本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,850 件)





藤平伸

没年月日:2012/02/27

 陶芸家で京都市立芸術大学名誉教授の藤平伸は、2月27日老衰のため死去した。享年89。 1922(大正11)年7月25日、京都市五条坂の藤平陶器所を営む藤平政一の次男として生まれる。父政一と五条坂の作陶仲間として昵懇の仲であったのが、陶芸家河井寛次郎であった。じつは「伸」という名前の命名者は、父の畏友である河井寛次郎であったという。父の仕事を見ながら成長し、1940(昭和15)年に京都高等工芸学校(現、京都工芸繊維大学)窯業科に入学したが、二年生の時、結核に倒れて退学。四年間の闘病生活の間、スケッチや読書に明け暮れ、回復後は銅版画教室に通う。この時期の体験が後の作陶に大きな影響を与え、「病気をしていなかったら、いまの自分はなかった」と自ら語るように、死に対峙したことにより、清らかさの漂うメルヘン的な作風が培われたと考えられる。 51年頃、父のもとで陶芸の道に入り、53年に日展初入選。56年、京都陶芸家クラブに入って、六代目清水六兵衛氏の指導を受ける。以後、日展を主舞台に活動し、57年に第13回日展で陶板によるレリーフの「うたごえ」が、特選の北斗賞を受賞。我が国の工芸において富本憲吉、河井寛次郎、八木一夫等と共に近代の京都陶芸史に足跡を残す一人となった。70年に京都市立芸術大学に助教授として招かれ、73年に教授となって88年に退官するまで作陶と後進の指導を行っている。 その陶芸の作風には気負いは全く感じられず、まさに自然体の姿勢が創作への源ともなっていた。轆轤を使わず、手捻りやタタラで成形を行っている。作品は単に器だけでなく、人物(陶人形)や鳥や馬などの動物、建築物などの詩情溢れる陶彫も手掛けている。そのモチーフの多くは、中国・漢代や唐代などの俑に代表される、墓に埋納される明器からの影響を受けていた。器には鳥・花・人物などの具象的なモチーフを線描・刻線・貼り付けなどの技法を用いて、軽妙な作風を示している。それら心温まる陶彫と器の作品群などにより、「陶の詩人」とも呼ばれている。 62年に日展菊華賞、73年に日本陶磁協会賞、1990(平成2)年に京都美術文化賞、93年には毎日芸術賞などをそれぞれ受賞。日展評議員、京都市立芸術大学名誉教授でもあった。“遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の聲きけば 我が身さえこそ揺るがるれ”、という平安時代末期に後白河法皇により編まれた今様歌謡(『梁塵秘抄』巻第二)をとくに好み、書にも残している。この歌の精神を持った、まことに京都の文人らしい軽妙洒脱でメルヘンの世界をやきもので表現し、日本の創作陶芸において独自の境地を開拓した陶芸家であった。

福王寺法林

没年月日:2012/02/21

 日本画家で文化勲章受章者の福王寺法林は2月21日午後1時27分、心不全のため東京都内の病院で死去した。享年91。 1920(大正9)年11月10日、山形県米沢市に生まれる。本名雄一。生家は上杉藩の槍術師範の家系。6歳の時、父親との狩猟の折に不慮の事故で左目を失明。8歳で狩野派の画家上村廣成に絵の手ほどきを受ける。1936(昭和11)年画家を志して上京。41年召集を受け中国戦線に配属、45年香港で捕虜となって46年復員。49年第34回日本美術院展に「山村風景」が初入選。この頃、同郷の美術評論家今泉篤男と出会い、以後その指導を受けることとなる。51年日本美術院同人の田中青坪に師事。55年の第40回院展「朝」が奨励賞・白寿賞となる。以後院展で56年第41回「かりん」、57年第42回「朴の木」が日本美術院次賞・大観賞、58年第43回「麦」が佳作・白寿賞、59年第44回「岩の石仏」が再び奨励賞・白寿賞、60年第45回「北の海」が日本美術院賞・大観賞を受賞、同年同人となる。翌年、奥村土牛が法林に預けた門下生と、法林門下生により組織された画塾濤林会を結成。65年第50回院展出品作「島灯」で第1回山種美術財団賞(文部省買上げ)を、71年第56回「山腹の石仏」で内閣総理大臣賞を受賞。74年ネパール、ヒマラヤを旅行し、同年よりライフワークとなるヒマラヤシリーズに着手、ヘリコプターや飛行機による取材を重ね、鳥瞰の視点によるスペクタクルな風景作品を発表し続けた。77年、前年の第61回院展「ヒマラヤ連峰」により芸術選奨文部大臣賞を受賞し、84年には前年の第68回院展「ヒマラヤの花」により日本芸術院賞を受賞。1991(平成3)年日本美術院理事に選任。同年大回顧展が日本橋高島屋他で開催された。94年日本芸術院会員となる。98年文化功労者となり、2004年文化勲章受章。この間01年に米沢市上杉博物館、02年に茨城県近代美術館他にて、次男で同じく日本美術院同人の一彦との親子展が開催されている。

石元泰博

没年月日:2012/02/06

 写真家で文化功労者の石元泰博は、2月6日肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年90。 1921(大正10)年6月14日、アメリカ合衆国サンフランシスコで生まれる。両親は高知県からの移民。24年両親とともに高知県高岡町(現、土佐市)に移住。1939(昭和14)年高知県立高知農業学校(現、高知県立高知農業高等学校)を卒業、近代農法を学ぶために渡米し、カリフォルニア大学農業スクールに進むが、第二次大戦の開戦により、42年コロラド州の日系人収容所アマチ・キャンプに収容される。44年沿岸諸州への居住禁止を条件に終戦前にキャンプから出ることを許され、シカゴに移住。当初建築を学ぶためノースウェスタン大学に入学するが、キャンプ時代にとりくみはじめた写真趣味が高じ、シカゴでスタジオを経営していた日系人写真家ハリー・K.シゲタ(重田欣二)の推薦を得て地元のカメラクラブに入会、さらに写真を学ぶため48年、インスティテュート・オブ・デザイン(通称ニュー・バウハウス、49年にイリノイ工科大学に編入)写真科に入学、ハリー・キャラハン、アーロン・シスキンらに師事した。52年同校を卒業。在学中50年に『Life』誌のヤング・フォトグラファーズ・コンテストに入賞、また優秀学生に授与される学内賞モホリ=ナジ賞を51年、52年に受賞するなど早くからその才能を示した。 53年に帰国。この際、ニューヨーク近代美術館の写真部長を務めていた写真家エドワード・スタイケンの依頼により「The Family of Man」展の出品作品の収集にあたるが、日本の写真界の協力が十分に得られず作品を集めることができなかった。同年開催の「現代写真展 日本とアメリカ」(国立近代美術館、東京)には、スタイケンが選択・構成を担当したアメリカ側の作家の一人として選ばれ出品。またこの年来日したニューヨーク近代美術館建築部門キュレーターの調査に同行、はじめて桂離宮を訪問、撮影に着手した。こうした過程を通じて知り合った吉村順三や丹下健三ら建築家や、批評家瀧口修造、デザイナーの亀倉雄策らが、バウハウスの流れを汲む正統なモダニズムにもとづく石元の作品をいちはやく評価する。丹下とは後に『桂 日本建築における伝統と創造』(丹下およびW.グロピウスとの共著、国内版、造形社、英語版、イェール大学出版部、1960年、改訂版、1970年)を出版した。54年には瀧口修造の企画により個展(タケミヤ画廊、東京)を開催。また54年開校の桑沢デザイン研究所で写真の授業を担当する(滞米時等の中断をはさみ、66年まで)。57年第1回日本写真批評家協会賞作家賞を受賞(「日本のかたち」「桂離宮」に対して)。58年、造形・構成的な傾向の作品から街中での人物スナップまで、シカゴおよび東京で撮りためたさまざまな写真を三部構成にまとめた写真集『ある日ある所』(芸美出版社)を刊行。 56年に勅使河原蒼風のもとで華道を学んでいた川又滋と結婚。アメリカ国籍であったためビザ更新の必要があり、58年末に夫人とともにアメリカに戻り61年末までシカゴに滞在した。この間同地で撮りためた作品により、62年個展「シカゴ、シカゴ」(日本橋白木屋、東京)を開催。69年には写真集『シカゴ、シカゴ』(美術出版社)を刊行し、同書により翌年毎日芸術賞を受賞する。シカゴから戻ると当初は藤沢に居を定め、71年には品川に移住。この間、66年から72年まで東京造形大学写真科教授として教育に携わる。69年には日本国籍を取得した。 60年代以降の石元は、建築写真および日本の伝統文化をめぐる作品、シカゴおよび東京を中心とする都市風景をめぐる作品、ポートレイト、多重露光などの技法を駆使した実験的な作品など、多様な仕事にとりくんでいく。いずれにおいてもシカゴで学んだモダニズム写真を背景とした、確かな造形感覚や高い写真技術、また自らに妥協を許さない姿勢に裏打ちされたすぐれた仕事を数多く発表し、日本写真界における独自の評価を確立していった。この時期の代表的な作品に、芸術選奨文部大臣賞および日本写真協会賞年度賞(1978年)を受賞した「伝真言院両界曼荼羅」(73年撮影、個展、西武美術館、東京、1977年他国内外を巡回、写真集『教王護国寺蔵 伝真言院両界曼荼羅』平凡社、1977年)や、修復後の81年に再撮影した「桂」(個展「桂離宮」西武百貨店大津ホール、滋賀、1983年他、写真集『桂離宮 空間と形』磯崎新と共著、岩波書店、1983年)、山手線の29の駅の周辺を8x10インチ判カメラで撮影した「山の手線・29」(個展、フォト・ギャラリー・インターナショナル、東京、1983年)、同じく大判カメラで花を撮影した「HANA」(個展、フォト・ギャラリー・インターナショナル、東京、1988年、写真集『HANA』求龍堂、1988年)など。 80年後半から90年代以降、石元は、路上の落ち葉や空き缶、雪に残る足跡、自宅から見た雲など、刻々と形を変えていく被写体をめぐる一連の作品にとりくむ。「さだかならぬもの」と写真家自身が呼んだこれらの被写体をめぐる仕事は「石元泰博―現在の記憶」(東京国立近代美術館フィルムセンター展示室、1996年)などで発表された。こうした試みは2000年代にかけて、より不定形な被写体である水面の反射や、渋谷の雑踏でのノーファインダー撮影によるスナップショットなどへと展開し、写真集『刻―moment』(平凡社、2004年)、『シブヤ、シブヤ』(平凡社、2007年)などにまとめられ、晩年になっても新たな探求を続ける姿勢が注目された。また90年代以降には、「石元泰博―シカゴ、東京」展(東京都写真美術館、1998年)、「Yasuhiro Ishimoto:A Tale of Two Cities」(シカゴ美術館、1999年)、「石元泰博写真展1946-2001」(高知県立美術館、2001年)、「石元泰博写真展」(水戸芸術館、2010年)などの回顧展が開催され、長いキャリアの再検証・評価も進められた。 上述以外の主な受賞・受章に83年紫綬褒章、1990(平成2)年日本写真協会賞年度賞、92年日本写真協会賞功労章、93年勲四等旭日小綬章などがある。96年には文化功労者に選ばれ、死去後、正四位旭日重光章が授与された。 01年の高知県立美術館での個展開催をきっかけに、石元は故郷高知県に作品の寄贈を申し入れ、全作品の寄贈が04年に決定し、プリント、ネガフィルム、ポジフィルム、蔵書等が生前より没後にかけ、段階的に寄贈された。これをうけて14年6月、高知県立美術館に石元泰博フォトセンターが開設され、著作権管理を含む石元作品の保存・研究・普及を担うアーカイヴとしての活動を開始した。

