本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,850 件)





今泉省彦

没年月日:2010/07/13

 画家、評論家だった今泉省彦は、7月13日死去した。享年78。1931(昭和6)年11月30日、埼玉県所沢に生まれる。父は陸軍少尉で、今泉は幼少期を満州(現、中国東北部)で過ごす体験もした。18歳のころ、友人から白樺派やセザンヌを知り、美術に傾倒していき、春陽会に出品するも落選。50年日本大学芸術学部美術科に入学、ほとんど通わず美術館などで過ごし、左翼美術運動に関わる。61年には全電通労働組合分会執行委員を務める。68年、現代思潮社の川仁宏より絵の学校の企画を持ち込まれ、翌年「美学校」(千代田区神田神保町2―20 第2富士ビル3階)の開校に参加、日本電信電話公社を辞職し、現代思潮社美学校事務局長となる。これが美術界で今泉の名を知らしめるものとなる。教育者というと今泉は反論しただろうが、反美術大学的な「芸術作品と作家のありざまを本来的に捉えかえす機関」「表現を練磨し表現未生の闇へ果敢に肉迫する真の工房」として、特異な画塾とでもいうべき美学校、酒が絶えないその空間において彼は中心的な役割を担い、カリキュラムを編成した。75年に現代思潮社から分離、学校の経営は多難だったが、2000(平成12)年まで校長を務めた。画家として個展こそは少ないが、カットや装幀もよくし、その軽妙な画風から赤瀬川原平は今泉を「永遠のデッサン家」といった。評論活動は1953年から同人誌に執筆、『作品・批評』、『形象』などに、岸田劉生、関根正二、長谷川利行、ケーテ・コルビッツらを取り上げ、また60年代以降の美術情況、前衛美術界やハイレッドセンターなどを『日本読書新聞』、『美術手帖』などで論じた。復刊『機關』11号で「今泉省彦特集」が組まれている。『彷書月刊』98年3月号は「特集・美学校の30年」。 著書 『ビッグ・パレード』(赤組、1983年)

中野政樹

没年月日:2010/06/04

 金属工芸史の研究者である中野政樹は6月4日、肝不全のため順天堂病院に入院中死去した。享年80。1929(昭和4)年8月13日、鍛金作家である父中野恵祥、母ろくの長男として、東京都荒川区西日暮里に生まれる。49年、東京美術学校に入学、工芸科に進み漆芸を専攻し、52年同校を卒業する。卒業制作は卵殻フクロウ文八角箱である(中野家所蔵)。卒業と同時に東京国立博物館学芸部に文部技官として採用され、この時点から金工史の研究を始める。67年、金工室長、77年企画課長を歴任し、81年、東京藝術大学芸術学部芸術学科教授に転任する。大学では日本工芸史、日本金工史を中心に講義、演習を行う。88年から1991(平成3)年まで芸術資料館(後に大学美術館となる)館長となる。96年、同大学を退官、名誉教授を授与される。97年、ふくやま美術館館長に就任、没する直前まで館長を務めた。また同年から2003年まで文化女子大学教授を務めた。専門とした日本金工史のなかでも奈良時代の鏡鑑、仏教用具に造詣が深く、「奈良時代の鏡 本館保管の唐式鏡」1~9(『MUSEUM』東京国立博物館 1962年~1964年)、「奈良時代における唐式鏡の基礎資料」(『東京国立博物館紀要』8 東京国立博物館 1973年)はじめ多くの論文を発表した。とくに「奈良時代における唐式鏡の基礎資料」は発表された時点での日本出土、伝世の鏡を網羅し、文様ごとに系統立て、踏返しなどについて考察したもので、古代鏡鑑研究の基礎的文献となっている。また仏教用具では法隆寺献納宝物を対象として、金銅灌頂幡、竜首水瓶などを研究し、「金銅灌頂小幡」(『MUSEUM』72 1957年)、「金銅透彫灌頂幡」(『国華』928 1970年)、「金銅透彫灌頂幡の規矩性と尺度」(『MUSEUM』282 1974年)、『国宝金銅透彫灌頂幡』(大塚巧芸社インターナショナル、2000年)、「龍首水瓶」(『MUSEUM』457 1989年)を発表した。また、1970年から1972年まで正倉院宝物の調査を宮内庁から委嘱された。その成果は『正倉院の金工』(日本経済新聞社、1976年)で公表され、宝物の金工関係の論文としては「正倉院宝物の匙・加盤碗」がある。奈良時代の以降では、日本の鏡、鏡像についても研究し、『和鏡』(至文堂、1969年)、『和鏡』(フジアート出版、1973年)、『鏡像』(東京国立博物館、1974年)を刊行している。

大野一雄

没年月日:2010/06/01

 舞踏家の大野一雄は6月1日、呼吸不全のため横浜市内の病院で死去した。享年103。1906(明治39)年10月27日、北海道函館区弁天町(現、函館市弁天町)に生まれる。生家は北洋漁業の網元で、母は弾琴に長じ、西洋音楽を好んだ。10人兄弟の長男。1919(大正8)年旧制函館中学校に入学、翌年母方の秋田県の親戚に預けられ、県立大館中学校に編入。在学中は陸上部に所属、中距離競争の選手であった。25年同校を卒業。卒業後函館近村の泉沢尋常高等小学校の代用教員を1年間務めたのち、26年日本体育会体操学校(現、日本体育大学)に入学、同年から1年4か月の兵役を経て復学。1929(昭和4)年帝国劇場でスペインの舞踊家ラ・アルヘンチーナの来日公演を観て、深い感銘を受ける。同年日本体育体操学校を卒業、横浜の関東学院中学部に体育教師として赴任。33年横浜の捜真女子学校勤務の準備のため、石井獏に1年間入門、モダンダンスをはじめる。36年江口隆哉、宮操子の研究所に入門。38年召集を受け、華北、ニューギニアを転戦。終戦後、46年復員、江口・宮舞踊研究所に復帰、48年まで所属。49年大野一雄現代舞踊第1回公演を神田共立講堂にて開催。1950年代半ばに土方巽と出会い、よき協力者として彼の代表作「あんま」「バラ色ダンス」などに出演。暗黒舞踏派での共演などを通じ、西洋の影響を強く受けたモダンダンスから、日本人の内面的な問題を扱う身体表現へ転換、「舞踏(BUTOH)」として知られるスタイルを展開していく。1960年代終わりから映画作家長野千秋による舞踏映画製作に没頭、約10年間ソロでの公演から遠ざかる。76年画家中西夏之個展で観た絵画により29年に帝国劇場で観たアルヘンチーナの舞台の感動がよみがえり、これをきっかけに復帰を決意。77年「ラ・アルヘンチーナ頌」を土方巽の演出で初演、翌年第9回(77年度)舞踊批評家協会賞受賞。80年フランスの第14回ナンシー国際演劇祭で初めて海外の舞台に立つ。西洋のダンス界に衝撃を与え、世界的な舞踏ブームを作る端緒となる。以後ヨーロッパ、北米、中南米、アジア各国でも精力的に公演を行うとともに、横浜にある自身の稽古場に、舞踏を学ぶ研究生を世界中から受け入れた。93年神奈川文化賞受賞。98年日本デザイン賞、横浜文化賞受賞。99年イタリアで第1回ミケランジェロ・アントニオーニ賞受賞。2000年左臀部下内出血を患い歩行が困難になってからも、座ったまま手の動きのみで表現を行う新たな境地を開き、07年まで舞台に出続けた。01年第3回織部賞グランプリ受賞。02年朝日舞台芸術賞特別賞受賞。04年から大野一雄舞踏研究所とBankART1929の主催で毎年「Kazuo Ohno Festival」が開かれる。代表作に「わたしのお母さん」(1981年)、「死海ウインナーワルツと幽霊」(1985年)、「睡蓮」(1987年)などがある。著書に『大野一雄舞踏のことば〈御殿、空を飛ぶ。〉』限定版(思潮社、1989年)、聞き書きに『わたしの舞踏の命』(矢立出版、1992年)、『大野一雄稽古の言葉』(フィルムアート社、1997年)、『Kazuo Ohno’s world』(Wesleyan University Press、2004年)など、映像資料に『大野一雄 美と力』(NHKソフトウェア、2001年)、『大野一雄御殿、空を飛ぶ。』(クエスト、2007年)など多数。また石内都『1906 to the Skin』(河出書房新社、1994年)、細江英公『人間写真集胡蝶の夢舞踏家・大野一雄』(青幻舎、2006年)など、多くの芸術家が大野をモデルとした作品を制作した。岡山県牛窓国際芸術祭(1988年)、曽我蕭白展関連イベント「大野一雄、蕭白を舞う」(千葉市美術館、1998年)、大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレプレイベント「中川幸夫花狂い」(2002年)など美術関係のイベントにも参加。また大野一雄舞踏研究所により積極的にアーカイブ収集・整理が進められ、02年にイタリアのボローニャ大学大野一雄資料室、03年に愛知芸術文化センター大野一雄ビデオライブラリーが開設した。

