本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





南川三治郎

没年月日:2018/02/06

読み:みなみかわさんじろう  写真家の南川三治郎は2月6日、急性心不全のため東京都渋谷区の病院で死去した。享年72。 1945(昭和20)年9月14日、三重県員弁郡(現、いなべ市)に生まれる。三重県立桑名高等学校卒業。66年東京写真短期大学(現、東京工芸大学)卒業。株式会社グラフ社に入社、写真部に勤務するとともに67年に開塾した大宅壮一東京マスコミ塾に第一期生として学ぶ。その後勤務先を退社し、一年間のパリ滞在を経て70年よりフリーランスの写真家として活動する。74年、20世紀を代表する欧米の美術家を取材するプロジェクトに着手、マルク・シャガールやジョルジュ・デ・キリコ、サルバドール・ダリらをアトリエに訪ねて撮影した写真による『アトリエの巨匠たち』(朝日ソノラマ、1980年)にまとめた。多くは面会取材自体が困難な海外の芸術家を訪ね、その住まいや仕事場といった創造の空間ごと写真に収めるという、当時は先例のなかった手法によって美術家たちの人物像を描写したことが高く評価され、同写真集により80年、第30回日本写真協会賞新人賞を受賞。また同様の手法により、グレアム・グリーンやマイケル・クライトンら欧米のミステリー作家を取材した『推理作家の発想工房』(文芸春秋、1985年)で86年、第36回日本写真協会賞年度賞を受賞した。代表作となったこの二作の他、広くヨーロッパの文化をめぐる取材を重ね、『ヨーロッパの窯場と焼きもの』(美術出版社、1980年)、『世紀末ウィーンを歩く』(池内紀との共著、新潮社、1987年)、『ヨーロッパの貴族と令嬢たち』(河出書房新社、1993年)、『イコン(聖像画)の道:ビザンチンの残照を追って』(河出書房新社、1997年)、『ヴェルサイユ宮殿』(黙出版、2000年)、『皇妃エリザベート永遠の美』(世界文化社、2006年)など数多い著作にまとめた。 また2004(平成16)年頃より、世界遺産に指定されている日本とヨーロッパの巡礼の道の取材を始め、『世界遺産巡礼の道をゆく 熊野古道』、『世界遺産巡礼の道をゆく カミーノ・デ・サンティアゴ』(ともに玉川大学出版部、2007年)などにまとめた。日本文化の古層に対する関心は、故郷に近い伊勢神宮の取材へと展開し、13年の第62回式年遷宮をめぐって06年から約8年にわたって撮影を重ね、中日新聞に写真と文による「聖地伊勢へ」を連載(2011年4月から2013年12月)、14年に三重県総合博物館で「『日本の心』第六十二回神宮式年遷宮写真展」を開催した。 長年の制作活動に対して15年、第65回日本写真協会賞作家賞を受賞。また16年、第10回飯田市藤本四八写真文化賞を受賞した。

折原久左ヱ門

没年月日:2018/02/01

読み:おりはらきゅうざえもん  金工の造形作家折原久左ヱ門は、2月1日心不全のため死去した。享年86。 1931(昭和6)年7月18日、山形県南村山郡南沼原村(現山形市南沼原)の農家に3男7女10人兄弟の7番目、次男として生まれる。46年、山形師範学校予科(現、山形大学教育学部)に入学するが、51年、同校を中退し東京教育大学に入学する。ここで講師として指導にきていた商工省工芸指導所の職員で、クラフトデザイナー、金工作家であった芳武茂介に鉄板の絞り、鍛金技法を学び、一枚の鋼鈑を叩くことによって複雑な形を作り出すことができる鍛造に魅力を見出すようになる。55年、東京教育大学を卒業し福島大学の助手となり、その翌年第12回日展出品の「鉄花器」が初入選する。58年、北海道学芸大学岩見沢分校の助手として北海道に移り、62年、北海道学芸大学(現、北海道教育大学)函館分校の助教授を経て74年、北海道教育大学の教授となる。折原自身この函館が気に入り、東京という中央志向よりも地方での制作や教育を続けることを志向してこの地に定め、新日展、北海道の全道展を中心に作品を発表する。68年からは日本現代工芸美術展への出品を始め、制作の幅を広めていくようになる。56年の日展初入選の鉄花器から60年代初期の作品は折紙の形を取り入れた直線的に折り曲げた構成、また尖鋭感のある造形であり、60年後半からは扁壷のような円形を基調とした花器なども制作するようになる。しかし、長年の金属を打ち叩くという行為は聴覚に障害を及ぼすようになるようになり、70年代から技法を溶接や鋳造へと変えることとなった。粘土から形を作っていくことは鍛金と比べて容易であったと後に述懐し、また溶接は複雑な造形作品を生み出していく。それまで鉄だけであった材料もブロンズ、アルミニウム、黄銅、白銅などと多彩になり、作品の表現の意図によって使い分けるようになる。 84年、第16回改組日展で、「連作―祭跡―」で文部大臣賞を受賞、86年に前年の17回日展出品作「祀跡」で日本芸術院賞を受賞する。その後、制作のテーマは「結の空間」、「接(つなぎ)」、「祀」、「道標」へと展開していく。「結の空間」は人間関係が弱そうに見えても実は強いものであるということを、黄銅を用いて紐を結んだ形で表現したものである。「接」は、社会は単純に一つのことだけで成り立っているわけではなく、いろいろな関係が複雑に絡みあっていることを表現したものであった。「祀」は人がつながり集まる中で、人は安心のよりどころとして心の中でおまつりをするとして、それを造形化したものであった。「道標」は氏自身の設定している人生を進んでいることを表わしたと述べている(「折原久左エ門展 金属造形―創造の軌跡」北海道立函館美術館、2011年)。 また、大形のモニュメント作品も手がけており、「青史の道標」(1988年、函館市千代台公園・1991年、野村證券高輪研修センター)、「祭祀」(1994年、函館市グリーンプラザ)、「波遊」(1993年、洞爺湖ぐるっと彫刻公園)、「北国に躍る友がき」(1975年、富良野)など北海道に多くの作品を残す。

北野康

没年月日:2018/01/27

読み:きたのやすし  地球化学者で名古屋大学名誉教授および椙山女学園大学名誉教授の北野康は肺炎のため1月27日に死去した。享年94。 1923(大正12)年2月6日に山梨県甲府市で生まれ、1942(昭和17)年に北海道帝国大学予科理類に入学し、47年に同大学理学部化学科を卒業した。49年に同大学理学部の助手になった後、52年に神戸大学文理学部講師として転出した。55年に助教授に昇任した後、57年に理学部助教授として名古屋大学に異動し、その後63年に同大学理学部教授、73年に同大学水圏科学研究所教授、77年に同所長となり、86年に名古屋大学を退官した。退官後は87年に椙山女学園大学人間関係学部教授に就任し、1989(平成元)年からは93年に大学を退任するまで学長を務めた。この間、日本地球化学会柴田賞(1996年)など数多くの賞を受賞し、勲三等旭日中綬章を叙勲されている。 本人は「水の地球化学者」と自称していたが、北野の研究の関心は海水、河川水、温泉水など、地球のあらゆる水に含まれる元素の種類や分量を明らかにすることで、その興味の対象は氷河や南極の氷から、地球が生まれた約45億年前の原始海水にまで及んでいた。例えばある元素が地球の大気、海水、河川水等の中にどれだけ含まれているか調べることにより、それらの収支から陸地、河川、海洋さらには大気への元素の移動・蓄積と循環のサイクルを調べることができる。またその地球規模の元素循環に人間活動が与えた影響も知ることができる。それ故、北野は化石燃料燃焼による二酸化炭素の増加が引き起こす地球温暖化への関心も高く、地球環境問題に関する国内外の多くの国際会議の委員を務めた。 86年に文化庁は中国の敦煌研究院との間で敦煌莫高窟壁画保存に関する協定を結び、敦煌莫高窟壁画保存修復協力会議を設置した。莫高窟は砂漠の乾燥地帯にあり、北野は長年、自然界における岩石の化学的風化の研究をしてきたことから、要請されて協力会議の議長に就任した。これが北野の古文化財とのつながりの始まりである。95年に出版された著書『新版 水の科学』(NHKブックス)の中で「元来砂漠地域は水の蒸発量が降水量より遙かに大きいところであり、地球規模で見ると砂漠地域は大気中の水蒸気の供給源の一つであるとさえいえる」と述べているが、岩石の上に描かれた敦煌壁画の保存には水、空気と岩石の相互作用という問題が基本に存在していて、岩石の風化の研究を抜きにして保存の問題は解決できない。そこで北野は訪中団の一員として二回にわたって敦煌現地を訪れ実地調査を行った。 二回の訪中の際に敦煌周辺で採取した天然水の分析成果が『保存科学』第33号(1994年)に記されている。敦煌周辺の水は、世界各地域の河川水、雨水と比較して硫酸イオン濃度が高いなど、地球上の一般的な水とは違った化学組成を示している。また塩分濃度が高いことで有名な死海の水とも、同じ乾燥地帯にありながら異なっている。硫酸イオンの起源として、①石油・石炭などの化石燃料、②海水由来、③岩石からの溶出が考えられるが、北野は敦煌周辺の岩石の化学的風化によるものではないかと考え、敦煌周辺の地質環境を調べてイオウの同位体比分析を行った。この論文で北野は研究の方向性を示したが、その死去により研究が未完に終わったことは残念である。