石岡瑛子

没年月日:2012/01/21

 デザイナー、アートディレクターとして国内、ならびにアメリカを中心に多彩な活動をした石岡瑛子は、1月21日膵臓がんのため東京都内の病院で死去した。享年73。 1938(昭和13)年7月12日、東京都に生まれる。61年3月、東京藝術大学美術学部工芸科図案部卒業。資生堂に入社後、同社サマーキャンペーン「太陽に愛されよう」(1966年)等、担当したポスターがつぎつぎと注目を集め、65年には日本宣伝美術会(略称:JACC、通称:日宣美)主催の第15回公募展にて、「シンポジウム:現代の発見」ポスター3点により「日宣美賞」受賞。70年に石岡瑛子デザイン事務所を設立、フリーランスのデザイナーとして活動の幅を広げた。PARCOや角川書店の広告等を担当し、75年にPARCOの一連の広告デザインにより第21回毎日デザイン賞受賞。79年に制作された「西洋は東洋を着こなせるか」(PARCO)などのコピーとともに、無国籍的な鮮烈なイメージのポスターは、メッセージとともに高度成長期の日本において社会的な注目をあつめた。80年代以降、活動の場をアメリカ等の海外にひろげ、85年アメリカ等で公開されたポール・シュレーダー監督の映画「MISHIMA」の美術監督をつとめ、これによって同年第38回カンヌ国際映画祭芸術貢献賞受賞。87年、マイルス・デービスのアルバム『TUTU』のアート・ワークでグラミー賞受賞。88年、ブロードウェイのミュージカル『M.バタフライ』の舞台セットと衣装の部門で、トミー賞にノミネートされた。写真集『ヌバ』を契機に、第二次世界大戦をはさんでドイツの女優、映画監督、写真家として活動していたレニー・リーフェンシュタールに直接取材をかさね、プロデューサーとして企画構成にあたり、1991(平成3)年12月にレニー・リーフェンシュタール展(Bunkamura ザ・ミュージアム)を開催。92年に公開されたフランシス・フォード・コッポラ監督の映画「ドラキュラ」では、監督からの要望でコスチュームデザインを担当、これによって第65回アカデミー賞衣装デザイン賞を受賞。その後も、映画、ミュージカル、オペラ、ミュージック・ビデオ等において舞台美術、コスチュームデザインなどを担当して多岐にわたり効果的で斬新な視覚表現に取り組んだ。2002年、紫綬褒章受章。05年6月、東京藝術大学美術学部先端芸術表現科の教授として後進の教育にあたった(翌年3月まで)。08年、北京オリンピックの開会式では衣装デザインを担当した。 グラフィックデザインからはじめた石岡の仕事は、つねに時代の先端を意識しながら、近未来的な志向と東西両洋にわたる時間と空間の間を縦横に横断する柔軟な感性に裏づけられたもので、その感性からうまれたアイデアを卓抜した企画構成力によって実現してきたからこそ、国を越えて多くの人に新鮮な驚きと共感を呼び、世界的にも高く評価された。なお作品集には、国内において『石岡瑛子 風姿花伝』(求龍堂、1983年)、『EIKO ISHIOKA』(世界のグラフィックデザイン68、公益財団法人DNP文化振興財団、2005年)等があり、またそれぞれの大きなプロジェクトにあたっての回想的な文集に、『私デザイン』(講談社、2005年)がある。

山口桂三郎

没年月日:2012/01/17

 浮世絵研究者で国際浮世絵学会会長の山口桂三郎は1月6日、東京国立博物館での中国故宮博物院展開会式出席の後に転倒して救急治療を受けたが、1月17日未明に心不全のため死去した。享年83。 1928(昭和3)年11月3日、東京千代田区に生まれる。生家は駿河台ホテルを営んでいた。本名は昭三郎。桂三郎は自らの好む桂の字を入れた筆名である。明治大学史学科で神道美術を中心に学び、57年、明治大学大学院史学専攻修士課程を修了。59年に「雪舟」(『駿台史学』9号)を発表。60年、同博士課程を修了。59年12月「垂迹画の特長」(『美学』43号)を、61年には「拝殿と能舞台-万祥殿の建築について-」(『風俗』1巻2・3号)、62年には「板絵春日曼荼羅・仏涅槃図解説」(『国華』840号)、「風俗資料としての神道絵画」(『風俗』2巻2・3号)を発表するが、藤懸静也と出会って浮世絵の研究に進む。日本浮世絵協会に所属して、研究者のみならず、浮世絵版画の工房や技術者、愛好家や美術商をも含む浮世絵界全体を盛り立てるべく尽力し、会誌『浮世絵芸術』の編集発行に長く携わった。61年より日本大学、戸板女子短期大学、東洋大学、明治大学等にて非常勤講師をつとめて浮世絵について教授し、76年に立正大学教養学部助教授となり、80年に同教授となった。1991(平成3)年に日本浮世絵協会理事長となり、また同年から10年間、櫛形町春仙美術館館長をつとめた。98年日本浮世絵協会が国際浮世絵学会に改組されるにあたり、同会会長となり、国際浮世絵大会の実施、平成の浮世絵事典の編集刊行、学会企画の浮世絵展の実施を目標に掲げ、国際学会の開催や2008年に学会編による『浮世絵大事典』(東京堂出版)の刊行を実現させた。一方、衰退していく浮世絵制作技術を残し、次代に継承しようと、日本の伝統工芸品としての浮世絵の評価の確立に尽力。浮世絵の支持体である和紙製造、木版画の版木作成、摺りの技術の伝承のために、92年の東京伝統木版画協会の発足に参加し、「江戸木版画」が東京都伝統工芸品の指定を受けるのに寄与した。また、98年から04年まで安藤広重の「名所江戸百景」120景の復刻事業に参加し、それらの復刻作品の展覧会開催にも尽力して浮世絵作成技術の伝承と作品の普及につとめた。07年に「江戸木版画」が経済産業省の「伝統的工芸品」に指定される際にも、同省への説明に出向いている。99年3月に立正大学を定年退職して同名誉教授となり、長年の研究をまとめた「浮世絵における美人・役者絵の史的研究」で04年、立正大学より文学博士号を取得した。能楽にも造詣が深く、特権階級の文化や信仰にまつわる造形への理解を踏まえて、市井の人々の生活と深く結びついた浮世絵について考究し、その普及につとめた。著作には以下のようなものがある。『浮世絵名作選集19 江戸名所』(日本浮世絵協会編、山田書院、1968年)『東洋美術選書 広重』(三彩社、1969年)『浮世絵大系7 写楽』(編集製作:座右宝刊行会、集英社、1973年)『浮世絵大系11 広重』(同上、1974年)『浮世絵概論』(言論社、1978年)『浮世絵聚花4 シカゴ美術館 1』(鈴木重三と共著、小学館、1979年)『浮世絵聚花11 大英博物館』(楢崎宗重と共著、小学館、1979年)『浮世絵聚花12 ギメ東洋美術館・パリ国立図書館』(小学館、1980年)『原色浮世絵大百科事典6-9巻』(浅野秀剛と共著、大修館書店、1980-82年)『肉筆浮世絵 清長 重政』(集英社、1983年)『写楽の全貌』(東京書籍、1994年)『東洲斎写楽』(浅野秀剛・諏訪春雄と共著、小学館、2002年)

