブラント論』(かわさき市民アカデミー出版部、2001年) 『ヨーロッパ美術における死の表現―中世民衆の文化遺産「死の舞踏」』(同上、2002年) 『ホルバインのパトロンたち―芸術家と社会』(同上、2002年) 『クラーナハの冒険・図像学へのいざない』(同上、2003年) 『デューラーとレンブラント・版画史の巨匠たち』(同上、2003年) 『レンブラントのアブラハム物語 1650年代のレンブラント』(同上、2004年) 『デューラーとその故郷』(慶応義塾大学出版会、2006年) 『ホルバインの生涯』(同上、2007年) 「レンブラントの放蕩息子―窓のモティーフ」(所収、海津忠雄・東方敬信・茂牧人・深井智朗著『思想力―絵画から読み解くキリスト教』(キリスト新聞社、2008年) 「福沢諭吉の『芸術』の概念」(所収『福沢諭吉と近代美術』、慶応義塾大学アート・センター、2009年) 

畑麗

没年月日:2009/06/25

読み:はたうらら  日本美術史家で東京都江戸東京博物館学芸員であった畑麗は6月25日に死去した。享年55。1953(昭和28)年12月10日埼玉県大宮市(現、さいたま市)に生まれ、上尾市に在住。76年成城大学文芸学部芸術コース卒業後、同大学大学院文芸学科に進学、86年6月より財団法人東京都文化振興会・東京都庭園美術館専門職員として勤務した。88年9月より東京都江戸東京博物館資料収集室学芸員となり、1991(平成3)年4月より財団法人江戸東京歴史財団東京都江戸東京博物館学芸員に着任、93年3月の開館以来、学芸員として数々の展覧会を担当し、死亡により退職した。畑は日本近世絵画史を専門とし、学生時代から狩野探幽と東照宮縁起絵巻の研究に取り組み、80年5月、美術史学会全国大会(武蔵野美術大学)において「東照宮縁起絵巻の成立―狩野探幽の大和絵制作―」を発表し注目された(後に『国華』1072号に掲載)。引き続き「東照宮縁起絵巻住吉派諸本の成立 附、住吉如慶法眼叙任考」(『古美術』73号)を発表、後にも東照宮縁起の図様の源流に遡る論考「釈迦堂縁起絵巻の研究――仏伝図としての視点を中心に」(『鹿島美術財団年報 別冊』2007)を発表しライフワークとなった。そのかたわらすぐれた展覧会を企画し、「室町美術と関東画壇―大田道灌記念美術展」(東京都庭園美術館 1986年10月)では室町絵画の和漢の問題を追求し、「狩野派の300年」(東京都江戸東京博物館 1995年7月)では江戸時代を通じた狩野派の絵画制作のあり方を様々な視点から追求した。「狩野派の300年」展図録別冊として制作された日本全国の狩野派作品リスト『狩野派研究資料目録』は畢生の労作である。近年では風俗画の研究(「弘経寺本東山遊樂図について」『国華』1353号)などに研究領域を拡げていただけに、その早すぎる逝去が惜しまれる。

田中日佐夫

没年月日:2009/05/15

読み:たなかひさお  成城大学名誉教授で、日本美術史研究者であり、美術評論家の田中日佐夫は、S状結腸癌のため5月15日死去した。享年77。1932(昭和7)年2月7日、岡山県岡山市に、陸軍軍人であった田中誠、母文の長男として生まれる。幼少期、東京牛込区、満州国新京特別区に転居した後に京都市に住む。51年3月香里高等学校を卒業、同志社大学短期大学英語科を卒業後、54年に立命館大学文学部史学科3回生として編入学。58年に同大学大学院文学研究科日本史専攻修士課程修了。龍村織物美術研究所勤務を経て67年から72年まで、滋賀県教育委員会文化財保護課美術工芸担当として勤務。在職中の67年10月、『二上山』(学生社)を刊行。同書は、大阪と奈良にまたがる二上山に残る古代の陵墓群に注目し、古代の「葬送儀礼」が、各種芸術の母体になっているのではという認識から、美術、文学、芸能、歴史、民俗史研究を横断的に見渡しながら考察した内容であり、斯界の研究者から高い評価をうけた。72年4月に成城大学文芸学部芸術学科助教授、79年に同大学教授となる。81年には、『美術品移動史 近代日本のコレクターたち』(日本経済新聞社)、『日本美術の演出者 パトロンの系譜』(駸々堂出版)を相次いで刊行。両書とも、従来の美術史研究ではかえりみられなかったコレクター、パトロンたちに焦点をあてた、ユニークな研究書であった。さらに83年には、『日本画繚乱の季節』(美術公論社)を刊行。同書は、京都を中心に活動した竹内栖鳳、そして国画創作協会の画家たちとその作品を丹念に検証し、従来の近代美術における画壇史的な記述とはことなった研究書として評価をうけた。同書により84年度サントリー学芸賞を受賞。85年、『日本の戦争画 その系譜と特質』(ぺりかん社)を刊行、第二次世界大戦中に描かれた「聖戦美術」を中心に、明治から戦後の美術までを、戦争と画家をテーマにした系譜として記述し、日本の近代美術と社会(戦争)の接点に視点を据えた問題提起的な研究書であった。88年には京都新聞の新聞連載をまとめた『竹内栖鳳』(岩波書店)を刊行、翌1989(平成元)年、同書により芸術選奨文部大臣賞を受賞。大学で後進の指導にあたるかたわら、94年4月に開館した秋田県立近代美術館長(秋田県横手市)に就任。96年には、『画人・小松均の生涯 やさしき地主神の姿』(東方出版)を刊行。99年に紫綬褒章受章。2002年に成城大学を退職、名誉教授となる。2004年3月に、秋田県立近代美術館を退職、名誉館長となる。同年8月には、王舎城美術寶物館(現、海の見える杜美術館、広島県廿日市市)顧問となる。また同年11月、旭日小綬章綬章。2005年11月、秋田県文化功労者として表彰された。田中の美術史研究者としての関心は、多岐にわたる著述活動を一覧しても了解されるように、非常に広範囲で古代から近代、現代美術まで及んでおり、さらに歴史学、文学、民俗学等の関連領域の学問の成果を視野に入れながらの研究活動であった。また、同氏の記述に対する細心の注意は、論文でもエッセイでも同じく、難解さをきらいながら、それでいて自身の考察や観察を平易な言葉で伝えようとつとめるところに向けられていた。そうした姿勢の背後には、専門的に深められた既存の学問の在り方に対するある違和感や疑問を持っていたことがあげられるだろう。自身の研究、あるいは学問の在り方について、同氏はつぎのような言葉をのこしている。「私は、完成された作品を『作品』として調査し、整然と分析し、整理して発表することに意欲のわかないたちらしい。私が意欲をもつのは、その作品が生み出される混沌とした世界(カオス)であり、生み出された作品に対してもその作品が秘めているカオスの部分、あるいは重層するカオスの構造そのものを照射することに興味があるのである。そして同時に、作品を享受するときに私たちの意識の中に生じているある種のゆらめきのようなもの―それは確定的なものというより、不確定要素の強いものである―を内包することのできるように、論述の言葉に相当の幅をもたせて述べていけないものかとも考えていた。」(「あとがき」、『日本の美術―心と造形』、吉川弘文館、1995年)。ここからは、博識で、広範囲な領域に関心を絶えず持ちつづけ、そしてそれを自らの言葉で表現しようとする研究者であった同氏ならではの率直な意志を読みとることができる。なお、2012年5月に刊行予定の遺稿集『日本美術史夜話』に、同氏の「略年譜」、「主要著作目録」、「著述目録」等が掲載されることになっている。

