本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





梶山俊夫

没年月日:2015/06/16

読み:かじやまとしお  画家の梶山俊夫は6月16日、肺炎のため死去した。享年79。 1935(昭和10)年7月24日、東京都江東区亀戸に生まれる。本名は梶山俊男。少年期に茨城県常陸太田町(現、常陸太田市)に4年間疎開する。56年、武蔵野美術大学西洋画科中退。1年のときに演劇部を作ろうとして押さえつけられ、退学届を提出したという。58年、第10回読売アンデパンダン展(以後、61年まで)、第11回日本アンデパンダン展、アジア青年美術家展に出品。同年、銀座・なびす画廊にて初個展を開催。61年、日本大学芸術学部卒業。在学中より博報堂制作部に嘱託勤務、このころ日本宣伝美術会会員として日宣美展に出品。62年、シェル美術賞(3等)受賞、木島始との共著で詩画集『グラフィック・マニフェスト―のどかなくわだて』(未来社)を上梓。63年に渡欧、フランスの画家と交友をもち、ヨーロッパ各地をめぐったのち、翌64年に帰国。創作活動を続けながら、全国の国分寺跡や奈良時代の廃寺跡を3年間訪ね歩く。67年、木島始の依頼で鳥獣戯画を素材として『かえるのごほうび』(福音館書店、こどものとも130号)のレイアウトを手掛ける。この仕事をきっかけに福音館書店の松居直に絵本制作を勧められ、博報堂での知己天野祐吉の文に挿絵を描いた『くじらのだいすけ』(福音館書店、こどものとも139号)を氏によるはじめての物語絵本として上梓、以後36年間にわたり、日本の自然、風土、民話をテーマに絵本を描く。73年、ブラチスラバ世界絵本原画ビエンナーレに『かぜのおまつり』(いぬいとみこ・文、福音館書店、1972年、こどものとも199号)を出品、「金のりんご賞」を受賞。このころより木版画の制作に着手。73年、『いちにちにへんとおるバス』(中山正文作、ひかりのくに、1972年)で講談社出版文化賞受賞。74年、『あほろくの川だいこ』(岸武雄・文、ポプラ社、1974年、ポプラ社の創作絵本)で小学館絵画賞受賞。77年、初の画集『風景帖』(沖積舎)を発表。このころより、同人誌『自在』創刊に参加(1991年、『虚空』と改題創刊)。82年、『こんこんさまにさしあげそうろう』(森はなさく、PHP研究所、1982年)で絵本にっぽん大賞受賞。1989(平成元)年梶山俊夫展「汽車の窓からバスの窓から―中国・ガンダーラスケッチ紀行」(西武舟橋店)開催。このころから絵本原画を絵巻に再生することを始める。96年、兵庫県和田山町文化会館の壁画及び『じろはったん』のブロンズ像制作、「毎日新聞」朝刊の連載、佐藤愛子「風の行方」の挿絵を担当。97年『みんなであそぶわらべうた』(福音館書店、1997年)で再びブラチスラバ世界絵本原画ビエンナーレ「金のりんご賞」受賞。99年ガラス絵や陶板絵の制作に傾注。98年、市川市民文化賞・奨励賞受賞。 そのほかの絵本に『いぐいぐいぐいぐ』(フレーベル館、1977年、「わが西山風土記」シリーズ)、『絵本空海お大師さま』(智山教化研究所企画、1984年)など多数、作品集に『梶山俊夫絵本帖』(上下、あすか書房、1981年)、『旅の窓から―梶山俊夫ガラス絵と陶女の風景』(毎日新聞社、1999年)、著書にエッセイ集『ぼくの空、蛙の空』(福音館書店、1995年)、『ききみみをたてて出かけよう』(毎日新聞社、1998年)がある。日本国際児童図書評議会会員、文芸誌『虚空』同人、市川市民文化賞を推進する会選考委員を歴任。

松谷敏雄

没年月日:2015/06/12

読み:まつたにとしお  文化人類学者で、東京大学東洋文化研究所所長、東京大学名誉教授、古代オリエント博物館評議員などを務めた松谷敏雄は、6月12日死去した。享年78。 1937(昭和12)年3月4日、福岡県に生まれる。東京都の私立武蔵中学、武蔵高校を卒業後、東京大学教養学部教養学科に進学し文化人類学を学んだ。大学院では、東京大学大学院生物系研究科人類学専門課程に進んだ。65年、東京大学東洋文化研究所の助手に奉職する。以後、1997(平成9)年3月に東京大学を退官するまで同研究所に勤務し、講師(1972年就任)、助教授(1974年就任)、教授(1984年就任)、所長(1992年就任)職を務めた。 東京大学の故江上波夫教授が、西アジアにおける文明の起源を解明するために56年に組織した東京大学イラク・イラン遺跡調査団の発掘調査に、64年以降、団員として参加する。85年以降は、故江上波夫教授、故深井晋二教授につぐ3代目の調査団の団長として、西アジアにおける発掘調査を指揮した。 西アジアにおける農耕の起源を終生の研究テーマに掲げ、イラクのテル・サラサート遺跡やイランのタル・イ・ムシュキ遺跡、シリアのテル・カシュカショク遺跡、テル・コサック・シャマリ遺跡など、数多くの原始農耕村落址の発掘調査に従事し、学界に多大な貢献をした。 著書に、『図説世界文化地理大百科 古代のメソポタミア』(監訳、朝倉書店、1994年)、『テル・サラサートII』(共編、東洋文化研究所、1970年)、『マルヴ・ダシュトIII』(共編、東洋文化研究所、1973年)、『テル・サラサートIII』(共編、東洋文化研究所、1975年)、『Halimehjan I』(共編、東洋文化研究所、1980年)、『Telul eth-Thalathat IV』(共編、東洋文化研究所、1981年)、『Halimehjan II』(共編、東洋文化研究所、1982年)、『Tell Kashkashok』(東洋文化研究所、1991年)、『Tell Kosak Shamali vol. 1』(共編、東京大学総合研究博物館、2001年)、『Tell Kosak Shamali vol. 2』(共編、東京大学総合研究博物館、2003年)など多数。

松井章

没年月日:2015/06/09

読み:まついあきら  奈良文化財研究所埋蔵文化財センター前センター長で、京都大学大学院人間・環境学研究科前併任教授の松井章は、6月9日、肝臓がんのため死去した。享年63。瑞宝双光章を授与され、従五位を叙された。 1952(昭和27)年5月5日、大阪府堺市に生まれる。76年に東北大学文学部卒業。77年からアメリカ・ネブラスカ大学に1年半の留学。80年に東北大学大学院修士課程を修了。82年に奈良国立文化財研究所に入所。 専門は環境考古学。幼少期を過ごした大阪では、有名な弥生遺跡や古墳で遺物を収集する「考古ボーイ」であったが、東北大学進学後は縄文時代の貝塚に興味を持ち、そこから出土する魚骨、動物骨や貝殻といった自然遺物に興味を持ち、動物遺存体の研究に取り組み始めた。しかし当時の国内では、動物遺存体を研究する動物考古学は未開拓の分野であったため、指導教授である芹沢長介の紹介を通じてアメリカに留学し、海外の動物考古学の基礎を習得した。 帰国後、奈良国立文化財研究所(当時)に職を得、埋蔵文化財センターにおいて動物考古学の研究の進展に取り組み、同研究所が動物考古学のナショナル・センターとなる基礎を築いた。彼が中心となって収集した膨大な原生動物の骨格標本は、出土した自然遺物の同定における基礎資料として、国内外の多くの研究者に活用された。また1994(平成6)年からは京都大学大学院人間・環境学研究科の併任教員となり、後進の指導にも尽力し、多くの動物考古学の専門家を輩出した。 奈良文化財研究所では古代や中・近世の遺跡にも関心を高め、歴史時代の獣肉食や皮革生産の実相に迫る画期的な成果を挙げた。また89年のイギリス・ロンドン自然史博物館での在外研究を経て、トイレ考古学や湿地考古学にも関心を広げ、動物考古学に止まらない、環境考古学の確立を志向するようになった。 2011年の東日本大地震に関わる文化財レスキュー活動では、奈良文化財研究所の先陣を切って被災地へ駆けつけ、自らの手で瓦礫を撤去し、貴重な文化財の救出に努めた。その後は被災した博物館・資料館から自然遺物関連の資料を預かり、その整理作業に携わった。 学会での活躍や研究交流は国内外を問わず、93年には国立歴史民俗博物館の西本豊弘らと共に動物考古学研究会(現、日本動物考古学会)の設立にも携わった。05年には国際湿地考古学研究会(WARP)にて学会賞大賞を受賞、11年には濱田青陵賞を受賞した。 09年に奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長に就任。13年に奈良文化財研究所を定年退職したが、その後も特任研究員として研究活動を継続した。病を得てからも、最期の日を迎えるまで研究を続けた。 自身、「一人っ子やったし、子どもの頃から好きなことしかせえへんかったなぁ」と発言するように、幅広い分野に関心を持ち、自由闊達にフットワーク軽く活動するタイプの学者であった。ヨーロッパ出張の飛行機の中で、機内食用のワインの小瓶20本を空けたというエピソードは今でも語り草となっている。 主な著書は以下の通り。『考古学と動物学』考古学と自然科学②(西本豊弘との共編著、同成社、1997年)『古代湖の考古学』(牧野久美との共編著、クバプロ、2000年)『環境考古学』日本の美術423(士文堂、2001年)『環境考古学マニュアル』(編著、同成社、2003年)『環境考古学への招待』岩波新書930(岩波書店、2005年)『動物考古学―Fundamentals of Zooarchaeology in Japan―』(京都大学学術出版会、2008年)