中根寛

没年月日:2018/01/17

読み:なかねひろし  点描による穏やかな風景画で知られた洋画家の中根寛は1月17日に死去した。享年92。 1925(大正14)年3月26日愛知県額田町(現、岡崎市)に生まれる。1939(昭和14)年旧制岡崎中学校2年生を修了して岡崎師範学校に入学し、44年の9月に卒業予定であったが、前月の8月に陸軍宇都宮飛行学校に入所。1945年除隊し、郷里に戻り小学校教師となる。49年東京藝術大学美術学部油画科に入学し、上京して同郷の荻太郎を頼り、荻のアトリエに住む。大学では硲伊之助、寺田春弌、2年生から安井曾太郎、伊藤廉に師事。52年3月に安井が辞任したため、同年4月から後任となった林武に師事する一方、小磯良平、山口薫、牛島憲之の指導を受ける。53年東京藝術大学美術学部油画科を卒業。卒業制作によって大橋賞を受賞。54年、母校に新設された美術学部専攻科に進級し、55年に同科を修了して同学美術学部副手となる。57年同美術学部教務補佐員、58年同助手となる。美術団体展出品に否定的でグループ展を奨励した林武の教えを受けて団体展には出品せず、59年に同学の若手画家によって黒土会を結成し、毎年日本橋髙島屋で展覧会を開催。同展には第1回展に出品した「腕を組む」(1957年)から65年の第7回展出品の「かげ」まで、人体を主要なモチーフとし、暗色を塗り重ねた重厚な作品を出品し続ける。60年第3回国際具象派美術展に「コンポジション」を招待出品し64年まで出品を続ける。62年第5回現代日本美術展に「こかげ」で入選。63年東京藝術大学美術学部専任講師となる。63年から77年まで国際形象展に招待出品。64年第8回安井賞候補新人展に人体と動物で構成した「星」を出品し、70年の第13回まで同展に出品を続ける。68年日動サロンにて初めての個展を開催。69年東京藝術大学美術学部助教授となる。69年に半年間、ヨーロッパ・エジプトを研修旅行。70年7月から8月まで北ヨーロッパ、71年3月から4月までスペインに旅行。多数の西洋の古典絵画を実見し、西洋絵画の奥深さと多様性を知るとともに、自然と調和した人の営みが窺える町や村の景観に魅かれる。これ以降、風景画を中心に描くようになる。また、師の林武のように油絵具を混ぜあわせ、塗り重ねる画法から、点描のように絵具を並べる画法へと変化する。75年、訪中美術家代表団の一員として初めて中国を訪れ、以後80年までほぼ毎年中国に取材旅行。また、同年12月から76年1月までインド、ネパールを旅行。76年スイスへ、77年ヨーロッパへ取材旅行。78年東京藝術大学美術学部教授となる。79年3月日本橋髙島屋、4月大阪髙島屋にて「中根寛展」を開催。84年に伊藤廉記念賞が開設されるとその選考委員となり、1993(平成5)年の最終回まで毎回選考に当たる。86年東京藝術大学美術学部長となり、90年に退官して名誉教授となる。93年郷里にある岡崎市美術館で「中根寛自選展」が開催され、また、同年5月に母校の藝術資料館で「中根寛展」が開催された。2000年9月に『中根寛画集』(求龍堂)が刊行され、同月から11月まで「中根寛画業50年展」(朝日新聞社ほか主催)が髙島屋(日本橋、横浜、京都、大阪なんば)、松坂屋美術館(名古屋)を巡回した。生涯、美術団体に所属せず、東京藝術大学で美術教育に携わりつつ制作を続けた。少年時に郷里で三河湾を見下ろす景色に親しみ、風景画でも俯瞰する構図を好んだ。「その社会に参加していない異国の景色を描いていると、後ろめたさはつきまとう」(「中根寛・画論を語る」『アートトップ』129)という言葉にあらわれるように、描く対象と自らの関わりを重視した。1990年代以降は、北海道の湿原、浅間山、富士山、瀬戸内などの景色を広やかに俯瞰する構図で描いた優品を残している。

保田春彦

没年月日:2018/01/17

読み:やすだはるひこ  彫刻家で武蔵野美術大学名誉教授の保田春彦は1月20日老衰のため死去した。享年87。 1930(昭和5)年2月21日、和歌山県那賀郡龍門村大字荒見(現、紀の川市)に生まれる。父は、21年にパリへ留学し、グランド・ショミエール美術研究所でブールデルに師事した彫刻家・画家の保田龍門である。 47年に東京美術学校彫刻科予科に入学し、石井鶴三に師事した。48年、同校本科彫刻科に入学。52年に同校を卒業し、堺市立金岡中学校に図工教師として勤務をはじめる。同時に、大阪市立美術館付設美術研究所にも所属した。また、同年には第37回院展で「肖像」が奨励賞を受賞している。57年、第42回院展に「伝説」を出品し、奨励賞を再び受賞する。同作は、展覧会場でウエザーヒル出版社のメレディス・ウェザビーより購入の希望がされたことにより、大きな話題となった。同年には科学技術庁主催のSTAC留学試験に合格し、フランス政府保護留学生の資格を取得。58年、神戸港から出港し、パリへ渡った。 パリでは、龍門と同じくグランド・ショミエール美術研究所に入所し、オシップ・ザッキンに師事する。また、先に滞在していた水井康雄や、パリ在住の中村直人などとも交流があったとみられる。59年、クリティック・シュス賞で第一席を受賞。さらに、第1回パリ青年美術家ビエンナーレ展に選抜出品をはたす。同年11月には同校を修了し、イタリアに拠点を移した。その後、ローマ、ウィーン、シュトゥットガルト、ミラノなどで個展やグループ展を重ねる一方、65年に「在外日本作家展」(東京国立近代美術館)で日本でも活動が紹介される他、67年に「現代野外彫刻展」(レネアーノ野外彫刻美術館)に作品を出品し、評価を得ていった。 68年、帰国。翌年、武蔵野美術大学専任教員として赴任する。帰国後は、同年の第1回現代国際彫刻展、1970年の第2回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に出品している。同展では大賞を受賞した。さらに、71年には第10回現代日本美術展、第11回サンパウロ・ビエンナーレ、第4回現代日本彫刻展など国内外の展覧会に出品し、そのうちサンパウロ・ビエンナーレでは国際優秀賞、現代日本彫刻展では宇部興産賞を受賞している。また、同年に第21回芸術選奨文部大臣新人賞と第2回中原悌二郎賞彫刻の森美術館賞(現、中原悌二郎賞優秀賞)を「作品」で受賞するなど、国内外で高く評価された。 73年には第5回現代日本彫刻展で神奈川県立近代美術館賞を受賞。翌年には第2回長野市野外彫刻賞、第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で神奈川県立近代美術館賞を受賞。75年には第13回アントワープ国際野外彫刻展に出品。同年第6回現代日本彫刻展では、東京都美術館賞・群馬県立近代美術館賞を受賞している。また、77年には第3回彫刻の森美術館大賞展選賞を受賞した。1995(平成7)年には、大規模個展を神奈川県立近代美術館他で行う。同年に「聚落を囲う壁Ⅰ」で第26回中原悌二郎賞を受賞し、さらに和歌山県文化賞にも選ばれている。翌年には紫綬褒章を受章。99年には武蔵野美術大学教授退任記念として「保田春彦展」が同校で開催された。 2005年には神奈川文化賞、07年には第23回平櫛田中賞を受賞。10年には個展「「白い風景」シリーズとクロッキー」(神奈川県立近代美術館)を開催した。13年、自身と龍門の往復書簡集『保田龍門・保田春彦 往復書簡集 1958―1965』を刊行し、15年に和歌山県立近代美術館にて「保田龍門・保田春彦展」が開催され、親子二代にわたる活動が顕彰された。 展覧会への出品と受賞の他に特筆すべきは、70年代から80年代にかけて街中への野外彫刻の設置が流行したことを背景に、保田の彫刻の多くが野外へ設置されたことだろう。1973年には和歌山県の御坊市庁舎に「仰角のある立方体」「16等分された空」、翌年には神奈川県の大和市庁舎に「都市」を設置。81年には故郷の和歌山那賀総合庁舎に「十字の構造」を、慶應義塾大学に「都市―住居、文教、開発、通商」を制作。また、84年には静岡市立中央図書館に「古址の残像」、東京都のガーデンプラザ広尾に「T〔タウ〕の構造」、90年には東京体育館に「都市の構造」、91年には大阪市立大学に「聚落の単位―幕舎の場合」などが設置された。また、美術館にも多くの野外彫刻を納めており、札幌芸術の森野外美術館、世田谷美術館、平塚市美術館、和歌山県立近代美術館などにも作品が設置され、市井の人々の目に触れることとなった。 その作品の多くは、鉄、ステンレス、コールテン鋼を使用した構造的な抽象彫刻であったが、2000年代になると、これまでの作風とは異なる、木彫による「白い風景」シリーズを制作し話題となった。その一方で、2000年に武蔵野美術大学を退任するまで後進の育成に携わった他、数々のコンクールの審査員や委員を務め、制作活動の他にも彫刻界の発展に大きく貢献した。