秋山光和

没年月日:2009/03/10

読み:あきやまてるかず  美術史家で東京文化財研究所名誉研究員、東京大学名誉教授の秋山光和は3月10日、老衰のため東京都渋谷区の病院で死去した。享年90。1918(大正7)年5月17日、京都市下京区(現、東山区)に帝室博物館学芸課長、金沢美術工芸大学長を務めた秋山光夫、花枝の長男として生まれる。秋山の誕生に前後して父光夫が宮内省図書寮に奉職。一家は東京に居を移し、私立暁星小学校に通う。幼少時から母方の祖父で元駐ベルギー公使堀口久萬一と祖母からフランス語の手ほどきを受け、1931(昭和6)年、旧制東京高等学校尋常科に入学し、同高等科文科丙類(仏語専修)を卒業。祖父からの勧めもあり一時は外交官も志したが、38年4月、東京帝国大学文学部美術史学科に入学。41年3月、学士論文「藤原時代やまと絵の研究」を提出し、同学科を卒業。同年7月美術研究所嘱託となるが、翌年1月、海軍予備少尉に任官。軍司令部付転任を経て、海軍予備大尉に任官される。45年8月の召集解除をうけ、同年10月、再び美術研究所嘱託、48年4月国立博物館研究員となる。50年には、戦後初のフランス政府招聘留学生として渡仏。パリ大学、国立ギメ東洋美術館、フランス国立図書館において調査・研究を行う。在仏中は特に、ポール・ペリオ収集資料の分析を深め、その後の敦煌壁画研究の基盤を築く。帰国後の52年4月東京国立文化財研究所美術部第一研究室研究員、63年4月同室長を経て、67年2月東京大学文学部助教授に転任。79年同大学を定年退官し、学習院大学哲学科教授となる。81年にはフランス国立高等研究院(Ecole pratique des Hautes Etudes)で、85年にはコレージュ・ド・フランス(College de France)でそれぞれ客員教授として特別講義を担当。87年東京大学名誉教授。また、59年フランス政府芸術文化勲章(シュヴァリエ)、翌年同勲章(オフィシェ)受章。当研究所編『美術研究』等に掲載した諸論考をまとめた『平安時代世俗画の研究』(吉川弘文館、1964年、2002年再版)により67年日本学士院恩賜賞受賞、69年文学博士を授与される。1991(平成3)年勲三等旭日中綬章、92年ベルギー政府レオポルド三世勲章、98年フランス政府レジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)、同芸術文化勲章(コマンドール)受章。85年には人文系研究者として日本初のフランス学士院客員会員、88年イギリス学士院客員会員となる。89年の学習院大学定年退職後も日仏会館常務理事(後に副理事長)、東方学会理事、國華清話会初代会長などを歴任する。海外での日本美術展をいくつも成功させるほか、後学の教育にも熱心につとめ、その門下は今日、日本のみならず諸外国において第一線の研究者として活躍する。国内外において精緻な作品調査を数多く実施し、それをもとに日本を中心とする東アジアを主たるフィールドとして作品研究を進める。なかでも帝室博物館の特別展で邂逅し、以後の秋山を美術史研究へと邁進させた国宝「源氏物語絵巻」をはじめとするやまと絵研究において顕著な業績を残す。その研究姿勢は綿密な作品調査に基づき、関連する文字資料を渉猟した上で、作品に真摯に対峙し、それぞれの作品が持つ多様な情報をいかに引き出すのかという点にあると言えるだろう。その一つの結実が仏留学中に修得したX線透過撮影、赤外線撮影といった美術作品の光学的・科学的手法による調査研究である。その研究成果は当研究所光学研究班による『光学的方法による古美術品の研究』(吉川弘文館、1955年)をはじめとする諸論考で発揮され、日本における美術品光学調査の先駆的研究として高く評価される。執筆した膨大な論考は92年発行の『秋山光和博士年譜・著作目録』で確認することができる。主要な編著書に、『栄山寺八角堂の研究』(福山敏男と共著、便利堂、1951年)、『信貴山縁起絵巻』(藤田経世と共著、東京大学出版会、1957年)、ジェルマン・バザン『世界美術史』(柳宗玄と共訳、平凡社、1958年)、“La Peinture Japonaise”(同英訳版“Japanese Painting”, Geneve:Skira, 1961)、『高雄曼荼羅』(高田修・柳沢孝・神谷栄子と共著、吉川弘文館、1967年)、『扇面法華経の研究』(柳澤孝・鈴木敬三と共著、鹿島研究所出版会、1972年)、『法隆寺玉虫厨子と橘夫人厨子(奈良の寺6)』(岩波書店、1975年)、『定本 前田青邨作品集』(鹿島出版会、1981年)、『平等院大観』3(柳澤孝と共著、岩波書店、1992年)などがある。なかでも『平安時代世俗画の研究』(前出)、『絵巻物(原色日本の美術8)』(小学館、1968年)、『王朝絵画の誕生』(中央公論社、1968年)、『源氏絵(日本の美術119)』(至文堂、1976年)、『日本絵巻物の研究』上・下(中央公論美術出版、2000年)など、やまと絵研究を志す者が第一に取るべき論考を多く世に出し、その研究の尖鋭性はいまなお失われていない。この他、喜寿記念として出版された『出会いのコラージュ』(講談社、1994年)は自身の半生や美術にかかわる秋山の随想をまとめる。没後、秋山の研究資料は東京文化財研究所、文星芸術大学(栃木県宇都宮市)他に寄贈される。なかでも1万冊を超す蔵書の寄贈を受けた文星芸術大学は、同敷地内に独立した建築物を伴う秋山記念文庫を設立し、秋山の書斎も再現される。2011年5月には同大学上野記念館において「秋山記念文庫開設記念展 SALON de Mont’ Automne」が開催され、秋山の手描きスケッチをはじめとする研究資料を中心に、前田青邨(青邨三女日出子は秋山の妻)の作品や、堀口大学(秋山伯父)の資料が展観される。お茶の水女子大学教授で東洋美術史研究者の秋山光文は長男。