針生一郎

没年月日:2010/05/26

 評論家の針生一郎は5月26日、川崎市市内の病院で急性心不全のため死去した。享年84。1925(大正14)年12月1日、宮城県仙台市に生まれる。生家は味噌醤油屋を営んでいた。「学生時代は軍国青年であった」と本人は語り、保田与重郎などの著作に傾倒し、1948(昭和23)年東北大学文学部卒業(卒論は島崎藤村)。49年東京大学美学科特別研究生(旧制の大学院制度、54年修了)。48年頃から、花田清輝、野間宏らの「夜の会」、安部公房らの「世紀の会」、雑誌『世代』の同人に、50年からは岡本太郎らの「アヴァンギャルド芸術研究会」などに参加することで、読書会や現場を主体とした在野の視点を築き、学者でなく批評家の道を歩む方向を見出す。だが、一方では52年美学会の創立に参加、学会誌『美学』の編集に携わる。53年には日本共産党に入党し(61年除名)、日本文学学校に職を得る。また、ルカーチの著作にふれ文学・哲学関連の執筆活動をはじめており、53年に新日本文学会へ入会する。同会は針生が一番長く所属した会であり、『新日本文学』の編集委員や議長を歴任した。さらに同年『美術批評』誌への執筆が、現代美術評論家の出発となった。針生の評論活動の時代は、戦後民主主義の始動、60年・70年安保といった政治的な激動期であった。自身、50年代の基地闘争をはじめ三井三池炭抗闘争へ参加、「政治と芸術」をテーマに、現代芸術と大衆(または生活者)をめぐるダイナミクスを論じることを常としていた。69年から刊行された全6巻の評論集は、戦後の芸術運動を捉え、「大衆のなかから形なき前衛」を望む姿勢を発するものである。対外的には、67年のヴェネチア・ビエンナーレ、77年と79年のサンパウロ・ビエンナーレのコミッショナーをはじめ、アジア・アフリカ作家会議の委員を務めるなど、パレスチナをはじめとする第三世界、国交樹立前の中国や南北朝鮮との文化交流に積極的に参加した。67年からのヨーゼフ・ボイスとの交流は「運動としての芸術」への思いを強くしたという。70年代半ばからは「〈前衛〉の理念の崩壊とともに、個々の作家の仕事を同時代人に正確にうけとらせる作家論に力をそそぎ」(引用「自筆年譜」『機關』17号針生一郎特集より)、今井俊満、岡本太郎、香月泰男、桂ゆきなど多くの美術家の展覧会図録や作品集へ寄稿した。80年代から、「退役批評家」と自嘲的に語り、「原稿執筆は喫茶店の梯子」もしなくなったと語っていた。1999(平成11)年に肺がんを発症、入院し抗がん剤で治療をするも、愛用のタバコ「わかば」は離さなかった。2000年の光州ビエンナーレでは「芸術と人権」の特別展示のキュレーター、02年にはアートスポット「芸術キャバレー」の設立に加わった。評論、講演活動を死の直前まで体に鞭打ち行なった「生涯現役の行動する評論家」といえよう。ドキュメンタリー映画に『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』(大浦信行監督、2001年)、出演映画に『17歳の風景―少年は何を見たのか』(若松孝二監督、2005年)がある。1968年から73年まで多摩美術大学教授、74年から96年まで和光大学教授、98年から2000年まで岡山県立大学大学院教授を歴任。また金津創作の森館長、原爆の図丸木美術館館長、美術評論家連盟会長を務めた。 主な著書 『ゴーガン』 『レジェ』(みすず書房・美術ライブラリー、1958年、1959年) 『芸術の前衛』(弘文堂現代芸術論叢書、1961年) 『われらのなかのコンミューン 現代芸術と大衆』(晶文社、1963年) 『現代美術のカルテ』(現代書房、1965年) 『針生一郎評論』(全6巻、田畑書店、1969-70年) 『文化革命の方へ 芸術論集』(朝日新聞社、1973年) 『現代の絵画 別巻今日の日本の絵画』(平凡社、1975年) 『戦後美術盛衰史』(東書選書 1979年) 『言葉と言葉ならざるもの』(三一書房、1982年) 『わが愛憎の画家たち』(平凡社選書、1988年) 『修羅の画家 評伝安部合成』(岩波同時代ライブラリー41、1990年) 主な訳書 『リアリズム芸術の基礎』(ルカーチ著、未來社、1954年) 『バルザックとフランス・リアリズム』(ルカーチ著、男沢淳と共訳、岩波書店現代叢書、1955年) 『ダダ 芸術と反芸術』(H・リヒター著、美術出版社、1966年) 『シュルレアリスム』(ベンヤミン著作集8、野村修と共訳、晶文社、1981年) 『ジョン・ハートフィールド フォトモンタージュとその時代』(H・ヘルツフェルド著、水声社、2005年) 主な編著 『現代絵画への招待』(南北社、1960年) 『現代美術と伝統』(合同出版社、1966年) 『われわれにとって万博とはなにか』(田畑書店、1969年) 『現代の美術Art Now 第10巻記号とイメージ』(講談社、1971年)

小松茂美

没年月日:2010/05/21

 古筆学研究者の小松茂美は5月21日午後0時53分、心不全のため死去した。享年85。古筆学は、書道史、歴史学、国文学、絵画史を超越する、学際的な新たな学問である。小松はその樹立に、凄まじい情熱を注ぎ、人生のすべてを捧げた。1925(大正14)年3月30日、山口県三田尻(現、防府市)に生まれる。旧制中学を卒業後、広島鉄道局に勤務した。1945(昭和20)年8月6日爆心地から1.8キロメートルという勤務先において被爆した。生死の境界をさまよう病床で、厳島神社の秘宝「平家納経」(国宝、全33巻)を視察中の文化人が披見という記事を読んだ。これを契機に、ひとりの国鉄職員が180度違う学問に目覚めた。学究生活を推し進めるため上京を企図し、運輸省に転勤した。幾多の苦難を乗り越え、53年、待望の東京国立博物館の研究員となる。以降、『後撰和歌集 校本と研究』(誠信書房、1961年)、『校本浜松中納言物語』(二玄社、1964年)と、水を得た魚の如く業績を積み、わずか34歳にして文学博士、『光悦』(共著、第一法規出版、1964年)により毎日出版文化賞特別賞、『平安朝伝来の白氏文集と三蹟の研究』(墨水書房、1965年)で学士院賞、ついには念願の『平家納経の研究』(講談社、1976年)を完成して朝日賞を受賞した。また、従来、絵巻は絵画史からの研究のみであったが、詞書にもスポットをあて古筆学の手法を取り入れて研究する。小松の編集になる『日本絵巻大成』(全27冊、中央公論社、1977~79年)、『続日本絵巻大成』(全20冊、同、1981~85年)、『続々日本絵巻大成』(全8冊、同、1993~95年)は、オールカラーで全巻掲載という画期的な出版であった。いまなお、絵巻の鑑賞、研究の決定版である。さらに、筆者を明らかにする書跡を可能なかぎり所収した小松茂美編『日本書蹟大鑑』(全25冊、講談社、1978~80年)は、書跡や歴史研究の基本台帳として研究者や愛好家に常用されている。また、公私立の博物館・美術館、個人のコレクター所蔵の平安時代から鎌倉時代にかけての歌切や歌論書などの古筆を集大成した『古筆学大成』(全30巻、講談社、1989~93年)は、通常の個人研究の枠では計り知れないもので、小松の公私の人脈を駆使して成し遂げることが出来た空前絶後の偉業である。今日でも、古筆研究に際しては、まず『古筆学大成』所収の有無を確認することからはじめなければならないというほどで、国文学、書道史研究の必須文献の一つである。また、後進の育成にも励み、東京教育大学・東北大学・早稲田大学などの講師も勤めた。86年に東京国立博物館を定年で退職すると、古筆学研究所を設立し、『水茎』などの学術雑誌を発行するほか古筆学の普及に尽力した。1990(平成2)年には、センチュリーミュージアム館長に就任し、以後没するまで古筆学の視点での展示に努めた。98年に、山口県柳井市の名誉市民に選ばれた。この間に上梓した『光悦書状Ⅰ』(二玄社、1980年)、『利休の手紙』(小学館、1985年)は古筆学を駆使した研究で、従来の数寄者的な本阿弥光悦、千利休研究にとどまらず、筆跡研究はもとより、両者の交友人物まで解き明かした名著である。ほかに、古筆、写経、手紙、宸翰などに関する多くの編著があり、研究者だけでなく、多くの人々への啓蒙活動も注目される。こうした著述の主な論文は全33巻にも及ぶ『小松茂美著作集』(旺文社、1995~2001年)に収録されている。ことに晩年の10年は、骨身を削って後白河院の研究に没頭した。文字どおりの古筆学の集大成と意気込み、公卿日記の資料の海から、膨大な記事の抄出と整理を終えていた。研究編を執筆中の逝去であったが、その成果は、2012年5月、『後白河法皇日録』(小松茂美編著 前田多美子補訂、学藝書院)としてまとめられた。今後の後白河研究のみならず、同時代のすべての研究の基盤となる大著である。