小泉淳作

没年月日:2012/01/09

 日本画家の小泉淳作は1月9日午前10時8分、肺炎のため横浜市内の病院で死去した。享年87。 1924(大正13)年10月26日、政治家で美術蒐集家としても知られる小泉策太郎(号・三申)の七男として神奈川県鎌倉市に生まれる。5歳の時より東京で育ち、慶應義塾幼稚舎、普通部、文学部予科(仏文)に通う。予科では小説家を志望するも、同級で後に小説家となる安岡章太郎の作品に衝撃を受け、画家を目指すようになり、東京美術学校日本画科の助教授だった常岡文亀のもとに通って日本画を習い始める。1943(昭和18)年慶應を中退、東京美術学校日本画科に入学する。44年応召するが結核を患い、療養生活を送る。48年に東京美術学校に復学、山本丘人のクラスで学び、52年に卒業後も生涯の絵の師と慕うことになる。卒業後はデザインの仕事の傍ら画業に精進し、54年第18回新制作展に「花火」「床やにて」が初入選、以後新制作展に出品する。50年代から70年代半ばにかけて、数多くの「顔」と題した人物像や「鎌倉風景」などの風景画を新制作協会展や個展に発表。この間美術評論家の田近憲三より中国の唐宋絵画の複製を見せられ感銘を受け、画業の転機を迎える。73年第2回山種美術館賞展に「わかれの日」を出品、77年の同第4回展では「奥伊豆風景」が内にこもる力強さを評価され、優秀賞を受賞。この間74年に新制作協会日本画部が同会を離脱し創画会を結成するが、その1回展に出品したのを最後に同会を辞し、個展を中心に作品を発表するようになり、画壇と距離を置いた姿勢から孤高の画家とも評された。78年「山を切る道」が文化庁買上げとなる。84年銀座のギャラリー上田で開かれた個展において大作「秩父の山」をはじめとする水墨山水を発表。以後も「霊峰石鎚」「積丹の岩山」「早春の積丹半島」など中国文人画研究の成果による水墨山水や、院体画の研究をうかがわせる花卉図を発表。88年に『アトリエからの眺め』(築地書館)、『小泉淳作画集』(求龍堂)を刊行。1996(平成7)年より鎌倉・建長寺開創750年記念事業の一環として法堂天井画の雲龍図を手がけ、2000年に完成。引き続き京都・建仁寺慶讃800年記念行事に奉納する法堂天井画の双龍図を制作。01年に東京ステーションギャラリーで回顧展「ひとり歩き その軌跡―小泉淳作展」が開催。02年には北海道河西郡中札内美術村内に小泉淳作美術館が開館。同年『小泉淳作作品集』(講談社)を刊行。04年第14回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。06年には奈良・東大寺の聖武天皇1250年御遠忌記念事業の一環として制作を依頼された《聖武天皇・光明皇后御影》対幅が完成、大仏殿で奉納式が営まれる。引き続き10年には同寺本坊の襖絵四十面を完成、その途中で椎間板ヘルニアを患い、胃がんを切除しながらの制作だった。11年8月には『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、没後の12年に『我れの名はシイラカンス 三億年を生きるものなり』(日本経済新聞出版社)として出版されている。

細見華岳

没年月日:2012/01/01

 綴織の重要無形文化財保持者(人間国宝)の細見華岳は1月1日、急性心不全のため死去した。享年89。 綴織は「爪で織る錦」とも称され、かつては天竺織、納錦、綴縷錦、などの字が充てられていた。経糸の下に原寸大の下絵を置き、杼に通した緯糸で経糸を綴りわけ文様を表す。その特長は、文様表現に必要な部分のみ色糸を入れるため、多彩で複雑な絵柄も自由自在に表現できる。綴織の技術者は爪先が櫛状に砥がれ整えられているが、細見華岳の爪も同様に整えられていたという。 綴織は正倉院御物にも確認されるが、日本で織りだされたのはいつ頃かは定かではない。林瀬平が織りだしたという説(『西陣天狗筆記』)や、京都御室にある仁和寺の僧が手内職に綴れを織り始めた、など諸説ある。明治時代に入ると2代川島甚兵衞の尽力もあり室内装飾品として重宝された。戦前までは京都の御室で織られたものが本綴れと称され、御室界隈には綴れを織る機屋が集中した。 細見華岳は1922(大正11)年8月23日、兵庫県氷上郡春日町(現、丹波市)の農家に生まれる。37年、京都西陣の帯の織元、京都幡多野錦綉堂に入所。綴織の技術を習得する。40年に始まる七・七禁令施行時には企業が川島織物などに合併されながらも仕事を続けていたが、43年に徴兵され満州第11国境守備隊に入隊する。敗戦後はシベリアに抑留され、48年に帰国。 帰国後、故郷の丹波へ戻ったが織物の道を再び志し、翌年、綴れの聖地御室に独立して綴織工房をもつ。独立後は羅の重要無形文化財保持者である喜多川平朗、友禅の重要無形文化財保持者である森口華弘などに指導を受けながら日本伝統工芸展を中心に活躍した。喜多川平朗に勧められ出品した第1回日本伝統工芸近畿展に出品し入選。その後、63年には第10回日本伝統工芸展に綴帯「ながれ」を出品し初入選。翌年の日本伝統工芸染織展では綴帯「陶彩」で日本工芸会賞を受賞する。65年、社団法人日本工芸会正会員に認定。68年、日本伝統工芸染織展にて日本工芸会賞受賞。この頃より「よろけ織」への挑戦を始める。75年、近畿支部日本伝統工芸展にて大阪府教育委員会賞受賞。同年、京都府伝統産業新製品作品展にて奨励賞受賞。 76年には、フランス・ポーランド・旧ユーゴスラヴィアで開催された「現代日本の染織展」に出品。84年の第21回日本伝統工芸染織展では紗変織夏帯「渚の月」にて文化庁長官賞受賞。翌年、第32回日本伝統工芸展では綴帯「友愛」にて日本工芸会会長賞を受賞。この作品は日中友好10周年を記念して中国へ行った時に訪ねた動物園の孔雀の美しさに感動し誕生したという。友愛の名はかつて戦った中国の人々が親切だったことに感動してつけられた。87年、第34回日本伝統工芸展では有紋薄物着尺「爽」が保持者選賞を受賞。1990(平成2)年には銀座・和光にて個展「綴と50年」を開催する。 翌年、沖縄県立芸術大学美術工芸学部教授に就任。97年まで学生の指導にあたる。92年、京都府指定無形文化財「綴織」保持者に認定。93年には勳四等瑞宝章を受章。96年銀座・和光にて個展「つづれ織・波と光」を開催。京都市の指定より5年後の97年には重要無形文化財「綴織」保持者(人間国宝)に認定される。98年、式年遷宮記念神宮美術館に綴帯「晨」等を献納。2002年、京都市文化功労者表彰。03年銀座・和光にて個展「-つづれ織・糸の旋律-」を開催。05年、西陣織物館に綴織額を寄贈。翌年、横浜のシルク博物館にて「-綴織に心をこめて-人間国宝 細見華岳展」が開催される。11年には卒寿を記念して「細見華岳展―つづれ織・糸の旋律―」(銀座・和光)を開催。 作品は文化庁、東京国立近代美術館、シルク博物館などに所蔵されている。

菊竹清訓

没年月日:2011/12/26

 建築家の菊竹清訓は12月26日、東京都内にて心不全のため死去した。享年83。 1928(昭和3)年、福岡県久留米市に生まれる。44年早稲田大学専門部工科建築学科に入学、50年同大学理工学部建築学科卒業後、(株)竹中工務店、村野・森建築設計事務所勤務を経て、53年に菊竹清訓建築設計事務所を設立。 58年の自邸スカイハウス(日本におけるDOCOMOMO150選)で4枚のコンクリート壁で空中に持ち上げられた正方形の基本空間に生活の変化に応じて様々なユニットや設備を着脱するという建築像を提示して注目を集め、翌年にかけてはこの考え方を都市スケールに展開した「海上都市」「塔状都市」の構想を『国際建築』誌上にて発表した。60年に東京で開催された世界デザイン会議を契機に川添登が呼びかけて若手建築家らが結成したメタボリズム・グループに参加し、機能主義の限界を打破する建築や都市のあり方を提唱した菊竹の思考は、「建築は代謝する環境の装置である」という63年の彼の文章(『建築代謝論 か・かた・かたち』(彰国社、1969年)所収)に集約されている。 そして、自身の方法論を実践した作品として、国立京都国際会館コンペ案(1963年)、出雲大社庁の舎(1963年、日本建築学会作品賞、芸術選奨文部大臣賞、米国建築家協会汎太平洋賞、日本におけるDOCOMOMO100選)、ホテル東光園(1965年、日本におけるDOCOMOMO150選)、都城市民会館(1966年、日本におけるDOCOMOMO150選)などを次々と設計し、70年大阪万博のエキスポタワーでは「塔状都市」、75年の沖縄海洋博アクアポリスでは「海上都市」のアイデアが試みられた。 その後、銀行や商業建築などを手掛けた時期を経て、90年代以降は、江戸東京博物館(1993年)、島根県立美術館(1999年)、九州国立博物館(2005年)など大型の作品が目立つ。 千葉工業大学教授、早稲田大学客員教授などとして後身の指導にあたったほか、菊竹事務所からは伊東豊雄、長谷川逸子、内藤廣ほか、現在の日本を代表する建築家が多数輩出していることも特筆に値する。 1995(平成7)年「軸力ドームの理論とデザイン」で早稲田大学より工学博士号取得。プロデューサーや委員として博覧会等の国家的プロジェクトに積極的に参画したほか、日本建築家協会副会長、日本建築士会連合会会長などを歴任した。 上記以外の主な受賞歴に、78年UIA国際建築家連合オーギュスト・ペレー賞作品部門・方法論部門、79年毎日芸術賞(京都信用金庫の一連の作品)、2000年ユーゴスラヴィア・ビエンナーレ「今世紀を創った世界建築家100人」、06年早稲田大学芸術功労者賞など。06年勲三等旭日中綬章受章。また、71年米国建築家協会特別名誉会員、94年フランス建築アカデミー会員など、諸外国からの顕彰も多い。 他の著作に『人間の建築』(井上書院、1970年)、『海上都市』(鹿島出版会、1973年)、『現代建築をどう読むか―日本建築シンドローム』(彰国社、1993年)などがあり、作品集も多数出版されている。