鶴田武良

没年月日:2009/01/18

読み:つるたたけよし  中国絵画史の研究者である鶴田武良は1月18日、骨髄異形成症候群のため東京都内の病院で死去した。享年71。1937(昭和12)年3月2日、大阪市に生まれる。61年東北大学文学部東洋芸術史学科を卒業後、シェル石油株式会社に入社するが、64年に東北大学大学院文学研究科修士課程(美術史学専攻)に入学。66年に修士課程を修了後、同研究科博士課程に進学。68年から72年まで大阪市立美術館に学芸員として勤務。72年に東京国立文化財研究所(現、東京文化財研究所)に転職後は美術部資料室、情報資料部文献資料室、美術部第一研究室の研究員を経て、80年より修復技術部第二研究室長、83年より情報資料部写真資料室長を務める。88年に情報資料部長、1992(平成4)年に美術部長となり、98年定年により退職。中国絵画史を専門とし、大阪市立美術館勤務時代、橋本末吉コレクションとの出会いをきっかけに72年特別展「近代中国の画家」を開催、それまで研究対象として顧みられることの少なかった中国の近代美術に目を向けるようになる。東京国立文化財研究所に転職後は、近世~近代の来舶画人についての論考を『国華』や同研究所が発行する研究誌『美術研究』に連載。80年から翌年にかけて文部省在外研究員としてアメリカで調査を行った他、中国、台湾で地道な資料収集を重ね、『民国期美術学校畢業同学録・美術団体会員録集成』(和泉市久保惣記念美術館久保惣記念文化財団東洋美術研究所紀要2・3・4号 1991年)、『中国近代美術大事年表』(和泉市久保惣記念美術館久保惣記念文化財団東洋美術研究所紀要7・8・9号 1997年)等の基礎資料集成に結実。論考もそれらの資料に裏付けられた手堅い手法によるもので、91年からは清末~解放後の美術を対象に「近百年来中国絵画史研究」と題した連載を7回にわたり『美術研究』に発表。北京や台北でも学会発表や講演を重ね、数多くの論考が中国語に翻訳されている。退職後は中国近現代美術研究資料センターを主宰。99年台湾・林宗毅博士文教基金会第1回文化賞を受賞。2007年には収集した書籍・スライド・写真・フィルム等を広東美術館に寄贈、「鶴田武良中国近現代美術史研究文庫」として伝えられることになる。主要な編著書は下記の通りである。 『近代中国絵画』(角川書店、1974年)『近代中国絵画』(1974年角川書店刊本の中国文訳本、台湾・雄獅美術図書公司、1977年)米沢嘉圃と共著『水墨画大系第11巻 八大山人・揚州八怪』(講談社、1975年)川上涇と共編『中国絵画』(朝日新聞社、1975年)長尾正和と共著『呉昌碩』(講談社、1976年)川上涇と共著『中国の名画』(世界文化社、1977年)宮川寅男他と共著『東洋の美術Ⅰ』(旺文社、1977年)『月影館審定近代中国絵画』(日貿出版社、1984年)『鉄斎筆録集成』第1巻(便利堂、1991年)『日本の美術326 宋紫石と南蘋派』(至文堂、1993年)『近代百年中国絵画』(和泉市久保惣記念美術館、2000年)『風景心境―台湾近代美術導読』(台湾・雄獅図書公司、2001年)『定静堂蒐集明清書画』(和泉市久保惣記念美術館、2001年)顏娟英他と共編『上海美術風雲―1872―1949 申報藝術資料條目索引』(台湾・中央研究院歴史語言研究所 2006年)