古賀フミ

没年月日:2015/06/07

読み:こがふみ  重要無形文化財「佐賀錦」保持者の古賀フミ(本名:西山フミ)は6月7日に大腸がんのため死去した。享年88。 1927(昭和2)年2月3日佐賀市に生まれる。幼いころから曾祖母、母に佐賀錦の手ほどきを受ける。佐賀錦は和紙を裁って経紙とし、絹を緯糸にした肥前鹿島藩で創始された織物である。江戸時代後期、佐賀錦は御殿に務める女性の嗜みであり、廃藩置県後も制作が続けられた。大正時代に入ると、大隈重信によって広められ、旧華族のあいだで愛好会が結成された。古賀フミの曾祖母は肥前国の竜造家の家老村田家の家臣であり、御殿で佐賀錦の技術を習得したという。曾祖母から母へ、そして古賀フミへ伝授されたものには、平織だけでなく、綾組織も含まれ、古典模様だけでも200種以上に及んだ。古賀家の評判を聞きつけ、民芸運動の柳宗悦や、重要無形文化財保持者の森口華弘らとも交流が生まれる。  その後、森口の勧めもあり、66年に第13回日本伝統工芸展に出品し入選。同年、東京に移住する。67年には日本伝統工芸染織展、日本伝統工芸新作展にも出品を始める。同年、第4回日本伝統工芸染織展に出品した佐賀錦ハンドバックにて東京都教育委員会賞を受賞。本作品は上野公園に落ちていた道端の小さな花から着想を得たという。69年には、第6回日本伝統工芸染織展にて佐賀錦網代文笛袋「暁光」が日本工芸会賞、第16回日本伝統工芸展にて佐賀錦紗綾形文帯「七夕」が日本工芸会総裁賞を受賞。日本工芸会正会員となる。佐賀錦は経紙に用いる紙の大きさに制限を持つため袋などの小物が制作の中心であったが、古賀は森口華弘の励ましもあり帯にも着手する。日本工芸展での受賞はその成果の顕れといえる。 73年以降は、日本伝統工芸新作展や日本伝統工芸染織展の鑑審査委員を歴任。82年には、第19回日本伝統工芸染織展に出品した佐賀錦網代地籠目文笛袋「瑞光」にて日本工芸会賞、第29回日本伝統工芸展に出品した佐賀錦菱襷文帯「玻璃光」にて日本工芸会長賞を受賞。88年には紫綬褒章を受章。1993(平成5)年には福島県立美術館現代の染織展に出品。94年には重要無形文化財保持者「佐賀錦」に認定される。同年、日本橋三越特選画廊にて「佐賀錦古賀フミ自選展」を開催。98年には勲四等宝冠章を受章。 古賀の制作は、曾祖母が残した懐紙入れなどの作品、母が80歳を超えてから織ったという200種以上の織見本、母が織った作品の図案を父が筆で描き起こした模様図案に囲まれながら行われた。素材の和紙や染料などにも探求を深め、染めは植物染料で自ら手がけるようになったという。また、制作に用いる竹箆と網針は主君の西山松之助により作られたものである。 作品は東京国立近代美術館、東京国立博物館等に所蔵されている。

中西勝

没年月日:2015/05/22

読み:なかにしまさる  「芸術家である前にまず人間でありたい」と語り、生命の力強さを見つめ続けた洋画家、中西勝は5月22日、慢性呼吸不全増悪のため死去した。享年91。 1924(大正13)年4月11日、貿易業を営む中西信、一江夫妻の間に、四人兄弟の次男として大阪市城東区野江に生まれる。幼少から絵を好み、中西家所有の貸家に住んでいた日本画家に頼んで制作のようすを見せてもらったりしていたという。1937(昭和12)年3月大阪市城東区榎並小学校卒業。中学でははじめ剣道部に所属したが、級友の勧めで美術部に転部、油絵を描き始める。他方中之島の洋画研究所で田中孝之介等に学び、彫刻家・保田龍門のアトリエへ通いデッサンの手ほどきを受けた。42年3月大阪府立四條畷中学校(現、大阪府立四條畷高等学校)卒業。翌43年東京美術学校(現、東京芸術大学)を受験するもトラブルに巻き込まれ失敗、4月帝国美術学校(現、武蔵野美術大学)西洋画科へ入学する。また川端画学校へも通った。この頃の作品にはさまざまな画風が混在し、多様な西洋の画家から学び試行錯誤していたことが窺われる。44年学徒動員にて中支派遣軍の部隊に配属、任務地となった河南省南部の山奥で過酷な生活を送り、ひそかに陣地を離れるも追手に捕らえられ後方へと送られた。その後病気となり入院、終戦後の45年9月から半年余り湖北省の俘虜収容所で過ごし、46年5月博多港より帰国した。 同年7月大阪・難波の精華小学校内に設置された大阪市立美術館付設美術研究所へ開所当時から通いはじめ、田村孝之介、小磯良平等に指導を受ける(1949年まで在籍)。47年3月帝国美術学校西洋画科卒業。49年4月神戸市立西代中学校の図画教員となり、神戸市垂水区塩屋町に移り住む。同年杉田絹子と結婚。また神戸にて田村孝之介と再会、第二紀会出品を強く勧められ、同年10月第3回二紀展へ絹子夫人をモデルに描いた「赤い服の女」と終戦直後の三宮界隈の闇市場にたむろする戦災孤児等を描いた「無題」を出品、二紀賞を受賞する。以後65年から70年までの世界一周旅行期間中をのぞき、毎回出品。他方、西村功、貝原六一、西村元三朗等神戸洋画界の若手とともに49年に新神戸洋画会(後にバベル美術協会と改称)を結成、年2、3回の発表を行うなど精力的に活動した。50年10月第4回二紀展へ「人間荒廃」「女性薄落」を出品、同人に推挙される。52年10月第6回展へ「去来」「GAOGAO」を出品、同人努力賞。また「去来」にて同年12月第1回桜新人賞受賞。同月7日妻で二紀会同人の絹子が逝去。またこの年、田村孝之介が神戸市灘区の自宅に六甲洋画研究所(後の神戸二紀)を設立。中西は教師として後進の指導に当たった。53年4月神戸森女子短期大学講師(63年神戸森短期大学教授)。54年6月柿沼咲子と結婚する。同年10月第8回二紀展へ「夏・母子」「煙突掃除夫」「人間の対話」を出品、委員に推挙された。56年5月第2回現代日本美術展へ「黒い太陽に於ける群像」「負わされた群像」を出品、第3、4、6回展にも出品する。57年5月第4回日本国際美術展に「祭典」を出品、第5、7回展にも出品した。63年神戸・元町画廊(10月)と東京・文藝春秋画廊(11月)にて個展を開催。同年第1回神戸半どん文化賞を受賞する。50年代から60年代前半にかけ、中西の画風は大きく変化する。初期の作品では、戦後を生きる人々を暗めの色調で表現していたが、徐々にキュビスム風の人物や、デフォルメされた人や魚、鳥などの生き物、さらには抽象的な形態によって画面が構成されるようになっていく。また52年の「去来」以降、中西が数多く残した母子像が描かれはじめる。 65年10月咲子夫人とともに世界一周旅行へ出発。ロサンゼルスに6ヶ月滞在し、翌年4月同地にて個展を開催する。その後車にてアメリカ、カナダ、メキシコ等をめぐり、68年4月渡欧、ヨーロッパ各地を訪れた後にモロッコへ渡り、8ヶ月滞在。「ベルベル族の母子」(1969年)など、たくましく美しい母子像が制作された。その後再びヨーロッパ大陸へと戻り、69年8月リスボンで個展開催。70年4月ロシアに入り、モスクワよりシベリア鉄道にてユーラシア大陸を横断。同月7日に横浜港に到着した。旅行より持ち帰った油絵や水彩、デッサンなどは1000点以上にのぼり、そのすべてが具象画であったという。同月神戸学院大学人文学部美術専任教授となる(1995年名誉教授)。また10月と11月には、「私は外へ出て見た」と題した個展を神戸・相楽園、大阪・梅田画廊にて開催。71年10月第25回二紀展へ「砂漠の黒い男」「大地の聖母子」を出品、黒田賞受賞。さらに「大地の聖母子」で翌年3月、第15回安井賞を受賞した。72年10月第26回二紀展へ「黒い聖母子」「座す」を出品、文部大臣賞受賞。74年兵庫県文化賞、76年神戸市文化賞をそれぞれ受賞。また75年8月には二紀会理事となる。77年4月夫妻でフランスを来訪。この頃より風景や日常の生活の様子を描いた「棲まう」と題した作品が描かれはじめる。80年10月第34回二紀展へ「棲う(帰途)」「棲う(トルテヤを造る女達)」を出品、菊華賞受賞。87年5月同会常任理事となる。80年代半ば頃より、画面が明るく華やかになり、「天の調」(1984年、第38回二紀展)など天空世界を意識した作品が表れはじめる。さらに90年代に入ると、「花歩星歩」(92年、第46回展)など、人物を主体としつつ、「花」や「華」をタイトルにつけた作品が多く描かれるようになる。1992(平成4)年第46回神戸新聞社平和賞。同年11月文化庁地域文化功労者。94年12月には回顧展「中西勝の世界展」(池田20世紀美術館)が開催された。翌95年1月阪神・淡路大震災にて罹災。余震の続く中で制作された「楽隊がやって来た(1.17)」(1995年)は、もともと楽しげな作品として描かれはじめたものであったが、震災に対する不安から、完成作は暗く不気味な画面となった。他方復興募金のためにテレホンカードの原画を描き、緊急支援組織アート・エイド・神戸に副委員長として参加、また兵庫二紀の仲間たちとともに巨大な壁画を制作するなど、復興へ向けて積極的に活動した。2009年「中西勝展」(神戸市立小磯記念美術館)開催。13年二紀会名誉会員となり、15年10月第69回二紀展へ「華まばたき」が出品された。