柳宗理

没年月日:2011/12/25

 工業デザイナーで、文化功労者の柳宗理は、12月25日、肺炎のため死去した。享年96。 1915(大正4)年6月29日、民芸運動の創始者の柳宗悦と声楽家の兼子の第一子として東京市原宿に生まれた。本名は宗理(むねみち)。1935(昭和10)年東京美術学校洋画科に入学、南薫造教室に所属するが、バウハウスで学んだ水谷武彦の講義を聞き、また、ル・コルビュジエの思想に感銘を受けデザイナーを志す。40年社団法人日本輸出工芸連合会(商工省の外郭団体)の嘱託となる。商工省貿易局の招聘により、日本の輸出工芸の指導のために来日したフランス人デザイナーのシャルロット・ペリアンのアシスタントとして日本各地の地場産業の視察に同行、その後のデザインへの取り組みに影響を受ける。42年坂倉準三建築研究所研究員となる(~1945年)。43年陸軍報道部宣伝班員としてフィリピンに渡る。 46年フィリピンから帰国し、工業デザインに着手。48年松村硬質陶器のために手がけたテーブルウェア「硬質陶器シリーズ」が工業デザイナーとしてデビューとなる。50年柳インダストリアルデザイン研究所を設立。52年第1回新日本工業デザインコンクール(毎日新聞社主催)で「レコードプレーヤー」(日本コロンビア)が第一席となる。同年、日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)設立に参加。53年女子美術大学講師となる(~1967年)。同年4月財団法人柳工業デザイン研究会設立。同年10月国際デザインコミッティー(現在の日本デザインコミッティー)が発足し会員となる。54年ポリエステルの「スタッキング・スツール(エレファント・スツール)」(コトブキ)をデザイン。55年金沢美術工芸大学産業美術学科教授となる(1967年からは嘱託、1997年からは特別客員教授)。56年6月第1回柳工業デザイン研究会展(銀座松屋)開催、成形合板による「バタフライ・スツール」(天童木工)を発表する。同年6月第6回アスペン国際デザイン会議(アメリカ・コロラド州)に参加。57年7月第11回ミラノ・トリエンナーレに「バタフライ・スツール」、「白磁土瓶」などを出品し、インダストリアル・デザイン金賞を受賞。60年5月世界デザイン会議が東京で開催され実行委員となる。同年、「柳宗理陶器のデザイン展」(銀座松屋)開催。61年西ドイツのカッセル・デザイン専門学校教授として招聘され、62年まで滞在。64年東京オリンピックの「トーチホルダー」などをデザイン。65年「デザイナーのタッチしないデザイン ANONYMOUS DESIGN」展(銀座松屋)を企画。66年世界デザイン会議(フィンランド)に日本代表として参加。68年「柳宗理歩道橋計画案展」(銀座松屋)開催。72年札幌オリンピックの「聖火台」、「トーチホルダー」などをデザイン。75年「柳宗理のデザイン展」(銀座松屋)、「ストリートファニチャー展」(銀座松屋)開催。77年12月日本民藝館館長となり、翌78年1月には日本民藝協会会長となる。80年6月「柳宗理:デザイナー・作品・1950-80」展(ミラノ市近代美術館、イタリア)開催。83年6月、「柳宗理デザイン展 1950‐1983」(イタリア文化会館、東京)開催。88年8月、「柳宗理Sori Yanagi’s Works and Philosophy」展(有楽町西武クリエイターズ・ギャラリー、東京)開催。1998(平成10)年4月、「柳宗理 戦後デザインのパイオニア」展(セゾン美術館、東京)開催。2002年11月、文化功労者となる。03年8月「柳宗理デザイン展・金沢 うまれるかたち」(金沢市民芸術村)開催。07年1月「柳宗理 生活のなかのデザイン」展(東京国立近代美術館)開催。08年英国王立芸術協会より、ロイヤルデザイナー・フォー・インダストリー(Hon RDI)の称号を授与される。 戦後日本の工業デザインの基礎を作った工業デザイナーの草分け的存在であり、テーブルウェアや台所用品などの生活用具から、家具、ベンチなどのストリートファニチャー、歩道橋、高速道路の防音壁、さらには、札幌オリンピックの聖火台など、幅広い領域で活動した。代表作「バタフライ・スツール」に見られるように、日本の伝統的な造形感覚とモダンデザインの合理性とを結びつけ、無駄なデザインを省いた純粋な形の中に、手仕事のぬくもりや日本の風土性を感じさせるデザインは国内外で高く評価された。「デザインの至上目的は人類の用途の為にということである」「本当の美は生まれるもので、つくり出すものではない」という言葉からもうかがえるように健全な人間社会のあるべき姿というものを追求する思想性を備えた工業デザイナーだった。デザインに関する文章も多く、著書に『デザイン 柳宗理の作品と考え』(用美社、1983年)、『柳宗理 エッセイ』(平凡社、2003年)などがある。

辻佐保子

没年月日:2011/12/24

 西洋美術史研究者で、初期・中世のキリスト教美術研究において多大な功績を残した辻佐保子は、12月24日東京都港区高輪の自宅で死去した。享年81。 1930(昭和5)年11月21日愛知県名古屋市に生まれる。50年3月愛知県立女子専門学校英文科卒業、同年4月東京大学文学部美学美術史学科に入学。吉川逸治に師事する。 54年4月、同大学大学院人文科学研究科修士課程(美術史学専攻)に入学、57年4月同博士課程に進学する。同年10月、フランス政府給費留学生としてパリ大学高等学術研究所(エコール・デ・オート・ゼチュード)に留学、アンドレ・グラバアルに師事。1961(昭和36)年10月、パリ大学に博士論文(Etude iconographique des reliefs des portes de Sainte-Sabine a Rome,Paris,1961)を提出し、博士号を取得。同年12月に帰国し、62年より日仏学院(~66年)、64年より武蔵野美術大学(~66年)で講師を勤める。1966(昭和41)年4月、フランス政府招聘研究員として再度渡仏。パリ大学高等学術研究所に在籍し、『コトン・ゲネシス』(ブリティッシュ・ライブラリー所蔵)の研究にあたった。同年12月の帰国後は、東京教育大学、聖心女子大学、広島大学、武蔵野美術大学、日本女子大学の非常勤講師を歴任。1971年11月より名古屋大学文学部美学美術史学科助教授、77年5月に同教授となる。1989(平成元)年4月、お茶の水女子大学文教育学部哲学科教授に転任、96年3月に退官。 95年、イタリア政府より国家功労賞カヴァリエーレ・ウフィツィアーレ(上級騎士勲位章)、2003年、フランス政府より教育功労賞オフィシエ勲位章を受章。名古屋大学およびお茶の水女子大学名誉教授。 東西初期キリスト教美術、ビザンティン美術、西欧初期中世美術、ロマネスク美術を主な研究対象とし、なかでも、古代から中世の転換期におけるキリスト教美術の図像成立について、誕生の契機や主題の解明に心血を注いだ。聖書、外典、教父の説教集などのテキストに密着した図像の成立を自ら「イコノゲネシス」(図像生成)と命名、写本挿絵、石棺、カタコンベ、教会堂装飾、象牙浮彫などを綿密に比較検討し、時に複雑に絡み合い発展していくキリスト教美術成立期の様を明らかにした。それらは、主著5冊、日本語論文50点、欧文論文11点等に発表されている。 『古典世界からキリスト教世界へ―舗床モザイクをめぐる試論―』(岩波書店、1982年)では、床面モザイク装飾を対象に、初期キリスト教美術が、古典古代からあるいはユダヤ教を通じて取り入れた図像を詳細に検討し、図像解釈やプログラムの解明にあたるとともに、「上下の投影」「90度の投影」という独自の視点を用いて、床面装飾と壁面及び天井装飾が相互に及ぼす影響関係を明らかにし、同年のサントリー学芸賞を受賞した。 また、仏語の博士論文は、半世紀にわたる追記の末、2003年に日本語版として『ローマ サンタ・サビーナ教会木彫扉の研究』(中央公論美術出版)を出版、2004年度の地中海学会賞を受賞している。主要な研究書はほかに『ビザンティン美術の表象世界』(岩波書店、1993年)『中世写本の彩飾と挿絵―言葉と画像の研究』(岩波書店、1995年)『ロマネスク美術とその周辺』(岩波書店、2007年)。このほか美術全集などの執筆にも数多く携わり、名も無き画家たちに時に温かなまなざしを向けながら、その魅力を世に広めた。 また、作家辻邦生の妻として公私にわたり夫を支え、『辻邦生のために』(新潮社、2002年)『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』(中央公論新社、2008年)などを刊行している。 2012年、故人の遺志により、遺産の一部が美術史学会に寄付された。同学会は辻佐保子美術史学振興基金運営委員会を設立。2013年度よりこの基金を用いて、日本における美術史学の振興のため、毎年1回、高名な外国人研究者等を招聘し、Sahoko Tsuji Memorial Conferenceが企画、実施されることとなった。

