吾妻兼治郎

没年月日:2016/10/14
分野:, (彫)
読み:あづまけんじろう、 Azuma, Kenjiro*

 彫刻家の吾妻兼治郎は10月14日、イタリア、ミラノの自宅で死去した。享年90。
 1926(大正15)年3月12日、山形県山形市銅町に生まれる。生家は代々青銅鋳造業を営んでいた。兼治郎は少年期から祖父や父の仕事をみながら粘土で動物などをつくっていた。1943(昭和18)年海軍予科練に入り、鹿児島県鹿屋海軍航空隊で訓練を受けていたが敗戦、45年9月故郷に戻る。47年山形東高等学校の定時制で学びながら、彫刻家をめざすようになる。当時、山形美術館学芸員の木村重道の指導があった。49年東京藝術大学美術学部彫刻家の第1期生として入学。木村の紹介で在学中は美術評論家の今泉篤男宅に書生として住み込む。53年第2回日本国際美術展で展示されたイタリア現代彫刻、特にマリノ・マリーニに魅了される。53年新制作展に「オランダの水夫」など3点が初入選する。54年東京藝大に新設された専攻科へ進み、56年同大副手となる。
 吾妻は今泉の薦めもあり、マリーニに彫刻を学ぶことをめざす。そのためにはイタリア政府奨学金を獲得することが必要で、語学に励み、56年9月念願のミラノにわたる。国立ブレラ美術学校彫刻科マリノ・マリーニ教室には世界各国から学生17名が在籍していた。マリーニは助手を務める実力をもつ吾妻に「日本の優れた伝統」を大切にするよう説く。58年山形市の丸久百貨展で初個展。4年間マリーニ風の造形を手掛けていた吾妻は、師の影響から脱するべく苦闘し、60年冬、薪棚からくずれた木っ端の形から代表作となる「無(MU)」のシリーズが誕生する。61年4月ミラノのミニマ画廊で個展を開催(ブロンズ5点、石膏3点、油彩画8点)。個展は好評で、以後ローマやベルギー、スペイン、スイスなどの展覧会に招待され、吾妻のイタリアでの制作は活発になる。64年ドクメンタ3に出品。65年イタリアのビエラをはじめとして4カ所で個展を開催する。68年国際ジュエリー展(チェコスロバキア)で金賞受賞。69年第19回国際彫刻ビエンナーレ(フィレンツェ)で金賞受賞。71年サンタ・マルガレーテン国際彫刻シンポジウム(オーストリア)に参加。74年現代彫刻センター(東京)他で個展。同年毎日芸術賞受賞。83年個展(ドルドレヒト美術館、オランダ)、立体55点、リトグラフ8点などを展示。84年4月、山形市庁舎前に«MU1000»(高さ4m)を設置。以後、スランプに陥り、翌年「有(YU)」シリーズを手掛け始める。88年7月、吾妻兼治郎展が西武美術館(池袋)を皮切りに国内5館を巡回、彫刻85点をはじめ総165点が展示。1990(平成2)年ロレンツェリ・アート(ミラノ)で個展、42点を展示。95年紫綬褒章受章。
 96年ミラノ市からアンブロジーノ文化功労銀賞授与。99年から東京藝大客員教授(2002年まで)。同年「YU847」で第30回中原悌二郎受賞。2010年吾妻兼治郎1948―2010展(マテーラ市、南イタリア)が市内の石窟や美術館で開催、彫刻102点、デッサン50点などからなる大回顧展となる。晩年はマリーニ夫人から譲られた師のアトリエで制作をした。イタリアでの活動については、村山鎮雄著『彫刻家吾妻兼治郎の歩み』(私家版、2017年)が詳しい。

出 典:『日本美術年鑑』平成29年版(556頁)
登録日:2019年10月17日
更新日:2019年10月17日 (更新履歴)
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