荒川修作

没年月日:2010/05/19

 美術家の荒川修作は5月19日、ニューヨークの病院で死去した。享年73。1936(昭和11)年7月6日、名古屋市瑞穂区雁道町に生まれる。51年、愛知県立旭ヶ丘高校(旧制愛知一中)美術課程に入学。同級生に美術家赤瀬川原平、一学年上に彫刻家石黒鏘二がいた。56年、武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)に入学(のちに中退)。57年、第9回読売アンデパンダン展に初出品(以降、61年まで出品をつづける)。翌年の同展に出品された「人間―砂の器B」が瀧口修造に注目され、知遇を得る。60年、吉村益信、篠原有司男、赤瀬川原平、風倉匠、有吉新、石橋清治、上田純、上野紀三、豊島壮六とともに、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成し、4月、7月、9月にネオ・ダダ展を開催。しかし、同9月に初の個展「もうひとつの墓場」(村松画廊、東京)を開いたことで、グループの規律を乱したとして批判され、グループを離れる。61年、江原順の企画により2回目の個展を夢土画廊(東京)で開催。同12月、単身、ニューヨークへ渡る。62年、マドリン・ギンズと出会い、以降共同で作品を制作する。63年のシュメラ画廊(デュッセルドルフ)以降、欧米各地で個展を開催。また、後に「意味のメカニズム」として実現されるプロジェクトを開始。このころには、「棺桶」シリーズと呼ばれる箱状の作品から、ダイアグラム絵画と呼ばれる言葉や記号などを組み合わせた作品へと制作の重点が移る。65年、南画廊(東京)で開催した個展で渡米後の作品を初めてまとまったかたちで展示。66年、第7回現代日本美術展(東京都美術館ほか)に「作品―窓辺」を出品し、大原美術館賞。67年、第9回日本国際美術展(東京都美術館ほか)に「Alphabet Skin No.3」を出品し、東京国立近代美術館賞。68年、第8回現代日本美術展(東京都美術館ほか)に「作品」を出品し、最優秀賞。このころ、ニューヨーク、ウェスト・ハウストン通りのビルに転居。70年、第35回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館(コミッショナー・東野芳明)に「意味のメカニズム」シリーズを出品。71年、マドリン・ギンズとの共著『意味のメカニズム』をドイツ語で出版。72年、ドイツ政府の奨学金で西ベルリンに約8か月滞在し、ヴェルナー・ハイゼンベルクをはじめとする多くの物理学者・生物学者と交友を結ぶ。同年、「意味のメカニズム」展がドイツ各地を巡回。77年、デュッセルドルフを皮切りに、ヨーロッパ各都市を巡回する大規模な個展を開催し、その評価を確立する。79年、ヨーロッパでの巡回展に準ずる規模の個展を国内で初めて開く(西武美術館)。同年には、「意味のメカニズム」(国立国際美術館)、「荒川修作全版画展」(兵庫県立近代美術館)など国内での大きな個展が相次ぎ、『意味のメカニズム』第二版(英語、日本語、フランス語)も刊行。86年、「前衛芸術の日本」(ポンピドゥー・センター、パリ)に出品。87年、マドリン・ギンズとともに、Containers of Mind Foundation(現、Architectural Body Research Foundation)を設立。1991(平成3)年、国内での大規模な回顧展「荒川修作の実験展―見るものが作られる場」(東京国立近代美術館ほか)が開かれ、日本の観客に荒川の全貌を知らしめる機会となった。94年、磯崎新設計による奈義町現代美術館に常設作品「偏在の場・奈義の竜安寺・心」(現、「偏在の場・奈義の竜安寺・建築する身体」)が完成。斜めに傾いた円筒状のギャラリーの内壁に、竜安寺の石庭を配置するというものだった。この作品にみられるように、晩年の荒川は、鑑賞者の身体感覚に訴える建築的作品へと傾倒していった。翌年には、大規模な野外施設としての作品「養老天命反転地」が竣工。すり鉢状の地形に様々なパビリオンが点在し、それらが遠近感や平衡感覚を狂わせることで、日常生活においては無自覚な身体感覚を再認知させる。97年、グッゲンハイム美術館(ニューヨーク)で日本人として初めてとなる個展「宿命反転―死なないために」を開催。2002年、『建築する身体』(英語版)を出版。このころから、「芸術、哲学、科学の総合に向かい、その実践を推し進める創造家」としてのコーデノロジストを名乗り始める。05年、「三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller」、08年、「バイオスクリーヴ・ハウス」(ニューヨーク)が完成。これらの作品は様々な分野の研究者の関心を惹き、05年に第1回アラカワ+ギンズ国際会議(パリ第10大学)が開かれる。その後も、08年に第2回(ペンシルベニア)、10年に第3回(on line)が開かれた。10年、初期の「棺桶」シリーズを集めた「死なないための葬送―荒川修作初期作品展」(国立国際美術館)が生前最後の個展となった。主な受賞歴として、1986年、芸術文化勲章(シュヴァリエ)受章、88年、ベルギー批評家賞、96年、第28回日本芸術大賞、2003年、日本文化芸術振興賞および紫綬褒章、10年、旭日小綬章など。

岩崎巴人

没年月日:2010/05/09

 日本画家の岩崎巴人は5月9日、千葉県館山市にて間質性肺炎のため死去した。享年92。1917(大正6)年11月12日、東京都新宿区に生まれる。本名彌寿彦。1931(昭和6)年川端画学校夜間部に入学、日本画を専攻する。34年玉村方久斗が主宰するホクト社第5回展に「少女」「風景」を出品。37年第9回青龍社展に岩崎巴生の名で「海」が初入選。翌年小林古径の門に入り、38年第25回院展に「芝」が入選、横山大観から高い評価を得る。42年に出征、復員後の47年に再び院展に入選し、院友となるが50年に脱退。一方で新興美術院の再興に参加、会員となり、以後同展に「情熱の終末」(1952年第2回)等を出品。58年谷口山郷、長崎莫人らと日本表現派を結成、68年に脱退するまで出品を続ける。この他、現代日本美術展、日本国際美術展、「これが日本画だ」展等にも出品。71年インド、スリランカへ旅行し、以後、仏伝画や仏教的テーマの作品を制作するようになる。77年には禅林寺で出家、得度し、その後も異色の画僧として活躍。南画的フォーヴの画風を展開し、「河童屏風」(1979年)、「降魔成道」(1983年)等飄逸さを加えた作品を発表する。70年上野の森美術館で岩崎巴人大作展、84年高岡市立美術館で岩崎巴人展、86年には青梅市立美術館、87年には奈良県立美術館で回顧展が開かれた。87年から翌年にかけてNHK趣味講座「水墨画入門」の講師を務める。著書に『芸術新潮』や『三彩』等に掲載のエッセイを集めた『蛸壺談義』(神無書房、1978年)。没後の2012(平成24)年には富山県水墨美術館で追悼展が開催されている。