吉田カツ

没年月日:2011/12/18

 イラストレーター、画家の吉田カツは12月16日、肺気腫のため兵庫県篠山市の病院で死去した。享年72。 1939(昭和14)年11月4日、兵庫県多紀郡城北村(現、篠山市)に生まれる。本名勝彦。大阪美術学校(現、大阪芸術大学)デザイン科を卒業後、デザインの仕事に従事。71年上京。74年『ローリング・ストーン』誌の仕事をきっかけに各誌のイラストレーションを手がけるようになり、77年からはアートディレクターの石岡瑛子と組んでPARCOのポスターや雑誌『野性時代』表紙、西武劇場「サロメ」のポスター等を制作。エネルギッシュな筆致を駆使した人物像のイラストやグラフィックは、70年代後半から80年代を通じて、若い世代やデザイン、音楽、広告等の関係者の間に根強いファンを生んだ。79年には青山のグリーン・コレクションズで初の個展を開催、以後、個展や画集を通してイラストレーションの領域に留まらない絵画活動を展開。85年にはフジサンケイグループのシンボルマークを描いた他、全日空グループ機内誌の『翼の王国』表紙イラストを担当。2005(平成17)年、東京から故郷の篠山市へ仕事場と居を移す。作品集に『吉田カツ・セクサス』(美術出版社、1980年)、『PICARO:吉田カツ絵画集』(リブロポート、1988年)等。

早川尚古齋

没年月日:2011/12/07

 重要無形文化財保持者(竹工芸)の五世早川尚古齋は12月7日、肺炎のため死去した。亨年79。 1932(昭和7)年6月12日、竹工芸家四世早川尚古齋の長男として大阪に生まれる。本名修平。初代は越前鯖江に生まれ、京都で修業したのちに大阪で名を馳せた籃師である。45年大阪空襲で2度の戦災に遭い、京都市右京区に居を移す。51年、京都府立山城高等学校卒業後、父のもとで修業に入る。号は尚坡。見て覚えろと言われ、時には四世の籃をほどいて独習した。その後、早川家に伝わる伝統的な鎧組、そろばん粒形花籃、興福寺形牡丹籃の3種類の形を習得し独立が許され、65年初めての個展を大阪三越で開催する。この時、今東光の命名によって尚篁と改号する。翌年、第13回日本伝統工芸展に「重ね編広口花籃」を初出品し初入選する。 76年、第23回日本伝統工芸展に「切込透文様盛物籃」を出品し日本工芸会奨励賞を受賞する。「切込透」とは早川家の伝統的な鎧組(幅の広い竹材を揃えて組む)を基本として五世早川尚古齋が考案したもので、幅広の材を部分的に細かく削り、幅の広いところと狭いところを組み合わせることにより透かし文様が表れる組み方である。伝統を踏まえた上での新たな試みが評価をされたといえる。77年、父・四世早川尚古齋三回忌を機に五世早川尚古齋を襲名する。同年、大阪美術倶楽部で襲名記念「歴代尚古齋展」を開催し、その後も京都市美術館「現代の工芸作家展―京都を中心とした―」(1978年)への招待出品、大阪大丸や大阪三越で多くの個展を開催する。 82年、50歳の時に第29回日本伝統工芸展ではじめて鑑査委員を務め、その後歴任する。83年、名古屋松坂屋本店で「竹の道30年展」を開催。同年、東京国立近代美術館で「伝統工芸30年の歩み展」が開催され後に同館所蔵となる「切込透文様盛物籃」(第23回日本伝統工芸展、日本工芸会奨励賞受賞作)を出品する。その後も展覧会への出品が続き、「竹の工芸―近代における展開―」(東京国立近代美術館、1985年)や「現代作家15人展」(京都市美術館、1985年)、「心と技―日本伝統工芸展・北欧巡回展」(1990年)や「第7期 現代京都の美術・工芸展」(京都府京都文化博物館、1990年)、「北欧巡回展帰国記念伝統工芸名品展」(大阪、名古屋、東京日本橋三越、1991年)に出品する。1991(平成3)年、以前より審査員などで活躍をしていた日本煎茶工芸協会常務理事に就任する。この頃には組技法の作品を多く出品し「組の早川」と称されるようになる。 92年、京都府指定無形文化財「竹工芸」保持者に認定される。その後も「現代京都の美術・工芸展」(京都府京都文化博物館、1995年)や京都府指定無形文化財保持者9人で開催した合同展覧会「伝統と創生」(京都府京都文化博物館、2000年)などに出品する。96年、第43回日本伝統工芸展に「透文様盛物籃」を出品し、重要無形文化財保持者から選ばれる日本工芸会保持者賞を受賞する。 99年、国際芸術文化賞を受賞する。2001年、初代尚古齋の縁の地にある福井県鯖江市資料館で「竹工芸の技と美―早川尚古齋展」が開催される。02年竹芸の道五十年と古希を記念して『「竹芸の道」五十周年記念 五世早川尚古齋作品集』を刊行する。

遠藤幸一

没年月日:2011/12/07

 美術史研究者で、高岡市美術館長であった遠藤幸一は12月7日肝不全のため、東京都内の病院で死去した。亨年61。 1950(昭和25)年東京に生まれる。本名宮野幸一。69年3月、東京都立日比谷高等学校を卒業。74年3月、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業。77年3月、同大学大学院美術研究科修士課程(日本東洋美術史専攻)を修了。同年4月から9月まで同大学院研究生、翌10月から78年3月まで同大学非常勤講師を務める。78年4月から富山大学教育学部講師(美学・美術史担当)となる。82年12月、同大学同学部助教授となり、1995(平成7)年3月まで勤務。教育活動としては、他に金沢美術工芸大学、山野美容芸術短期大学、群馬県立女子大学、東京理科大学等で非常勤講師を務めた。93年6月から2002年3月まで、高岡市美術館収集美術品選考委員を務め、02年4月から同美術館長となり、長らく館長として勤務していたところ現職で急逝した。 大学では教育にあたりながら、専門とする長谷川等伯研究では、生誕地である能登の地域と時代背景を検証考察するために、作品と文献資料を丹念に渉猟し、下記の諸論文等において春信時代の実像に迫り、斯界の研究の進展に寄与した。また、高岡市美術館の館長に就任してからは、美術館人として、近世から現代美術まで多岐にわたる企画展を担当しながら、同美術館「友の会」をはじめ、市民の視線にたちながら美術の普及事業に熱心にあたった。没後の平成24年2月5日に高岡市内で開かれた「遠藤幸一館長を偲ぶ会」には、個人の明るく温厚な人柄と美術館における幅広い活動を偲んで、300人をこえる参加者があった。主要論文・評論等「長谷川信春と能登(一) 信春の出自及び能登の政治的文化的宗教的状況」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』28号、1980年3月)「長谷川信春と能登(二)」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』29号、1981年3月)「長谷川信春と能登(三)」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』30号、1982年3月)「新出「信春」印・「法印日禛」銘高僧図について」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』31号、1983年3月)「長谷川信春筆大法寺仏画攷-日蓮宗十界曼荼羅の伝統と信春作品」(久保尋二編『芸術における伝統と変革』、多賀出版、1983年12月)「第四章 戦国期の越中 第五節 戦国期の社会と文化」(分担執筆)(『富山県史 通史編Ⅱ 中世』、富山県、1984年)「長谷川信春と能登(四)」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』36号、1988年3月)「第一章 御細工所の沿革」(分担執筆)(『加賀藩御細工所の研究』(一)、金沢美術工芸大学 美術工芸研究所、1989年)「批評 洋画 四人から洋画の問題を考える」(『展』2号、能登印刷・出版部、1991年12月)「展評 洋画 『完成度』の上に求めるもの」(『展』3号、能登印刷・出版部、1992年6月)「展評 洋画 芸術家の才気とは」(『展』4号、能登印刷・出版部、1993年3月)「第五章 御細工所と加賀の工芸 第二節「御用内留帳」に見る工芸職種 四 象眼細工、六 塗物細工、七 絵細工」(分担執筆)(『加賀藩御細工所の研究』(二)、金沢美術工芸大学 美術工芸研究所、1993年)分野別専門委員(美術・工芸)(『富山大百科事典』上、下巻、北日本新聞社、1994年)「結城正明の画業と大観」(『富山県水墨美術館開館記念特別展 横山大観展』図録、富山県水墨美術館、1999年4月)「大角勲芸術の歩み」(『大角勲 天・地・生・命』展図録、高岡市美術館、2004年6月)「沿革と十年の総括・展望」(『高岡市美術館年報 2004年』、高岡市美術館、2005年)座談会「第三十七回日展-新たなる歩み」(『日展ニュース』119号、2005年12月)「『若き日の長谷川等伯』展によせて」(『若き日の長谷川等伯』展記録集、2006年10月)「富山県俊英作家にみる日本画の最前線」(『日本画の最前線―富山・俊英作家たちの軌跡』展図録、高岡市美術館、2007年2月)シンポジウム「日本画の最前線―富山・俊英作家たちの軌跡-シンポジウム『日本画の可能性』」(『PATIO』25号、2007年5月)「左右は展示のポイント」(『PATIO』26号、2008年3月)「嶋田しづの作品とあゆみ」(『嶋田しづ 第15回井上靖文化賞受賞記念-画業60年の歩み』展図録、高岡市美術館、2008年6月)編集委員『ふるさと美術館 愛蔵版』(北國新聞社、2009年8月)「~鳳凰鳴き文化の華ひらく~『高岡の名宝展』によせて」(『高岡の名宝展~鳳凰鳴き文化の華ひらく~-前田家と瑞龍寺・勝興寺を中心に-』図録、高岡市美術館、2009年9月)「池田太一さんの画業」(『池田太一展』図録、滑川市立博物館、2009年10月)「(コラム)能登畠山家の文化と盛衰」(『別冊太陽 日本のこころ166 長谷川等伯 桃山画壇の変革者』、2010年2月)「東山庵グループコレクションの精華」(『安土桃山・江戸の美~知られざる日本美術の名品~東山庵グループコレクション』展、高岡市美術館、2010年9月)「日本美術のススメ 今月の逸品『桜下遊楽風俗図』」(『美術の窓』325号、2010年10月)