田村隆照

没年月日:2018/01/12

読み:たむらたかてる  仏教美術史研究者・京都市立芸術大学名誉教授の田村隆照は、1月12日に死去した。享年92。 1926(大正15)年2月17日、広島県に生まれる。1951(昭和26)年、高野山大学仏教芸術学科を卒業した。52年より京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)に助手として勤務。60年8月、助手から講師に昇任。69年4月より助教授、72年12月、教授に昇任。1989(平成元)年4月、京都市立芸術大学図書館長に就任した。91年3月、同大学を定年退職し、同年4月に名誉教授の称号を授与される。91年、大阪産業大学に着任。高野山大学、京都府立大学、奈良女子大学、神戸大学、大阪大学、種智院大学で非常勤講師として教鞭を執った。満願寺(奈良県五條市)住職。 高野山大学で密教美術研究の泰斗・佐和隆研の薫陶を受け、京都市立美術大学に着任以降も、同大で教授を務めていた佐和の傍らで仏教彫刻の研究に励んだ。「石山寺文化財総合調査団」や東寺観智院金剛蔵聖教調査など膨大な密教図像や聖教類の調査に関わる一方で、インドネシアへの美術調査に参加(1964年・67年)、東南アジア地域の仏教美術へと関心を広げていく。81年9月には密教図像学会が発足(初代会長:佐和隆研)、常任委員となる。90年には密教図像学会第3代会長に就任して2期8年を務め、その後も学会顧問として多年にわたって運営に尽力した。88年には石山寺が所蔵する図像集「図像抄(十巻抄)」を原寸カラー図版で刊行(『図像抄:石山寺所蔵十巻抄』法藏館)、2004年には京都市立芸術大学が所蔵する仏画粉本を集成した『仏教図像聚成:六角堂能満院仏画粉本』(京都市立芸術大学芸術資料館編、法藏館)を刊行するなど、密教美術研究の進展に果たした功績は大きい。大阪・叡福寺の文化財調査のほか、インドネシア・インドへの美術調査は数回に及ぶ。84年、第22回密教学芸賞を受賞。04年、瑞宝中綬章を授与される。 著作に『高野山(カラーブックス33)』(共著、保育社、1963年)、『現代密教講座 第六巻』(共著、大東出版社、1980年)、『図説 真言密教のほとけ』(朱鷺書房、1990年)。主要な論文に「高野山焼失金堂諸像考」(『密教文化』56、1961年、のち『密教大系第11巻 密教美術Ⅱ』法藏館、1994年)、「ボロブドゥル彫刻の周辺」(『佛教藝術』58、1965年)、「定印阿弥陀如来像をめぐる諸問題」(『佛教藝術』65、1967年)、「図像抄 成立と内容に関する問題」(『佛教藝術』70、1969年)、「上の太子叡福寺の寺宝」(『佛教藝術』119、1978年)、「大日如来と失われた密教空間」(『MUSEUM』386、1983年)、「十三仏図像と十王図本地仏―信仰資料の図像学―」(『密教図像』4、1986年)、ほか多数。

中村俊春

没年月日:2018/01/09

読み:なかむらとしはる  京都大学大学院教授で、17世紀の北方ヨーロッパ美術研究を中心に多大な功績を残した中村俊春は1月9日に死去した。享年62。 1955(昭和30)年12月2日、大阪府寝屋川市に生まれる。74年4月、京都大学文学部入学。西ドイツ遊学を経て79年3月卒業(美学美術史学専攻)。同年4月、京都大学大学院文学研究科修士課程(美学美術史学専攻)入学、81年4月に博士後期課程(同)に進学した。82―85年の西ドイツ、ミュンヘン大学留学を経て、87年3月に博士後期課程研究指導認定退学。同年4月に京都大学文学部助手に任じられた。1989(平成元)年4月より国立西洋美術館に研究官として勤務したのち、93年4月、京都大学文学部助教授就任(1996年4月、京都大学大学院文学研究科助教授に配置換え)。2003年4月教授に昇任し、06年には「ペーテル・パウル・ルーベンス――絵画と政治の間で」(三元社より2006年刊行)で博士号(文学)を取得。18年の逝去まで研究と教育に尽力した。 研究業績は、17世紀の北方ヨーロッパ美術を中心に美術史学の幅広い分野に及び、それらは、英語による執筆、発表を含め、著書3冊(うち1冊は近刊予定)、編著・監修18冊、共著・共編著2冊、学位論文を含む論文64点、学会発表・講演等45件、企画・監修した展覧会7件等で発表されている。なかでも重要な研究成果は画家ペーテル・パウル・ルーベンスに関するもので、上述の博士論文は、祖国ネーデルラントの分断と混乱の時代を生き、外交官としても活躍したルーベンスの絵画制作と政治活動の関わりを、鋭い作品分析、膨大な先行研究の的確な咀嚼と批判、同時代史料の丹念な読解に基づいて論じた大著となっている。 ルーベンス研究については、さらにいまひとつの軸があり、それは、この画家の工房運営や周辺画家たちとのかかわりをめぐるものであった。それらの論考は優れた鑑識眼に支えられたものであり、ときに通説に対する大胆な対案を提示するものとなっている。成果の多くは展覧会と関連して発表されており、『ソドムを去るロトとその家族――ルーベンスと工房』(国立西洋美術館、1993年)、『ルーベンス――栄光のアントワープ工房と原点のイタリア』展(Bunkamura ザ・ミュージアム他、2013年)等は、その精華と言えるものである。 さらに、17世紀ネーデルラント美術を代表するもうひとりの画家、レンブラントも、重要な研究対象となった。ルーベンスとの対比を念頭に置いた独創的なレンブラント論が展開されたが、その着眼点のひとつは、芸術的競合という名のもとにおける画家たちの相互作用であった。本人の遺志に基づいて18年に出版された著作集Inspira‐tion and Emulation: Selected Studies on Rubens and Rembrandt (Peter Lang, Bern)は、まさにこのテーマに沿って編まれている。 学際研究にも積極的に参加し、とくに親密圏、つまり家庭や母子などの表象に関する分野に優れた成果を残した。女性の使用人を描いたオランダ風俗画群より構成し、監修した『フェルメール«牛乳を注ぐ女»とオランダ風俗画展』(国立新美術館、2007年)の図録は、17世紀オランダにおける女性の家内労働の表象に関する専門書となっている。さらに16年には、『美術フォーラム』において、西洋の伝統的図像「人生の階段」に着想を得た「人生の諸階段」に関する特集も組んでおり、こうした研究は、歴史社会学の分野からも注目を集めるものとなった。 研究活動のかたわら、国内外の研究者が同一テーマについて最新の研究成果を発表する国際コロッキウムKyoto Art History Colloquiumの定期的開催と、その成果論集でもある英文紀要Kyoto Studies in Art Historyの創刊を実現したほか、学術雑誌『西洋美術研究』に当初より編集委員として参加するなど、西洋美術研究の振興や後進の育成にも労を惜しまず、大きな足跡を残した。*本記事は以下に基づき執筆されている:故中村俊春先生を偲ぶ会実行委員会編『中村俊春先生 業績目録』2018年6月発行