藤井秀樹

没年月日:2010/05/03

 写真家の藤井秀樹は5月3日、肝臓がんのため八王子市内の病院で死去した。享年75。1934(昭和9)年8月28日東京に生まれる。本名秀喜。子供の頃からカメラに親しみ、高校在学中の52年に映画館の火災を撮影した写真が新聞紙面に掲載され、同年サン写真新聞優秀報道写真賞を受賞した。こうした経験から写真家を志し、54年日本大学芸術学部写真学科に入学。学業と並行して、秋山庄太郎に師事、助手を務める。57年婦人生活社に入社、ファッション誌『服装』の専属として、さまざまな撮影を担当。60年日本デザインセンターに移り、広告写真を担当、自動車会社の広告のために日本で初めて本格的な自動車のスタジオ撮影にとりくむなど、新しい広告写真表現で注目された。63年に同社を辞し、フリーランスとなり、65年スタジオ・エフ設立。同年、丘ひろみをモデルに起用したマックスファクター社の広告写真によりスペイン新聞広告賞金賞を受賞、以降8年にわたって手がけた同社の広告により評価を確立する。75年に国際写真雑誌『Zoom』29号で特集されるなど、その作品は海外でも評価が高く、生涯にわたって広告写真の一線で活動を続けた。また女優のポートレイトも多く手掛け、それらをまとめた『藤井秀樹女優作品集』(竹書房、1994年)が出版されている。全身に化粧を施したモデルを被写体に日本の伝統美を表現した、メークアップアーティスト小林照子との共同作業による「からだ化粧」の連作は、81年の展覧会(オリンパスギャラリー、東京・新宿)での発表以降、ライフワークの一つとなった。84年に出版された写真集『からだ化粧』(日本芸術出版社)などにより85年第35回日本写真協会賞年度賞を受賞。また80年代半ばからは感光乳剤を布や石などさまざまな素材に塗布して支持体とする印画技法を試み、独自に「フジイグラフィ(Fグラ)」と呼んで作品制作にとりくんだ。90年代後半からは小児病院の設立などカンボジアの児童支援に尽力するとともに、たびたび同国を訪問し子供たちのくらしを撮影、2004年には『カンボジアと子どもたちの戦後』(丹精社)を上梓している。83年日本写真芸術専門学校に講師として招聘され、以後同校で教鞭を執り、02年から校長を務めた。また02年から04年まで社団法人日本広告写真家協会会長を務めた。

芝田耕

没年月日:2010/04/30

 洋画家の柴田耕は4月30日午前0時55分、肺炎のため京都市北区の病院で死去した。享年91。1918(大正7)年11月23日、京都市上京区笹屋町に生まれる。1934(昭和9)年、旧制京都市立第二工業学校(現、京都市立伏見工業高等学校)建築科を卒業。41年以降、須田国太郎に師事。45年、須田が指導に当たっていた西陣の独立美術協会京都研究所に入所する。京都市展に出品し、市長賞・京展賞受賞。47年第15回独立美術協会展に「町」で初入選。54年第22回独立展に「夏木立」「卓上静物」を出品して独立賞を受賞し、翌年同会准会員に推挙される。59年、同会会員となる。60年京都学芸大学講師となる。68年、京都精華大学美術学部教授となる。1960年代は対象の再現描写をはなれ、やや幾何学的に形体にとらえ直して画面上に配置する詩情ある風景画を多く描いたが、1970年代半ばに、やや俯瞰した視点からとらえた西洋風景に、唐突に前景として椅子やテーブルなどの静物を描きこんだ作風へと転じた。87年第55回独立展に「或る光景」を出品して文化庁買い上げとなる。同作品も遠景に家屋を描き、画中画として静物画を描きこんだ構成となっており、自然主義的遠近表現と空間表現から離れた静謐な虚構空間を表している。88年京都府文化賞功労賞を受賞。1989(平成元)年、京都府文化功労者に選出される。94年独立美術協会会員功労賞を受賞。98年京都美術文化賞を受賞。99年には同賞受賞記念展が京都府京都文化博物館で開催された。京都教育大学で1970年まで、京都工芸繊維大学工芸学部で1985年まで講師を務めた。独立美術展30周年記念の際の『独立美術』(同協会、1962年)に「地方の地についた生活から」と題する一文を寄せ、「先ず自らの生活、生き方、考え方が先決のはずではありませんか」「地方の地についた生活から生れる絵画をいよいよ尊重してゆきたい」と述べているように、郷里である京都で制作を続け、内省的で静謐な画風を築いた。独立美術協会展出品略歴:第15回展(1947年)「町」(初入選)、20回(1952年)「樹間初秋」、25回(1957年)「出土」「古世人」、30回(1962年)「湖岸」、35回(1967年)「樹のある街」、40回(1972年)「オリーブと街」、45回(1978年)「北欧の街」、50回(1982年)「森の街」、55回(1987年)「或る光景(山脈)」、60回(1992年)「或る光景1992」、65回(1997年)「画室卓上」、70回(2002年)「ものを描く」、75回(2007年)「画室卓」、77回(2009年)「或る日の画室」(同展最終出品)

三栖右嗣

没年月日:2010/04/18

 安井賞受賞作家で、陰影の深い写実表現を追求した洋画家の三栖右嗣は、4月18日に心不全のため埼玉県嵐山町で死去した。享年82。1927(昭和2)年4月25日、父三栖秀治、母千里の次男として、神奈川県厚木市に生まれる。本名三栖英二。44年埼玉県北足立郡新倉(現、和光市)に転居。翌年、東京美術学校油画科に入学、安井曽太郎の教室に学ぶ。52年、新制大学となった東京藝術大学美術学部油絵科を卒業。55年、一水会に「室内」が初入選。以後、59年まで同会に出品する。また、制作の傍ら映画会社の大映広告宣伝部に入る。60年から70年まで、現代芸術への懐疑と自身の創作に対する模索から作品の発表を停止した。72年、ヨーロッパとアメリカを旅行、旅行中のアメリカでアンドリュー・ワイエスを自邸(フィラデルフィア郊外)に訪ねた。以後、ワイエスの自然の一角をリアルに切り取りとりながら、乾いた叙情性をにじませた表現に強い影響を受けるようになり、そこに写実表現の可能性を見いだした。75年、沖縄海洋博覧会の「海を描く現代絵画コンクール」に海に生きる三代にわたる家族像をテーマにした「海の家族」を出品、大賞を受賞。翌年、第19回安井賞展に実母をモデルにした「老いる」出品、同賞を受賞。受賞作は、老いた人間の肉体を冷静に克明に描きだすことによって、肉親に対する情愛と生命に対する敬虔な念が凝縮された表現となっていた。この時期における連続受賞と、集中力を要する堅牢な写実表現によって、日本の美術界において一躍注目されるようになった。78年、取材のためにスペインを旅行し、翌年にはマドリッドで個展を開催。これを契機に、透明感のある光と陰影に富んだ写実表現は、いっそうこの画家のスタイルとして築かれていった。また、静物、風景、人物等にわたり、画家の言葉である「いのち」をテーマとするようになり、厳然たる自然の姿に対して敬虔な姿勢と賛歌を画面に表わすことにつとめた。晩年にあたる500号の大作「爛漫」(1996年)は、画面に一面に咲きほこる枝垂桜を描きながら、この画家ならではの自然から得た生命そのものの表現となっている。81年、『林檎のある風景』を刊行、同年碇谷尚子と結婚。82年、埼玉県比企郡玉川村(現、ときがわ町)に転居、ほぼ毎年各地で個展を開催しながら、この地で生涯を終えるまで制作を続けた。画家の没後の2012(平成24)年4月、埼玉県川越市氷川町にヤオコー川越美術館・三栖右嗣記念館(伊東豊雄設計)が開館した。