田実栄子

没年月日:2009/01/03

読み:たじつえいこ  染織研究家の田実栄子は1月3日死去した。亨年81。1927(昭和2)年4月26日、朝鮮全羅北道裡里邑に生まれる。旧姓神谷(かみや)。40年4月、京城第一公立高等学校に入学し43年7月に同校を中退。44年4月に東京女子高等師範学校(現、お茶の水女子大学)文科に入学し、48年3月に同校を卒業、東京国立博物館附属美術研究所技術員となる。51年1月同第二研究部勤務となり、52年4月美術研究所が東京文化財研究所となるに際し美術部第二研究室勤務となって染織品の調査研究を行う。56年「鳴海有松地方の絞染」(『MUSEUM』61号)「明治期の型友禅―千総の見本裂調査を主として」(『MUSEUM』69号)、57年「明治期の写友禅―千総の見本裂調査を主として」(『MUSEUM』72号)を発表。62年美術部資料室に配置換え、73年1月美術部第一研究室研究員となり、同年4月美術部主任研究官となる。染織研究家山辺知行に師事し、『美術研究』に多くの論稿を発表。上杉家、徳川家、片倉家、伊達家など大名家遺品の調査研究のほか、型染、小千谷縮、辻が花などについても調査研究を行う。その後、それらの作品調査の成果を、『上杉家伝来意匠』(講談社、1969年、山辺知行と共著)、『小袖』(「日本の美術」第67号、1971年)、『紀州東照宮の染織品』(芸艸堂、1980年)、『武家の染織』(共著、中央公論社、1982年)、『型染』(芸艸堂、1975年)などにまとめる。本務の一方、お茶の水女子大学家政学部や日本女子大学大学院、東京造形大学、東京藝術大学美術部で講師を併任する。1989(平成元)年3月、東京国立文化財研究所を停年退官して同所名誉研究員となる。同年4月より96年3月まで大妻女子大学家政学部教授として「博物館実習」「服飾史特論」「染織工芸特論」などを講じた。 

灰野昭郎

没年月日:2008/10/01

読み:はいのあきお  漆芸史研究者の灰野昭郎は、10月1日、心筋梗塞のため死去した。享年66。1942(昭和17)年、新潟県に生まれる。67年早稲田大学第一文学部美術専修卒業。69年より鎌倉国宝館学芸員として勤務、73年には同館図録第19集『鎌倉彫』を執筆し、特別展「鎌倉彫」を手がけた。同館在職時代の鎌倉彫の徹底した作品調査と、現代の工房で行われている技法の調査は、文献研究もふまえて『鎌倉彫』(京都書院、1977年)にまとめている。同書は現在でも、もっとも充実した写真図版と論考・資料を備えた鎌倉彫の研究図書となっている。76年より京都国立博物館に勤務し、資料管理研究室長、学芸課普及室長、工芸室長を歴任した。同館では「日本の意匠―工芸にみる古典文学の世界」展(1978年)、「高台寺蒔絵と南蛮漆器」展(1987年)、「18世紀の日本美術」展(1990年)、「蒔絵 漆黒と黄金の日本美」展(1995年)をはじめ、漆工芸関係の研究・展覧会業務に従事した。1999(平成11)年より奈良大学文学部文化財学科教授を務めた。2004(平成16)年より昭和女子大学人間文化学部歴史文化学科大学院生活機構学専攻担当教授となり、同大学光葉博物館館長を併任、2007年から逝去時まで同大学院特任教授を務めた。灰野は「私の漆」(『学叢』26、2004年5月)で述懐しているように、工芸研究者が少ない中で、着実に作品の調査を重ねながら、展覧会業務とともに、精力的に普及活動を行った。主な著作には次のものがある。『漆工―近世編(日本の美術231)』(1985年)、『婚礼道具(日本の美術277)』(1989年)、『近世の蒔絵―漆器はなぜジャパンと呼ばれたか』(中公新書、1994年)、『日本の意匠―蒔絵を愉しむ』(岩波新書、1995年12月)、『漆―その工芸に魅せられた人たち』(講談社、2001年)灰野の没後、その約5000冊の漆工芸を中心とする蔵書は、石川県輪島漆芸美術館に寄贈され、同館で灰野昭郎文庫として公開されている。