松樹路人

没年月日:2017/12/19

読み:まつきろじん  独立美術協会の画家松樹路人は12月19日、肺炎のため死去した。享年90。 1927(昭和2)年1月16日、北海道留萌支庁苫前郡に生まれる。本名路人(みちと)。小学校教員であった父の任地によって転居し、33年佐呂間の武士尋常小学校に入学、その後、女満別尋常高等小学校に転校する。1940年北海道立網走中学校に入学するが、翌年一家で上京。東京府立第十五中学校(現、都立青山高等学校)在学中に小林万吾の主宰する同舟舎絵画研究所に通う。44年東京美術学校油画科に入学し、45年から梅原龍三郎に師事。同年、三浦半島の長井にある武山海兵団に配属される。49年に東京美術学校を卒業し、梅ヶ丘中学校の図工教諭となり、53年まで勤務。この間の50年、連合国要人の夫人によって運営されていたサロン・ド・プランタンの第2回展に原爆と浮浪児を描いた「失われた世代」を出品して第3席に選ばれる。また、同年の第18回独立美術協会展に「S町の酒場付近」で初入選。53年第21回独立展に褐色系を基調色とし、人体を簡略な形でとらえ、着衣の女性像の背後に二人の男性像を描いた「三人」、および「秋」を出品してプールブー賞受賞。同年、網走中学校の先輩で独立美術協会会員であった居串佳一と出会い、交遊を始める。この頃、アンドレ・ドラン、ゲオルグ・グロス、ベン・シャーンに共感を抱く。54年第22回独立展に「家族」「行ってしまった小鳥」を出品して独立賞受賞。57年から60年3月まで鴎友学園女子高等学校教諭を務める。60年独立美術協会会員となる。この頃、「具体的なかたち」を求めて苦悩しつつ、人体を幾何学的形体に還元してから再構成し、白を背景に用いた作品を描く。64年、それまでの自作への不満から、初期以降の大作十数点を自ら焼却。これを機会に、少年時代から惹かれていた藤田嗣治の画風に学んだ静物画を多く描くようになる。66年から71年まで女子美術大学非常勤講師としてデッサンを指導。69年、第37回独立展に白いタイルを背景に、植物や陶器などを配置した「タイルの静物」を出品する。70年第5回昭和会に「木の実の静物」「車輪の静物」を出品して昭和会賞を受賞したほか、前年の独立展出品作「タイルの静物」ほかを第13回安井賞展に出品。同年、武蔵野美術大学講師となり、71年、同助教授となる。また、同年、東京都稲城市に転居しアトリエを構える。この家は「別れ道の白い家」(1977年)のモチーフとなり、その後も画中にしばしば登場することとなる。73年第16回安井賞展に白いタイルを背景に赤茶色のドラム缶と瓶などを描いた「ドラム罐」ほかを出品して佳作賞受賞。同年ヨーロッパに旅行しパリ、ローマ、トレドを訪れる。77年、武蔵野美術大学教授となる。79年、独立美術協会の有志と十果会を設立し、以後同展に出品を続ける。81年、前年の第48回独立展出品作「わが家族の像」(1980年)などにより第4回東郷青児美術館記念大賞受賞。また、同年第3回日本秀作美術展に横向きの少年とボクサー犬を描いた「少年とボクサー」を出品し、以後、2003(平成15)年第25回展まで同展に連続して出品。80年代半ばから、ポール・デルヴォー、ジョルジュ・デ・キリコなどシュール・レアリスムの作家の作風を取り入れる。86年イギリスへ旅行。87年、前年の第54回独立展出品作「美術学校―モデルの一日」により第5回宮本三郎記念賞受賞。同年、「第5回宮本三郎記念賞 松樹路人展」が開催され、学生時代の作品から独立展、十果会展等の出品作を中心に70点が展観される。また、同年より長野県茅野市蓼科のアトリエで秋の独立展に向けた制作を行うようになる。91年第41回芸術選奨文部大臣賞受賞。97年武蔵野美術大学を退任。98年『ミュージアム新書18 松樹路人-はるかへの想い』(苫名真著 北海道立近代美術館編)が刊行される。2002年に郷里北海道にて「北方風土記回顧録―地平線の彼方へ 松樹路人展」(網走市立美術館)、2011年に制作拠点のひとつであった茅野市にて「松樹路人展 終わりなき旅」(茅野市美術館)が開催される。年譜は同展図録に詳しい。「職人のようにひたすら描く」という言葉を好み、幼年期を過ごした北海道の広大な大地と空、清澄な空気を愛して、それらを絵画空間に表した。一貫して具象画を描き、日常生活に身近なものに取材して、70年代からは家族や自画像を主要なモチーフとしつつ、構成力の強い作品を描き続けた。

桐敷真次郎

没年月日:2017/12/07

読み:きりしきしんじろう  建築史家、東京都立大学名誉教授の桐敷真次郎は12月7日死去した。享年91。 1926(大正15)年8月31日、東京都神田区(現、千代田区)に生まれる。1947年に第一高等学校理工科甲類(旧制)を卒業、同年東京帝国大学第二工学部建築学科(旧制)に進学、53年には同大学院を退学して東京都立大学工学部建築学科の助手に就任した。60年には助教授、71年に教授に昇任し、長きにわたって東京都立大学にて教鞭を執った。1990(平成2)年に同大学を定年退職し、その後97年まで東京家政学院大学家政学部住居学科にて教授を務めた。 我が国における西洋建築史学の先駆者の一人であり、そのことは2012年度に受賞した日本建築学会大賞の受賞理由「わが国の西洋建築史学に関する研究・教育および建築評論に対する多大な貢献」に如実に表されている。それまで国内での書物を通じた研究が中心であったなかで、ロンドン大学コートールド美術史研究所に留学し、海外留学の戦後第一世代の一人として後進に道を開いた業績も銘記すべきであろう。 桐敷の幅広い研究分野の中でも、その中核をなすのは何と言ってもイタリア・ルネサンス研究である。86年に日本建築学会賞(論文)を受賞した「パラーディオ『建築四書』の研究」、及びイタリアに関する優れた著作に対して贈られるマルコ・ポーロ賞を受賞した『パラーディオ「建築四書」注解』(中央公論美術出版)は、桐敷の業績の中でも特によく知られている。 また、『建築学大系5「西洋建築史」』(彰国社、1956年)、『西洋建築史図集』(彰国社、1981年(三訂版))など建築教育の場で広く用いられる基本書を著述・編纂したほか、日本の近代建築の通史書である『明治の建築』(日本経済新聞社、1965年)も広く参照される労作である。また、個別の研究分野に留まらず建築史全般にかかる著作の翻訳を精力的に行ったことでも知られ、J.M.リチャーズ『近代建築とは何か』(彰国社、1952年)、D.ワトキン『建築史学の興隆』(中央公論美術出版、1993年)、オーギュスト・ショワジー『建築史(上下)』(中央公論美術出版、2008年)、ジェフリー・スコット『ヒューマニズムの建築(注解)』(中央公論美術出版、2011年)などの翻訳がある。さらに、英訳を通じたわが国の建築の対外発信にも努めた。 他方で、地中海学会会長(1997~2001年)を務め、また自身の個別的研究としてイギリスのタウンハウスや江戸の都市計画に関する論考などがある。さらに現代建築への関心も強く、多くの建築批評やくまもとアートポリスとの関わりも忘れることができない。

松平修文

没年月日:2017/11/23

読み:まつだいらおさふみ  長らく青梅市立美術館に学芸員として務め、自らも日本画を制作、また歌人としても活躍した松平修文は11月23日、直腸がんのため青梅市立病院で死去した。享年71。 1945(昭和20)年12月21日、北海道北見市に生まれる。父の転勤に伴い北海道内を転々としながら、絵画や詩作に耽る少年期をおくる。64年に札幌西高等学校を卒業し上京。66年東京藝術大学美術学部へ入学し日本画を専攻、その後同大学院に学ぶ。83年、青梅市立美術館の開設準備に学芸員として関わり、翌84年の開館後も数々の展覧会を企画、青梅市を中心とした西多摩地域における芸術文化の発展に貢献し、副館長等を経て2009(平成21)年の退職まで務めた。松平が手がけた展覧会の中でも特筆すべきは、自身も制作者として専攻した日本画に関する企画であり、とくに「佐藤多持代表作展」(1986年)や「長崎莫人展」(1988年)、また佐藤が所属する知求会の歩みを紹介した「或るグループ展の軌跡」(1991年)等といった戦後の日本画家、あるいは「夏目利政展」(1997年)や「大正日本画の新風 目黒赤曜会の作家たち」展(2004年)といった明治末~大正期に活躍した画家等、近現代日本画の流れの中でも革新的な試みを行った画家達に注目し、その評価に果たした役割は大きい。 歌人としては69年より大野誠夫に師事、松平修文(しゅうぶん)の名で『水村』(雁書館、1979年)、『原始の響き』(雁書館、1983年)、『夢死』(雁書館、1995年)、『蓬』(砂子屋書房、2011年)、『トゥオネラ』(ながらみ書房、2017年)の5冊の歌集を刊行した。没後の18年1月には『歌誌 月光』54号で、松平の追悼特集が組まれている。また2019(令和元)年9月には奉職した青梅市立美術館の市民ギャラリーで「松平修文遺作展 風の中でみた村落や森や魚や花が」が開催、学芸員や歌人として活躍する傍ら、絵筆を離さず制作を続けた日本画家としての側面があらためて着目された。妻は歌人の王紅花。