毛利武彦

没年月日:2010/04/13

 日本画家で創画会会員、武蔵野美術大学名誉教授の毛利武彦は4月13日、肺炎のため死去した。享年89。1920(大正9)年8月25日、東京市荒川区日暮里に生まれる。父の教武は高村光雲門下の彫刻家。1935(昭和10)年、父の友人である川崎小虎に師事。38年東京美術学校日本画科入学、42年同校を繰上げ卒業となり徴兵され、45年台湾の山中で終戦を迎える。翌年復員し、家族が日本画家森村宜永宅に仮寓していた関係で、宜永より大和絵の技法を学ぶ。49年にかねてより敬愛していた山本丘人宅を突然訪ね、以後丘人に師事する。50年創造美術春季展に「風景」が入選。創造美術が新制作派協会と合流し新制作協会が設立された後は、新制作展日本画部に出品。55年第19回展、61年第25回展、62年第26回展で新作家賞を得、64年新制作協会会員となる。74年に新制作協会日本画部全員が同協会を退会し、創画会を結成した後は創画展に出品を続けた。クレーの作風を取り込んだ50年代の風景からビュッフェやミノーの影響を受けた骨太な表現を経て、70年代の馬シリーズや80年代のキリスト教に題材をとった作品などで自らの絵画世界を構築。重厚な構成と筆致により精神性を秘めた作風を築いた。55年に山本丘人門下の研究・発表会である凡樹画社、74年には美術団体の枠を超えて組織された遊星会、85年の創画会主力メンバーによる地の会の結成に参加。制作の一方、48年から82年まで慶應義塾高等学校の美術科教諭を務め、また58年より武蔵野美術大学で教鞭をとるなど長年後進の指導にあたった。1989(平成元)年武蔵野美術大学図書館において作品展を開催。91年同大学を定年退職、名誉教授となる。同年『毛利武彦画集』を求龍堂より刊行。没して間もない2010年夏には「毛利武彦の軌跡展」が練馬区立美術館で開催、翌年の一周忌には『幻駿忌 毛利武彦随想集』が刊行された。

山﨑一雄

没年月日:2010/04/10

 学士院会員で名古屋大学名誉教授、無機化学者で文化財科学研究者の山﨑一雄は心不全のため4月10日に死去した。享年99。1911(明治44)年3月15日に名古屋で生まれ、1930(昭和5)年に旧制大阪高等学校を卒業した後、東京帝国大学理学部化学科に進み、後に日本学士院長となる柴田雄次教授の下で研究を行う。33年に卒業し、2年間大学院に進んだ後、35年に副手、翌36年から41年まで助手をつとめた。この間に39年に設置された法隆寺金堂壁画保存調査会に、委員である柴田と共に調査員として参加し、壁画の顔料分析を行った。これを始まりとして、以後、文化財の顔料分析に係わるようになる。またこの頃に、当時東京帝国大学文学部の学生として平等院鳳凰堂壁扉画を研究していた秋山光和と知り合い、互いに協力して研究を行うようになった。山﨑は新設された名古屋大学理工学部に41年に助教授として赴任した。翌42年には東京帝国大学を定年退官した柴田が理工学部から新しくできた理学部の学部長として赴任した。43年に理学部教授となる。大学では専門である無機化学(錯体化学)の研究を行うと同時に、法隆寺金堂壁画の顔料分析を続け、名古屋に移って奈良が近くなったこともあり、戦中から戦後までの交通が困難な時代に合計すると百回近く、大半が私費で現地に通ったと対談の中で述べている(「先学訪問01」2005、学士会)。金堂壁画は49年1月26日に火災にあったが、山﨑はすぐに現場に駆けつけ火災後の調査に参加し、火災後の壁画顔料の分析を行った。その報告では、火災によって赤色の朱は分解して水銀は消失し、鉛丹は一酸化鉛になって黄色に変色したが、ベンガラは不変であったなどと生々しい被災の様子が述べられて、貴重な分析結果となっている。この頃に山﨑が利用していた分析方法はほとんどが微量定性分析で、その他に発光分光分析を用いていた。法隆寺金堂壁画の調査の後、山﨑は装飾古墳や平等院鳳凰堂、醍醐寺五重塔などの調査を行い、特に醍醐寺五重塔の共同研究(高田修編『醍醐寺五重塔の壁画』吉川弘文館、1959年)では、60年に高田修・柳澤孝などと共に日本学士院賞(恩賜賞)を受賞した。山﨑の広い時代に渡る顔料分析により、わが国では白色顔料として、初期に白土が用いられ、平安時代頃には鉛白を用い、室町時代頃からは胡粉が用いられるようになったというおおまかな変遷が明らかになった。山崎は戦後始まった正倉院の宝物調査においても調査員として活躍した。最初に関わった調査は薬物の調査で、その後の正倉院宝物特別調査では、密陀絵、絵画、ガラス、陶器、石材などの調査に参加した。中でも密陀絵の調査の際には、明治時代から漆絵か密陀絵か議論になっていた法隆寺の玉虫厨子を調査し、須弥座の捨身飼虎図に紫外線をあてたところ部分的に蛍光が見えたことから、一部に油を用いた密陀絵であろうと判断している。この当時の密陀絵の調査では、紫外線による蛍光の有無と色だけしか材料を判断する方法がなかったので、予想される各種の顔料を漆、荏油、膠などでといてあらかじめ各種の手板を作り、それに紫外線を当てて出てきた蛍光を調査対象と比較している。この実験結果は、その後も密陀絵かどうか判断する時の基礎資料となった。山﨑の研究は絵画だけでなく、陶器、ガラス、金属など広い分野に及び、それらの成果は87年に出版された『古文化財の科学』(思文閣出版)に詳しくまとめられている。74年に名古屋大学を定年退官して名誉教授となり、82年に勲二等瑞宝章を受章、88年に国際文化財保存学会(IIC)のフォーブス記念賞を受賞する。翌1989(平成元)年に、無機化学だけでなく文化財科学への貢献も評価されて、日本学士院会員に選定された。山﨑は優れた無機化学者としてわが国の文化財科学の成立と発展に大きく貢献しただけでなく、文化財科学に関する学会の発足や発展に力を尽くした。1948年には古文化資料自然科学研究会(現、一般社団法人文化財保存修復学会)の会員として、82年には日本文化財科学会の初代会長としてそれらの発足に関わり、国際文化財保存学会(IIC)では副会長として、文化財保存・修復に関わる国際学会大会をわが国で初めて88年9月に京都で開催するなど、広く国内外で文化財科学の発展に尽くした。また山﨑は若いときから会合などの細かいメモを丁寧に残していたので、多くの関係者が物故した後にも、確かな記憶とそれらのメモを元に学会誌などに文化財科学の黎明期について度々記し、それらの記事は文化財科学の始まりから発展の歴史を語る貴重な記録となっている。ほぼ百年にわたった山﨑の生涯は、その足跡そのものがわが国の文化財科学の歴史といえる。

小林章男

没年月日:2010/03/27

 屋根瓦の製作者であり、国の選定保存技術保持者であった小林章男は、膀胱癌のため奈良市の病院で3月27日死去した。享年88。1921(大正10)年12月7日、江戸時代文政年間からつづく瓦匠、屋号「瓦宇」(かわらう)の当主の長男として奈良県奈良市に生まれる。1938(昭和13)年、家業の瓦製造業に就き、以後数多くの国宝、重要文化財等に指定された建造物の屋根瓦の製造及び修理事業に携わる。81年、奈良県瓦葺高等職業訓練学校(奈良県天理市)校長に就任、88年まで務める。82年、「現代の名工」として労働大臣表彰を受ける。84年、株式会社瓦宇工業所代表取締役に就任。同年、「鬼瓦づくり」で第4回伝統文化ポーラ賞(ポーラ伝統文化振興財団)の特賞を受賞。88年、国宝「法隆寺五重塔」をはじめとして、本瓦葺の建造物の修理で捕捉される役瓦(巴瓦、鬼瓦、鯱、鴟尾等)の製作技術が高く評価され、「屋根瓦製作(鬼師)」として国の選定保存技術保持者に認定される。1991(平成3)年、瓦職人の集まりである「日本鬼師の会」の会長に就任(95年まで)。同年、日本伝統瓦技術保存会の設立にあたり会長となる(97年まで)。また勲六等瑞宝章を受章。2002年、株式会社瓦宇工業所の会長に就任。代表的な仕事としては、昭和の東大寺大仏殿の瓦葺替工事を棟梁として成し遂げた。ほかに古建築瓦葺替工事は、近畿、中国、四国を中心に全国に及んでいる。この間、古代、中世から近世にわたるまで、瓦の様式、製法等を、全国にわたる調査と製作という実践を通じて蓄積された経験、技術、知見は、建築史、歴史考古学等の学界に多大に寄与した。また、多くの著作を残しており、主要な著作は下記のとおりである。『対談・鬼瓦その他』(大蔵経済出版、1980年)、『鬼瓦』(大蔵経済出版、1981年)、中村光行共著『鬼・鬼瓦(INAX BOOKLET)』(INAX、1982年)、『生きている鬼瓦』(石州瓦販売協業組合、1985年)、『獅子口を探る』(小林章男、1995年)、山田脩二共著『瓦―歴史とデザイン』(淡交社、2001年)、日本鬼師の会、京都府大江町共編『鬼瓦(棟端飾瓦)造り 鬼瓦読本』(日本鬼師の会、2004年)。なお、『史迹と美術』(史迹美術同攷会)における連載「鬼瓦百選」(第1回は721号)は、生前に原稿がすべて準備されていたため、同誌820号(2011年12月)において100回をもって完結した。