林昌二

没年月日:2011/11/30

 建築家の林昌二は11月30日、東京都内にて心不全のため死去した。享年83。 1928(昭和3)年、東京市小石川区(現、東京都文京区)に生まれる。45年東京高等師範学校附属中学校卒業。東京工業大学工学部建築学科で清家清に学び、53年に卒業後、日建設計工務株式会社(現、株式会社日建設計)に入社。以後、同社のチーフアーキテクトとして活躍し、73年取締役、80年副社長、1993(平成5)年副会長・都市建築研究所所長を歴任し、2011年3月の退任まで同社顧問を務めた。 55年の旧掛川市庁舎に始まる担当作品は、62年の三愛ドリームセンター(日本におけるDOCOMOMO100選)を経て、代表作となる66年のパレスサイドビルディング(日本におけるDOCOMOMO20選)を生む。戦後日本のオフィスビルとして最高傑作の一つと言えるこの建築では、欧米で主流となっていたセンターコアシステムを採らずにエレベーターや水回りを収めたシャフトを両端部に配する独創的プランを考案し、当時としては最大規模の容積率を充足しながら、新技術に裏打ちされた美しいプロポーションや各所にちりばめられた細やかなディテールなど、五十年近くを経た現在も全く古さを感じさせない。 林は建築誌上等に多くの文章を書いているが、74年に建築史家の神代雄一郎が発表した論考に端を発した、いわゆる「巨大建築論争」では組織設計事務所の立場を代表して「その社会が建築を創る」(『新建築』1975年4月号所収)と反駁しており、総合的技術力が初めて可能にする建築を生み出し続けていることへの強い自負が感じられる。 日本建築学会作品賞を受賞した71年のポーラ五反田ビルや82年の新宿NSビルなど、オフィスビルを最も得意としたが、妻の林雅子と共同設計した自邸「私たちの家」(Ⅰ期1955年、Ⅱ期1978年)も佳作として知られる。 90~92年新日本建築家協会会長。同名誉会員、米国建築家協会名誉会員、日本建築学会名誉会員。80年「筑波研究学園都市における研究および教育団地の計画と建設」で日本建築学会業績賞受賞。 著作に『建築に失敗する方法』(彰国社、1980年)、『私の住居・論』(丸善、1981年)、『オフィスルネサンス インテリジェントビルを超えて』(彰国社、1986年)『二十二世紀を設計する』(彰国社、1994年)、『建築家林昌二毒本』(新建築社、2004年)、『林昌二の仕事』(新建築社、2008年)などがあり、主要作品は『空間と技術 日建設計・林グループの軌跡』(鹿島出版会、1972年)などにも収録されている。

杉山二郎

没年月日:2011/11/30

 美術史家の杉山二郎は11月30日、膵臓がんのために死去した。享年83。 昭和3(1928)年9月14日、東京府に生まれる。54年東京大学美学美術史学科を卒業し、55年奈良国立文化財研究所美術工芸室に勤務した。この時期は、天平時代の美術を中心に研究していたが、一方で、正倉院御物などを通じて東西交渉史に強い関心を覚え、中央アジアの発掘、イランのサーサーン朝やパルティア朝の美術、ヘレニズムの東漸などに関わる種々の書物を読みふけり、これがその後の学問的関心の素地を作った。 60年東京国立博物館学芸部に転じ、東洋課の東洋考古室長、西アジア・エジプト室長などを勤めた。『東京国立博物館図版目録 大谷探検隊将来品篇』の編集刊行(1971年)、『特別展観 東洋の古代ガラス―東西交渉史の視点から―』の開催(1978年)及び図録刊行(1980年)など、東洋美術や東洋考古に関する陳列品の収集、保管、展示、種々の展覧会の企画、運営に関わった。68年の東洋館開館に関わる諸事業にも携わった。 この時期に、西アジアやシルクロード、中国などにおける現地調査を数多く行ったが、とくに東京大学のイラク・イラン遺跡調査団に参加し、現地の発掘調査を行ったことは貴重な経験となった。江上波夫を団長とする第一次遺跡調査では、65年とその翌年のテル・サラート遺跡第1号丘と第5号丘の発掘、タル・イ・ムシュキの発掘、ターク・イ・ブスターンの測量調査などに参加、深井晋司を団長とする第二次遺跡調査では、76年のハリメジャン遺跡の発掘、テル・サラート遺跡第1号丘、第2号丘の発掘に、78年のラメ・ザミーンの発掘調査、ターク・イ・ブスターンの測量調査に参加した。 彼は多くの著作を残した。68年に刊行した『大仏建立』により、69年に毎日出版文化賞を受賞した。彼の関心は美術や考古にとどまらず、日本における人間性(ユマニテ)の育成の歴史、芸術よりみた日本精神史の研究にまで及んでおり、それに関わる多くの著作がこの時期に成っている。もともと医科志望であったためか、木下杢太郎や森鴎外など、医者であり、かつ文化や芸術の探究者に対して強い親和力をもつ。木下杢太郎を対象として、近代における日本人の人格形成のプロセスを追った『木下杢太郎 ユマニテの系譜』(1974年)はまさにその傾向を強く映している。 博物館を退いた後、88年に長岡技術科学大学工学部教授、1991(平成3)年に佛教大学文学部教授、96年に国際仏教学大学院大学教授を勤め、2002年に退任した。主な著書『天平彫刻』日本の美術15(至文堂、1967年)『大仏建立』(学生社、1968年)『鑑真』東洋美術選書(三彩社、1971年)『カラー大和路の魅力 寧楽』(写真:入江泰吉)(淡交社、1972年)『木下杢太郎 ユマニテの系譜』(平凡社、1974年)『正倉院 流沙と潮の香の秘密をさぐる』(ブレーン出版、1975年)『西アジア南北記 沙漠の思想と造形』(瑠璃書房、1978年)『オリエント考古美術誌 中東文化と日本』NHKブックス(日本放送出版協会、1981年)『オリエントへの情熱 自叙伝的試み』(福武書店、1983年)『仏像 仏教美術の源流』(柏書房、1984年)『極楽浄土の起源 祖型としてのターク・イ・ブスターン洞』(筑摩書房、1984年)『風鐸 歳時風物誌』(瑠璃書房、1985年)『大仏以後』(学生社、1987年)『遊民の系譜 ユーラシアの漂泊者たち』(青土社、1988年)『真贋往来 文化論的視点から』(瑠璃書房、1990年)『日本彫刻史研究法』(東京美術、1991年)『遊牧と農耕の峡にて ユーラシア精神史考』(学生社、1993年)『天平のペルシア人』(青土社、1998年)『仏教文化の回廊』(青土社、1994年)『大仏再興』(学生社、1999年)『善光寺建立の謎 日本文化史の探究』(信濃毎日新聞社、2006年)『仏像がきた道』(青土社、2010年)『山紫水明綺譚 京洛の文学散歩』(冨山房インターナショナル、2010年)共編著 『批評日本史 政治的人間の系譜1 藤原鎌足』(梅原猛、田辺昭三と共著)(思索社、1972年)『批評日本史 政治的人間の系譜4 織田信長』(会田雄次、原田伴彦と共著)(思索社、1972年)『毒の文化史 新しきユマニテを求めて』(山崎幹夫と共著)(講談社、1981年)『世界の大遺跡7 シルクロードの残映』(共著)(講談社、1988年)翻訳『考古学探検家スタイン伝』(J.ミルスキー著、共訳)(六興出版、1984年)『長春眞人西遊記 王観堂静安先生校注本』(李志常、校註)(国際仏教学大学院大学、2002年)