石崎浩一郎

没年月日:2017/11/14

読み:いしざきこういちろう  評論家、名古屋造形大学名誉教授の石崎浩一郎は11月14日、喉頭がんで死去した。享年82。 1935(昭和10)年10月7日、広島県生まれ。61年早稲田大学政治経済学部新聞学科卒業。64年日本初の個人映画祭「フィルム・アンデパンダン」を新宿紀伊國屋ホールで足立正生、金坂健二らと開催する。この頃、ギャラリー新宿や内科画廊のグループ展に参加する。67年アジア財団の招聘によりハーバード大学国際セミナー芸術部門修了。68年までニューヨーク大学芸術部門研究員。60年代後半の現代美術シーンをニューヨークからレポートし、後に上梓された『光・運動・空間 境界領域の美術』(商店建築社、1971年)は、ポップアートやキネティックアートなどの日常生活とテクノロジーの間で多様化する美術の動向を捉えている。石崎のこのスタンスは、アメリカを主とした現代美術の紹介者としてながく続き、以下のような出版物に業績が〓れる。 訳書として、『アメリカの実験映画』(アダムス・シドニー編、フィルム・アート社、1972年)、『ポップ・アート:オブジェとイメージ』(クリストファー・フィンチ著、PARCO出版局、1976年)、『ジャクスン・ポロック』(エリザベス・フランク著、谷川薫と共訳、美術出版社・モダン・マスターズ・シリーズ、1989年)、『20世紀の様式:1900―1980』(ヘヴィス・ヒリアー著、小林陽子と共訳、丸善、1986年)。共著として、『現代の美術』(エドワード・ルーシー=スミス、講談社、1984年)。著書として、『映像の魔術師たち』(三一書房、1972年)、バシュラールの著作から導きだされた貝殻や鏡、迷宮、渦巻きといった図像をめぐる『イメージの王国』(講談社、1978年)、『アメリカン・アート』(講談社現代新書580、1980年)、論考に「黒と白の画家」(『画集オーブリー・ビアズリー』、講談社、1978年)、「西欧美術にみる女性美」(『美人画』福富太郎との共著、世界文芸社、2001年)などがある。一方で、日本領域への眼差しも70年代初期からもち、「狂児・織田信長」(『季刊パイディア』、1972夏号)をはじめ、未完となった連載「転換期の美学」(『月刊陶』1981年6月から)などにみられるように、織部などの伝統美への論考も試みていた。 教育歴として、87年から2005(平成17)年まで名古屋造形大学教授、在職中は図書館長も務めた。06年から同大名誉教授。

森堯茂

没年月日:2017/11/12

読み:もりたかしげ  彫刻家の森堯茂は11月12日、間質性肺炎のため死去した。享年95。 1922(大正11)年4月14日、愛媛県宇摩郡金田村半田(現、四国中央市)に生まれる。1935(昭和10)年に愛媛県立三島中学校に入学。〓凡社の『世界美術全集』を見てロダンを知り、彫刻への興味を持ったという。 40年に東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻科塑像部へ入学、44年に同校を繰り上げ卒業する。卒業後はおもに自由美術家協会に参加し、51年に第16回自由美術家協会展に「男 習作」と「丘」を出品。翌年第17回同展では「立像」を出品する。また、同年に自由美術家協会員に推薦された。53年の自由美術家協会彫刻会員展にコンクリートや白色セメントで制作された抽象彫刻「夜 No.1」「夜 No.2」「鳥 No.1」を出品する。56年の第20回自由美術家協会展では、量感に空洞をとりこんだ「脱殻」「殻の発展」を発表し、瀧口修造から高い評価を受けた。そして、60年の池袋西武デパートにおける第1回集団現代彫刻展では、鉄線による作品「落茫の空間に No.1」を発表し、さらに量感から解放された彫刻を発表した。それまでの彫刻において支配的であった、塊や量感を感じさせない、軽やかでありながら存在感を十分に感じさせるこの作品は、同年の『美術手帖』11月号の表紙を飾り話題となった。そして、62年の神奈川県立近代美術館における現代日本彫刻展に「とりこ」を出品。なお、同作は同郷の美術評論家、洲之内徹が購入した。 自由美術家協会での活躍の一方、57年には、日比谷公園野外彫刻展に「聚存 No.1」を出品するなど、当時新しい取り組みであった野外彫刻展にも積極的に参加している。58年には、神奈川県立近代美術館における「集団58野外彫刻展」に彫刻作品とドローイングを数点出品。60年には、同館における「集団60野外彫刻展」に「野外のかたち」を出品する。これらの展覧会をきっかけに土方定一などと交流を持つようになる。また、翌年の第1回宇部市野外彫刻展に「脱殻」「鳥 No.4」を出品。62年の第2回同展では「巣 No.19」を発表している。 63年から翌年にかけて、アメリカ、メキシコ、ヨーロッパ、エジプトを遊学。帰国後、制作の場を東京から愛媛県の松山市に移し、68年に松山市民会館において個展を開催した。同展では、「ユカタンの月」など、アモレ効果を用いた正面性の強い作品を出品し、遊学の成果を示す。また、69年には、同じく愛媛県出身の坪内晃幸とともに松山市の堀之内公園にて第1回愛媛野外美術展、71年には、愛媛県立美術館において第1回愛媛造形作家協会展を開催し、地元での現代美術の活性化に努めた。1991(平成3)年、93年には、三越松山店において個展を開催。90年代はおもに、「弧の空間」や「岬」といった、鉄板を組み合わせた作品を制作した。 2007年には、愛媛県の町立久万美術館において「造形思考の軌跡―森堯茂 彫刻の70年」展が行われ、愛媛県を代表する彫刻家として顕彰された。

小宮康孝

没年月日:2017/10/24

読み:こみややすたか  江戸小紋の重要無形文化財保持者である小宮康孝は10月24日肺炎のため死去した。享年91。 1925(大正14)11月12日、東京・浅草に生まれる。父(康助)は江戸小紋の初代重要無形文化財保持者(人間国宝)である。1938(昭和13)年、小学校を卒業すると、父のもとで本格的に厳しい修行を始める。42年、関東工科学校電機科に入学。昼は江戸小紋の板場、夜は学校の日々を送る。 45年3月、空襲で住宅と工場が全壊し家業を中断。工場は被害に見舞われたが、型紙は父により持ち出され無事であった。康孝は甲府の連隊に入隊し復員する。2年後の47年、板場を再建する。 50年、使用していた合成染料をさらに質のよいものに切り替え始める。52年、父(康助)が「助成の措置を講ずべき無形文化財」に選定される。この選定の際に文化財保護委員会(現、文化庁)によって江戸小紋という言葉が作られる。3年後、文化財保護法の改正に伴い重要無形文化財の制度が制定され、父は江戸小紋の重要無形文化財保持者として認定される。父のもとで研鑽をつむ。60年、第7回日本伝統工芸展で「江戸小紋 蔦」が初入選。以後、毎年出品をする。61年、父が死去。64年、第11回日本伝統工芸展で「江戸小紋着物 十絣」が奨励賞を受賞。 60年代後半より、和紙製作者らの協力で型地紙の改良を始める。「よい型彫師がいなければ、江戸小紋は滅びる運命だ」という父の言葉に学び、型彫師の喜田寅蔵(1894-1977)等との関わりを大切にしたという。 77年、初の個展「小紋百柄展」(東京・日本橋三越)を開催する。翌年、父についで、重要無形文化財保持者(江戸小紋)に認定される。認定後も江戸小紋の制作、そして普及にも尽力する。84年には工芸技術記録映画「型染め―江戸小紋と長板中形-」(企画:文化庁、製作:英映画社)が製作され、卓越した技術が映像で記録される。85年に東京都文化賞、88年に紫綬褒章を受章。同年、東京国立近代美術館工芸館にて「ゆかたよみがえる」展に出品する。1993(平成5)年、〓飾区伝統工芸士に認定される。97年、第4回かつしかゆかりの美術家展「江戸小紋小宮康助、康孝、康正三代展」を〓飾シンフォニーヒルズで開催する。翌年、98勲四等旭日小綬章を受章。2001年、東京都名誉都民の称号を得る。11年、〓飾区郷土と天文の博物館にて「小宮家のわざと人」展を開催する。さらに4年後の15年にはシルク博物館にて「今に生きる江戸小紋」展を開催する。 康孝は混乱の戦後を乗り越え、父から受け継いだ江戸小紋というわざを受け継ぎ発展させた我が国を代表する染色家といえる。18年、息子康正も江戸小紋の分野で重要無形文化財保持者に認定され、孫も江戸小紋の仕事を手掛けており、脈々と江戸小紋の技は受け継がれている。 作品は、東京国立近代美術館、MOA美術館、シルク博物館などに所蔵されている。