加藤昭男

没年月日:2015/04/30

読み:かとうあきお  陶による立体造形を追及し続けた彫刻家加藤昭男は前立腺がんのため30日に死去した。享年87。 1927(昭和2)年6月16日愛知県瀬戸市朝日町に生まれる。父鶴一は陶土採掘・販売を本業とする一方、華仙と号して帝展・新文展に出品していた。また、画家北川民次は岳父に当たる。40年3月に瀬戸市立深川尋常小学校を卒業し、同年4月に愛知県立窯業学校(現、県立窯業高校)に入学。絵画を佃政道、彫刻を橋爪英夫に学ぶ。42年からアジア太平洋戦争の戦況悪化のため勤労動員され、農作業や工場へ勤務。45年陶芸家田沼起八郎に石膏デッサンの指導を受ける。同年3月愛知県立窯業学校を卒業。4月に京都工業専門学校(現:京都工芸繊維大学)に入学。48年3月京都工業専門学校を卒業。4月に上京して蕨画塾に入り、寺内萬治郎らに師事する。49年4月東京藝術大学に入学。戦前にパリでシャルル・デスピオに師事して帰国した菊池一雄教室に入る。当時、同校ではマイヨールに師事した山本豊市や菅原安男、伊藤傀らが教鞭を取っており、彼らにも学ぶところがあった。52年第16回新制作協会展に「立像」(石膏)で初入選。以後同展に出品を続ける。53年東京藝術大学彫刻科を卒業し、同学専攻科に入学。在学中に安宅賞を受賞。55年東京藝術大学彫刻専攻科を修了し、同学副手となる。同年第19回新制作協会展に「トルソ」(石膏)を出品して新作家賞を受賞。翌年第20回同展に「女」(石膏)を出品して再度新作家賞受賞。57年東京藝術大学副手を退任。この頃からテラコッタ制作を始める。58年第22回新制作協会展に「トルソA」(ブロンズ)、「トルソB」(ブロンズ)、「RONDE」(石膏)を出品し、同会会員に推挙される。62年第5回現代日本美術展に人体を簡略化したフォルムでとらえた「立像」を出品。50年代後半から欧米の抽象彫刻が日本に紹介され始める中で、制作の方向について模索が続いたが、60年代半ばから人間と自然との関わりを主題とし、陶土の粘性と量塊性を活かした具象彫刻に主軸を定める。また、セメントやポリエステルなどの新素材による制作や野外彫刻を試みるようになる。69年から74年まで東海大学芸術研究所の教授をつとめる。73年第1回彫刻の森美術館大賞展に「焔と土」(テラコッタ・木、72年第36回新制作協会展出品作)が入選。74年6月、「母と子」で第2回長野市野外彫刻賞受賞、また同年8月、鳥に導かれて浮遊する仰臥した女性像を表した「月に飛ぶ」(ブロンズ)で第5回中原悌二郎賞優秀賞を受賞。75年第2回彫刻の森美術館大賞展に「月に飛ぶ」(ブロンズ、第38回新制作協会展出品作)が入選。同年日本画家平山郁夫らと中国旅行。77年第3回彫刻の森大賞展に「五月の風」(第39回新制作展出品作)が入選。80年渡欧し、フランス、スイス、イタリア、ギリシャ等を巡る。82年第2回高村光太郎大賞展に両腕を大きく広げた人物の上半身とその手から飛び立つ一羽の鳩を表した「鳩を放つ」(ブロンズ)を招待出品し優秀賞を受賞。83年第1回東京野外現代彫刻展に「野原の休息」(ブロンズ)を出品して大衆賞を受賞。同年武蔵野美術大学教授となる。86年第2回東京野外現代彫刻展に「大地」(ブロンズ)を出品して大衆賞を受賞。87年フランスに渡り、ロマネスク美術を中心に研究した。1994(平成6)年、「何処へ」(ブロンズ)で第25回中原悌二郎賞を受賞。97年3月現代彫刻センターで「加藤昭男展」、同年9月、武蔵野美術大学美術資料図書館において「武蔵野美術大学教授退任記念 加藤昭男彫刻展」が開催された。翌年3月定年退職し、同名誉教授となった。年譜は退官記念展図録に詳しい。99年新宿パークタワーにて「加藤昭男個展」を開催、2000年には第5回倉吉・緑の彫刻賞受賞。01年に旭川市彫刻美術館で「加藤昭男個展」を開催。02年、江戸時代の仏師円空の生地である岐阜県が主催し、風土と国際性、自然との関わりなどを視点として選考する第2回円空大賞を受賞した。最初期に当たる50年代には量感のある人体像を制作し、その後一時期抽象表現を取り入れたが、60年代半ばから自然と人との関わりを陶土で表現することを追及し続け、大地から土の塊が盛り上がってかたちとなるような作品を多く残した。

オチオサム

没年月日:2015/04/26

読み:おちおさむ  福岡を拠点に結成された前衛美術集団「九州派」の創立メンバーとして知られる前衛画家のオチオサムは4月26日、急性心筋梗塞のため福岡県小郡市で死去した。享年79。 1936(昭和11)年、佐賀県佐賀市生まれ。本名は越智靖=おち・おさむ。母親は日本人形の人形師。私立龍谷学園高等部在学中に油絵を始め、日展、独立展、二科展を福岡のデパートでみる。54年3月、同校卒業。55年、精版印刷に入社、作業工程においてのちの作品素材となるアスファルトを見出す。同年9月、第40回二科展に初出品、「花火の好きな子供」「マンボの好きな子供」が入選、第九室に展示。56年7月、二科展九室会メンバーによるグループ展「九人展」(サトウ画廊)に「シグナル」出品。同年8月、福岡市の喫茶ばんじろうで開催された二科展激励会で桜井と知遇を得、親交が始まる。同年11月、福岡県庁西側大通り壁面にて行われた街頭詩画展「ペルソナ展」に出品。57年2月、第9回読売アンデパンダン展に「サカダチした野郎」「色のハゲたもの」「ヤツテシマツタ」を初出品。同年6月、第8回西日本美術展(福岡玉屋)に「ミズト水トミズ」を出品。同年7月、福岡市の西日本新聞社会議室で「九州派」結成集会を開催。同年8月にグループQ18人展を開催(九州派の旗揚げ展)。以後68年まで九州派に参加し、俣野衛、桜井、石橋泰幸とともにその中核メンバーとして活動した。59年、菊畑茂久馬、山内重太郎と洞窟派を結成、60年5月、洞窟派展(東京、銀座画廊)に「出張大将」を出品。同年5月、中原佑介の選抜によりサトウ画廊で初個展を開催。61年4月、現代美術の実験(東京、国立近代美術館)に「作品I-V」を出品。66年に渡米、69年に帰国、その間にサンフランシスコで数度、九州派の展覧会を開催。70年2月、九州ルネッサンス・英雄たちの祭典(福岡市、博多プレイランド)に美術担当で参加、オチの結婚披露宴パーティを挙行。同年3月第4回九州・現代美術の動向展(福岡県文化会館)に出品(翌年第5回展にも出品)。同年10月、福岡県文化会館美術館で個展を開催(別室で桜井の個展が同時開催)。74年2月、九州現代美術「幻想と情念」展(福岡県文化会館)に出品。79年3月、第22回安井賞に「球の遊泳I」を出品。80年11月、福岡市美術館開館1周年 アジア美術展第2部アジア現代美術展(福岡市美術館)に出品。76年から福岡市中心に、北九州市、佐賀市、大阪市、名古屋市などで多く個展を開催。「1960年代―現代美術の転換点」(東京国立近代美術館、1981年)、「九州派展―反芸術プロジェクト」(福岡市美術館、1988年)、「桜井孝身/オチ・オサム/石橋泰幸―九州派黎明期を支えた3人の画家」(福岡市美術館、常設展示、2014年)などの企画展に出品。アスファルトなどの表現手段の実験、徹底した生活者の意識に根ざしたダダ的作品、オブジェへの展開、特異なミニマリズムへの接近などに見られるように、九州派的な作品の実験を先導した重要な作家のひとりと評される。没後、2015年10月、88年以来の九州派の回顧展、「九州派展―戦後の福岡に産声をあげた、奇跡の前衛集団、その歴史を再訪する。」(福岡市美術館)が開催、これに合わせて福岡市美術館叢書6として『九州派大全』(企画・監修=福岡市美術館、発売=グラムブックス)が刊行された。また福岡市美術館学芸員山口洋三が、2009年11月にオチのオーラルヒストリーを行い、その内容は日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴのサイトで公開された。