横田洋一

没年月日:2008/09/22

読み:よこたよういち  横浜浮世絵や明治初期洋画など、横浜を舞台として幕末から近代にかけて繰り広げられた様々な美術活動の調査研究を行った横田洋一は、9月22日、がんのため死去した。享年67。1941(昭和16)年6月6日、群馬県に生まれる。幼少期を中国天津で過ごし、44年10月に帰国。64年3月上智大学文学部新聞学科を卒業し、同年4月に早稲田大学第一文学部美術専修課程に入学。66年3月に同課程を修了する。同年4月、68年の開館に向けて準備段階であった神奈川県立博物館の学芸員となり、自然史、歴史を含む総合博物館である同館で美術分野を担当する。就任とともに同館が所蔵する6000点を越える浮世絵からなる丹波コレクションの調査および横浜ゆかりの美術に関する調査を開始し、69年から翌年にかけて『丹波コレクション目録』第1―3編を刊行。また、幕末に横浜を訪れた英国人画家チャールズ・ワーグマンや、五姓田芳柳・義松といった幕末明治期の洋画、真葛焼に代表される「はまもの」と呼ばれた輸出工芸品など、横浜の文明開化に関わる美術工芸品の調査を進め、勤務先の神奈川県立博物館(95年より神奈川県立歴史博物館)で、76年「横浜浮世絵と長崎版画」展、82年「浮世絵の歴史と横浜浮世絵」展、86年「横浜真葛焼と宮川香山」展、86年「明治の宮廷画家 五姓田義松」展、1990(平成2)年「没後100年記念 チャールズ・ワーグマン ロンドン発・横浜行き あるイギリス人画家の幕末・明治」展、97年「横浜浮世絵と空飛ぶ絵師 五雲亭貞秀」展、2001年「王家の肖像―明治皇室アルバムの始まり」展などを開催した。これらの展覧会図録への論文、解説のほか、共著による単行図書、定期刊行物にも横浜浮世絵や文明開化期に横浜で活躍した画家、写真家などに関する著作を多く残した。これらは、日本における最初の近代美術館となった神奈川県立近代美術館が、土方定一の強い指導力のもとに西洋近代的な狭義の「美術」概念によって展覧会を開催し続けたのに対し、同県下の総合博物館という立場で地域における広義の美術を紹介する展示となっており、日本近代美術史の流れの中でも先駆的業績として評価される。特に、高橋由一と同時代に活躍しながら評価の遅れていた五姓田義松を再評価した功績は大きい。2002年3月、36年間在職した神奈川県立歴史博物館を定年退職。03年4月、関東学院大学比較文化学科特約教授となり08年まで教鞭を取った。1993年3月の中国旅行以降、中国の年画の調査、収集に興味を抱き、十数回にわたり中国を訪れた。年画のコレクションは那須野が原博物館に所蔵されている。2002年12月、04年2月にはインドを訪れている。逝去の翌年、横田洋一論文集『リアリズムの見果てぬ夢―浮世絵・洋画・写真』(横田洋一論文集刊行会編、学藝書院、2009年)が刊行されており、履歴、業績等は同書に詳しい。

樋口清治

没年月日:2008/08/17

読み:ひぐちせいじ  応用化学の研究者で東京文化財研究所名誉研究員の樋口清治は、8月17日、心不全のため東京都葛区の病院で死去した。享年82。1926(大正15)年6月3日、東京市に生まれる。1943(昭和18)年10月に工学院本科応用化学科を卒業、同年12月より東京帝国大学附属綜合試験所に入所、45年12月に同助手、46年3月文部教官、49年5月東京大学助手に任命される。52年11月、当研究所保存科学部科学研究室文部技官に転任の後、73年7月の修復技術部発足に伴い、第2修復技術研究室長に昇任。78年には第3修復技術研究室長に配置換となり、82年4月に修復技術部長、翌年3月定年により退官。当研究所在職時は、我が国の高度経済成長期、文化財保存修復に関する概念が進展するのにともなった新しい修復技術や材料開発の要請に対して、合成樹脂など近代的な材料を導入した。その実例は、彩色剥落止め、木造建造物部材修復、石造文化財修復、金属文化財修復、遺構の発掘処置法など多岐にわたった。特に木造建造物部材修復においては、人工木材の材質改良・文化財修復への導入に果たした功績は大きく、73年、重要文化財・旧富貴寺羅漢堂の再建において腐朽部材の合成樹脂による含浸強化および人工木材による欠損部分補修を採用し、当時所長であり再建事業の総括をした関野克とともに建築学会賞を受賞した。主要な著書は、『新建築学体系歴史的建造物の保存』(共著 彰国社、1999年)や、『総説エポキシ樹脂 第4巻応用編Ⅱ』(共著 エポキシ樹脂技術協会、2003年)など。主要論文は『保存科学』に所載。退官後は株式会社京都科学の技術顧問として、文化財修復における民間の技術水準向上と修復倫理の普及に努めた。1997(平成9)年、勲四等旭日小綬章を受勲。

