田崎廣助

没年月日:1984/01/28
分野:, (洋)

阿蘇山を描き続けた日本芸術院会員、文化勲章受章者の洋画家田崎廣助は、1月28日午後6時、老衰のため東京都練馬区の自宅で死去した。享年85。明治31(1898)年9月1日福岡県八女郡に父作太郎の長男として生まれ、本名廣次。大正5年父の反対で東京美術学校進学を断念し福岡師範学校に入学するが、卒業後画家を目指し9年上京、本郷駒本小学校の図画教師をしながら坂本繁二郎に師事する。関東大震災を機に京都に移り、15年第13回二科展に「森の道」等3点が初入選、この年より廣助と号す。昭和2年一旦上京した後7年渡欧しパリにアトリエを構える。8年サロン・ドートンヌに「パリの裏町」など3点が入選、9年円相場暴落のため帰国し翌10年の第23回二科展に滞欧作7点を特別陳列する。11年石井柏亭らにより一水会が創設されると翌年の第1回展より出品、13年第2回一水会展に「丘の小松」等3点を出品し一水会賞を受賞する。14年一水会会員となり、16年佐分利賞を受賞。戦後一水会に出品を続けると共に日展、現代日本美術展、日本国際美術展などにも出品、四季折々の様々な阿蘇山を描き続ける。また24年自らを中心とする広稜会を結成する。26年日展審査員をつとめ33年評議員、42年常任理事となる。36年「夏の阿蘇山」「朝やけの大山」等の連作で日本芸術院賞を受賞し、42年芸術院会員となった。このほか一水会運営委員もつとめ、48年東郷青児らと中心になり日伯現代美術展を開催、その功績により同年ブラジル政府よりグラン・クルーズ章、コメンダドール・オフィシアール章を受け、54年日伯美術連盟会長に就任する。50年文化勲章を受章すると共に初の回顧展(日本橋高島屋)を開催した。重厚で確かな存在感のある山の表情を日本的情感を込めて描き出したその油彩画は、「阿蘇の田崎」の呼び名を生んだ。53年福岡市美術館に代表作30余点を寄贈、また長野県軽井沢町に財団法人田崎美術館(61年開館)の建設計画を進める。なお、詳しい年譜に関しては『田崎廣助画集』(田崎美術館編)等を参照。

出 典:『日本美術年鑑』昭和60年版(241頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「田崎廣助」『日本美術年鑑』昭和60年版(241頁)
例)「田崎廣助 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10111.html(閲覧日 2024-04-19)

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