小島功

没年月日:2015/04/14

読み:こじまこお  漫画家の小島功は、4月14日脳出血のため東京都港区内の病院で死去した。享年87。 1928(昭和3)年3月3日東京府東京市下谷区(現、台東区)に生まれる。本名功(いさお)。家は洋服仕立業。西尾久小学校卒業。小学校時代、図画の教員にデッサンの大切さを説かれた。16歳頃から画家を志し、川端画学校に学び、戦時中は夜間に太平洋美術学校に通った。先輩に加藤芳郎がおり、異なる作風を模索する。『小国民朝日』、『科学グラフ』や漫画投稿欄のある雑誌に投稿を頻繁に行なう。女性像に定評があった杉浦幸雄の作風に影響を受ける。小島のマンガは大人向けであり、一コマないしは1頁が基本、線描でみせる。47年、久里洋二、長新太らと独立漫画派を結成。48年創刊の『新漫画』に1コマ漫画を描く。鼻筋がとおり、顎がすっきりとしたグラマーな女性像は「昭和の美人画」の一例として大衆的な人気を獲得、乾いたエロチシズムを醸し出している。56年久里洋二、針すなおらと同人誌『がんま』発行。同年10月より8コマ漫画「仙人部落」を『週刊アサヒ芸能』に連載、59年間2681回におよんだ代表作となる。週刊誌を舞台に活躍、「俺たちゃライバルだ!」『週刊漫画サンデー』(1960年から連載)、「あひるヶ丘77」『週刊サンケイ』(1960年から連載)、「うちのヨメはん」『週刊現代』(1966年から連載)と60年代に人気が定着する。60年『週刊漫画サンデー』の表紙画を手がける。64年日本漫画家協会設立に参加。65年からは日本テレビ放送網の深夜番組「11PM」にレギュラー出演、また同時期東京12チャンネル(現、テレビ東京)の「朝日新聞・ワイドニュース」のコメンテーターとなる。68年「日本のかあちゃん」(『週刊漫画サンデー』)で第14回文藝春秋漫画賞受賞。73年加藤芳郎とマンガ専門誌『ユーモリスト』を発行。74年河童のキャラクターで知られる日本酒の黄桜の広告を清水昆より引き継ぐ。70年代の代表作として「ヒゲとボイン」『ビックコミックオリジナル』(1974年から連載)がある。80年『朝日新聞』に政治漫画を連載。1990(平成2)年紫綬褒章受章。92年日本漫画家協会理事長に就任(2000年まで)。2000年勲四等旭日小綬章受章。2010年漫画家協会名誉会長に就任。作品集に『小島功美女画集画業六〇年 喜寿記念』(青林堂、2005年)があり、「仙人部落」はアニメ化されDVDがでている。

樋口隆康

没年月日:2015/04/02

読み:ひぐちたかやす  考古学者。京都大学教授、泉屋博古館館長、奈良県立橿原考古学研究所所長、シルクロード学研究センター長、財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長、斑鳩町文化財活用センター長などを歴任した樋口隆康は、京都薬師山病院にて4月2日老衰のため死去した。享年95。 1919(大正8)年6月1日、福岡県田川郡添田町に生まれる。第一高等学校文科甲類卒業後、1941(昭和16)年に京都帝国大学文学部史学科に進学し、考古学を専攻した。43年に京都大学大学院に進むが、徴兵され海軍予備学生として土浦海軍航空隊に入隊する。終戦後の45年10月に大学院に復学し、京都大学の故梅原末治教授の副手となる。その後、83年4月に京都大学を退官するまで、助教授(1957年就任)、教授(1975年就任)職などを務めた。 京都大学退官後は、泉屋博古館館長および名誉館長(1983~2015年)を務め、また奈良県立橿原考古学研究所所長(1989年~2008年)、シルクロード学研究センター長(1993~2008年)、斑鳩町文化財活用センター長(2010~15年)などの役職を歴任した。 ユーラシア大陸全般にわたる研究を提唱し、研究テーマは多岐におよんだ。日本国内では、魏が卑弥呼に下賜したとされる三角縁神獣鏡が多数出土したことで有名な京都府椿井大塚山古墳や奈良県黒塚古墳の発掘調査に携わり、古墳時代や邪馬台国の研究に大きく貢献した。 海外では、57年に、訪中考古学視察団の一員として、日本人考古学者として戦後初めて敦煌石窟などを調査した。58年には、京都大学インド仏蹟調査隊のメンバーとして聖地ブッダガヤを調査し、62年にはガンダーラ仏教寺院址の発掘調査に参加した。70年からは、京都大学中央アジア学術調査隊を率い、アフガニスタン、バーミヤーン遺跡の仏教石窟群の調査を行った。また、90年から2004年にかけては、シルクロードの隊商都市であるシリアのパルミラ遺跡の発掘調査を指揮した。 また、作家の司馬遼太郎や井上靖、陳舜臣、考古学者の江上波夫などともにNHK特集「シルクロード」の番組製作に参加し、日本中にシルクロード・ブームを巻き起こした。 死後、15年5月8日に、従四位、瑞宝小綬章を受章している。 著書に『古代中国を発掘する―馬王堆、満城他―』(新潮選書、1975年)、『バーミヤーン:京都大学中央アジア学術調査報告1-4』(共著、同朋舎出版、1983-84年)、『ガンダーラの美神と仏たち―その源流と本質』(NHKブックス、1986年)、『始皇帝を掘る』(学生社、1996年)、『三角縁神獣鏡と邪馬台国』(共著、梓書院、1997年)、『シルクロードから黒塚の鏡まで』(学生社、1999年)、『アフガニスタン遺跡と秘宝-文明の十字路の五千年』(NHK出版、2003年)など多数。

田辺光彰

没年月日:2015/03/30

読み:たなべみつあき  彫刻家の田辺光彰は3月30日、肺炎のため死去した。享年76。 1939(昭和14)年2月15日神奈川県に生まれる。61年多摩美術大学彫刻科卒業。翌年アメリカの彫刻家イサム・ノグチの知遇を得て強烈な影響を受け、以後数年間は石膏による作品模型を数多く制作する。68年から75年にかけて断続的に世界50カ国を巡り、広く異文化に接する。その間69年より横浜市北部近郊に「山内によする」と題する野外作品の制作に取り組み、76年に完成。78年ギャラリー・オカベで初個展開催。79年第1回ヘンリー・ムーア大賞展で「混在(あ)」がジャコモ・マンズー特別優秀賞受賞。80年第7回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で「混在(内部・あ・外部)」が宇部市野外彫刻美術館賞受賞。81年には第2回ヘンリー・ムーア大賞展で「混在(内部・あ)」が優秀賞を受賞。81~83年に佐久市立近代美術館前庭に高さ40mの筒状の風導塔と、地下を通じて塔と連結する長さ20mの回廊、及びこの回廊を貫通する70mの遊歩道からなる「さく」を制作。86~87年にはソウルオリンピック関連事業として、韓国国立現代美術館より委嘱され「SEOUL・籾・熱伝導」を制作する。この頃より環境破壊への警鐘となるモティーフとして野生稲に注目、1992(平成4)年には農学者の佐藤洋一郎と野生稲自生地保全の運動をはじめ、稲籾をテーマとした制作やプロジェクトを国内外で行なう。99年に神奈川県民ホールで開かれた「田辺光彰展」では籾と共生するヘビやトカゲ、ムカデ等の動物のモティーフが登場。2006年にはオーストラリア、クイーンズランド州のマリーバ湿地帯にステンレス・スチール圧延板製の巨大なトカゲ像(長さ19m、重さ11t)である「KADIMAKARA(爬虫類・MOMI-2006)」を設置する。08年にはローマの国連食糧農業機関(FAO)本部、09年北極のスヴァールバル全地球種子庫にも作品を設置。彫刻が、単に展覧会の出品作として語られるのではなく、社会の精神的なモニュメントとしての存在であることを、制作を通して実証し続けた。11年に『田辺光彰』(野村太郎編著、八坂書房)が刊行。2014年に横浜市に開設した日吉の森庭園美術館に田辺光彰美術館がある。