鈴木進

没年月日:2008/07/16

読み:すずきすすむ  美術史家、美術評論家で東京都庭園美術館名誉館長の鈴木進は7月16日午前6時8分、老衰のため東京都世田谷区内の病院で死去した。享年96。1911(明治44)年8月14日、静岡県に生まれる。旧制静岡中学を卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に進み、同学科で日本美術史の藤懸静也に師事。1936(昭和11)年卒業と同時に同学科初代の助手に就任。40年文部省学芸課嘱託となり、美術問題を調査研究。戦争中の44年から45年に兵役に就く。復員後の46年に東京帝室博物館調査課に勤務、文部技官となり国宝・重要文化財の指定・調査・研究に携わる。50年文部省の外局の文化財保護委員会の設立に従事。以後、同委員会が文化庁となると絵画部門の文化財調査官として長年国内の調査にあたり、また海外への紹介に努めた。さらに公務の一方で、慶応義塾大学、東京都立大学の講師を務める。52年の美術評論家連盟の結成時には幹事として尽力。近世日本絵画、とりわけ文人画を中心とする研究、そして近現代日本画を軸に幅広い分野の評論活動を行った。83年には開館したばかりの東京都庭園美術館の館長に就任し、1996(平成8)年まで務めた。その間、「日本の美 ジャポネズリーのルーツ」展(1985年)や「江戸美術の祝祭」展(1989年)等、とくに江戸美術への見識を活かした展覧会を実現させた。また80年に創設されたジャポニスム学会に幹事として尽力し、2002年からはその顧問となった。その経歴と人となりについては、同学会の機関誌『ジャポニスム研究』28号(2008年)に掲載された岡部昌幸「鈴木進先生追悼―グローバルな視点で日本美術を国内外に紹介、美術界の発展に尽くされた」に詳しい。主要な編著書は下記の通りである。 『東洋美術文庫14 応挙』(アトリヱ社、1939年) 『毎日少年ライブラリー 国宝ものがたり』(毎日新聞社、1954年) 編集『講談社版アート・ブックス29 玉堂』(大日本雄弁会講談社。1955年) 編集『浦上玉堂画集』(日本経済新聞社、1956年) 竹田道太郎と共著『日本画とともに 十大巨匠の人と作品』(雪華社、1957年) 高見順と共著『原色版美術ライブラリー121 大雅』(みすず書房、1958年) 編集『蕪村』(日本経済新聞社、1958年) 『講談社版日本近代絵画全集21 鏑木清方・平福百穂』(講談社、1962年) 編集『世界美術全集10 日本10(江戸2)』(角川書店、1963年) 編集『芋銭』(日本経済新聞社、1963年) 編集『竹田』(日本経済新聞社、1963年) 編集『日本の美術39 応挙と呉春』(至文堂、1969年) 編集『日本絵画館10』(講談社、1971年) 『近世異端の芸術 若冲・蕭白・芦雪』(マリア書房、1973年) 飯島勇と共著『水墨美術大系12 大雅・蕪村』(講談社、1973年) 『日本の名画9 浦上玉堂』(講談社、1973年) 編集『日本の美術114 池大雅』(至文堂、1975年) 『ブック・オブ・ブックス 日本の美術46 蕪村と俳画』(小学館、1976年) 『日本の名画7 横山大観』(中央公論社、1976年) 『カルチュア版世界の美術8 日本の名画Ⅱ』(世界文化社、1976年) 尾崎正明と共著『日本美術絵画全集24 渡辺崋山』(集英社、1977年) 田中一松・吉澤忠・松下英麿・山中蘭径と共編『浦上玉堂画譜』全3巻(中央公論美術出版、1977~79年) 編集『日本の美術148 浦上玉堂』(至文堂、1978年) 佐々木丞平と共著『日本美術絵画全集18 池大雅』(集英社、1979年) 『俳人の書画美術11 江戸の画人』(集英社、1980年) 『俳人の書画美術12 明治の画人』(集英社、1980年) 監修『「巨匠が描く」日本の名山』全6巻(郷土出版社、1997~99年) 監修『日本の美富士』(美術年鑑社、2000年) 監修『さくら』(美術年鑑社、2001年) 

金子裕之

没年月日:2008/03/17

読み:かねこひろゆき  考古学者で奈良文化財研究所(奈文研)名誉研究員・奈良女子大学特任教授であった金子裕之は3月17日、癌のため奈良市内の病院で死去した。享年63。1945(昭和20)年2月16日に富山県高岡市に生まれる。70年國學院大學大学院文学研究科を修了、同年神奈川県高座郡座間町立座間中学校の教員となり、2年間を過ごす。72年4月に奈良国立文化財研究所文部技官として採用され、その後一貫して奈良の地を拠点として考古学研究に従事した。86年以降、奈文研平城宮跡発掘調査部考古第一調査室長をはじめとして飛鳥藤原宮跡発掘調査部、埋蔵文化財センターで室長を歴任し、1999(平成11)年から2005年まで奈良女子大学大学院人間文化研究科教授を併任した。1999年に奈文研埋蔵文化財センター研究指導部長、2001年に独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所平城宮跡発掘調査部長、03年に飛鳥藤原宮跡発掘調査部長となり、05年4月退職。以後奈良女子大学特任教授として教育・研究に貢献した。金子の研究の対象には、学生時代からの関心でありつづけた縄文文化、奈良に赴任してからのフィールドとなった飛鳥や平城京の調査研究を契機とした我が国古代の都城制、それに出身大学の学的伝統でもある神祇への関心に発する古代祭祀という三つの大きな柱があった。金子はそのいずれについても、日常業務の多忙さの中にありながらも、重厚な成果を積み重ねていった。個別の論文は枚挙にいとまがないので、著書のいくつかに限って言及しておこう。『日本の美術 まじないの世界Ⅰ』(至文堂、1996年)は金子の畢生の研究テーマであった祭祀についての総説ともいうべき好著で、縄文時代から古代にわたる壮大な歴史の流れの中に脈々と生き続ける「まじない」、「まつり」のありようを、考古資料を駆使して生き生きと叙述した。同年に刊行された金子著の『歴史発掘12 木簡は語る』(講談社)でも浩瀚な知識に裏付けられつつ、自身の独自の研究成果を基軸にして、わかりやすい表現で古代人の精神生活のありようが解き明かされている。こうした闊達な文章表現は金子の真骨頂とするところで、本来堅苦しくなりがちな学術成果を、解きほぐすような筆致で語りかける文章術は類まれなものであった。金子の、はからざる晩年の関心は庭園遺跡の史的位置づけに重点がおかれたように思える。平城宮の内外での発掘調査でみつかった幾多の庭園跡をどのように位置づけるべきか。金子は、庭園は皇権さらには都城に関わる祭祀と結合すると考え、関連する国内外の研究者を糾合して庭園の史的論理の追究に努力を傾注した。その成果の一端は2002年に刊行した編著『古代庭園の思想―神仙世界への憧憬―』(角川選書)に結実しているが、まだ道半ばというところであった。金子の研究姿勢は、総じて峻烈であった。徹底的に事実に拘泥し、妥協を許さず、一言一句をゆるがせにしなかった。時として挑戦的で、しかし、いくつもの研究会を組織したことや多くの編著書が物語るように、調和、調整そして総合を重んじる人でもあった。発掘や整理作業に従事する人々に寄せる優しい気配りは、その峻厳な風貌からは窺いがたいものの、近くに過ごす者達の等しく知るところであった。