桂川寛

没年月日:2011/10/16

 画家の桂川寛は10月16日、肺炎のため死去した。享年87。 1924(大正13)年8月20日、北海道札幌市に生まれる。幼少のころより絵に興味を持ち、グラフ誌に掲載された帝展出品の日本画を模写することを楽しみにしていた。37年札幌商業学校に入学し、美術部に入部。同年第13回北海道美術協会展に初入選。当時の美術教師のアトリエにあった雑誌を通してダリ、キリコ、ピカソなどヨーロッパの絵画を知る。戦中戦後、札幌気象台技師としておもに高層気象観測に従事。45年には新潟県高田通信隊に入隊、半年間兵役につくが、身体を壊し療養生活を送る。戦後は職場で文学サークル運動を始める。48年上京、多摩造形芸術専門学校(現、多摩美術大学)に入学。49年「世紀」に参加。当時、石版版下作成のアルバイトをしていたが、それだけでは学費を払うことができず、同専門学校は自然退学となる。「世紀」では、瀬木慎一とともにパンフレット『世紀群』の制作責任者を務めたほか『世紀ニユゥス』創刊、花田清輝訳『カフカ小品集』(「世紀群」第1冊)刊行などに携わる。50年第2回日本アンデパンダン展(読売新聞社主催)に「開花期」を出品、東京で初めての絵画作品の発表となる。51年より草月流機関誌『草月』に携わり、その創刊準備から三年間編集部員を務める。同年「世紀」が解散したのち、「人民芸術家集団」に参加。52年前衛美術会に入会。同年山下菊二、尾藤豊、勅使河原宏らと小河内村の「文化工作隊」へ参加。53年第6回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)に「欺かれた人」(後に「小河内村」と改題)などを出品、後に「ルポルタージュ絵画」と呼ばれる運動の端緒となる。同年青年美術家連合の発足に参加、第1回ニッポン展に「やがて沈む村(西多摩郡小河内村)」などを出品。54年パンとバラの会・5人展(タケミヤ画廊)に出品。58年日本美術会事務局長に就任。同年清水アンデパンダン(清水市)に出品。同年『批評運動』同人となり、絵画論を発表(16号、17号)。59年第12回日本アンデパンダン展に「都市VI」(後に「都市」と改題)を出品。尾藤豊、中村宏との共同で戦後美術運動史をまとめ「特集・抵抗と挫折の記録」として『形象』4号(1960年)に発表。60年「超現実絵画の展開」展(国立近代美術館)に「都市」を出品。63年日本美術会を退会。64年前衛美術会事務局責任者となるが、翌年同事務局を辞退、同会を退会。65年初めてのまとまった個展「現実世界」を不忍画廊で開催。66年第1回戦争展(日本画廊)に出品、以後同画廊での67年戦争展、68年反戦と解放展、69年戦争展に出品。70年現代思潮社「美学校」で戦後美術論の講義を行う(翌年まで)。73年雑誌『詩と思想』の表紙画を担当。80年「私の戦後」展を地球堂ギャラリーで開催。82年「第三世界とわれわれ」展へ出品(以後1992年第8回展まで)。83年『社会新報』に「自由と抵抗の画像」を連載する。また「1950年代―その暗黒と光芒」展(東京都美術館、1981年)、「日本のルポルタージュアート」展(板橋区立美術館、1988年)、「戦後文化の軌跡」展(目黒区美術館ほか、1995年)、「戦後日本のリアリズム1945-1960」展(名古屋市美術館、1998年)、「Tokyo1955-1970」展(ニューヨーク近代美術館、2012年)など多数の日本戦後前衛美術を回顧・検証する展覧会で作品が展観され、さらに「前衛芸術の日本」展(パリ、ポンピドゥセンター、1986年)などに「世紀」で作成した印刷物などが展示された。作品集に『桂川寛作品集』(アートギャラリー環、1994年)、著書に『廃墟の前衛』(一葉社、2004年)がある。2010(平成22)年には代表的な油彩作品50余点を東京都豊島区に寄贈・寄託し、翌年豊島区立熊谷守一美術館において桂川寛展が開催された。12年ニューヨーク近代美術館が編纂した戦後日本美術批評選集『From Postwar to Postmodern』に論考「集団としての芸術家は何をなすべきか」(『青年美術家連合ニュース』創刊号、1953年)が収録された。鋭い批判精神で社会を捉える姿勢は生涯一貫し、反戦思想と反画壇的運動のなかから生まれたルポルタージュ絵画は戦後日本美術の大きな動向に位置付けられている。

小谷津雅美

没年月日:2011/10/11

 日本画家で日本美術院同人の小谷津雅美は10月11日、肝細胞がんのため死去した。享年74。 1933(昭和8)年2月3日、東京都新宿区下落合に日本美術院の日本画家小谷津任牛の長男として生まれる。高校時代に母が脳溢血で倒れ、その看病のため高校を中退。在宅の間、父の手伝いをしながら絵を描くようになる。53年再興第38回院展に「夢の調べ」が初入選。55年高校の先輩である鎌倉秀雄の紹介で安田靫彦に師事。同年日本美術院院友に推挙。58年黎会展(高島屋)へ参加。60年第45回院展で「花と女」が奨励賞を得て以来、62年第47回展「粧い」が日本美術院次賞、63年第48回展「燦歌」、64年第49回展「樹精」、68年第53回展「船を待つ日」、69年第54回展「浜の話」、70年第55回展「燦」、71年第56回展「待つ」が白寿賞・G賞、83年第68回展「静韻」、85年第70回展「白韻」、86年第71回展「浄韻」、87年第72回展「文殊」、1989(平成元)年第74回展「梵天(東寺)」、91年第76回展「大威徳明王(東寺)」が奨励賞、98年第83回展「終宴」で天心記念茨城賞を受賞し、日本美術院同人となる。2003年第88回展「松花遊悠」で文部科学大臣賞を受賞。06年第91回院展出品の「桜韻」で内閣総理大臣賞受賞。人物から仏画のモティーフを経て、1990年代からは四季折々にうつろう日本の自然の美しさを描き出した。

元永定正

没年月日:2011/10/03

 画家・現代美術家で具体美術協会の主要メンバーでもあった元永定正は、10月3日午後9時42分、前立腺がんのため宝塚市内の病院で死去した。享年88。 1922(大正11)年11月26日、三重県阿山郡上野町桑町(現、三重県伊賀市上野)に、父正一郎、母きんの長男として生まれる。1938(昭和13)年、三重県上野商業学校を卒業後、大阪の機械工具店に就職。当時は漫画家を志しており、このころから漫画の投稿をはじめる。日本国有鉄道に入社し関西各所で勤務したのち、44年、上野に戻り地元の画家濱邊萬吉に師事。46年、濱邊が局長を務める上野愛宕町郵便局に就職したことをきっかけに、本格的に油彩画をはじめる。また、地元の各種文化活動にも参加。48年、三重県総合美術展に出品。第1回展(4月)奨励賞、第2回展(11月)入選。この頃、雑誌や広報誌に漫画の連載を持つ。50年、郵便局を退職し、その後に就職した山東林業も52年に退職。弟政美のいる神戸市に移る。 様々な仕事をしながら、西宮美術教室に通いはじめる。当初は西宮市の美術展に出品していたが、吉原治良らによる芦屋市美術協会主催の芦屋市展を知り、絵画や彫刻、写真などを出品する。同展初出品となる53年の第6回展でフォーヴ風人物画「黄色の裸婦」がホルベイン賞受賞。(以後、渡米中の第20回展[1967年]、震災で中止となった第48回展[1995年]を除いて、第55回展[2002年]まで出品を続ける。)当時の芦屋市展には多くの抽象画が出品されており、それらに触発されて抽象画に転向。摩耶山とそこに光るネオンをヒントに描いた抽象画「寶がある」を第8回展に出品し、吉原治良に絶賛されたという。この作品にみられる、山のような形状に小さな色点を配置する作風は、かたちを追究した元永の初期抽象画を代表するものである。同展で、ホルベイン賞(洋画)、日本油絵具賞(彫刻)受賞。直後の7月に開催された芦屋市美術協会主催「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」をきっかけに具体美術協会に入会。以後、71年に脱退するまで中心メンバーとして活躍することになる。57年、大阪の阪急百貨店で初個展。同年、のちに夫人となる中辻悦子と西宮美術教室で出会う。58年ごろから、日本画のたらし込みの技法にヒントをえて、キャンヴァス上に絵具を流した絵画を作りはじめる。60年、ミシェル・タピエの紹介でニューヨークのマーサ・ジャクソン画廊と一年契約を、翌年はトリノの国際美学研究センターと十年契約を結ぶ。61年、東京画廊での個展をきっかけに、東京の作家・評論家たちと交流を持つ。64年、第6回現代日本美術展で優秀賞(1966年の第7回同展でも優秀賞)。66年、ジャパンソサエティの招聘で妻の中辻悦子を伴って渡米。ともに招聘されていた谷川俊太郎と知り合う。ニューヨーク滞在中、うまく流れる絵具が手に入らなかったため、代わりにエアブラシやアクリル絵具を使って、ふたたびかたちの問題に取り組み、新たな作風を確立する。また、この時期に前後して、海外の展覧会への出品が相次ぐ。67年、帰国。70年、大阪万国博覧会のお祭り広場で行われた具体美術まつりに参加。しかし、新しいメンバーが多く加わった具体の雰囲気に違和感を覚え、71年10月に具体美術協会を脱退。翌年、吉原治良の死去によって、具体美術協会は解散。 70年代から絵本の制作にも携わる。73年、初めて原画を手掛けた英文の絵本『ポアン・ホワンけのくもたち』刊行。アクリルとエアブラシを使った当時の元永の画風でユーモラスに描かれる。77年には谷川俊太郎文による絵本『もこ もこもこ』刊行。その後も、自身の絵画技法を応用した絵本を刊行し、絵本原画展も数多く開催する。2007(平成19)年からは中辻の作品と共に「もーやん えっちゃん ええほんのえ」展が各地を巡回。 1980年代以降も精力的に創作と発表を続けるが、とりわけ、具体再評価に伴って国内外で開催された具体関連の展覧会に積極的に参加する。主な海外展としては、86年、「前衛の日本 1910-1970」(ポンピドゥーセンター、パリ)、90年「日本の前衛―1950年代の具体グループ」(ローマ国立近代美術館)、93年「東方への道」(第45回ヴェネツィアビエンナーレ)などが挙げられる。2012年の「具体―スプレンディッド・プレイグラウンド」展(グッゲンハイム美術館、ニューヨーク)では、水を使ったシリーズの新作が元永の指示のもとに制作・展示され、事実上、最後の作品となった。 晩年には、1991年と2009年、地元の三重県立美術館での大規模な回顧展のほか、各地の美術館で個展が開かれる。また、仏政府の芸術文芸シュヴァリエ章(1988年)、紫綬褒章(1991年)、勲四等旭日小綬章(1997年)、三重県民功労賞文化賞(2002年)ほか多くの受賞がある。作品集はアラベル(1983年)と博進堂(1991年)から出版されており、元永の画業を概観できる。遺作は三重県立美術館、宝塚市、西宮市などに寄贈され、三重県立美術館と宝塚市アピアホールでそれぞれ寄贈作品展が開かれた。