上村清雄

没年月日:2017/10/17

読み:うえむらきよお  千葉大学教授で美術史研究者の上村清雄は、10月17日、肝臓癌のため死去した。享年65。 1952(昭和27)年10月10日兵庫県に生まれる。75年3月に東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業。4月に同大学大学院美術研究科(修士課程西洋美術史専攻)に入学、78年3月に修了。修士論文は「ドナテッロ研究―1420―30年代の『多様性をめぐって』」。同年4月から81年9月まで同大学西洋美術史研究室の非常勤助手を務める。81年10月からイタリア政府給費留学生としてシエナ大学大学院考古学美術史研究科に留学し、86年11月に修了(考古学および美術史修士)。翌87年1月に群馬県立近代美術館学芸員となり、88年4月に主任学芸員、1993(平成5)年4月に専門員、94年4月に学芸課長、96年4月に主幹兼学芸課長、2001年4月に主任専門員兼学芸課長となった。02年3月、同美術館を退職し、4月に千葉大学文学部助教授に就任。西洋美術史を担当し、また大学院でイメージ学や視覚表象論の授業を受け持った。07年4月に准教授、10年4月に教授となり、研究、学生指導、大学運営に尽力した。この間、東京大学、お茶の水女子大学、武蔵野美術大学、立教大学、千葉工業大学において非常勤講師を務めた。 学芸員及び大学教員として広い分野にまたがる研究業績を残したが、学生時代から一貫して研究の中心にあったのは14-16世紀のイタリア美術史であった。一方で、群馬県立近代美術館に就職後はイタリア近現代彫刻も専門とした。 シエナ美術に関する研究は留学以来のライフワークと言え、帰国後すぐの88年に「十五世紀末シエナ美術の動向――『彫刻家』ネロッチォ・ディ・ランディの新しい帰属作品をめぐって――」(『日伊文化研究』26)を発表した。00年には『シエナ美術展』(群馬県立近代美術館ほか)を担当。さらに科学研究費を得て「15世紀シエナの彩色木彫研究―絵画表現との関連とその社会的な役割―」(2003-04年度)、「アントニオ・ペトルッチ時代のシエナ芸術研究――1500年前後の芸術奨励政策――」(2007-08年度)、「アントニオ・フェデリーギの彫刻:15世紀シエナにおけるドナテッロ芸術の受容」(2009-11年度)、および「フランチェスコ・ディ・ジョルジョの芸術―15世紀後半シエナとウルビーノの芸術交流――」(2012-14年度)の調査を行い、研究成果報告書等の成果を残した。 自らが担当した1990―91年の『ウルビーノの宮廷美術展』(群馬県立近代美術館ほか)以来、ラファエッロとその弟子ジュリオ・ロマーノにも関心を寄せてきた。08年刊行の『ラファエッロとジュリオ・ロマーノ――「署名の間」から「プシュケの間」へ』(ありな書房)は主著であり、美術史上の意義に反してわが国では十分な紹介がなされてこなかった晩年のラファエッロとその工房による作品の数々、特にヴァチカン宮スタンツェ(諸室)の壁画と、ジュリオ・ロマーノによるマントヴァのパラッツォ・テの壁画について、制作の過程を〓りつつ詳細に解説し、ラファエッロからジュリオ・ロマーノへの画風の継承と、ジュリオの個性の発展を考察した。以後もラファエッロおよびジュリオ・ロマーノに関する論文を、千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書に発表し続けた。 近現代イタリア彫刻については、卒業論文と修士論文にドナテッロを取り上げたことが示すように、もともと彫刻に強い関心があったことと、群馬県立近代美術館に奉職したことがきっかけとなった。学芸員としては88-89年の「20世紀イタリア具象彫刻展」と98年の「ヴェナンツォ・クロチェッティ展」(どちらも群馬県立近代美術館ほか)の企画に関わり、大学に移った後も、05年に学術委員を務めた「ミラノ展」(大阪市立美術館・千葉市美術館)や06年の「クロチェッティ展」(鹿児島市立美術館)等にイタリア近現代彫刻に関する論文を寄せた。 ほかの特筆すべき活動としては、まず翻訳がある。エルウィン・パノフスキーやアビ・ヴァールブルクの著作のような英語からの訳もあるが、イタリア語の美術史文献に関しては屈指の訳者であり、とりわけマリオ・プラーツの一連の著作の、訳者のひとりとして重要な役割を担った。また、温厚かつ面倒見の良い人柄を見込まれて書籍の監修者を依頼されたことも多く、『フレスコ画の身体学』(ありな書房、2012年)と、「感覚のラビュリントゥス」シリーズ(ありな書房、全6巻)を世に出した。17年の『レオナルド×ミケランジェロ展』(三菱一号館美術館・岐阜市歴史博物館)の学術協力も務め、巻頭論文を執筆。その会期中に亡くなった。 公的な活動としては、文化庁や豊田市、前橋市、千葉市、国立西洋美術館、鹿島美術財団、ポーラ美術館の各種委員を務めた。14年以降は『日伊文化研究』の編集委員でもあった。 その履歴・業績については池田忍「上村清雄先生を送る」(『千葉大学人文研究』47、2018年)に詳しい。妻は美術史家で金沢美術工芸大学教授の保井亜弓。

井関正昭

没年月日:2017/10/06

読み:いせきまさあき  美術史家で、東京都庭園美術館名誉館長だった井関正昭は10月6日に病気のため死去した。享年89。 1928(昭和3)年1月25日、横浜市に生まれる。44年、成城中学校5年で広島県江田島市にあった海軍兵学校76期生として入学。47年に家族の疎開先であった福島経済専門学校に入学。50年、東北大学法文学部美学美術史科に入学。53年に同大学を卒業、同年神奈川県立近代美術館の学芸員として採用される。61年に同美術館を休職して、イタリアに私費留学する。翌年帰国、同美術館に復職することなく、国際文化振興会が外務省より運営を委託された新設のローマ日本文化会館(同年開館)の派遣職員に採用され、再びローマに赴任。同文化会館において日本文化を紹介する事業を担当するかたわら、64年、66年のヴェネツィア・ビエンナーレの日本の参加にともないその企画実施を担当した。72年、国際文化振興会が発展解消して特殊法人国際交流基金となり、同基金に勤務することとなり、国際交流事業を担当した。85年、ローマ日本文化会館の館長、ならびに在イタリア日本大使館公使兼務となる。在任中、ヴェネツィア、ケルンで、初めてヨーロッパで日本の近代洋画を紹介する展覧会「近代日本洋画展」を開催した。88年、同基金を定年退職して帰国。同年から94年まで、北海道立近代美術館長を務める。89年には、イタリア政府より文化勲章グランデ・ウフィッチャーレを受賞。また、1989(平成元)年から97年まで、明星大学日本文化学部生活芸術学科主任教授として勤務。97年、東京都庭園美術館の館長となる。同美術館長在職中、「フォンタネージと日本の近代美術展 志士の美術家たち」(1997年)、「ジョルジュ・モランディ展」(1998年)、「デペロの未来派芸術展」(2000年)、「カラヴァッジョ 光と影の巨匠 バロック絵画の先駆者たち」(2001年)など、イタリア美術を紹介する展覧会を企画監修した。2016年に同美術館名誉館長となった。戦後から今日まで、日本とイタリア両国の美術を中心とした文化交流に尽力した美術史家、美術評論家であった。主要著書:『画家フォンタネージ』(中央公論美術出版、1984年)『イタリアの近代美術』(小沢書店、1989年)『日本の近代美術・入門 1800-1900』(明星大学出版部、1995年)『Pittura giapponese dal 1800 al 2000』(Skira,Milano, 2001年)『未来派―イタリア・ロシア・日本』(形文社、2003年)『私が愛したイタリアの美術』(中央公論美術出版、2006年)『イタリア・わが回想』(自家出版、2008年)『点描近代美術』(生活の友社、2011年)

