普門暁

没年月日:1972/09/28
分野:, (造形)

わが国前衛美術運動の先駆者として知られた普門暁は、2月にクモ膜下出血で倒れ、大阪の暁明館病院に入院、9月28日同病院にて死去した。享年76歳。明治29年8月15日奈良市に生れた普門が生後間もなく東京に移り、青年期を迎えて画家を志望し、偶々1910年代イタリアのミラノに起った未来派の美術運動に刺激影響を受け、大正9年秋、みずから首唱者となって未来派美術協会を創立し、以来数年にわたってわが国における前衛美術運動の口火を切って活躍したことは、わが近代美術史上の特異な存在として銘記されているが、戦後の晩年は帰郷して殆んど中央での活動がなかったので、奈良で生れ、またその奈良で生涯の仕事をひっそりと終えた普門については、一般に知られるところが少なかった。昭和48年12月、地元の奈良県立美術館の努力によって開催された『未来派の先駆・普門暁回顧展』に当って作成された目録中の貴重な「略年譜」によって、その生涯の大方を再認識することが出来る。なお、その回顧展の骨子となった作品群は、このとき、普門家の遺族関係者から同家に伝存する限りの遺作品が奈良県立美術館へ寄贈されたのによったという。
略年譜
明治29年 8月15日、普門常次郎・よねの長男として生れる。本名常一。その後間もなく東京に移る。貴金属商を営んでいた叔父の仕事を手伝いながらデザインを勉強する。
大正4年 東京蔵前高工で建築意匠を学ぶ、また安田緑郎に師事しイタリア新興美術(未来派)等の表現技術を学ぶ。
大正5年 どうしても絵をやりたくて、蔵前高工を中退し、川端画学校に入る。日本画をも学ぶ。ここでも新傾向グループのリーダーになり、紅児会と名づける。この頃看板等にコルクの焼絵を試みる。第1回個展(上野山下・三橋亭)、石井柏亭に二科会への出品をすすめられる。
大正7年 春、太平洋画会展に未来派作品を数点出品。秋、二科会展に石井漠の踊りを描いた「フューモレスク」を出品。
大正8年 春、個展(日本橋・白木屋)。その後奈良に帰り制作、県立図書館で足立源一郎・浜田葆光・山下繁雄とあしび会というグループ展を開く。
大正9年 二科展に絵をやめて彫刻を出品するが落選。首唱者となり未来派美術協会を創立。第1回未来派展(9.16~25、銀座・玉木屋)、会員約10人のほか、木下秀一郎等の応募者がいた。絵画のほかに未来派彫刻2点も出品、日本で初めての未来派彫刻の発表として問題作となる。10月、パリモフ、ブルリュックらが来日し、ロシアの「未来派美術展」を開催するのを援助(東京と大阪で同展は開かれる)。第1回未来派大阪展開催後、反響もあり、大阪で新しい仕事を勧める人もあり、大阪に止まる。
大正10年 大阪市南区笠屋町に自由美術研究所が設立され、赤松麟作・斎藤与里と共に指導にあたる。第2回未来派展(10.15~28、上野・青陽楼)には、座骨神経痛で芦屋から動けず、代って中心になって木下秀一郎が動いた。その後、同大阪展を本町の商工会議所会館で開く。二科展に出品。
大正11年 大阪市美術展覧会創立委員となり、第1回展に出品。未来派美術協会の主催で、第3回未来派展を拡張して三科インデペント展が開かれるが、同協会の解散説を唱えて参加しなかった。二科展に出品。
大正12年 春個展(京都及び東京)。大阪に演劇映画研究所が開催され、演劇舞台美術を指導。
昭和2年 東京に産業美術研究所を設置、未来派技術と感覚をデザインに移入、生活美術としての新分野を開拓。身体障害者の社会復帰に寄与しようとするものでもあった。これらの製品(団扇・ネクタイ・切り絵等)は東宝劇場内の販布コーナーで市販した。
昭和5年 発病し静養。
昭和12年 日大美術科の講師となり、翌年、主任となる。
昭和18年 日大美術科主任を辞し、講師として出講。
昭和21年 G・H・Qの日本美術顧問となり、米軍だけでなく米国への日本美術紹介に骨を折る。アーニーパイル劇場に新設美術会場を開設。
昭和26年 肝臓を悪くして東京日赤に入院。
昭和27年 春、一時小康を得て東京綜合美術研究所を開き、洋画やデザインの指導にあたるが、健康はすぐれなかった。
昭和35年 かねてから塗料の開発に取り組んでいたが、ベンゾール中毒にかかり発病、奈良・大林家に寄寓し療養に専念する。
昭和39年 健康を取り戻し、手はじめに王寺工業高校の記念碑「希望の像」を翌年にかけて制作する。
昭和49年 秋、当麻寺奥院の大作「倶利迦羅龍幻想」の制作にかかる。翌年春完成。
昭和41年 同寺奥院のお茶所を改造してアトリエとして住む。この頃から、水墨の抽象画に打ちこむ。ニューヨークで個展を開くつもりで後期未来派作品の制作を始める。
昭和47年 2月、蜘蛛膜下出血で倒れ、大阪の暁明館病院に入院。9月28日、同院にて没す。法名龍光院常誉照鑑暁雲居士。

出 典:『日本美術年鑑』昭和48年版(85-86頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「普門暁」『日本美術年鑑』昭和48年版(85-86頁)
例)「普門暁 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9462.html(閲覧日 2024-04-26)

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