頼富本宏

没年月日:2015/03/30

読み:よりとみほんこう  密教学・密教美術研究を専門とし、ことにインド・チベット・中国の密教遺跡と遺品の調査研究に数多くの業績を残した頼富本宏は3月30日午後9時31分 膵臓がんのため死去した。享年69。翌日、真言宗より「大僧正」を追贈。葬儀は近親者で密葬を執り行い、本葬を4月29日に神戸市内の本願寺神戸別院で営んだ。 1945(昭和20)年4月14日、本信・房子の長男として香川県に大川郡大川町に生まれる。幼名は本宏(もとひろ)。神戸・實相寺開山で第一世住職であった父を師僧とした。59年7月、同寺において得度。64年3月兵庫県立神戸高等学校を卒業後、4月より京都大学文学部に入学し勉学に勤しむ傍ら、5月には東寺真言宗より度牒を得る。66年8月には淡路・万福寺にて4ヶ月に及んだ四度加行を成満する。68年3月、京都大学文学部(仏教学専攻)を卒業、4月より同大学大学院文学研究科修士課程(仏教学)に進学するとともに、12月21日には京都・醍醐寺に於いて伝法灌頂入壇(三宝院流憲深方)を果たす。70年修士課程修了のち、そのまま同大学大学院博士課程(仏教学)に進学。73年3月単位取得満期退学。4月より種智院大学仏教学部専任講師となる。76年4月同学部助教授に就任するとともに、日本密教学会理事となる。この頃より本格的に密教美術に及んだ論文を執筆することを心がけ、当初は「ラマ教」関係に留まったが、80年代以降、日本を見据えての東アジアにおける密教の伝播・受容に関する研究へと視野を拡大してゆく。82年7月インドに現存する密教遺跡・遺品の研究で朝日学術奨励賞を受賞。10月より密教図像学会常任委員となる。83年10月に實相寺住職(第二世)を継職。87年12月より仏教史学会評議員となる。翌88年3月京都大学より文学博士の学位を得る。1992(平成4)年4月種智院大学仏教学部長に就任するとともに、日本仏教学会理事、日本印度学仏教学会理事となる。95年10月密教学芸賞を受賞。97年10月密教図像学会副会長となる。98年3月種智院大学の職を辞し、4月より国際日本文化研究センター研究部教授に就任するとともに、総合研究大学院大学文化科学研究科教授、種智院大学の客員教授を兼務する(いずれも2002年3月まで)。99年4月には国際日本文化研究センター評議員となる。2002年4月種智院大学第十代学長に就任、日本私立大学協会評議員となる。04年4月より人間文化研究機構国際日本文化研究センター運営委員となる。08年「権僧正」補任。10年3月に種智院大学長を退き、同大学の名誉教授の称号を得る。この間、京都所在の大学を中心に非常勤講師(集中も含む)として関西大学(1976~78、95~97年)、京都大学(1979~81、90~92年)、大谷大学(1979~81、91~93、00~01年)、龍谷大学(1994~2001年)、同短期大学部(1987~99年)、佛教大学(1992~93年)、岡山大学(同)、金沢大学(1993~94年)などに出講した。 頼富は文字通り密教学僧であり、インドから日本に及ぶアジアの密教文化・密教美術の研究としては泰斗的な存在であった。その性格は非常に温厚・篤実であり、腰の低い人柄は諸方面より慕われ人望が厚かった。生涯の業績において特筆されるのは佐和隆研(1983年没)の遺志を継ぎ、以来、約30年にわたって密教図像学会の発展に尽力し、佐和隆研博士学術奨励賞の維持に努め、門戸を開いて後身研究者の育成を目指すとともに、同学会の行く末・発展に最期まで腐心した点にある。著書・論文は仏教哲学、密教文化に及んで専門的なものから一般啓蒙書まで多岐に及ぶが、美術に関わるものに限定して単独で発表した代表的なものをあげるならば、単著に『庶民のほとけ―観音・地蔵・不動―』(日本放送協会、1984年)、『マンダラの仏たち』(東京美術、1985年)、『密教仏の研究』(法蔵館、1990年)、『曼荼羅の鑑賞基礎知識』(至文堂、1991年)、『マンダラ講話』(朱鷺書房、1996年)、『密教とマンダラ(NHKライブラリー)』(NHK出版、2003年)、『すぐわかるマンダラの仏たち』(東京美術、2004年)がある。主要論文については、『頼富本宏博士還暦記念論文集 マンダラの諸相と文化』上(法蔵館、2005年)所載の「頼富本宏博士略歴・業績目録」を参照されたい。このほかNHKメディアを活用し、市民大学「密教とマンダラ」(1963年放送)、人間講座「空海―平安のマルチ文化人―」(2015年)、BS夢の美術館「アジア仏の美100選」(2017年)等に講師として出演し知名度を上げるとともに、ともすれば深淵難解と敬遠されがちな密教教学と文化をわかりやすく一般に説いた。

渡邊明義

没年月日:2015/03/30

読み:わたなべあきよし  美術史家で文化財保護行政にも多年にわたり貢献した渡邊明義は、3月30日、横行結腸がんのため死去した。享年79。 1935(昭和10)年、8月4日栃木県氏家町(現、さくら市)に生まれる。48年宇都宮市立中央小学校卒、51年宇都宮市立旭中学校卒、54年宇都宮高等学校卒。62年東京藝術大学美術学部専攻科修了(芸術学専攻)。同年、文部省文化財保護委員会美術工芸課に採用される。以後長く現文化庁に席を置き、文化庁美術工芸課絵画部門主任調査官を経て、1989(平成元)年、文化庁文化財保護部美術工芸課長。92年東京国立博物館学芸部長。94年文化庁文化財保護部文化財監査官。96年東京国立文化財研究所長、2001年独立行政法人文化財研究所理事長を経て、04年東京文化財研究所長を辞し、同年公益財団法人平山郁夫シルクロード美術館顧問(後に理事)。08年一般財団法人世界紙文化遺産支援財団紙守を設立。その代表理事となる。 美術史家としての専門は中国及び日本の中世絵画史で、鈴木敬の影響が大きかった。論文に「倪雲林年譜(上)(下)」『国華』829・830(1961年)、「伝夏珪筆山水図について―夏珪画に関する二三のノート―」『国華』931(1971年)、「張路筆 漁夫図」『国華』981(1975年)をはじめとする多数の論文のほか、『瀟湘八景図』日本の美術124(至文堂、1976年)、『水墨画 雪舟とその流派』日本の美術335(至文堂、1994年)、『水墨画の鑑賞基礎知識』(至文堂、1997年)等の著書がある。 文化財保護委員会から文化庁にわたり長年を過ごし、絵画の修理担当を長年勤めて指導的立場に立つようになり、それまでの古典的な修理方から、現在では当然となって引きつがれている地色補彩のあり方、乾式肌上げ法等、修理技術者と密な関係を保ちつつ、近代的な修理の方法論と哲学を築き上げた功績は大である。一方で国宝修理装〓師連盟の資格制度導入と国際的活動拠点化の糸口を作った。神護寺像「伝源頼朝像」ほか三幅、東寺蔵「伝真言院曼荼羅」をはじめ、多数の重要な修理にたずさわった。その中で絵画の素材、技法などを含む装〓について研究を積んだ。『古代絵画の技術』日本の美術401(至文堂、1999年)等の著書のほか、『装〓史』(国宝修理装〓師連盟編、2011年)で全9章のうち5章を担当した部分は、装〓の歴史をも含めた該博な長年の経験と知識に裏付けられた貴重な著作といえよう。 また、72年の高松塚古墳壁画の発見にともない、その保存対策を文化庁にあって三輪嘉六(元九州国立博物館長)らとともに実質的に担ったことも大きな出来事であった。各国から専門家を招き、「高松塚古墳応急保存対策調査会」を組織してさまざまな意見がある中で現地保存の方針をかため、保存施設を構築し、壁画の手当を東京国立文化財研究所とともに手さぐりで行わなければならない、それまでに例のない難事業であった。保存施設は当時にあって能う限りのものであり、完成、引き渡しの当日、渡邊は前日から作業小屋に泊まり、帰途、涙したと述懐している。保存対策の経緯は後に『国宝高松塚古墳壁画―保存と修理』(文化庁、1987年)に子細に報告されているが、渡邊は同書のいくつかの項目を担当した上で、中心となってこれを編集した。施設内では時折カビの発生がみられ、ことに白虎の描線が薄れるということがあった。その後落ち着きがみられたものの、2001年、保存施設と石室を連結する「取合部」の剥落止め工事を契機に再びカビが大量発生し、また虫類の侵入が顕著になったことを受けて、「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会」が文化庁に設けられ、その座長を務めた。後に高松塚古墳壁画は結局石室ごと取り出され、保存修理が行なわれることとなったが、生前叙勲を辞退したことには、壁画を守りきれなかった思いがあったと推測され、その真摯な人柄を物語る。 東京国立文化財研究所の改築、独立行政法人化にあたってもその長として責務を果たした。また、日米経済摩擦の最中の90年、平山郁夫東京藝術大学長(当時)が海外に保管されている我が国の美術工芸品の修理を官民協力で援助する事業を提唱し、文化庁側の担当としてこの事業を担い、これを期に平山郁夫との親交を得た。さらにユネスコのアフガニスタン復興会議で我が国が名乗りを挙げたバーミアンの仏教遺跡の保存事業を東京文化財研究所事業として率先して引き受け、戦争により被害を受けた文化相の調査と専門家養成事業を行ない、文化財保護の国際的協力体制の足掛かりを作った。 他に文化庁文化財調査会文化財文化会長、ユネスコ日本国内委員会委員、芸術文化振興基金運営委員、公益財団法人文化財保護・藝術研究助成財団評議員、一般社団法人国宝修理装〓師連盟顧問等をつとめ、熊野古道の世界遺産化のとりまとめ等の重責を果たし、『「地域と文化財」ボランティア活動と文化財』(勉誠出版、2013年)の編者となるなど、晩年まで活躍した。没する数か月前に文化庁主催の講習会に病身を押して車椅子で「装〓史」の講義を行なうなど、身体的には必ずしも頑健ではなかったにもかかわらず終生精力的であった。 没後の2015年9月5日、東京プリンスホテルにて「渡邊明義さんを偲ぶ会」が催され、大多数の出席をみた。照会先―東京都中央区日本橋本町4-7-1 三恵日本橋ビル2階 一般財団法人 世界紙文化遺産支援財団 紙守