細野正信

没年月日:2008/03/11

読み:ほそのまさのぶ  美術史家、美術評論家の細野正信は3月11日午前8時58分、胆管がんのため千葉県船橋市の病院で死去した。享年81。1926(大正15)年9月11日、群馬県前橋市に生まれる。1947(昭和22)年群馬師範学校を卒業後、前橋市立第一中学校教諭を務め、翌年早稲田大学高等師範部へ入学。49年に同大学第一文学部に編入学、57年に同大学院文学研究科美術史学専攻修士課程を修了し文部省へ入省、翌年には同芸術課の日本芸術院事務局に勤務する。63年東京国立博物館へ出向。72年に同館美術課絵画室主任研究官、85年に同課建築室長となる。87年同館を定年退官し、山種美術館学芸部長となる。1997(平成9)年には高崎タワー美術館館長。2000年に同館館長を辞し、03年までヤマタネ美術顧問を務める。また1963年から71年まで女子美術大学、71年から88年まで早稲田大学で講師を務めた。2000年には船橋市教育文化功労者として表彰された。1960年代前半より『美術手帖』『萠春』誌上に展評や美術評論を執筆し、東京国立博物館在任中は、青木木米・中山高陽等の近世文人画家や司馬江漢についての論考を『MUSEUM』をはじめとする諸雑誌に発表。70年代には美術全集の刊行が相次ぐ中で、とくに狩野芳崖や横山大観といった近代日本画に関する巻の執筆・編集を担当し、美術雑誌や展覧会図録でも旺盛な執筆活動を展開、また日本美術院を主とする同時代の日本画家についての評論も行う。75年からは『日展史』全41巻、89年からは『日本美術院百年史』全15巻編纂の監修を務め、日本近代美術史に大きく与る団体の基礎資料集成を築いた功績は大きい。その著述においても近代日本画の通史のスタンダードをつくりあげ、専門家はもとより多くの美術愛好家の手引となった。主要な編著書は下記の通りである。 編集『日本の美術36 洋風版画』(至文堂、1969年) 『現代日本美術全集2 横山大観』(集英社、1971年) 『カラーブックス 竹久夢二』(保育社、1972年) 編集『近代の美術9 下村観山』(至文堂、1972年) 編集『近代の美術17 フェノロサと芳崖』(至文堂、1973年) 『カラーブックス 日本の画家 近代日本画』(保育社、1973年) 編著『日本の名画17 菱田春草』(講談社、1973年) 『読売選書 司馬江漢 江戸洋風画の悲劇的先駆者』(読売新聞社、1974年) 監修『日展史』全41巻(社団法人日展、1975~2002年) 編集『日本の名画1 狩野芳崖』(中央公論社、1976年) 『現代日本美人画全集5 伊東深水』(集英社、1977年) 富岡益太郎・吉沢忠と編著『日本の名画8 富岡鉄斎・横山大観・菱田春草』(講談社、1977年) 『皇居造営下絵 杉戸絵と襖下絵』(京都書院、1977年) 『ブック・オブ・ブックス 日本の美術52 江戸狩野と芳崖』(小学館、1978年) 『現代日本の美術4 東京画壇』(小学館、1978年) 編集『日本美術全集25 近代絵画の黎明:文晁・崋山と洋風画』(学習研究社、1979年) 監修『日本の花鳥画』全6巻(京都書院、1980~81年) 『明治花鳥画下絵集成 宮内庁内匠寮旧蔵』(京都書院、1981年) 『短冊絵300撰 内田コレクション』(芸艸堂、1981年) 浜田台児と監修『伊東深水全集』全6巻(集英社、1981~82年) 『現代日本絵巻全集16~18 東海道五十三次合作絵巻』(小学館、1982~83年) 『現代日本画全集1 堅山南風』(集英社、1983年) 編集『日本の美術232 江漢と田善』(至文堂、1985年) 『竹久夢二と抒情画家たち』(講談社、1987年) NHK取材班と共著『流転・横山大観「海山十題」』(日本放送出版協会、1987年) 『日本の美術262 江戸の狩野派』(至文堂、1988年) 監修『近代の美人画 目黒雅叙園コレクション』(京都書院、1988年) 『日本美術院百年史』全15巻(財団法人日本美術院、1989~99年) 監修『近代の日本画 花鳥風月:目黒雅叙園コレクション』(京都書院、1990年) 責任編集『昭和の文化遺産1 日本画1』(ぎょうせい、1990年) 編集『巨匠の日本画2 横山大観 遥かなる霊峰』(学習研究社、1993年) 『日本画入門 よくわかる見方・楽しみ方』(ぎょうせい、1994年) 『日本絵画の表情1 雪舟から幕末まで』(山種総合研究所、1996年) 編著『名画の秘密 日本画を楽しむ』(ぎょうせい、1998年) 監修『日本絵画の楽しみ方完全ガイド 絵画を楽しむための「20のポイント」と日本の巨匠72人の名作』(池田書店、2007年) 