永山光幹

没年月日:2010/03/22

 刀剣研磨で重要無形文化財保持者である永山光幹は3月22日死去した。享年90。1920(大正9)年3月21日、神奈川県中郡相川村(現、厚木市)の農家に7人兄弟の末子として生まれる。本名永山茂。1934(昭和9)年、14歳のとき東京下谷区黒門町の研師で、鑑定家でもあった本阿弥光遜に入門し、刀剣研磨の道に進む。師の光遜は水戸の本阿弥家の研師であったが、別系統で名人と呼ばれていた本阿弥琳雅に学び、将軍家や大名の所蔵していた刀剣を代々伝承された技で研ぐ家研ぎの継承者であった。44年、兵役に召集され歩兵第49連隊に入営し中国に出征し、現地でも軍刀の研磨に従事した。46年、復員し、ただちに光遜に再入門するが、戦後進駐軍による日本刀の没収、愛好家や旧大名の経済力の低下などにより、本格的な研磨の依頼はほとんどなかったと本人は回顧している。48年に日本刀の保存を目的として設立された日本美術刀剣保存協会が開催した55年の研磨技術発表会で無鑑査に認定され、名実ともに名工との評価を得、同展の審査委員となる。56年神奈川県平塚市で開業、59年中郡大磯町西小磯に転居し、弟子を採り始める。永山の功績の大きなところは、秘伝、奥義といった貴重な成果を隠してはならないとして、技術を開示したことと、後継者を多く養成したことである。68年に平塚の旧宅に「永山美術刀剣研磨研修所」を開設し、月謝制によって研磨の技術を教えたことでも裏付けできる。78年、ユネスコの要請によりベネチアの東洋美術館の所蔵刀剣の調査を行い、帰国後10点を研磨した。研磨した刀剣は春日大社の国宝の金装花押散兵庫鎖太刀、重要文化財の堀川国広はじめ多くの重要文化財がある。また『刀剣鑑定読本』、『日本刀を研ぐ』など刀剣の研磨、鑑定に関する著作もある。1998(平成10)年、重要無形文化財に認定され、2000年勲四等旭日小綬章を受章する。

伊砂利彦

没年月日:2010/03/15

 染色作家の伊砂利彦は3月15日、肺がんのため死去した。享年85。1924(大正13)年9月10日、伊砂藤太郎、正代の長男として京都市中京区三条猪熊町に生まれる。実家は3代続いた友禅の糊置き業であった。1941(昭和16)年京都市立美術工芸学校彫刻科卒業。44年に海軍二期予備生徒として滋賀海軍航空隊に入隊。45年終戦とともに復員。京都市立絵画専門学校図案科卒業。以後、家業の染色に従事する。戦後の失業者救済事業として、友禅染を元来の分業ではなく一貫作業で行う工房の経営を任される。この経験は、複雑な染色工程や技術を学ぶ機会となった。その後、仕事増加により生活も安定する一方、作品の制作をはじめる。富本憲吉の「模様より模様を作らず」に感銘を受け、同氏が主催する新匠会で活躍することとなる。当初は蝋纈染の作品を制作していたが、その後、型絵染へと表現技法が変化していく。そこには初期の新匠会を牽引し、型絵染で活躍した稲垣稔次郎の存在があったという。53年、第8回新匠会公募展に蝋纈パネル「新芽」を出品、初入選。以後、同展に連続出品する。54年に工房を開設。松、水、音楽や海などをテーマに幅広い作品を制作した。58年新匠会会友となり、翌年には新匠会会員となる。63年京都の土橋画廊で初個展、型絵染「松シリーズ」小品展開催以降、継続的に個展を開催する。71年第26回新匠会展出品の着物「流れ」が富本賞受賞。同年、京都・射手座で安田茂郎と二人展を開催。75年に新匠会が新匠工芸会と改称され、同会の会務責任者となる。80年には「近代の型染」展(東京国立近代美術館工芸館)、「染と織 現代の動向」展(群馬県立近代美術館)に出品。世界クラフト会議ウィーン会場で、着物を展示し日本の着物について講演する。82年には「ろう染の源流と現代展」(サントリー美術館)や「染色展」(西武美術館)に出品。83年「現代日本の工芸―その歩みと展開―」(福井県立美術館)に出品。84年、京都芸術短期大学客員教授となる。85年、第40回新匠工芸会展で型絵染屏風「スクリャービン 焔にむかって」が第40回新匠工芸会記念大賞を受賞。87年『伊砂利彦作品集』(用美社)を出版。88年京都市京都芸術文化協会賞を受賞。1989(平成元)年京都府京都文化功労賞と京都美術文化賞を受賞。同年、沖縄県立芸術大学教授となる。90年フランス政府より芸術文化勲章シュバリエ章を受章。91年「羽衣」パリ公演(世界文化会館、ユネスコホール)の舞台美術を担当。第46回新匠工芸会に型絵染屏風「沖縄戦で逝きし人々にささげる鎮魂歌」等を出品。以降、沖縄を主題とした作品が評価を受ける。92年第47回新匠工芸会展で「海に逝きし人々に捧げる鎮魂歌」で第47回新匠工芸会富本賞受賞。京都市文化功労者となる。93年沖縄県庁舎警察棟の記念碑彫刻と壁面装飾を制作。「現代日本の染織」展(福島県立美術館)に出品。94年「現代の型染」展(東京国立近代美術館工芸館)や「現代の染め―4人展」(国立国際美術館)に出品。95年沖縄県立芸術大学奏楽堂緞帳を制作。99年、フランスのシャルトルステンドグラス国際センターで個展「フランス、パリ―シャルトル」を開催。「京の友禅」展(目黒区美術館)に出品。2001年、京都芸術センターで、特大和紙型絵染「月四部作」を公開制作し、内覧会を開催。03年「音楽による造形のきもの」展(フランス シャルトル―サンテチェンヌ)に出品。04年、京都市美術館別館にて「-傘寿を記念して-伊砂利彦と11.5人展」開催。05年、東京国立近代美術館工芸館にて「伊砂利彦―型染の美」展開催。京都迎賓館に型絵染額装「花」「一文字松」「水の表情12景」を制作。06年、「音と形の出会い―伊砂利彦とドビュッシーをめぐって―」展開催(京都芸術センター)。京都迎賓館に型絵染屏風「ムソルグスキー展覧会の絵」より「リモージュの市場」「キエフの大門」を制作。沖縄県立芸術大学名誉教授となる。同年、『型絵染 伊砂利彦の作品と考え』(用美社)を出版。ここには、40年に亘る作品がまとめられている。08年、福島県立美術館にて「伊砂利彦 志村ふくみ 二人展」開催。同展では両氏による共同制作も行われた。09年、第64回新匠工芸会展では「孫よりの贈りもの バラの園」が審査員特別賞受賞。10年、日本文化藝術財団の第1回創造する伝統賞を受賞。11年には追悼「伊砂利彦回顧展」(福島県立美術館)が開催された。作品は京都国立近代美術館、東京国立近代美術館、福島県立美術館などに収蔵されている。