村田慶之輔

没年月日:2015/03/19

読み:むらたけいのすけ  川崎市岡本太郎美術館名誉館長で、美術評論家の村田慶之輔は、3月19日に死去した。享年84。 1930(昭和5)年10月11日に生まれる。56年3月、早稲田大学第一文化学部を卒業。59年11月に神奈川県教育委員会職員となる。64年、神奈川県立博物館準備室の学芸員となる。69年4月に文化庁文化部芸術課専門職員に転ずる。74年7月に文化庁文化部文化普及課の国立国際美術館設立準備室主幹となる。77年5月、国立国際美術館開館にともない学芸課長となる。1991(平成3)年3月に定年退官。同美術館在職中には、福井県立美術館運営委員会、西宮市大谷記念美術館運営委員会、愛知県美術館協議会、和歌山県立近代美術館協議会の委員を務め、また高知国際版画トリエンナーレ、安井賞、現代日本美術展、吉原治良賞の審査員も務めた。教育面では、愛知県立芸術大学、静岡大学等で非常勤講師として教鞭をとった。92年4月、高岡市美術館準備室長となるが、翌年3月に退職。99年4月に川崎市岡本太郎美術館館長となる。在職中は、岡本太郎をはじめとする各種の企画展の企画、監修などにあたった。2012年4月に同美術館名誉館長となる。また同時期に、軽井沢ニューアートミュージアムの名誉館長にも就任した。幅広い視野から、縦横に美術を語り、批評しつづけた美術館人であった。

金子國義

没年月日:2015/03/16

読み:かねこくによし  画家の金子國義は、3月16日、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去した。享年78。 1936(昭和11)年7月23日、埼玉県蕨市で織物業を営む裕福な家庭の四人兄弟(兄二人、姉一人)の末っ子として生まれる。幼少のころより図画工作、習字に秀で、華道、茶道、バレエのレッスンに通う。高校生のころは「映画狂時代」を自称するほど映画を観、『ハーパーズ・バザー』、『ヴォーグ』などファッション誌を購読、スタイル画に熱中する。56年、日本大学芸術学部入学。学業と平行して歌舞伎舞台美術家長坂元弘に4年間師事し、歌舞伎や新派、東をどりなどの舞台装置や衣装を学ぶ。57年、二十日会に参加し、第一回公演「わがままな巨人」の舞台を担当。59年、大学卒業後、グラフィックデザイン会社でコマーシャルなどの仕事に従事するが、3ヶ月で退社。60年、第37回春陽会展の舞台美術部門で「ある巨人の話」が入選。65年ころ、高橋睦郎を介して澁澤龍彦と知り合い、翌年刊行された澁澤の翻訳書『オー嬢の物語』(河出書房新社)の挿絵を担当。このころアングラ劇団「状況劇場」で舞台美術を担当したり出演する。67年、澁澤の紹介で初の個展「花咲く乙女たち」を銀座・青木画廊で開催(同画廊では69年「千鳥たち」、75年「お遊戯」、83年「オルペウス」の個展を開催)。68年、映画「うたたかの恋」(監督桂宏平、主演四谷シモン)で美術を担当。71年、ミラノ・ナビリオ画廊にて個展開催。同年、雑誌「婦人公論」の表紙画を担当(1974年12月号まで)。75年、生田耕作訳『バタイユ作品集』(角川書店)の装幀・挿絵を担当。世紀末的・デカダンスな雰囲気を漂わせる妖艶な女性の絵を得意とし、60年代から70年代半ばを風靡したアングラ文化の一翼を担った。80年、バレエ「アリスの夢」(原宿ラフォーレミュージアム)で構成・演出・美術を担当。以後も、東京を中心に個展を多数開催、1998(平成10)年に自身がオーナーとなり神田神保町に金子による画集・リトグラフ・油彩・装丁本のほか金子が所蔵する書籍、美術品を展示するギャラリー兼古書店を開設(没後もオーナーを代えて存続)。晩年まで舞台美術、着物デザイン、写真など多岐にわたり、精力的に活動、18代目中村勘三郎(2005年)、6代目中村勘九郎(2012年)ら歌舞伎役者の襲名披露口上の美術、ロックバンド・L’Arc~en~CielのボーカリストHYDEのアルバム「FAITH」ジャケット原画(2006年、発売=HAUNTED RECORDS)を手がけた。 著書に『美貌帖』(河出書房新社、2015年)、絵本に『Alice’s adventures in Wonderland(不思議の国のアリス)』(イタリア・オリベッティ社、1974年)、作品集に『アリスの夢』(角川書店、1978年)、『金子國義アリスの画廊』(美術出版社、1979年)、『オルペウス』(美術出版社、1983年)、『青空』(美術出版社、1989年)、『お遊戯Les Jeux』(新潮社、1997年)、『よこしまな天使』(朝日新聞社、1998年、Asahi Art Collection)、『金子國義油彩集』(メディアファクトリー、2001年)、『Drink Me Eat Me』(平凡社、2004年)、『L’ Elegance金子國義の世界』(平凡社、2008年、コロナ・ブックス)など多数。特に一般には「富士見ロマン文庫」(富士見書房、1977年から91年)、『ユリイカ』(1988年から90年)をはじめとする多くの書籍・雑誌の装幀画・挿絵を手がけたことでも知られた。回顧展としては、「EROS’84」(渋谷・西武百貨店アートフォーラム、1984年)、「EROS ’90楽園へ」(キリンプラザ大阪、1990年)がある。没後、『ユリイカ』2015年7月臨時増刊号や『KAWADE夢ムック文藝別冊』(2015年8月)などで特集された。

灰外達夫

没年月日:2015/03/14

読み:はいそとたつお  重要無形文化財「木工芸」の各個認定者の灰外達夫は3月14日脳内出血のため死去した。享年74。 1941(昭和16)年1月3日、石川県珠洲市に生まれる。56年に中学を卒業し正院町にて建具の修業を始める。建具の製作に携わる中で、指物、挽曲等の木工芸技法を身につける。 その後、77年、重要無形文化財「木工芸」の各個認定者である氷見晃堂の遺作展に感銘を受け、木工芸の創作を始める。81年、第28回日本伝統工芸展に「欅十六角喰籠」が初入選。 1989(平成元)年には日本伝統工芸展正会員となり、同年、金沢大和画廊アートサロンにて個展を開催。92年、第39回日本伝統工芸展で「神代杉造木象嵌短冊箱」が奨励賞を受賞。 97年には灰外達夫木工芸展をさいか屋(横須賀)で開催。99年には日本橋三越にて個展を開催。石川県立美術館で開催された石川県作家選抜美術展へ出品。 2000年、第9回日本伝統工芸木竹展で「神代杉挽曲造木象嵌箱」が文化庁長官賞を受賞。03年の第50回日本伝統工芸展で「神代楡挽曲造食籠」がNHK会長賞を受賞(文化庁買い上げ)。 07年には第54回日本伝統工芸展で「神代杉造食籠」が保持者賞を受賞。翌年の08年には紫綬褒章を受章。12年、重要無形文化財「木工芸」の各個保持者に認定される。同年、菊池寛実記念智美術館において「茶の湯の現代-用と形-」大賞を受賞。翌年の13年には伊勢神宮式年遷宮献納。14年旭日小綬章を受章。15年には和光ホールにて開催された「北陸発工芸未来派」に出品。 挽曲とは神社の鳥居等に用いられた技法で、木材の薄板に鋸で挽き目を入れ、部分的に曲げて造形する技法である。同技法は挽き目の深さや角度を調整する技術が肝要といえる。灰外は特殊な鋸を用いて挽き目を入れ、精緻な多角形等を正確に表現する。神代杉、神代楡などを素材に用い、柾目の木目を生かした作風といえる。「デザインありきではなく、まず技術ありきであり、技術がデザインを作る」という言葉を残している。 制作は木工芸だけに留まらず、80年には独学で陶芸をはじめ、日本最大の径1,82mの大皿焼き上げに成功し(当時ギネス世界記録)、82年には灰外達夫大皿展を高島屋で開催。1983年には日本最大の陶板焼き上げに成功し、95年には日本陶磁協会賞を受賞している。  自身の製作だけでなく後進の育成にも尽力しており、98年から09年まで石川県立輪島漆芸研究所の講師を務める。また、石川伝統工芸展、日本伝統工芸木竹展、日本伝統工芸展の監査委員なども歴任する。 作品は茶道を嗜む人々等に愛用された他、文化庁、金沢市立中村記念美術館や石川県立美術館に所蔵されている。 参考映像にDVD「シリーズ北陸の工芸作家 石川の匠たち 灰外達夫 道」北陸メディアセンター(2014年)等がある。