中山公男

没年月日:2008/02/21

読み:なかやまきみお  西洋美術史家で美術評論家の中山公男は、2月21日肺気腫のため死去した。享年81。1927(昭和2)年1月3日、大阪船場の裕福な商家に五人兄弟の三男として生まれる。中学時代より書店や古本屋をめぐり、哲学、美術、文学、歴史書などの収集と読書を日課とする。44年4月、新潟高等学校に入学。47年4月、東京帝国大学文学部哲学科美学美術史学科入学、矢崎美盛に師事。高校時代からの友人丸谷才一のほか、篠田一士、永川玲二など外国文学関係者や画家の松本竣介、麻生三郎らと交友を深める。50年同学科卒業。卒業論文は、フランシス・グリューベルを中心としたフランスの戦後派美術をテーマに選ぶ。53年、同大学大学院特別研究生修了、修士論文では、初期中世の写本芸術をテーマとした。同年、女子美術大学専任講師、54年より多摩美術大学講師、日本大学芸術学部助教授として、西洋美術史、美学概論、芸術論、芸術学、彫刻史、フランス語の講義を行うほか、文化学院でも教鞭を執る。この頃、丸谷才一、篠田一士とともに『ユリイカ』のコラムを毎月号担当、「第一回ルーヴル展」(1954年)のカタログ編集委員会、続いて「朝日秀作美術展」の事務局及び選考委員会に従事、昭和30年代半ばまで携わる。59年5月、国立西洋美術館の開館にともない文部技官主任研究員として勤務、「ミロのビーナス特別公開」「ギュスターヴ・モロー展」「ルオー遺作展」などに関わる。63年から在外研究員として3ヶ月間欧州に滞在。68年万国博覧会参事を務め、同年7月国立西洋美術館を退官。83年多摩美術大学教授、87年~90年筑波大学教授、1991(平成3)年~97年明治学院大学教授を歴任する。また、86年から2005年まで群馬県立近代美術館長を務め、この間、美術館連絡協議会理事長(1995年~2001年)、全国美術館会議会長(1997年~2001年)として、美術館の不備、学芸員の処遇の改善などを訴え、美術館行政の抜本的な改革を目指した。このほか、地中海学会の設立に関わり、副会長を務めた。西洋美術にとどまらず、美術全般に幅広い知識をもち、専門家から一般の美術愛好家に向けて数々の評論、解説、エッセーを残した。変貌をテーマとした画家論『レオナルドの沈黙―美の変貌』(小沢書店、1976年)、昭和20年代から40年間にわたる論考を納めた『美しき禍い』(小沢書店、1988年)、また自伝的エッセーとして『私たちは、私たちの世代の歌を持てなかった―ある美術史家の自伝的回想』(生活の友社、2004年)などが知られるが、なかでも代表作は、日本人としていかに西洋と向き合うかという問いを発した『西洋の誘惑』(初版、新潮社、1968年・改訂版、印象社、2004年)である。自ら「被誘惑者」として語る西洋と自己、あるいは西洋と日本の対峙というテーマは、中山の思索において根幹をなす。太平洋戦争によって、読書を通じて憧憬した西洋に、理念でとらえているにもかかわらず現実には近づけない状況に直面し、西洋の受容について熟考することとなる。「思考や想像力が、ひとつの理念を生みだそうとするとき、些細な経験は無にひとしい。体験は、理念追求の力を訂正することはあっても、それを凌駕することはできない」。美術史にとって感覚的な体験が絶対であることを認めながらも、理念は体験に勝るという結論に至った中山は、理念に到達するためには、体験の背後にある「思惟体系なり審美体系なりの違い」を把握することが必要であると説く。被誘惑者にとって西洋は幻影であり、両者には容易には到達し得ない膨大な距離がある。西洋と上辺だけの対峙をする「似非モラリスト、疑似エステート」に対し、時に痛烈な批判を浴びせながら、真の西洋受容とは、その幻影を認め、その誘惑を知ることと論じた。1960年代に展開されたこの主張は、半世紀を経た今なお色あせることなく、21世紀の我々に、今度こそ幻影を「奪取」するよう促している。このほか、『モローの竪琴―世紀末の美術』(小沢書店、1980年)、『ユトリロの壁―絵画随想26篇』(実業之日本社、1984年)、『画家たちのプロムナード―近代絵画への誘い』(悠思社、1991年)、翻訳書に、ルネ・ユイグ著、中山公男・高階秀爾訳『見えるものとの対話1~3』(美術出版社、1962~63年)、アンリ・ドベルビル著、中山公男訳『印象主義の戦い』(毎日新聞社、1970年)、クラルス・ガルヴィッツ著、中山公男訳『桂冠の詩人ピカソ―1945年以降の絵画作品』(集英社、1972年)、フランシス・ポンジュ他著、中山公男訳『ピカソ―破壊と創造の巨人』(美術出版社、1976年)などがある。また新聞、美術雑誌、展覧会カタログ、美術全集等に多数の執筆を残した。詳しくは、『芸術学研究』7号(1997年)に明治学院大学文学部芸術学科編「中山公男教授 著作目録」が掲載されている。蔵書は吉野石膏財団に寄贈され、現在、約3000点あまりが中山文庫として公開されている。

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