新井淳一

没年月日:2017/09/25

読み:あらいじゅんいち  テキスタイルデザイナーの新井淳一は9月25日、心筋梗塞のため死去した。享年85。 1932(昭和7)年、3月13日、群馬県山田郡境野村(現、桐生市境野町)字関根に生まれる。祖父は撚糸業、父・金三は帯地を中心に織物業を営み、母・ナカ(仲)の生家は、当時織物業を営んでいた。 38年、境野小学校に入学する。43年、11歳の時に学徒動員が開始され、鉄製力織機の供出が行われる。44年、桐生中学校(現、群馬県立桐生高等学校)に入学。47年の夏、高校の校長として赴任してきた野村吉之助の家で、初めてインドネシアなどの民族染織に触れる。同年、台風9号(通称カスリーン台風)により、境野町が甚大な被害を受け、終戦後に父が購入した織機は損傷し、戦前期に20台ほどあった鉄製の織機はすでに供出していて、付帯設備をすべて失い、大学進学の道が断たれる。 50年、伯父の工場に入る。その後、佐々木元吉、野口勇三の元に通い、オパール加工を習得する。絹、綿、ウールなどの天然繊維による制作の傍ら、金銀糸織物の開発に励み、多くの新技法を開発し、特許権および実用新案種を取得。60年、第1回化学繊維グランドフェアで、61年度春夏用として開発した「ビーズ織」で通商産業大臣賞を受賞。60年代は、群馬大学教授・石井美治の研究所に約8年通い、オパール加工、バーンアウト(炭化除去)、メルトオフ(溶解)などの技法について研究する。66年、テキスタイルプランナーとして独立。72~87年にかけては山本寛斎、三宅一生等、国内外のデザイナーのコレクションのための素材制作を行う。83年、第1回毎日ファッション大賞特別賞、84年、第8回上毛芸術文化賞(上毛新聞社)を受賞。同年、日本民藝館の館展審査委員長に就任し、2006(平成18)年までつとめる。 80年代以降は精力的に国内外への展覧会への出品し、個展を開催する。83年、初の個展「新井淳一織物展」(ギャラリー玄/東京)を開催。特に海外への出品が続き、「Junichi Arai Textile Exhibition」(1992年、テキスタイル美術館/トロント)等数々の展覧会へ出品する。2000年以降も、「新井淳一 進化する布」(2005年、群馬県立近代美術館)等が開催され、国内外での評価が高まる。12年には、これまでの活躍をまとめた『新井淳一―布・万華鏡』(森山明子著/美学出版)が刊行される。 13年、81歳の時には国内において「新井淳一の布 伝統と創生」(東京オペラシティアートギャラリー)が開催され、足利市立美術館、町立久万美術館に巡回する。 後進の育成にも尽力し、大塚テキスタイルデザイン専門学校、多摩美術大学、宝仙学園短期大学等や、国外でもロードアイランド造形学校、パーソンズ美術大学(ニューヨーク)、中国人民大学除悲鴻芸術学院(北京)、建国大学校(韓国)、東亜大学(釜山)などで講義を行っている。また、伝統工芸の分野にも尽力しており、結城紬技術アドバイザー、群馬県桐生織の技術アドバイザーも歴任。同氏は文筆家としても活動しており、「天衣無縫」(『WWD for Japan』/全148回)等が著名である。また、染織品コレクターとしても知られている。 これらの活動が認められ、英国王室芸術協会(British Royal Society of Arts)から名誉会員に推挙され、Hon.R.D.Iの称号、またHonorary Doctoratesを03年にロンドン・インスティテュート(現、ロンドン芸術大学)、11年には英国王立芸術大学院(Royal College of Art)より授与される。 作品は地元の大川美術館をはじめ、FIT(ニューヨーク州立ファッション工科大学)、クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館(ニューヨーク)、ロードアイランド造形大学、ニューヨーク近代美術館、フィラデルフィア美術館、V&A・ミュージアム(ロンドン)等多くの国内外の博物館・美術館に収蔵されている。

徳川慶朝

没年月日:2017/09/25

読み:とくがわよしとも  写真家の徳川慶朝は9月25日、心筋梗塞のため水戸市内の病院で死去した。享年67。 1950(昭和25)年2月1日、静岡県静岡市瀬名(現、静岡市葵区)に生まれる。徳川慶喜直系の曾孫にあたり、父慶光は貴族院議員を務めた旧華族(公爵)。父方の伯母は高松宮宣仁親王妃喜久子。母和子は幕末の会津藩主松平容保の孫。 生後まもなく東京・高輪に移り同地で育つ。小学校から高校まで明星学園に学び、72年成城大学経済学部を卒業。中学校で写真部に入るなど、早くから写真に関心を持ち、大学在学中には写真学校に通って技術を修得した。大学卒業後、本田技研工業系列の広告制作会社、東京グラフィックデザイナーズに入社、カメラマンとして自動車の広告写真の撮影などに従事し、約20年同社に勤務した後、フリーランスの写真家となった。 写真を学ぶようになっていた学生時代に、自家に伝わる徳川慶喜ゆかりの幕末・明治期の写真に関心を持つ。慶喜自ら明治期に撮影した写真も多数遺されており、慶喜が使用した写真機材とともに、その整理、保存に努め、のちに『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集』(朝日新聞社、1986年)を監修、出版した。同書の刊行をきっかけとして、松戸市戸定歴史館に慶喜ゆかりの史料類を寄託、幕末明治の徳川家をめぐる調査研究に協力するようになる。またフリーランスになってからは、徳川家ゆかりの建造物や遺構、また徳川慶喜家伝来の遺品や史料類の撮影などをてがけるようになった。 著書に『徳川慶喜家にようこそ』(集英社、1997年、のち文春文庫、2003年)、『徳川慶喜家の食卓』(文藝春秋社、2005年、のち文春文庫、2008年)、『徳川慶喜家カメラマン二代目』(角川書店、2007年)がある。また静岡文化芸術大学で非常勤講師を務めた。 食全般に関して造詣が深く、自ら焙煎を手がけたコーヒー豆の販売や、飲食店の経営などにも関わった。2007(平成19)年には茨城県ひたちなか市に移住し、有機農法の稲作などにもとりくんでいた。

村形明子

没年月日:2017/09/05

読み:むらかたあきこ  京都大学名誉教授、元日本フェノロサ学会長の村形明子は9月5日、膵臓がんのため京都市内の病院で死去した。享年76。 1941(昭和16)年1月21日、札幌で生まれる。64年に東京大学教養学部教養学科を卒業後、米国へ留学しスミス・カレッジを経て、ジョージ・ワシントン大学で日本美術の収集家ウィリアム・スタージス・ビゲローの書簡研究により71年にPh.Dを取得。京都国立博物館を経て、78年に京都大学教養部に着任、同大学助教授、教授として研究を進める。2004(平成16)年に京都大学を退官し名誉教授となる。 村形は、日本における本格的なアーネスト・フランシスコ・フェノロサ研究の道を拓いた一人である。とくにハーヴァード大学のホートン・ライブラリーが所蔵するフェノロサの遺稿群について、美術史家隈元謙次郎の依頼によりその整理・編集・邦訳を行い、75年1月より『三彩』等の誌上で紹介、さらに『ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵フェノロサ資料Ⅰ~Ⅲ』(ミュージアム出版、1982~87年)にまとめた功績は大きい。その後も『アーネスト・F・フェノロサ文書集成―翻刻・翻訳と研究 上・下巻』(京都大学学術出版会、2000・01年)を刊行するなど、フェノロサに関する基礎研究の確立に貢献した。 また78年11月に大津市、大津市教育委員会、園城寺の主催で開催されたフェノロサ来日100年記念展および記念講演会を機に学会設立の機運が高まると、村形も世話人の一人として尽力。80年に日本フェノロサ学会が創設されると幹事として、2003年より09年まで会長として同学会の発展に寄与した。同学会誌『LOTUS』の誌名は1903年にボストンで刊行され、フェノロサも寄稿した同名の雑誌に因んで村形が提案したものである。