濱本聰

没年月日:2015/03/13

読み:はまもとさとし  下関市立美術館長で、美術史研究者の濱本聰は、3月13日に死去した。享年60。 1954(昭和29)年8月1日山口県萩市に生まれる。岡山大学大学院文学研究科修士課程(日本近現代美術史専攻)を修了後、84年に下関市立美術館学芸員に採用される。1992(平成4)年11月には、第4回倫雅美術奨励賞の「美術評論・美術史研究部門」において、展覧会「日本のリアリズム 1920s-50s」の企画及びカタログ中の論文によって、共同企画者である大熊敏之とともに受賞した。97年、同美術館学芸係長に昇任。2004年に館長補佐、10年から館長となった。同美術館在職中は、香月泰男をはじめとして地域出身の美術家の回顧展等を企画担当して顕彰につとめ、美術、文化振興のために美術館の運営にあたった。近代美術の研究にあたっては、岸田劉生、香月泰男、桂ゆき、殿敷侃等の作家研究を中心に、作品に対して冷静な観察と的確な分析に基づく論考を多く残しており、これらは今なお参考にすべき業績である。主要な研究業績並びに担当した展覧会は下記の通りである。主要論文並びに担当展覧会:「岸田劉生と草土社」(「岸田劉生と草土社」展、下関市立美術館、1985年)「香月泰男-1940年代の作品から-」(「香月泰男」展、下関市立美術館、1987年)「長谷川三郎とその時代概説」(「長谷川三郎とその時代」展、下関市立美術館、1988年)「日常的な呼吸の中の版画」(『香月泰男全版画集』、阿部出版、1990年)「桂ゆきの作品をめぐる螺旋的な記述の試み」(「桂ゆき展」、下関市立美術館、1991年)「新しいリアリズムへ―1940年代以降の展開」(「日本のリアリズム 1920s-50s」展、北海道立近代美術館、下関市立美術館巡回、1992年)「殿敷侃・現代の語り部」(「殿敷侃展 遺されたメッセージ・アートから社会へ」、下関市立美術館、1993年)解説「宮崎進-透過する眼差し-」(「宮崎進展」、下関市立美術館、笠間日動美術館、平塚市美術館、三重県立美術館、新潟市美術館巡回、1994-95年)「香月泰男の造型的模索―1950年代の作品を中心に―」(「香月泰男展」、愛知県美術館、下関市立美術館、そごう美術館(横浜)巡回、1994-95年)「『初年兵哀歌』が語るもの」(「浜田知明の全容」展、小田急美術館(東京新宿)、富山県立近代美術館、下関市立美術館、伊丹市立美術館巡回、1996年)「岸田劉生試論-静物・風景・人物- 所蔵油彩作品を中心に」(『研究紀要』8、下関市立美術館、2001年)「作品解説-画風の展開とその特質-」(『香月泰男画集 生命の讃歌』、小学館、2004年、同書では安井雄一郎とともに編集委員をつとめる)「下関の戦後美術(洋画篇)」(「戦後美術と下関」展、下関市立美術館、2005年)「香月泰男・1940-50年代の展開~モダニズムから新たな地平へ~」(「没後35年 香月泰男と1940-50年代の絵画」展、下関市立美術館、2009年)「桂ゆきの眼差し-その批評精神をめぐって-」(「生誕百年 桂ゆき-ある寓話-」展、東京都現代美術館、下関市立美術館巡回、2013年)

辰巳ヨシヒロ

没年月日:2015/03/07

読み:たつみよしひろ  漫画家の辰巳ヨシヒロは、3月7日悪性リンパ腫のため亡くなった。享年79。 1935(昭和10)年6月10日、大阪府大阪市天王寺区に生まれる。本名辰巳嘉裕。中学時代に手塚治虫の漫画に出会い、また手塚宅を何度か訪ねたことから本格的に漫画を描くようになり、『漫画少年』などに投稿をする。52年に描いた『こどもじま』(鶴書房、1954年)で単行本デビュー。54年、大阪の貸本漫画出版の八興社・日の丸文庫でスリラー『七つの顔』を発表、以後同出版社でスリラーものを手がけていく。56年、日の丸文庫が刊行した短篇誌『影』に主要な描き手として活躍、後に編集にも関わる。同年上京。57年頃に貸本漫画界は探偵・推理ものブームとなり、辰巳は、少年向けの楽しい、明るい、笑いを中心とした漫画と自分たちの系譜を分けるために「劇画」という名称を打ち立てる。59年に東京・国分寺ことぶき荘で「劇画工房」の設立に参加、短編誌の発行と自主出版を目指したが1年ほどで解散となる。63年出版社「第一プロダクションを」を設立。60年代末からの劇画ブームのなかで、自身の位置を模索しつつ、週刊誌で原作付き連載をこなすが、辰巳本来の特徴を示すのは、「おれのヒットラー」(『劇画マガジン』、1969年)などにみられるように、おもに社会の下層労働者や鬱屈した人々を描いた暗いムードの作品である。青年漫画誌『ガロ』や自身の出版社「ヒロ書房」を舞台として発表を行なう。楕円形の顔立ちの無口な男性主人公が多く、とくに短編集『人喰魚』(ヒロ書房、1970年)は、ブルーフィルムの「写し屋」、ラッシュアワー電車の「押し屋」、籠の鳥に自分をみる男の「ひも」、タレントに異常な恋慕をする男の「事故死」など、彼の劇画色が発揮されている。同書は72年第1回日本漫画家協会賞努力賞受賞。90年代にはひろさちや原作で仏教漫画に取り組む。2000(平成12)年以降、海外での評価も高まり、主な作品が英語、フランス語をはじめ8カ国語に翻訳出版されている。大人の漫画をつくった功績により、05年にはフランスのアングレーム国際コミック・フェスティバルで、06年にはサンディエゴ・コミック・コンベンションで特別賞を受賞。11年にはシンガポールの映画監督エリック・クーによって辰巳の作品を原作としたアニメーション『TATSUMI』が製作されている(日本公開2014年)。自身の伝記的要素を踏まえた『劇画漂流(上下)』(青林工藝社、2008年、のち講談社漫画文庫、2013年)は、『まんだらけマンガ目録』などに12年にわたり連載された劇画史を描いた力作で、09年手塚治虫文化賞大賞、10年アイズナー賞最優秀アジア作品に選出された。『劇画漂流』の活字版といえる『劇画暮らし』(本の雑誌社、2010年、のち角川文庫、2014年)もある。