田中千秋

没年月日:2011/09/30

 兵庫県立美術館保存・修復グループリーダーの田中千秋は9月30日に死去した。享年54。 1957(昭和32)年7月5日、鳥取県米子市に生まれる。76年大阪府立千里高等学校を卒業後、77年に早稲田大学第二文学部美術科に入学、西洋美術史を専攻し82年に同大学を卒業。81~83年に老舗額縁店である古径、83~84年に八咫家での勤務を経て、85年に山領絵画修復工房に入り、油彩画修復に携わる。88年からはブリヂストン美術館学芸部で保存修復を担当。2001(平成13)年に兵庫県立美術館に移り、保存修復グループのリーダーとして活躍した。93~98年に女子美術大学、2000年より東北芸術工科大学で非常勤講師を務めている。 ブリヂストン美術館では、86年より進められていた同館所蔵のレンブラント「聖書あるいは物語に取材した夜の情景」(旧題「ペテロの否認」)共同研究プロジェクトに参加。93年には特集展示「隠された肖像―美術品の科学的調査」を担当し、東京国立文化財研究所の協力のもと科学的調査に基づいた油彩画の展観を行なった。95年1月17日に発生した阪神大震災に際しては、全国美術館会議に働きかけて被災地の美術館・博物館への救援隊を結成、所蔵品の救援活動や被害調査を率先して行なう。その後の同会議による被害の総合調査でも保存担当学芸員として中心的な役割を果たし、同年9月と翌96年5月に報告書を刊行。所属するブリヂストン美術館の館報でも、被害調査をふまえた具体的な地震対策を講じている。一方で「日本の美術館、ここが悪い」(『あいだ』53号、2000年)からうかがえるように、その言動は日本の美術館を取り巻く現状への批判的な眼差しに貫かれたものだった。 01年に兵庫県立美術館へ移った後も、所蔵品の保存修復や本多錦吉郎「羽衣天女」(同館蔵)等の光学調査を実施。また11年3月11日に発生した東日本大震災に際しても、全国美術館会議の文化財レスキュー活動に参加、4月には津波の被害を受けた石巻文化センターの絵画・彫刻約200件を移送、応急処置を始める。同じく津波で甚大な被害を受けた陸前高田市立博物館のレスキューでも、救出した作品の応急処置を行なう旧岩手県衛生研究所の環境整備を検討するなど貢献するが、その最中での突然の死は関係者に大きな衝撃を与えた。

町田章

没年月日:2011/07/31

 考古学者の町田章は7月31日、肺がんのため死去した。享年72。 1939(昭和14)年2月5日、香川県善通寺市に生まれる。62年に関西大学文学部史学科東洋史専攻を卒業後、立命館大学大学院文学研究科に進学。64年4月に奈良国立文化財研究所に入所する。86年平城宮跡発掘調査部長に就任、1994(平成6)年からは京都大学大学院人間・環境学研究科文部教官を四年間併任。98年に文化庁文化財保護部文化財監査官となり、翌年4月から奈良国立文化財研究所長、独立行政法人文化財研究所理事・奈良文化財研究所長(2001年)、文化財審議会専門委員、同法人理事長(2004年)をへて、2005年3月に同理事長・所長を退任する。 立命館大学大学院在学中には、白川静に師事して東洋史、東洋思想史を学び、中国古代墓葬の研究をおこなった。一方、奈良国立文化財研究所の榧本亀治郎の指導のもと『楽浪漢墓』の報告書作成に関わったことで、榧本に推挙され64年に奈良国立文化財研究所に入所する。前年に設立したばかりの平城宮発掘調査部に配属されるが、65年から二年間、文化財保護委員会事務局記念物課に出向し、全国的な開発に伴う埋蔵文化財保護行政の基礎づくりに携わった。研究所に戻ってからは平城京の発掘調査に従事した。発掘調査報告書では、平城宮の東北に位置するウワナベ古墳と平城京条坊との関係を明らかにし(『平城宮跡発掘調査報告書Ⅵ』、奈良国立文化財研究所、1974年)、平城宮の中枢部である第一次大極殿地区の発掘成果をまとめ、その変遷と歴史的意義を世に問うた(『平城宮跡発掘調査報告書Ⅺ』、同所、1981年)。86年『平城京』(ニューサイエンス社)では、三十年ちかい平城京調査の全容をまとめ、専門家だけでなく一般読者にむけて平城京の重要性を紹介した。 高松塚古墳の壁画が発見された72年に「唐代壁画墓と高松塚古墳」(『日本美術工芸』405号)を発表し、この壁画が唐の影響を強く受けていたことをいち早く指摘した。この研究は、のちに東アジアにおける装飾墓を総括した86年『古代東アジアの装飾墓』(同朋舎)に結実する。95年「胡服東漸」(『文化財論叢Ⅲ』、奈良国立文化財研究所)は高松塚古墳の人物像に代表される日本古代の服装を東アジアの服制に位置づけたものである。 研究所で金属器・木器を中心とする遺物整理を担当したことから、日本古代の装飾具や武器へと関心を広げる。70年「古代帯金具考」(『考古学雑誌』第56巻第1号)では、古墳出土の帯金具の系譜を中国、朝鮮にもとめた。帯金具に端を発した研究は古墳時代の装身具全般におよび、97年『日本の美術 第371号 古墳時代の装身具』(至文堂)を刊行した。姫路市宮山古墳出土の鉄器類を整理する過程で環刀を発見し、76年「環刀の系譜」(『研究論集Ⅲ』、奈良国立文化財研究所)では、中国における環刀の変遷を明らかにした。 平城京の調査研究に従事する傍ら、70年代には漢墓を中心とする論考もいくつか発表する。文化大革命終結後間もない78年には、関西の文化財行政に携わる考古学者を率いて北京、安陽、洛陽、西安、広州の遺跡・遺物を調査した。81年「隋唐都城論」(『東アジア世界における日本古代史講座』第5巻、学生社)は、文献史料と発掘成果から隋唐都城の構造を明らかにしたもので、日本古代都城との構造比較を見据えた論考である。 91年には奈良国立文化財研究所と中国社会科学院考古研究所との間で「友好共同研究議定書」を取り交わし、「日中古代都城の考古学的比較研究」を課題とする本格的な日中共同研究を実現した。今日にいたるまで二十数年におよぶ共同研究の礎となった。98年『北魏洛陽永寧寺』(奈良国立文化財研究所)は共同調査の最初の成果報告である。また、ユネスコ世界文化遺産保護機構の参与として、唐長安城大明宮含元殿や中国新疆ウイグル自治区の交河故城の保護に尽力した。所長就任後は、漢長安城桂宮、唐長安城大明宮の発掘調査、唐三彩、三燕時代金属器の調査を指揮し、共同研究を推進した。こうした業績が評価され、03年には外国人として初の中国社会科学院栄誉教授となる。 所長の重責を負いつつも研究への情熱は衰えず、職務の合間をぬって完成させたのが、02年『中国古代の葬玉』と06年『中国古代の銅剣』の単著である。2つの大著は90年代以降の共同研究、70年代の刀剣研究に源を発し、それらを集大成したものといえよう。 町田の研究は中国考古学を基軸としている。平城京の調査、古墳時代から古代に至る遺物の研究では、その淵源を中国、朝鮮にもとめ、東アジア全体のなかに遺跡や遺物の歴史的意義を見出そうとする視点が常にあった。この背景には、文化大革命によって中国の遺跡や遺物を実見できない時期が長く続いたという不運な境遇もあっただろう。しかし、そうした逆境のなか、眼前にある日本の遺跡や遺物を中国考古学の知見と結びつけ評価する努力をつづけ、最終的に中国との共同研究を実現するまでに至ったのである。これら一連の業績により、09年には勲三等瑞宝中綬章を受章した。

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