勝呂忠

没年月日:2010/03/15

 洋画家の勝呂忠は3月15日、間質性肺炎のため死去した。享年83。1926(大正15)年5月10日、東京に生まれる。アジア太平洋戦争中に父の出身地静岡県土肥町に疎開し、同地で終戦を迎えた。終戦後、約一年間、富士宮市の日蓮宗東漸寺を営む伯父の下で過ごす。この間、静岡県在住であった洋画家曾宮一念に絵の指導を受ける。46年多摩帝国美術学校西洋画科に入学。49年、明治大学文学部仏文科に編入学する。50年多摩造形芸術専門学校(現、多摩美術大学)絵画科を卒業。同年、自由美術協会を退会した村井正誠、山口薫、小松義雄らによって進められていたモダンアート協会結成準備に、山口、小松の勧めによって参加する。51年読売アンデパンダン展に「教会」「港」を出品。以後第10回展まで同展に出品を続ける。同年日本橋三越で開催された第1回モダンアート協会展に「聖母園」「梨」を出品。52年明治大学文学部仏文科を中退。第2回モダンアート協会展に「4人」「2人」「坂」を出品して会員に推挙され、以後、同展に出品を続ける。54年文化学院美術科講師となる。56年第1回シェル美術賞展に幾何学的構成によって具象的対象を想起させる「チカラ・B」を出品して佳作賞受賞。57年、多摩美術大学講師となる。また、同年安井賞展に「キリスト」を推選出品。58年第3回現代日本美術展に「影の人」「追憶」を招待出品。59年第5回日本国際美術展に「聖天」を招待出品。60年第4回現代日本美術展に「馬と人」を招待出品。61年イタリア政府給費留学生としてイタリアへ渡り、フィレンツェのアカデミア・ベラ・アルテに入学して油彩画のほか、古代中世のモザイク画を学ぶ。62年にイタリア各地のほか、フランス、スペイン、イギリス、オランダ、ベルギー等に旅行。63年に帰国し、東京銀座の夢土画廊で帰国展を開催し、抽象的なモティーフが同心円上に拡散していく「ひろがり」ほかを出品。渡欧前は対象を幾何学的な形の集合体として把握し、それらをいったん解体してから再構成する具象画を描いたが、渡欧後は抽象表現を試みるようになる。68年多摩美術大学を辞任。69年京都産業大学教養部講師となる。73年、再度渡欧。トルコ、ギリシャ、イタリア、フランス等を巡る。80年代初頭から様々な色調の黄土色を基調とする背景に、布で全身を覆った人物立像を想起させる幾何学的形態を平板な黒い色面で表した画風へ転じた。85年、初回から出品を続けてきたモダンアート協会展の第35回記念展に「モニュメント」を出品して作家大賞を受賞。87年池田20世紀美術館で「勝呂忠の世界展」が開催され、初期から1980年代半ばまでの油彩画・版画等約80点と表紙原画100点が展示された。戦前に設立された美術団体の再興が行われる一方で、新しい時代に即した造形活動の模索がなされた1940年代後半に美術界での歩みを始めた勝呂は、「純粋なる芸術運動のために、新しい方向を示す世代の優れた芸術家群によって21世紀への橋をかける役割を果す機関として行動する」ことを決意して結成されたモダンアート協会の趣旨に深く共感し、人々の生活により近い場で受容される造形作品の制作も積極的に行った。そのひとつとして1954年から描いた早川書房刊行のポケット・ミステリーの表紙原画がある。以後、三田文学表紙(1956年~58年)、エラリー・クィーンズ・ミステリ・マガジン(創刊号から1965年まで)などの表紙原画を手がけ、斬新洒脱な画風で注目を集めた。58年にはエラリー・クィーン・ミステリ・マガジン表紙によりアメリカ探偵作家クラブ美術賞を受賞。84年にはこれらの原画約1000点の中から100点を選び、「勝呂忠装幀原画展」(千代田・木ノ葉画廊主催)を開催した。イタリア留学から帰国した63年以降は、モザイク画などによる公共建築への壁画制作も行い、岐阜県瑞浪市昭和病院玄関外壁の陶板壁画「拡がるエネルギー」(1966年)、茨城県常陸太田市農協会館外壁陶板壁画「みのり」(1967年)、東京都広尾日本青年海外協力隊センター・ロビー陶片モザイク「若いエネルギー」(1968年)、長野県信州中野市年市民会館陶板壁画、モザイク等(1969年)などを制作したほか、87年には山口薫の原画による大理石モザイク「幻想・矢羽根と牛」を群馬県箕郷町新庁舎の壁画として執行正夫とともに制作した。また、舞台美術も手がけた。1989(平成元)年第39回モダンアート協会展に「海に浮く太陽」を出品し、同年、同会を退会。以後、画廊を中心に作品の発表を行い、2002年には「勝呂忠前衛美術50年展」(鎌倉中央公民館市民ギャラリー)が開催されている。著作も行い『モザイク-たのしい造形』(美術出版社、1969年)、『西洋美術史摘要-講義資料』(啓文社、1992年)、『近代美術の変遷史料』(啓文社、1995年)などの著書がある。

河合誓徳

没年月日:2010/03/07

 陶芸家で日本芸術院会員の河合誓徳は3月7日、肺炎のため死去した。享年82。1927(昭和2)年4月3日、大分県東国東郡国見町竹田津の円浄寺住職父坂井誓順、母シゲの二男として生まれる。少年期、考古学の本に掲載された土器に魅せられ陶芸への憧れを抱く。40年、旧制宇佐中学校に入学。43年鹿児島海軍航空隊甲飛13期飛行練習生として入隊、上海海軍航空隊を経て、45年終戦により復員。47年京都にて日本画家山本紅雲に師事。49年国東へ戻されるが、陶磁の道を諦められず単身で佐賀県有田町諸隈貞山陶房に弟子入り。色絵付を学ぶ。51年京都の加藤利昌陶房にて下絵付に従事。52年京都陶芸家クラブに加入、6代清水六兵衛に師事。同年、第8回日展に「花器」を初出品、初入選。以降、入選が続く。53年12月6日、河合栄之助の長女登志子と結婚。河合家の後継者となる。その後、61年設立の日本現代工芸美術家協会にも活躍の幅を広げる。この時期の作品は白磁を中心とした造形性追求の時代と評される。62年日展で「蒼」が特選・北斗賞を受賞。64年第3回日本現代工芸美術展入選の「白磁瓶」が台湾、中南米各国に巡回。以降、日本現代工芸美術展の海外巡回に精力的に参加。66年現代工芸美術家協会会員になる。68年日展で「宴」が菊華賞を受賞。同年、京都工芸美術展審査員を務める。69年第1回改組日展の審査員を務める。71年日本現代工芸美術10回記念展では審査員を務める。同展に「円像」を出品し現代工芸会員賞・文部大臣賞を受賞。72年日展会員となる。75年紺綬褒章を受章。朝日会館において個展を開催。76年現代工芸美術家協会理事に就任。77年、スイス・スピッ芸術協会より文化交流のため招聘され作品展を開催。約1ヶ年に亘り、スイス国内主要都市に於いて作品巡回。「白象」がベルン美術館に保存される。79年日展で「翠影」が会員賞受賞。同年、用の重要性を主張する新日本工芸家連盟を結成し総務委員に就任。第1回日本新工芸展では審査員を務める。同展に「卓上の宴」を出品。この頃より、作品が壺や鉢などの大器から筥などの小さなものへと変化していく。その後、日展と日本新工芸展を中心に活動を行う。80年日展評議員になる。81年個展を高松国立公園屋島山上美術画廊遊仙亭(10月)、大分トキハ(11月)で開催。83年第5回日本新工芸展「木立の道」で内閣総理大臣賞を受賞。7月1日~7日東京銀座和光ホールにおいて個展を開催。85年11月7~12日には「大分トキハ創立50周年記念トキハ会館落成記念河合誓徳陶芸展」を開催。87年「高島屋美術部80周年記念陶筥展」を東京、横浜、大阪、京都で開催。88年、オーストラリア建国200年新工芸10回記念展では実行委員を務め、「釉裏紅富貴」(八角陶筥)を出品。この頃より染付の青や 裏紅の赤で表現する作品を数多く発表。1989(平成元)年、日展で「行雲」が内閣総理大臣賞受賞。高島屋横浜店創業30周年記念「瑞松」展開催。高知とでん西武において陶筥展開催。90年大阪高島屋において「花・草原・雲」展開催。91年、第13回日本新工芸展「草映」で内閣総理大臣賞受賞。2月東急デパートにおいて陶芸三人展(加藤卓男、北出不二雄、河合誓徳)を開催。92年3月、第10回京都府文化賞功労賞受賞。パリ三越エトワール開館記念NHK主催日本の陶芸「今」に「釉裏紅富貴」「草映」(陶筥)出品。11月西武池袋店において「甦る釉裏紅 河合誓徳四十年の歩み展」開催、続いて大分トキハに巡回。93年京都高島屋において「彩象 河合誓徳展」開催。95年日展監事になる。京都高島屋において「香炉展」開催。97年日本芸術院賞受賞、日展理事に就任。東京、横浜、京都、大阪高島屋にて「古稀記念 河合誓徳展」開催。98年京都市文化功労者として表彰される。2000年日本新工芸家連盟副会長に就任。02年大分県立芸術会館にて「河合誓徳展―磁器の新しい表現を求めて」開催。東京・京都高島屋にて「景象の譜 河合誓徳展」開催。日本新工芸家連盟会長に就任。03年、大阪・名古屋・横浜高島屋にて「景象の譜 河合誓徳展」開催。映像資料「日本の巨匠次世代へ伝えたい芸術家二百人の素顔」(第3巻、細野正信監修、日本芸術映像文化支援センター製作・著同朋舎メディアプラン)が発行される。同年、日本新工芸家連盟会長に就任。05年日本芸術院会員、07年日展常務理事、08年日展顧問を務める。