鬼原俊枝

没年月日:2017/09/04

読み:きはらとしえ  日本絵画史研究者の鬼原俊枝は9月4日、大腸癌のため、兵庫県神戸市の病院で死去した。享年65。 1953(昭和28)年9月2日、兵庫県に生まれる。72年兵庫県立兵庫高等学校を卒業し、72年立命館大学文学部へ入学。76年同大学を卒業し、その後、79年大阪大学文学部美学科美術史学専攻へ3年次編入学、81年同大学を卒業し、楠本賞を受賞。同年同大学院文学研究科前期課程芸術学専攻へ進学。83年から1年間ハーヴァード大学へ留学し、85年に大阪大学大学院へ修士論文「「比叡山三塔図」〓風に関する一考察」を提出し、前期課程を修了。86年から福井県立美術館学芸員として勤務し、88年同館を退職。1990(平成2)年大阪大学大学院文学研究科後期課程芸術学を単位取得退学し、93年同大学院へ博士論文「探幽様式の成立」を提出。同年よりプリンストン大学客員講師を務める。94年大阪大学で博士(文学)の学位を取得し、95年より文化庁美術工芸課文化財調査官として勤務。98年『幽微の探究 狩野探幽論』(大阪大学出版会、1998年)で第10回國華賞を受賞し、翌99年には島田賞を受賞。その後、文化庁で16年間勤め、2011年に文化庁を退職。同年より京都国立博物館列品管理室長として勤務し、14年に定年退職、その後も再雇用で同館での勤務を続け、15年3月再雇用任期満了につき退職する。 専門分野は、大阪大学へ提出した博士論文や、國華賞を受賞した『幽微の探究 狩野探幽論』に代表されるとおり、狩野探幽や江戸時代絵画史を中心としたが、文化庁での勤務以降は、文化財指定に関わった作品研究も多く、その範囲は広く絵画史全般に及んだ。とりわけ、文化庁や京都国立博物館では、数多くの国宝や重要文化財の修理を指導監督し、同庁や東京文化財研究所で長年文化財保護行政にたずさわった渡邊明義の理念を継承して、文化財の保存や修理の記録を美術史研究に積極的に取り入れた点は重要な業績である。こうした文化財修理への高い関心は、修理に対する厳しく真摯なまなざしへとつながったが、その背景には、阪神大震災の直前に文化庁へ入庁し、東日本大震災の直後に文化庁を退職するなど、自然災害から文化財を保存する必要性を如実に実感してきた経験や、高松塚古墳壁画の問題に直面してきたという経緯もあろうか。 一方、ハーヴァード大学へ一年間留学したり、プリンストン大学で客員講師を勤めた経験から、海外との交流にも意欲的で、福井県立美術館の学芸員として担当した展覧会では、アメリカのサンフランシスコ・アジア美術館から日本の〓風の里帰り展を企画したほか、文化庁の海外展に果たした功績も大きい。フリア美術館などが世界中から優れた東洋美術史研究者を選んで二年に一度表彰する島田賞の受賞も、国際的な活躍を顕著に物語る。 もちろん、国内でも「遠澤と探幽―会津藩御抱絵師加藤遠澤の芸術―」(福島県立博物館、1998年1月~3月)や、「開館記念特別展 上杉家の至宝」(米沢市上杉博物館、2001年9月~11月)、「生誕400年記念 狩野探幽展」(東京都美術館、日本経済新聞社、2002年10月~12月)、「徒然草 美術で楽しむ古典文学」(サントリー美術館、2014年6月~7月)、「国宝 鳥獣戯画と高山寺」(京都国立博物館、2014年10月~11月)などの図録に論考を寄せるなど、展覧会への関与も多い。 なお、主要な業績には、著作の『幽微の探究 狩野探幽論』のほか、「伝狩野宗秀筆「韃靼人狩猟・打毬図」〓風について」(『MUSEUM』450、1988年)、「天台宗儀礼における座の〓風」(『待兼山論叢』23、大阪大学文学部、1989年)、「長谷川等伯筆 山水図〓風」(『國華』1130、1990年)、「狩野探幽筆「学古帖」と流書手鑑」(武田恒夫先生古稀記念会編『美術史の断面』清文堂出版、1995年)、「狩野探幽の水墨画におけるふたつのヴィジョン」(『美術史』137、1995年)、「旧円満院宸殿障壁画中の探幽画と画風変革開始の時期」(『國華』1284、2002年)、「南禅寺大方丈障壁画の修理から―柳に椿図襖の図様改変について―」(『月刊文化財』476、2003年)、「平成十五年度海外展報告 オーストラリアにおける日本美術展「日本美術における四季展」―日本の四季を異文化に伝える―」(『月刊文化財』487、2004年)、「国宝出山釈〓図・雪景山水図三幅対と「道有」の鑑蔵印について」(『月刊文化財』525、2007年)、「特集 高松塚古墳レポート―石室の解体事業― 壁画の修理にあたって」(『月刊文化財』532、2008年)、「南蛮屏風と阪神大震災」(『京都国立博物館だより』174、2012年)、「彭城百川旧慈門院障壁画と雪竹図襖について」(『学叢』35、京都国立博物館、2013年)、「国宝「鳥獣人物戯画」の保存修理―文化財保存、及び美術史的観点から」(高山寺監修・京都国立博物館編『鳥獣戯画 修理から見えてきた世界―国宝 鳥獣人物戯画修理報告書―』勉誠出版、2016年)などがある。

柳澤孝彦

没年月日:2017/08/14

読み:やなぎさわたかひこ  建築家の柳澤孝彦は8月14日、前立腺がんのため死去した。享年82。 1935(昭和10)年1月1日、長野県松本市に生まれる。県立松本深志高等学校を経て、54年東京藝術大学美術学部建築科に進学し、吉田五十八、吉村順三、山本学治ら錚々たる教授陣の指導を受けた。卒業後、竹中工務店に入社、28年間一貫して設計部に籍を置き、同社を代表する建築家の一人として活躍した。86年第二国立劇場(仮称、現、新国立劇場)国際設計競技の最優秀賞を機に独立、TAK建築・都市計画研究所を設立し、大型の文化施設を中心に数多くの建築設計を手がけ、1995(平成7)年「『郡山市立美術館』及び一連の美術館・記念館の建築設計」に対して日本芸術院賞が贈られた。 柳澤の仕事はなんといっても新国立劇場(1997年)に象徴される。通商産業省東京工業試験所跡を中心とした工業地に計画された新国立劇場は、大中小の異なるタイプの劇場を総合する難解な設計条件に加え、劇場としての敷地や立地の適性の問題があり、また複雑に絡みあった法規制や多種多様な舞台関係者の存在など、設計競技の段階から建設時の困難が予想されるものであった。完成するまで12年間の紆余曲折を経ながらも、隣接する民間街区の東京オペラシティ(1999年)を含めて「劇場都市」という壮大なコンセプトでプロジェクトをまとめ上げたその手腕は、竹中工務店時代に培われた柳澤の卓越したマネージメント能力の賜物といえよう。 柳澤が手がけた建築はゼネコン出身の建築家らしく、総じて作家性を前面にださない堅実な作風を示すいっぽう、有機的かつ明快な平面計画と重層的かつ濃密な空間構成にきわめて独創的な特徴をもつ。たとえば新国立劇場では、外観は飾り気のないオーソドックスなデザインでまとめながらも、各劇場をつなぐ共通ロビーはリニアな吹抜け空間に大階段やバルコニー、トップライトなどを巧みに配置することで欧州都市の広場的な空間をつくり出し、劇場建築に求められる祝祭性を十二分に獲得している。真鶴町立中川一政美術館(1988年)、郡山市立美術館(1992年)、窪田空穂記念館(1993年)、東京都現代美術館(1994年)、上田市文化交流芸術センター・上田市立美術館(2014年)など、日本芸術院賞を受賞した美術館・記念館建築をもっとも得意としたが、竹中工務店時代の身延山久遠寺本堂(1982年)や有楽町マリオン(1984年)、独立後のひかり味噌本社屋(1997年)や軽井沢プリンスショッピングプラザ・レストラン(2004年)など民間建築の佳作も多い。 吉田五十八賞(真鶴町立中川一政美術館、1990年)、日本建築学会賞(新国立劇場、1998年)ほか建築関係の受賞多数。松本市景観審議会長を務めるなど故郷の振興にも貢献した。 著書に『柳澤孝彦の建築:平面は機能に従い、形態は平面に従い、ディテールは形態に従う』(鹿島出版会、2014年)、共著に『新国立劇場=New National Theatre Tokyo:Heart of the city』(公共建築協会、1999年)がある。

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