小川知二

没年月日:2015/03/02

読み:おがわともじ  元東京学芸大学教授で美術史研究者の小川知二氏は、3月2日死去した。享年71。 1943(昭和18)年8月30日、神奈川県横浜市に生まれる(本籍は茨城県牛久市)。京都大学文学部哲学科美学美術史専修を修了し、茨城県立歴史館に勤務。日本中世絵画史、とくに常陸画壇史や雪村周継の研究において優れた業績を残した。小川による基礎資料の真摯な調査、画家の基準作を丹念に追求する精緻な研究は、雪村をはじめ、林十江、立原杏所、佐竹義人などによる常陸画壇の軌跡に新たな光をあてるものとなった。 茨城県立歴史館では、雪村の大規模な企画展として「新規会館記念特別展 雪村―常陸からの出発(たびだち)―」(1992年)を担当した。また、同館『茨城県立歴史館報』に「近世水戸画檀の形成(上)(中の一)(中の二)」「『日乗上人日記』に登場する画家たち」を連載し、祥啓、雪村とその周辺画家を水戸美術の黎明期に位置づけ、水戸藩成立後の狩野派絵師の活動や、徳川光圀が招いた東皐心越などの動向など、貴重な基礎資料を提示した。 1995年より東京学芸大学教育学部教授となり、教育活動に力を注いだ。その間、2002年に千葉市立美術館など4館で開催された特別展「雪村展:戦国時代のスーパーエキセントリック」に特別学芸協力を行い、「雪村の造型感覚―初期の作品から「風濤図」に至るまで」(『東京学芸大学造形芸術学・演劇学講座研究紀要』1、1996年)、「雪村の作品の編年に関する問題点」(『国華』1242、1999年)などを発表し、2004年には『常陸時代の雪村』(中央公論美術出版)を刊行した。同著は先学の福井利吉郎、赤澤英二の諸研究をふまえた雪村研究の集大成をなすものとなった。05年に同大学を定年にて退任する。 小川はまた、「学芸員とは何だろう」(『MUSEOLOGY』16、1997年)において、学芸員の専門性について強調しているように、地域社会における博物館学芸員の役割について重要な提言を行った。とくに1970年代に「博物館問題研究会」において、わが国の博物館の歴史的・社会的位置づけに関する議論を深め、同研究会に「文化論学習会」を設立し、吉本隆明『共同幻想論』、丸山眞男『超国家主義の論理と心理』などをとりあげ、人文科学系博物館における歴史観・芸術観の課題について論じた。熱心な教育普及活動によって地域においても人望篤く、また学生や後継の研究者への細やかな配慮によって尊敬をあつめた。芸術を探求した小川の真摯な姿勢は、祖父小川芋銭の血を受け継ぐものであったのかもしれない。 主要な編著書・論文は下記の通りである。編著書『奇想のメッセージ 林十江』(日本放送出版協会、1993年)『江戸名作画帖全集―探幽・守景・一蝶:狩野派』4(安村敏信・小川編、駸々堂出版、1994年)『常陸時代の雪村』(中央公論美術出版、2004年)『もっと知りたい雪村―生涯と作品―』(東京美術、2007年)「常陸画檀史断章――佐竹義人の登場と伝説、そして忘却へ――」(吉成英文編『常陸の社会と文化』ぺりかん社、2007年)論文「林十江、立原杏所とその作品」(『古美術』61、1982年)「「蝦蟇図」の作者林十江」(『国華』1058、1982年)「立原杏所筆 夏天急雨図」(『国華』1081、1985年)「立原杏所の「北越山水図巻」と「写生画巻」について」(『国華』1103、1987年)「近世水戸画檀の形成(上)」同「(中の一)」同「(中の二)」(『茨城県立歴史館報』12・13・16、1986年・1989年)「林十江筆 十二支図巻」(『国華』1120、1989年)「『日乗上人日記』に登場する画家たち」(『茨城県立歴史館報』19、1992年)「立原杏所の『袋田瀑布』について―再出現の作品紹介を兼ねて―」(『東京学芸大学紀要 第2部門 人文科学』45、1994年)「雪村の造型感覚―初期の作品から「風濤図」に至るまで」(『東京学芸大学造形芸術学・演劇学講座研究紀要』1、1996年)「学芸員とは何だろう」(『Museology(実践女子大学)』16、1997年)「林十江の造形意識―「蝦蟇図」再考」(『東京学芸大学紀要 第2部門 人文科学』49、1998年)「一瞬の造形表現―林十江筆「柳燕図」の紹介を兼ねて」(『東京学芸大学造形芸術学・演劇学講座研究紀要』2、1998年)「雪村の作品の編年に関する問題点」(『国華』1242、1999年)「雪村筆 葛花、竹に蟹図」(『国華』1242、1999年)「岡倉天心と雪村」(『東京学芸大学造形芸術学・演劇学講座研究紀要』3、2001年)「雪村の画論『説門弟資伝』について」(『東京学芸大学紀要 第2部門 人文科学』55、2004年)「雪村は雪舟に傾ける周文風なり―岡倉天心の言説を巡って―」(『五浦論叢』14、2007年)「奥原晴湖の生涯と作品~「繍水草堂」の時代を中心に~」(『奥原晴湖展』古河歴史博物館、2010年)「林十江筆 昇龍図」(『国華』1390、2011年)「雪村周継「布袋図」と「山水図」(『聚美』2、2012年)「近世の水戸画檀とは」(茨城県立歴史館『近世水戸の画人 奇才・十江と粋人・喬展』、2014年)「谷文晁、酒井抱一、菅原洞斎の雪村崇拝―雪村の画論『説門弟資云』の謎をめぐって―」(『特別展 雪村 奇想の誕生』東京藝術大学大学美術館、MIHO MUSEUM、2017年)

宮崎徹

没年月日:2015/02/20

読み:みやざきとおる  鎌倉市鏑木清方記念美術館副館長兼主任学芸員の宮崎徹は2月20日死去した。享年53。 1961(昭和36)年5月13日、埼玉県浦和市に生まれる。85年立正大学文学部英文学科卒業。翌86年から88年まで中国・鄭州大学に留学。1993(平成5)年財団法人鎌倉市芸術文化振興財団に入職。鎌倉芸術館の運営にかかる施設課を経て、総務課在職中に鎌倉市鏑木清方記念美術館(1998年開館)の設立に関わる。2000年より同美術館に学芸員として奉職。04年より主任学芸員、13年より副館長兼主任学芸員を務める。 同美術館では01年より鏑木清方の画業についての調査研究の成果を叢書図録として刊行し始め、主担当として執筆と編纂を行なう。肉筆画のみならず新聞・雑誌に掲載された口絵・挿絵をも網羅したその内容は、卓上芸術を標榜した清方のカタログレゾネとして高く評価される。教育普及活動にも力を入れ、09年には子供向けに日本画の画材や技法をやさしく解説した冊子『日本画を描いてみよう!』を制作・発行。また館外でも美術館「えき」KYOTOでの「鏑木清方の芸術展」(2008年)の監修・企画をはじめ、サントリー美術館(2009年)、平塚市美術館(2012年)、佐野美術館(2014年)、千葉市美術館(2014年)等での鏑木清方関連の企画展に協力。2008年、別冊太陽『鏑木清方 逝きし明治のおもかげ』を執筆、編集協力を行ない、14年には『鏑木清方 江戸東京めぐり』(求龍堂)、『鏑木清方 清く潔くうるはしく』(東京美術)を刊行、清方の魅力を広く伝えることに努めた。その業績については、有志による『宮〓徹氏追悼文集』(2017年)に詳しい。

榮久庵憲司

没年月日:2015/02/08

読み:えくあんけんじ  インダストリアル・デザイナーの榮久庵憲司は、2月8日洞不全症候群のため死去した。享年85。 1929(昭和4)年9月11日、東京に生まれる。父・鉄念は広島の永久寺の僧侶で、その関係で幼少期をハワイで過ごす。37年帰国。広島の海軍兵学校を出て応召、復員した後に仏教専門学校に入るが中退し、50年東京藝術大学工芸科図案部に入学する。その頃、広島に民間情報教育局のCIE(アメリカ文化センター)図書館が設置され、借り出したウォルター・ドーウィン・ティーグの『デザイン宣言』やレイモンド・ローウィの『口紅から機関車まで』などを翻訳しながら読み込み、インダストリアル・デザインを学んだ。52年同大学工芸科助教授の小池岩太郎(インダストリアル・デザイナー)のもとで、岩崎信治、柴田献一、逆井宏らとGK(Group of Koike)インダストリアル研究室を結成し、毎日新聞社が主催し初めて公募した第1回新日本工業デザインコンペティションに応募するなど、デザイン活動を始める。54年第3回同コンペで特選3席入賞、翌年第4回同コンペでは特選1席、2席、3席を受賞して注目を集めた。55年東京藝術大学を卒業してGK事務所を新宿区下落合に構える。同年ヤマハ発動機が設立され、オートバイ1号機である「YA-1」をデザインし、以降、「VMAX」等のオートバイのデザインを手がける。56年海外貿易振興会(現・ジェトロ)のデザイン留学派遣募集に合格し、ロサンゼルスのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインで1年間自動車デザインを学んだ。1957年有限会社GKインダストリアルデザイン研究所を創立して代表取締役所長となり、以降、プロダクトから万博や市街地のサイン計画、「成田エクスプレスN’EX」(2009年)等、実に広域のデザイン分野で活躍するGKデザイングループを世界最大規模へと発展させた。そして、戦後の社会・生活の復興のなかで誰もが美しいデザインを享受できる「モノの民主化」「美の民主化」を原点に唱えて、野田醤油株式会社(現、キッコーマン)「しょうゆ卓上びん」(1961年)をはじめ、多数の一般家庭用の生活用具のデザインに携わる。59年建築家や都市計画家の川添登、菊竹清訓、黒川紀章らが結成したメタボリズム・グループに参加。60年東京で世界デザイン会議のテーマ実行委員長を務め、62年には日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)理事、70年理事長就任、70年大阪の日本万国博覧会でストリート・ファニチュアの統括責任を担当、1989(平成元)年名古屋の世界デザイン博覧会でも総合プロデューサーを務めるなど、戦後日本の工業デザインの牽引役となりその発展の重要な役割を担った。98年世界デザイン機構を設立し初代会長に就任。著作『道具考』(鹿島研究所出版会、1969年)や『インダストリアル・デザイン』(日本放送出版協会、1971年)を刊行するなど、こころとこと、ものとを三位一体に融合させるデザイン学や道具学といったデザインの領域を押し広げその理論の体系化や推進に尽力した。『デザイン』(日本経済新聞社、1972年)、『日本的発想の原点 幕の内弁当の美学』(ごま書房、1980年)、『道具の思想―ものに心を、人に世界を』(PHP研究所、同)、『モノと日本人』(東京書籍、1994年)等の多数の著作を発表した。人間と道具の関わりへの思いを深めて、2000年に『道具論』(鹿島出版会)を刊行し、未来へ向けたものづくり日本の精神の復権を念じた道具寺道具村建立を掲げて自らのデザイン思考を明らかにした。06年東京新宿・リビングデザインセンターOZONEで「道具寺道具村建立縁起展」開催。13年世田谷美術館「榮久庵憲司とGKの世界――鳳が翔く」展、14年広島県立美術館「広島が生んだデザイン界の巨匠 榮久庵憲司の世界展」を開催。79年国際インダストリアルデザイン団体協議会のコーリン・キング賞や93年JIDA大賞を受賞、97年フランスの芸術文化勲章、00年勲四等旭日小綬章を受章、14年イタリアからデザイン界のノーベル賞といわれるコンパッソ・ドーロ(黄金のコンパス賞)国際功労賞を受賞するなど、戦後日本のデザイン界の発展及びその国際化とともに国際的なデザイン界の振興に尽力した功績が高く評価された。

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