雨宮淳

没年月日:2010/02/08

 彫刻家の雨宮淳は2月8日午前9時52分、心不全のため東京都文京区の病院で死去した。享年72。1937(昭和12)年4月18日彫刻家で東京美術学校彫刻科教授であった雨宮治郎の子として東京都に生まれる。61年日本大学芸術学部を卒業。在学中は映画を学んだ。大学卒業の年に彫刻家になる決心をし、加藤顕清に彫刻理論を学んだほか、父雨宮治郎に師事。63年に日展に「首(B)」で初入選。同年、日彫展にも初入選する。64年に日彫展で奨励賞を受賞し、日本彫塑会会員となる。65年日彫展で努力賞受賞。66年、第9回新日展に男性裸体立像「望」を出品して特選となる。翌年も第10回新日展に男性裸体立像「未来を背負う人間像」を出品して二年連続特選となった。初期にはもっぱら男性像をモティーフとしたが、72年から裸婦像を中心に制作するようになり、以後、裸婦の作家として知られるようになる。74年社団法人日展会員となる。83年東京野外現代彫刻展で大衆賞受賞。84年第14回日彫展に「独」を出品して第5回西望賞受賞。1991(平成3)年第23回日展に右足を踏み出す等身大の裸婦立像を表した「暁雲」を出品し、内閣総理大臣賞受賞。97年、直立してうつむく等身大の裸婦立像を表した「韻」を第28回日展に出品作し、第53回日本芸術院賞受賞を受賞。2001年に日本芸術院会員となる。64年に父の雨宮治郎が、94年には姉で彫刻家の雨宮敬子が芸術院会員となっており、親子姉弟続いての日本芸術院会員となった。初期から一貫してブロンズによる人物裸体像を主に制作し、対象の写実に基づきつつも、西洋の理想化された身体像に学んだ端正な作風を示した。コントラポストなど古典的なポーズを好み、男性像においては力強い、女性像においては静的な身振りによって、抽象的な概念を表現した。85年から03年まで宝仙学園短大教授として後進の指導に当たったほか、02年から05年まで日本彫刻会理事長をつとめた。日展出品略歴 第6回新日展(1963年)「首(B)」(初入選)、第9回(1966年)「望」(特選)、第10回(1967年)「未来を背負う人間像」(特選)、改組第1回日展(1969年)「靖献」、第5回(1973年)「杜若」、第10回(1978年)「爽籟」、第15回(1983年)「秋興」、第20回(1988年)「秋入日」、第25回(1993年)「晨暉」、第30回(1998年)「躍如」、第35回(2003年)「旭日昇天」、第40回(2008年)「トルソー」、第42回(2010年)「聡慧」(遺作)

伊藤鄭爾

没年月日:2010/01/31

 建築史家で工学院大学名誉教授の伊藤鄭爾は、1月31日、呼吸不全のため死去した。享年88。1922(大正11)年1月11日、岐阜県安八郡北杭瀬村(現、大垣市)に生まれる。1942(昭和17)年第四高等学校を卒業後、東京帝国大学第二工学部建築学科に入学。45年卒業後、東京大学第二工学部大学院を経て、48年東京大学副手、49年同助手。病気療養等を経て、63年より65年までワシントン大学客員教授。72年工学院大学教授、75年同学長、78年同理事長。1992(平成4)年同定年退官、同大学名誉教授。97年より99年まで財団法人文化財建造物保存技術協会理事長。建築史研究者としてはほぼ一貫して民家を中心とする日本の中近世住宅史をフィールドとしたが、日本の建築文化の海外への紹介に早くから取り組んだほか、建築評論の分野でも活躍した。大学院在学中から関野克の指導を受け、54年より今井町を訪れ、今西家をはじめとする町屋の調査に携わった頃から本格的な民家研究を開始する。56年に建築写真家の二川幸夫と知り合い、翌年から共著で『日本の民家』(美術出版社)全10巻を出版して注目され、うち『日本の民家』「高山・白川」「山陽路」で59年に毎日出版文化賞受賞。61年には「日本民家史の研究(中世住居の研究)」で日本建築学会賞(論文)を受賞。同年に「中世住居の研究」にて工学博士号を取得している。その一方で、建築家や社会学者との協働を模索し始めるとともに、60年に東京で開催された世界デザイン会議の準備に携わったことなどを契機に、米国との国際的な交流にも関わるようになる。65年にオレゴン大学の金沢幸町調査でコーディネーターを務め、その成果を『国際建築』誌に発表した際に「デザイン・サーヴェイ」の語を初めて日本に紹介したとされる。この時期の伊藤は、『日本デザイン論』(鹿島出版会、1966年)や磯崎新などとの共著による『日本の都市空間』(彰国社、1968年)を刊行するなど、建築評論家としての印象が強く、マスメディア等でも積極的に発言した。工学院大学に教職を得てからは、倉敷などでの町並み調査や保存計画づくりを率いるとともに、文化財保護審議会の専門委員などとして、町並み保存制度の整備・拡充に貢献した。上記以外の主な著作に、『中世住居史』(東京大学出版会、1958年)、『民家は生きてきた』(美術出版社、1963年)、『谷間の花が見えなかった時』(彰国社、1982年)、『重源』(新潮社、1994年)など。また、“The Gardens of Japan”(Kodansha international、1984年)ほか、英語での著書や著作の外国語訳も多数出版されている。

山口侊子

没年月日:2010/01/15

 ギャラリー山口オーナーの山口侊子は1月15日死去した。享年67。1943(昭和18)年5月20日東京市日本橋区(現、東京都中央区)に生まれる。65年早稲田大学教育学部卒業。その後東京都港区で喫茶店を経営するかたわら、ジュエリー制作に取り組み日本ジュウリーデザイナー協会(現、日本ジュエリーデザイナー協会)準会員となる。80年3月銀座3丁目ヤマトビル3階に現代美術を専門とする貸画廊兼企画画廊「ギャラリー山口」を開設。1991(平成3)年4月新木場にオープンしたSOKOギャラリーに入居、ギャラリー山口SOKOを開設し93年頃まで運営。その間、銀座3丁目の画廊と2店舗を経営。以後、ギャラリー山口を、93年8月に銀座8丁目銀座同和ビル1階へ、95年8月に京橋3丁目京栄ビル1階及び地下1階へ移転。ベテランから無名の新人まで美術家の発表の場であり、建畠覚造、野見山暁治、篠原有司男、堀浩哉らの個展を数多く開催。またCONTINUUM ’83・オーストラリア現代美術展(83年7月)、パリ-東京現代美術交流展(84年5月)、ベルリン-東京交流展(88年4月)など海外画廊との交換展にも、日本の代表的な現代美術画廊として参加。氏が逝去した後、ギャラリー山口は1月末で閉廊。同ギャラリーの資料は東京文化財研究所に寄贈された。

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